いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(72)「主を認めよ」

2013年12月02日 | 聖書からのメッセージ
箴言3章1節から12節までを朗読。

今朝は、5,6節に「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」とあります。
1節から12節までには、繰り返して「こうしなさい」「そうすれば」と約束されています。これは神様の恵みにあずかる秘訣です。神様は一つの揺るがない正確な道筋を持っています。それに私どもが当てはまるとき、神様はサーッと恵んでくださる。ところが、それからずれると、恵みを受けることができません。少しずれたから、半分ぐらい割り引いたお恵みでもいただけるかと言うと、そのようなことはありません。そこが非常に明確なのです。神様の祝福、恵みは、すべての人に注がれていますが、ただ、その恵みを受ける私たちの側の姿勢、態度、神様に対するあり方が、問われる。神様がこうしなさいと求められるところに従って、「はい」と、自分を当てはめると、瞬時に恵みを注いでくださる。ところが、私たちは、神様が求められるところに当てはまりそうで、当てはまらない。ちょっとずれる。そして、ごちゃごちゃして、もうそろそろ神様から恵まれていいはずだと思うけれども、なかなか恵まれない、祝福にあずかれない。一体どうしたのだろう、神様は私の祈りを聞いてくださらないと思うのです。しかし、神様の定められた基準、道筋、それにスポッとはまり込んでいくことが大切です。それが聖書でいう、神様に委ねる、主の手に自分を任せることです。神様は、いろいろなルールを決めています。「こうしなさい」「そうすればこうなる」。神様の道筋をピシッと握ってしまえば、後は良いのです。神様が顧みて恵んで豊かにあしらってくださいます。ここが信仰生活の面白さ、だいご味でもあります。

神様は「まず神の国と神の義とを求めなさい」「そうすれば」でしょう。「これらのものは、すべて添えて与えられる」。このルールは、はっきりしている。それにピタッと当てはまったときに、「そうすれば」以下の祝福がついてくるのです。アブラハムに対しても、神様は、約束してくださいました。「こうしなさい」、国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしの示す地へ行きなさい。そうすれば、あなたをこうして、このようにしてあげます。神様の約束はすべてそうです。だから、私たちが、イエス・キリストを救い主と信じれば、信じた者に対しての約束が実現する。イエス様を信じないと言われながら、半分くらい信じて、大目に見てもらいたいというのは無理です。神様はきちっとした方です。そこが義なる方という意味でもあるわけです。人は案外とルーズなところがありますから、「まぁ、これくらいで良いか」と考えてしまいます。学校の試験などでもそうですが、大学に勤めていましたころ、期末試験の採点で何百人もの答案用紙を見ます。初めのうちはこちらも意気込んでいますから、「ああ、これは駄目だ」、「ああ、こんなことをして!」と厳しいのです。ところがたくさん見てくると、こちらが疲れてくるでしょう。「ま、このくらいはいいか」と甘くなる。終わりくらいになると、ほとんど良くなる。かわいそうなのは、初めのほうの人です。点数が低いのです。終わりになるほど良くなる。こちらの基準がずれるのです。

神様の基準は明確でずれません。初めも終わりもピシッと同じです。だから逆に言いますと、信頼できるのです。真実な方だからです。学校の試験の結果なんていい加減ですから、この時期は入学試験に入りますが、大学の入学試験の採点をしておりましたとき、受験生が総数で一万五千人から二万人くらいになるときがあります。そうすると、選択科目だと減りますが、国語、英語というのは、全員が受けます。それだけの数がありますから、百枚ずつ束にして、何十と積み上げています。いきおい採点基準がずれて甘くなる。「数字を入れよ」とか、あるいは「選択した記号を書きなさい」というのは、採点は簡単です。〇×のときは、百枚重ねて上から千枚通しで〇の所にポーンと押す。穴の開いてない所をパッツパッと見ればいいのですから早い。ところが。英語はややこしい。英文和訳、英語の文章を出されて、日本語に訳さなければいけない。日本語で答えを書いてある。これは読まないわけにはいかない。見てぱっと、「字数が多いから良い」というわけにはいかない。みな読みます。きれいな字ならいいですが、読めない字を解読する。そうして点数をつけるから、時間がたつにつれて、疲れてくる。それこそ今申しましたように甘くなる。そのように人の基準というのは、どんなに厳しくてもずれます。
世の中もそうでしょう。政治家だって、公約だと言いながら、次から次へと変わり、公約は一体どうなったの、と思う。ところが、神様は、そうではありません。真実な方です。神様は基準をずらさない。神様は、約束してくださった言葉に真実でいらっしゃる。「こうしなさい」「そうすれば、こうしますよ」とおっしゃるのです。そのとおりなのです。「あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」と、「時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう」(Ⅰペテロ5:6)。これは約束ですから、神様が、「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くしてくださる」(ヤコブ4:10)。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」(ヤコブ4:8)と、聖書の言葉は、神様のルールを定めている。ある意味で信仰生活は簡単です。そのルールに自分が素直に当てはまってさえいけば、つつがなく、何の障害もなく、生涯を送れるのですが、こちらが当てはまろうとしない。かたくなで、カチカチです。神様のルールを、できれば自分に合わせたいと思う。それでは神様の恵みにあずかることができない。

だから、今読みました箴言3章1節以下は、典型的な、神様のはっきりとしたルールを記しています。1節には「わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。 そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える」とのお約束です。だから、私たちが長生きをし、平安を得たいと思うのだったら、1節にあるように、神様の教え、戒め、言い換えると、聖書の言葉をしっかりと心に留めて、それに従っていきさえすれば、そうなると言うのです。これは実に簡単です。ところが、実際難しい。毎日の生活の中で、みことばを心に置いて、それに従おうと思いながらできないでいます。絶えず神様の祝福と恵みにあずかる道筋を整えていきたいと思います。
3節に「いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ」。いつくしみ、慈愛、愛の思いとまことと、真実とを捨ててはならない。今申し上げたように、人はなかなか真実になれない。不真実な者、しかし、だからといって、私たちもやはり真実でありたいという願いがあります。それを失ってはならない。「まこととを捨ててはならない」、「あなたの首に結び、心の碑にしるせ」。それを命としていくこと、それを大切なものとして守りなさいと、「そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る」。これも幸いなルールですね。そして5節以下に「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。6 すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。「心をつくして主に信頼せよ」と、命懸けといいますか、すべてのものを懸けて神様に信頼する、より頼む。神様の手に自分を委ねる。6節の初めに「すべての道で主を認めよ」と、これは「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない」という5節の言葉を要約した、総まとめにした結論です。
年頭に与えられたみことば、「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め」と、この年も神様は励ましてくださいます。私を信頼しなさい。しかも大胆に力強く、100%信頼しなさい。「自分の知識に頼らないで、すべての道で主を認めよ」。「自分の知識」とは、普段の生活の経験だとか、過去の経験だとか、人からの話であるとか、そのようないろいろな情報のことです。それによって、ああではないだろうか、こうではないだろうか。これはきっとこうに違いない、こうしたほうが良い、ああしたほうが良いと、絶えず自分の知識が心を支配し、思いを揺さぶる。しかし、それを捨て去って、主のお言葉ですからと、神様に心を委ねて信頼する。主は私の命となってくださいました、あがなってくださいました、私を神のものだと言ってくださる。その一つ一つの神様の約束に信頼して、信じて、神様の手に委ねる。「すべての道で主を認めよ」と。神様が、全ての事を起こし、事を導いてくださっていることを覚えていくことです。私たちの生活にも次から次へと、思いがけない事態や事柄が起こってきます。そうすると、すぐにうろたえる。主を信頼していると言いながら、お祈りをしながら、心の中で心配している。口ではお祈りをしながら、心が二つにねじれてしまう。そのときは苦しいです。どっちかに心を定めてしまう。まず、主に信頼して、神様の手に「すべての道で主を認めよ」と。道というのは、事柄、あるいは、生活の出来事です。そのような業の中に、神様がいらっしゃることを認めていく。

イザヤ書43章13節を朗読。

ここに「わたしは神である、今より後もわたしは主である」とおっしゃいます。神であり、主である。すべてのものの創造者、力ある方が、主となって、私たちのすべてのことの中心となってくださる。この「神であり」、「主である」というのは大切な言葉です。神を「主」と言う別の言葉に言い換えただけではありません。「神」という言葉で、すべてのものの創造者、力ある全能者を表し、「主」と言いますのは、その方がすべての根源、中心でいらっしゃる方。「主」というのはそういう言葉です。だから、私たちは、神様はいらっしゃるけれども、主人は私だと思っている。そうではなくて、神様がいて、なおその神様は、同時に私たちのすべての主、根源でいらっしゃる。家の中の主人は神様です。また、私たちの財布の中の主人も神様です。私たちの時間を導かれるのも神様です。スケジュールを握っているのも神様です。それを認めること、これが「すべての道で主を認めよ」。神様が、今このことを起こしてくださる。だから、そこにありますように、「わが手から救い出しうる者はない」。神様の手を越えて何かをする、神様の知らないうちに事が起こっていることはありえない。神様が、御自分の意思を、御心をもってすべてのものを支配している。神様が、「する」とおっしゃったら、あるいは、神様が始めなさったら、どんなことをしても、それをとどめることができないのです。

イスラエルの民が、バビロンに捕囚となって連れて行かれまして、それから70年たちました。その時に、神様はペルシャという国を興し、クロス王という王様を立てて、神様は御霊によってイスラエルの民にもう一度イスラエルを再建しなさいと促(うなが)ます。クロス王は、神様の霊に感じてイスラエルの民に資金を与え、彼らを解放して、廃墟となったエルサレムの町を、国を造り直そうとしました。ネヘミヤやエズラがリーダーとなって出かけて行き、町を再興しようとするのですが、邪魔が入ります。サンバラテやトビヤという悪者がやって来て、わずかな資材で、新しい神の神殿を造ろうとしたら、横槍を入れ、邪魔をして、とうとう一時中断をするのです。ところが、神様はそれをきちっと完成なさるのです。その記事がエズラ記やネヘミヤ記に記されています。神様が事を始めなさったら、どんな妨害が起こってこようが、何が起こってこようと、神様はさまざまな手を使って、エズラ、ネヘミヤを助け、そしてイスラエルの民を助けて、神様のご目的を完遂されたのです。それはけっこう長い年月も掛かりますが、神様は決して中途半端に終わらない。やりかけて、「あ、しまった。これはちょっとここで中断、予算がなくなった」ということはない。
神様のなさることは、13節に「だれが、これをとどめることができよう」と。神様が、事を始めると言われたら、徹底して最後までいきます。だから、逆にいうと、私どもは、その神様を信頼して、持ち運ばれる神様の手に、自分を置いておけばもう安心です。神様は、目的地までちゃんと、私どもを連れて行ってくださる。ところが、私たちはそれに納得できない。どうも怪しい、神様は信頼できない。途中でほったらかされるかもしれない。神様は私どもを忘れてほかに行ってしまうかもしれない。時に心変わりがして、お前なんか知らん、と途中で放り出されたらどうしようと、神様を疑うのです。だから、信頼が途切れてしまう。信頼しない者に神様は応えてくださらない。それは当然ですね。だから、13節に「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。すべてのことを、神様はご自分のご意思とご目的にしたがって、私たちを導いてくださいます。今もそうです。私たちは、自分で一日一日計画して、自分で事を進めているようですが、実は、神様の御心があって、私たちに求めていらっしゃる、願っていらっしゃる、あるいは、ご計画してくださる目標に向かって、いろいろな事柄をとおして、私たちを導いてくださいます。だから、自分で自分の人生を生きていると思わないで、これも神様が私に生きる目的を与えて、私のために備えてくださる道があるのだと、絶えず感謝していく。神様の青写真といいますか、プランの中の今日なのだと知っておきたいと思います。

箴言3章5節へ戻りますが、「心をつくして主に信頼」していく。神様がご存じですから、神様が御心を私たちに実現しようと、思いを注いで、導いてくださっている。だから「自分の知識にたよってはならない」。私どもは、すぐこうなりたいとか、ああなりたいとか、自分の知識に頼る。あれをしたら良いに違いない、こうしたら良いと考えますが、今振り返ってみると、結局、神様が今のところに導き入れてくださったとしか言いようがない。そして、思いがけないこと、考えもしないことが起こるでしょうが、それは神様がご存じの上で起こっているのです。これも主がしてくださることですからと。神様が私に計画していらっしゃるプランの一つが、今起こっているのだと思っていただいたらいい。5節に「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない」。私はこうしたいとか、ああなりたいとか、こんなのが良い、あんなでなければ嫌だとか。こうなったら、その先はこうなるに違いないと、人の様子を見たり、いろいろな話や情報を聞いたりして、神様の手の中にあることを忘れてしまう。これが一番不幸なことです。絶えず、主の手に自分を委ねていく。「すべての道で主を認めよ」。どんなことが起こっても、主を認める。神様が、主でいらっしゃること、その事柄の中心であることを認める。

私はこのお言葉で教えられたことがあります。先日、大阪集会へ行きました。集会が終わったのが、5時過ぎだったのです。その日のうちに帰るので、いつものとおり、6時10分過ぎくらいに伊丹の空港に着く。出発までの時間に、夕食をしたり、少し休憩を取ったりします。その日もいつものとおりと思って、空港に着き、日航のカウンターに行き、出発案内のボードを見ると、予定の便は赤い印になっている。赤の点滅になっている。何があったのかな、と思ったら、今搭乗手続きを中断しておりますということでした。カウンターで聞きましたら、札幌地方が大雪で、新千歳空港から飛行機が飛べないとのことでした。その飛行機が、大阪に来て福岡に行くのです。「今のところ、飛んで来るかどうかわからないので、もうちょっと保留していますから待ってください」と言います。5分くらい待っていたら、キャンセルの表示がでました。飛行中止になり、私はびっくりして、カウンターに行きまして、予約していたこのキップはどうなりますかと聞くと、「はい、6時45分に全日空の福岡便がありますから、そちらに振り替えますから、急いで行ってください」、「席は確保されていますか」、「いや、空席待ちをしていただかなければなりません」、「それで乗れそうですか」、「いや、保証はできません。とにかく早い者勝ちですから、行ってください」と、無責任な話です。私は、カッとなり、「こっちの予定はどうなる!」と思いました。そのような時です。「すべての道で主を認めよ」。今年、私が与えられたみことば、「わたしは神である、今より後もわたしは主である」。雪を降らせたのは誰だ!と腹が立ちましたが、神様だった。飛行中止になったのが仙台行きと福岡便だけだったので、他の便に代わってくれていたら良かったのにと、人はわがままいっぱいで、いい加減ですね。そこでお祈りをしました。「神様、どうしましょうか」。とにかく、係りの人が「急いで行ってください」と言いますが、右端にJALがあって、建物をズーッと通り抜けて、左端に全日空のカウンターがある。そこへ、私は急いで走って行きました。そして係りの人に「こういう状態で……」、「はい、わかりました。すぐ行ってください。検査場を抜けて下に降りてください」。急いで検査場に入って、大慌てで走って降りて行って、息せき切って「すみません。まだ、大丈夫ですか」と言ったら、「はぁ、残念でした、先ほどの方で終わりです」。「エッ!」こんなに走らされてと思いました。心臓がパクパクしている。「どうしましょうかね」と言ったら、「もう一度、日航のほうへお帰りになってください」と、また……。後で考えてみたら、神様は、一日の運動不足を補うために走らせてくださったのだな、と感謝しながら、ゆっくり歩いて日航のカウンターに戻りましたけれども、6時半過ぎていましたから「今から、新幹線はどうですか?」と聞きましたら、「伊丹から新大阪まで出るといったら、いよいよ遅くなるので、それに途中が込み合いますから、バスも時間通りには走りません」と言います。「それでは、ここに泊まりましょう」と。ところが、翌日の11時から人と会う約束をしていました。家内と二人で会う約束をしていました。どうしてもそれまでに帰らなければなりません。それで「翌日の飛行機は、何時のがありますか?」「8時35分があります」と。それを予約しまして、「ホテルをとってもらえませんか」と言いましたら、空港ビルの上にホテルがあるのです。「たった一つだけ空いています」と。これは神様のお導きですね。感謝しました。神様は、「お前はあわてて帰るな、ここで一泊せよ」とおっしゃったのです。「すべての道で主を認める」のです。それまでは、ちょっとカッカしていたのです。半分みことばがありながら、半分「誰だ!この責任者は」と。責任者は神様で、別に航空会社でもなんでもない。係りの若い女の方は、一生懸命に「申し訳ありません」「申し訳ありません」と繰り返している。といってその人の責任でもない。この事態を起こしているのは神様なのです。神様が、もう一泊せよと、しかも、ビルの上ですから、朝8時半だろうと、8時に起きても乗れそうな距離ですから、これは良かった。明日はゆっくり休もうと、しかも、何にもほかに持ってきてないから、部屋に入っても手ぶらですから、9時半くらいから寝てしまったのです。家にいたら、到底寝たことのない時間帯に、これはまた神様の素晴らしいお恵みだったと思います。疲れを取り除くために、休息のときを与えられました。

から、朝はゆっくり起きても間に合うと思っていましたら、そういうときこそ、早く目が覚めるのです。もう6時半くらいから目が覚める。前の日早くから寝ているわけですから。それでは、聖書を読みましょうと、聖書を読んで、そうしてチェックアウトをしまして、階段を降りていきますと空港のカウンターですから、こんな楽なことはない。これは良かったと感謝して飛行機に乗って福岡に帰り着きまして、福岡空港から家内に電話したのです。「今着いたから、約束の時間に間に合うよ」と言ったら、なんと、家内が「ちょっと私が風邪気味で調子が悪いので、病院にいくところだから、帰ってきても私はいないから」と言う。それはどうしたことかな、と思い、取りあえず、帰りました。そうしましたら、しばらくして家内が帰ってきました。様子を聞くと熱が段々上がってきている。38度を超えている。これは大変、早く休みなさいと、お祈りをして休ませました。約束している方に連絡して、こういうことで、家内が風邪を引いて休んでいます。その方は、それではもう、急ぐことではありませんから、別の機会にしましょうと、了解してくれました。こんなのだったら、8時半に帰らなければ良かったと、また、そこで思う。家内は寝ておけばいいのだから、私はもうちょっと大阪で過ごせたのにと思ったのです。しかし、これもまた神様のお恵みなのです。感謝しました。家内はお昼から39度くらいに熱が上がってきた。これは放っておくわけにはいかないから、私も一生懸命に看病して、夜は祈祷会がありますから、準備をしてということになりました。

節に「すべての道で主を認めよ」。本当に私どもは、何があっても主が、神様が、「わたしは神である、今より後もわたしは主である」とおっしゃいます。その方の手に握られていること、その方が、一つ一つ良き事を思い図ってくださる。しかも、その方は、ご愛に満ちた方です。ですから、その6節の後半に「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。神様は、具体的に、問題を解決してくださるばかりではなくて、この度の経験を通して、「まっすぐにされる」と言うのは、心を整えて、スキッとさせてくださるのです。「今日は飛行機が飛ばないことになりました」。あちらに行ってください、こちらに行ってくださいと、走り回っている間は、何か心がつんけんしています。クックと直角に曲がっている。時々、行き詰るところがある。ところが、落ち着いて「神様は、『すべての道で主を認めよ』とおっしゃる。これは、神様、あなたの手の中にありますから、ありがとう感謝します」と、心を定めたときに、思いがスパッとまっすぐになります。今まで曲がりくねっていて、あちらでコチン、こちらでコチンとなっている。その間、まっすぐではない。「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」と。私はいつも外側の条件や事柄や問題がきちっと、あれよあれよと言う間に良くなっていくと思っていたのですが、それ以上に、実は、私たちの心をまっすぐに神様に向けさせてくださる。そうすると、後のことはうれしくなるのです。楽しくなる。

詩篇92篇1節から4節までを朗読。

1節に「いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです」。神様をほめたたえ、感謝賛美している。そして2節に「あしたに」「夜な夜な」とありますように、朝から晩まで一日中「あなたのいつくしみ」、神様のご愛をあらわし、歌い、また「あなたのまこと」、神様の真実なお取り扱いを感謝し、喜ぼうと歌っているのです。なぜならば、4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました」。神様は、私たちをいろんな業の中を通して楽しみ喜ばせてくださるとあります。この4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました」。私は今振り返ってみて、飛行機が飛ばないという経験をさせていただき、あちらに走り、こちらに走り、いろいろなことをして、神様はそうやって私を楽しませようとしてくださっていらっしゃる。私たちはいろいろなことがあるとき、神様が私を楽しませようとしていらっしゃると悟る。神様の業です。「わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」。神様が良き事をしてくださっている。これを信じて、神様の手に絶えず導かれていきたいと思います。これが私たちの地上の歩みです。

箴言3章5,6節「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」 いつも心に引っ掛かるものがなく、くにゃくにゃ曲がったものがない。まっすぐにストレートに、心がいつも神様に向いていく歩みをしようではありませんか。何があっても、事があっても、問題が起こっても、その中で、神様の前に思いをまっすぐに整えて、これも主のみ業ですと確信する。神様は、私を楽しませようとしてくださっている。感謝して、主の前に自分を低くする。これは私たちの恵みです。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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