いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(515)「土の器」

2015年04月26日 | 聖書からのメッセージ

「コリント人への第二の手紙」4章7節から15節までを朗読。

 

 7節「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。

 

 ここに私たちは土の器のような者であるとたとえています。「土の器」は、いわゆる土器ですが、焼き物には素焼きのものから陶器、更に磁器といわれる物など、幾つかの種類があります。どれも粘土から造るのは共通していますが、焼く温度が違います。いちばん簡単なものは形作った粘土をたき火の中に放りこんでおくという、非常に原始的な焼き物があります。そういう物は温度が低いですから、形にはなりますが非常にもろい。いわゆる素焼の土器といわれる物です。それからもう少し高い温度で焼くと、陶器になります。これはやはり重たくて、しかも欠けやすい。更にもっと高い1200度くらいの温度で焼きますと、磁器といわれる、有田焼などのように薄くて非常に硬い物が出来ます。たたくと金属的な音がします。これは薄くて硬いですから、ちょっと落としたぐらいでは割れません。軽くて薄く出来ていますからすぐにでも壊れそうに思われますが、結構硬いのです。ところが低い温度で焼き固めた土の器は非常にもろいものです。

 

 7節に「土の器」というのは、私たちのこと、私たちがもろくて弱くて、はかない者であることの象徴であります。人の幸せはいろいろな悩み事がないこと、思い煩いや心配事がない生活が理想的な生活、あるいは人生だと考えます。人生事もなく思いどおり願いどおり、物事が順調になると、その人生は幸せだと感じる。これが世間一般の理想とするものでしょう。しかし、自分の人生を振り返って、悩みがなかった、心配がなかった、思い煩いがなかったときは、どれ程あったか。ほとんど無いといいますか、生きるとは悩みが多い、悲しいことがある、失望落胆することがあるに尽きるのです。聖書を読みますと、人は、そういう悩みや苦しみの中で生きる者である、と語られています。しかし、世間では事がないのがいちばん善いことであって、事があるのは不幸なことであり、悲しむべきことである。それは嘆かわしい……、だから、自分の人生を振り返って、悩みに閉ざされた暗い時期は、人生からカットしてしまいたいと。バラ色に輝いた時代だけを切り取ってつなぎ合わせて、「私はこんな人生だったら良かったのに」と思いやすいのですが、聖書には、次から次へと悩みがあるのが、それが人生だと記されています。

 

 「伝道の書」5章13節から17節までを朗読。

 

 この「伝道の書」には「空の空、空の空、いっさいは空である」と語られています。生きていても仕方がない、という話です。生きていて何が善いことあるかと、何も善いことがないと、「伝道の書」を通して言われている。それは取りも直さず私たちの人生、人が生きることは、悲しみがあり、悩みがあり、苦しみが伴うものである。これは当然のことだ、というのです。私たちは逆に、順調であること、何もかもが思いどおりに進むことが理想の人生。事があるのはマイナスであり、それは不幸な事であって、これは自分の人生にあってはならないから、それを取り除こうとする。これが世間の人生観、考え方です。つい私たちもそのような思いをしますから、健康であることが常態といいますか、常なる姿。病気をすると、これは不幸だと切り分けをします。しかし、聖書がいっているのは「そうではない、健康であることも病気であることもひっくるめて、それが人生」。いうならば、病気も、これまたその人にとって必要で、大切な人生の一つです。人生には悲しいことも苦しいことも、喜怒哀楽、様々なことがあって当然だ。それを嘆いて、「こんなことが起こった、どうして? 私は不幸だ」と言って、落ち込んでしまうのは、そもそも考え方が間違っている、と聖書が語っています。

 

 15節に「彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない」と。人は生まれたときは何も持たずに、無能無力で生まれてきます。確かにそう思います。生まれたばかりの赤ちゃんを見ていると、放っておけば死んでしまう。自分では何にもできないゼロです。そのゼロであったものが何十年という地上の生活を生きて行く。その間に自分の思いどおりに行かないこと、願わない、いろいろなことに出会い、苦労に苦労を重ねながら、やっと何十年かの生涯を終わって死ぬ。そのときも、これまたゼロであります。沢山な物を持っていても、最後は枕元の僅(わず)かな物、風呂敷包みひとつでおしまいです。他のものは全部失ってしまう。ゼロです。だからゼロから始まってゼロになる。その間にいろいろな事が盛りだくさんに詰め込まれますが、これは必ずしも自分の力で手に入れるものではない。それは全て神様が備えてくださるものです。

 

16節以下に「人は全くその来たように、また去って行かなければならない。これもまた悲しむべき悪である。風のために労する者になんの益があるか。17 人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある」。「人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある」、これが人生の基本です。人生の基本を置き直してみたいと思うのです。ここにあるように「暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤り」、そういうものの中にあるのが人生。そういうものから解放されて、悩みがない、心配がない時があるとすれば、それは宝物、ご褒美のようなものであります。人生の付録のようなものです。ここをまずしっかりと基本を押さえておきたいと思うのです。だから、日々の生活の中に悲しいことやつらいことや思い掛けないこと、思いどおり行かないことがあるとするならば、それは当然であって驚くことではない。逆に、「今日は何も悪いことがなかった」というなら、これはびっくりしたほうがいい。悩みや悲しみや苦しみ、自分の力ではどうにもならない、私たちの手には負えない事の中で人が生きていることをまず認める。これが人生を生きるひとつの大前提です。そんなことを言うと、よく若い人から、「先生はいつもそうやって厭世的、ペスミステック(pessimistic)というか、根暗な見方しかできん」と言われます。確かに「ネガティブな」、といいますか、「悩みがあることが普通だ」なんて言われると、「何のために生きている」と、ため息が出ます。そのとおりで、実はそのため息が大切なのです。「自分は何のために生きているのだろうか」「どうしてこんな悩みや苦しみの中に生きなければいけないのだろうか」と思い、「これが普通の生活だったら、こんな人生生きていても意味がない」と、失望することを神様は願っていらっしゃるのです。非常に乱暴な言い方かもしれませんが、この「伝道の書」に語られていることです。

 

 17節に「人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある」と。「そんなことを言われて喜んで生きられるか。そんな人生だったら、私は早く御免被(こうむ)りたい」と思います。

 

 「詩篇」90篇3節から6節までを朗読。

 

 ここにも、人の一生はまるで一息のごとく、まるで泡がポッと出たと思ったら、パチンとはじけて終わるような一瞬の出来事にすぎない。それはひと夜の夢のようなものだと。私たちは何十年かこの地上に生きていて、「長いな、いつまで私は生きているのだろうか」と思っているかもしれないが、実は一瞬の出来事、一コマに過ぎないのです。そして10節に、「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです」と。まことに一生というものが、いかにはかないものであり、悩みと苦しみと悲しみに満ちたものであるか、と語られています。まさに人生とはそうなのです。「では、私たちは何のために生きているのだろうか? 」。そこです。私たちは弱く小さくてもろいものであって、そういう悩みや悲しみや苦しみに耐えることができない。しかも、それが次から次へと人生に押し寄せて来る中にあって、何が私たちの力になるのか?先ほどの「伝道の書」の最後に……。

 

 「伝道の書」12章13、14節を朗読。

 

 この13節、「神を恐れ、その命令を守れ」と。私たちの人生はそういう悲しみや悩みや苦しいことがいっぱい詰まっていて、「何のために生きているか」と思うような人生ですが、その悩みや悲しみや苦しみの中にあって、実は神様が私たちの力となり、神様が私たちを支えてくださる御方であることを知る。神様の力に満たされること。これが何よりも幸いなことです。悩みがないこと、苦しみがないことが幸いなのではなく、人生にはいろいろな苦しみが沢山あるが、しかし、悩みや苦しみ、悲しみの中にあって、私たちが神様に出会い、神様の力を信じ、神様からの力を受けること。また、その力で問題の中をどういう風に生きるか、神様の力によって悲しみをどのように切り開いて行くか、ここが大切なのです。だから悩みがないことや悲しみがないことを求めますが、神様は私たちをそうなるように造っていない。苦しいこと、つらいこと、行き詰る出来事の中で、そのときにこそ、人として造られた私たちが何を力とし、何に頼るか、ここが肝心です。悩みの中にあって、その人の心がどこにあり、何がその人の力となっているか、あるいは、それを明らかにしていくことが、私たちの使命といいますか、役割なのです。日々の生活の中で思い掛けないことがあるとき、その事を早く解決して悩みを取り除いてもらいたい、と思いますが、しかし、大切なのはその悩みを通して自分の弱さを知り、認め、造り主でいらっしゃる神様を信じる者となる。そして神様の力によって悩みを耐え忍んで行くこと、それを担っていくことができ、与えられた重荷を負う者に変えられて行く。弱い者が自分の力によらないで神様の力によって強められていく。このことを体験してほしい、というのが、神様の願いです。だから、私たちはいろいろな悩みや困難の中に置かれるときに、そこでいま何が私の力となっているか? いま私が求めているものはいったい何なのかを、もう一度自分の心の有り様をしっかりと点検してください。これを神様は私たちに願っていらっしゃるのです。

 

 「コリント人への第二の手紙」4章7節以下に「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」。この手紙を書いたのはパウロであります。パウロは実は決して弱い人ではありませんでした。彼は家柄もいいし、学歴もあるし、あるいはいろいろな面において、誰よりも優れた資質を持った人でした。

 

 「ピリピ人への手紙」3章4節から6節までを朗読。

 

 「肉の頼み」といっていますが、自分が誇ろうとするなら、自分の力といいますか、自分がこれまで頑張ってきた一切の事柄は私の努力と熱心な業によってやってきたと誇るものがある。自分を支えてきたものは何であったかというと、それは5節に「八日目に割礼を受けた者」、いうならば、生粋(きっすい)のユダヤ人であるという誇りです。ユダヤ人は父祖アブラハムから延々と続く神の民、神の選びの特別な民という誇り、そしてその神様の祝福と恵みの中に自分たちは生きているという、自負心があり、誇り高い民族でした。そればかりでなく「ヘブル人の中のヘブル人」と。ユダヤ人は自分たちの信仰の純粋さを保つために他の民族との結合といいますか、混血を大変嫌いました。バビロンという国に捕囚となって引かれて行ったとき、イスラエルの民は自分たちの民族が滅亡するかもしれないという危機に置かれました。その70年近くの異邦人との交わりの中でその地方の異邦人と結婚して、その子孫をもうけたりした人がいましたが、後にその人たちを自分たちの民族から断絶しました(エズラ記10章)。そうやって自分たちの純粋さを守り続けてきた誇りがあります。また、「律法の上ではパリサイ人」、パリサイ人とは、当時ユダヤ教の中でも極めて厳格な律法主義、規則といいますか、宗教的な儀礼を守り続け、それによって自分たちの値打、価値を誇りとしていた者たちであります。その他に「 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」。自分は何一つ神様の前に罪を犯したことがないという自慢。神様がそのように言われたわけではない、本人がそう思ってよりどころにし、力としてきたのです。いうならば、この世の中にあって全ての人がうらやむような身分や学歴や家柄や、あるいはその能力を彼は誇りにしていました。だから、当時の社会の中で彼がもしイエス様に出会わなかったら、その社会で素晴らしい指導者になっていたはずであります。

 

 ところが7節に「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった」。彼がイエス・キリスト、主に出会った。よみがえってくださったイエス様に出会ったとき、彼がそれまで力としていたもの全てが「ふん土のように」、ちりあくたのように、何の値打のないものに思えてしまった。8節に「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている」。肉に付ける家柄やそういう誇りとする、力となるべきものをイエス様に出会ったときに、必要としない、いらないと思う。そればかりか損と思う。いや、むしろそういうものを持っていると逆に不幸である、自分にとっては災いであるとまで彼は思ったのです。そして彼は全てのものを捨てました。

 

 その一つの証しが、「使徒行伝」に語られています。彼がダマスコに行く途中で大音響と共に突然まばゆいばかりの光に包まれたとき、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエス様の御声を聞いたのです。そのとき「あなたは、どなたですか」と問うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と。そこで初めてイエス様に出会った。そのとき地面に打倒され、気が付いて見たら目が見えない。周囲にいる人に助けられて、ダマスコの町に連れて行かれます。それまで自分の力で生きていた彼が、自分ではどうにもならない状況の中に置かれてしまった。そしてダマスコに三日間滞在している間に、アナニヤという人が神様によって遣わされて来ます。そしてパウロのために、当時サウロといいましたが、サウロのために祈った。祈ってもらった瞬間、目からうろこのようなものが落ちて、そこで初めて目が開かれて、見える者となった。これはきわめて象徴的な出来事でしたが、彼がそれまで力としてきたもの、自分が寄って立ってきた一切の土台が全部ゼロになったのです。そのときのことを後に「ガラテヤ人への手紙」に、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(2:19)と告白しています。これがイエス様に出会って体験した出来事だったのです。それはキリストを信じることによって、自分に死んでしまうということです。完全に自分がゼロになる。私たちが裸で生まれてきたように一切のものを全部失って、今度はキリストが私の内に宿ってくださる。死からよみがえり給うたイエス様の復活の力によって今度は生きる者へと変えられていく。パウロの塞(ふさ)がれていた目が開かれたことは自分が肉の目に見える様々な力によって生きてきたものであった。ところが、その背後に見えない御方がいらっしゃることを悟る。しかも、よみがえられた主が私と共にいることを悟る大きな出来事でした。彼はそこで初めてイエス様に出会い、力がどこから来るかを知りました。それまでは自分の力で、自分は強いということを誇りとしていました。しかし、そのときを切っ掛けに、彼の人生は弱いものに、全くゼロになってしまった。

 

 「コリント人への第二の手紙」4章7節に「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」。「この宝」とは、よみがえってくださったイエス・キリストを信じる信仰です。イエス様が私の罪のために十字架に死んでくださったのは、私が死んだのであります。イエス様と共に死ぬこと、これが私たちの本来の姿、自分の肉に付ける力、それはゼロです。だから、私たちがこの世にあっていろいろな悩みや悲しみや苦しいつらいことに出会って、「どうして私は弱いのだろうか」「どうしてこれが耐えられないんだろうか」「なぜ私はこんなに不安になったり、心配したり、思い煩ったりするんだろうか」と嘆くとき、私たちは、実は本来が弱い者であることを知るべきです。自分の力はないので、「自分は駄目なのだ」と、まず認めて行く。これがゼロということです。先ほどのパウロが「ピリピ人への手紙」で語ったように、「私は肉の頼みなら幾らでもある。しかし、それらをゼロにしてしまう。ふん土のごとくそれを捨ててしまった」と。いうならば、自分は弱い者であり、ゼロなのだと認めていく。これがキリストと共に死ぬことです。だから、自分を捨てるとか、自分に死ぬとか、よく聞いたり言ったりしますが、それは取りも直さず、自分が何にもできないゼロであることを認めることです。無理やり自分を押し殺して「私のしたいこと、このわがままをやめて……」という意味で、自分を押さえ付けることが“死ぬ”のではありません。素直に「自分は何にもできない者です」と認めていく。

 

 パウロはダマスコへの途上でイエス様に出会ったとき、たたきのめされて地面に死んだ者となった。そのとき初めて彼は自分が誇りとして肉の頼みとしてきたもの、自分の力だと思って頼ってきた一切のものは、何の役にも立たないことを知った。ゼロです。私たちはここまで行かないから、いつまでたってもグジャグジャ生殺しのように、しつこく自分の力にしがみ付こうとするのです。私たちは何もできない。そして私たちのうちには何があるか。7節に「この宝を」と、この宝というのは、その前の所から続いてきた事ですが、主イエス・キリストのことであります。イエス様が私の宝となる。キリストが私たちの内に住んでくださる。私はゼロだけれども、キリストが私の力、全てとなってくださる。ここに、人が人として生きる道がある。神様はそのことを私たちに求めておられるのであります。この地上の生活の中で、先ほど申し上げたように悩み、思い煩い、心配や不安や恐れが尽きない。その中で私たちの力がどこにあるか。「お前はいったい何者だ」と神様が徹底して教えてくださる恵みの時なのです。幸いな時です。だから、私たちがいろいろな悩みに遭ったとき、「いったい誰がいま生きているのか。何が私を生かしているのか」、「私の力はいったいどこにあるのか」、そういうことが明らかにされるときです。その問いかけをしっかりと受け止める、これが大切なことです。だから、悩みがないことではなくて、その事の中でどのように私たちが立ち向かうのか。これが求められているのです。

 

パウロは8節以下に「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」と。何としぶとい力強い生き方ではないでしょうか。彼は自分に力があるからこれができたと言っているのではないのです。自分は土の器だ。弱い者であり、ゼロだ。しかし、キリストが私の内に宿ってくださる。だから10節に「いつもイエスの死をこの身に負うている」と語っています。イエス様の死と自分が一つになる。合わせられていくことです。言い換えますと、自分という者をゼロにしてしまうことです。「私はできない者です」、「私は知恵がない者である」、無能無力です。今日、何かできたとすれば、それは主が許して、力を与えてくださったからできたのであって、私の力でできたのではない。それが「イエスの死をこの身に負う」ということであります。

 

そして「イエスのいのちが、この身に現れるためである」。自分をゼロにしてイエス様が私と共にいてくださることを信じて、「今日も、主よ、あなたの力によってこのことをさせていただきます」と、どんな小さなことも、また大きなこともキリストの名によってするとき、私たちの内に神様はいのちとなって輝いてくださる。私たちを喜びと感謝と望みにあふれさせてくださるのです。自分ができたと思うから、いつまでも喜べない、感謝ができない。そうではなくて、私たちはゼロなる者、何もできない者、誠に神様にとっては邪魔でしかない、値打のない者を、主は憐れんでくださって、今日もキリスト十字架のいさおしのゆえに赦され、そして生きる者としてくださっている。

 

だから、どんなことも自分でしたと思ったら駄目です。私はゼロです。私はできない者である。しかし、これができたとすれば、それは私の力ではない。キリストが私の内に命となっておられるからです。次から次へといろいろなことが起こってくるとき、私たちはそのことをすぐに忘れますから、謙遜になって、「どうぞ、主よ、あなたの力を与えてください」とせつに求めたい。私たちの力は神様にあるのです。私にはない。どんなときにも「イエスの死をこの身に負うて」、「自分はゼロです」と全く無になって、「我が今の如くなるは、の恩恵(めぐみ)に由るなり」(Ⅰコリント15:10文語訳)と言えるように、よみがえってくださった主が力を与えてくださる。

 

 7節の後半に、「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」と。イエス様の力を信じて、日々の生活を主のために、主の名によって生きるとき、私たちに何かできたとすれば、それは神様の力であります。神様は私たちの弱さを通して働き給う御方です。だからパウロは「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(Ⅱコリント 12:9)、「わたしは弱い時にこそ強いからである。自分の弱さの中にこそキリストの力が完全にあらわれてくださる」と語っています。

 

 いろんな悩みに遭うとき、「私って何にもできない。知恵もない、力もない、何でこんな私やろうか」と、自分が嫌になります。しかし、そういうとき、喜んだらいい、感謝したらいい。「ここで神様は私を通して神の力をあらわしてくださる」と。そのとき私たちは神様に「主よ、私は何にもできません。知恵もありません。しかし、主よ、あなたはよみがえりのいのちの力をもって私を支えてくださるから大丈夫です」と、力を得て立つことができる。そのとき神様は私たちに知恵を与え、力を与えてくださる。思いも掛けないような、私たちの願わないような大きなわざをしてくださるのです。それは神様がご自分の栄光のためにそのことを備えてくださるからです。

 

 私たちはいつも「自分の内に宿ってくださるキリストの力が今日も私を生きる者としてくださっておられます」と、よみがえりの主の力に生かされていきたいと思う。「これが私の力です」と、はっきりと告白しようではありませんか。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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