いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(531)「聖なる者となりなさい」

2015年08月16日 | 聖書からのメッセージ

 「ペテロの第一の手紙」1章13節から21節までを朗読。

 

 15節「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」。

 

 15節に「あなたがたを召して下さった」とあります。「召す」とは“招く、招待する”ということに他なりませんが、私たちはどこへ招かれたのでしょうか?宮中晩さん会であるとか、あるいは無料の映画会に招かれたとか、音楽会へ招かれたというのでしょうか。そうではありません。招かれるとは、私たちがイエス様の救いに導き入れられることであります。イエス様は神の子でいらっしゃった御方、神と等しい御方でしたが、人の世に下ってくださいました。それはイエス様を信じる全ての人が救われて、永遠のいのちの生涯へ招き入れるためであった、と記されています。全ての人々、男も女も、若い人も年取った者も、人種にも関わらず、全ての人々が救いにあずかるようにと、神様の深い御思いのゆえに、イエス様はこの世に下ってくださいました。ところが、イエス様を救い主と信じる人はどれほどいたでしょうか? イエス様がこの地上に来られたときもそうでありましたが、イエス様を救い主として迎えた人は誰一人いませんでした。そしてイエス様を十字架にくぎ付けてしまうという、とんでもない罪を犯してしまいました。しかし、一連の十字架の出来事は、御子を罪の贖いとして断罪し、私たちを救うための神様のわざでした。神様は私たちを愛してくださって、イエス様が成し遂げてくださった救いに招き入れてくださったのです。私たちは十字架にかけられたイエス様のお姿を見たわけではありませんし、人として生きてくださったイエス様を直接見たことも、その声を聞いたこともありません。はるか2千年も昔のことであります。「そんな遠い昔のことが今になって何の役に立つか」と、多くの人は思うでしょう。

 

神様は全てのものを創られましたが、ただ人は神様に罪を犯して、神様の栄光を受けることができなくなってしまった。本来、人は創世の初め、世の始まりの時、神様と人とが何一つ隔てなく共に生きる者であったのでありますが、その関係がこわれたのです。神様はご愛のゆえに、創られたときの恵みを私たちに与えようとしてその道を備えてくださいました。それは一回限りの出来事に他なりません。聖書には「人が罪を犯したために、神様の祝福と恵みから落ちてしまった。その者を一度だけ罪を赦して、救いに導く道を備えてくださった」と。アダムという一人の人がたった一度だけ罪を犯したゆえ、全ての人が神様の祝福から漏れてしまう。祝福を受けられなくなった。ですから、この世は、罪に満ちた世界であるといわれますが、その罪の源はどこにあるかと言いますと、人が一度だけ神様に背いてしまったことです。アダムとエバが神様のお言葉に従わず、自らを神と等しく、神になろうとして神様の所から離れてしまった結果であります。人の原罪、根本的な罪がそこから支配した。

 

 「ローマ人への手紙」3章10節から18節までを朗読。

 

 罪を犯した結果、人が神様の恵みの御座、恵みの場所から離れてしまった。そして人が罪の中に生きる姿は今お読みしたとおりです。誰一人義なる人はいなくて、全てのものが破壊と悲惨とに捕らわれてしまう。そして何と言っても、18節にありますように「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。神様を恐れようとしない、これが人の根本的な罪の姿であります。神様によって造られ、神様のかたちにまで尊い者としてかたち造られた私たちが、その尊い身分を捨て去って、勝手で我がままで、自己中心な、自我と欲情とに捕えられて、その奴隷となってしまった。その結果はいま私たちが見ている人の世の姿であります。神様はそこから私たちを神様と共に生きる、人としての本来の姿に回復するといいますか、取り戻すためにひとり子でいらっしゃるイエス様を遣わしたのです。尊いご自分のひとり子を私たちの罪のあがないとしてこの世に遣わしてくださった。はじめのアダムは人類を罪に渡し、第二のアダム、イエス様は救いを全ての人に与えて下さった。このことは時間を越え、地域や時代を越えても変わることのない真理であります。ですから、今もなおイエス様を信じる私たちは、我がままで身勝手な私たちの罪をイエス様が十字架に身代わりとなって負ってくださったことを信じます。それによって罪が赦され、もう一度神様との交わり、神様の子供として受け入れてくださる。これが聖書に約束された救い、「神の義」ということです。私たち一人一人が義なる者、正しい者として神様に受け入れていただける。これが救いの道であります。神様はこういう素晴らしい救いの道を開いてくださったのですが、誰ひとりそれに入って来ようとしない。神様は私たち全ての人を招いておってくださるのです。いま私たちがイエス様を信じる者、神様を信じる者として救いにあずからせていただいたことは、私たちの努力や、私たちの熱心な業によったわけではありません。神様は私たちを招いて、一人一人の名を呼んでご自分の救いに引き入れてくださいました。

 

 「エペソ人への手紙」1章3節から5節までを朗読。

 

 神様は私たち一人一人をまだこの世の出来ない先から、この世に生まれない前から、4節に「天地の造られる前から」とあります。天地万物が造られる前から、「きよく傷のない者となるように」、言い換えると、神様との関係を回復する。神様に対して罪を赦された者となる。これが「きよく傷のない者」という意味です。5節には「神の子たる身分を授ける」とあります。私たちを神の子供にしようとしてくださる。そのように神様のほうが私たちを救いにあずからせようと決めてくださった。神様の選びと召し、神様が私たちを選んでくださった。そして時を定めて御救いの中に引き入れてくださったのです。今、神様の救いにあずかってこの地上の旅路を歩んでいますが、それは神様の一方的な憐れみであり、また神様からの賜物です。それによって私たちははばかることなく「天のお父様……」と、神様を呼び求めることができる。神様は父と子という新しい関係の中に私たちを置いてくださったのです。神様のほうが万事万端準備を整えて、「さぁ、わたしの所へいらっしゃい」と、招いてくださっておられる。いま私たちはその招きによってこの御救いに入れられているのです。だから「あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」(エペソ 2:5)と、パウロは語っています。ただ一方的な神様の恵みと憐れみによってこの救いにあずかった者であります。そして、「それはだれも誇ることがないためである。」とあります。誰一人、「自分が努力したからこうなった」と自慢することができない。あるいは、自分が誇るものは何もない。ただ神様の一方的な選びと召しによって私たちは神の子とされている。これが「キリストにあってわたしたちを選び」という意味であります。

 

 「ペテロの第一の手紙」1章15節「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって」と言われます。神様は「聖なるかた」と語られています。「聖なる」といわれると、途端にヒュッと身を引いてしまいます。「そんな、私が聖なるもの、聖(きよ)いなんて到底ありえない。私はそんな者ではありません」という思いが先に来ます。確かに「聖なる」「聖(きよ)い」という言葉は、混じり気のないとか、純粋であるとか、汚れがないという意味に違いありません。確かに、それ自身が一つの特別な性質、性情、そういうものをもっている者をして「聖なる者」と考えます。ですから「あなたがたも聖なる者になるべきである」といわれると、「この私が聖なる者に成りようがない。どこをたたいたってホコリしか出てこない、こんな私が聖なる者になれるわけがない」と思います。「聖なる者」というのが、清い、罪のない、汚れのない純粋な者という意味であれば、私たちがどんなにあがいてももがいても縁がない。そんな者に成りようがありません。「じゃ、なぜこんなことが書かれているのか? 」と。神様のご性質は確かに聖なる御方でいらっしゃいます。「ヨハネの第一の手紙」にも「神は光であって、神には少しの暗いところもない」(1:5)と語られています。神様は聖なる御方でいらっしゃるから、何一つ曇りもなく陰もなく、どこにも罪とか汚れたるものが何もない、輝いた光なる御方でいらっしゃるとあります。ですから、神様が聖なる御方でいらっしゃることはよく分かります。「神様はいと高き所に住む聖なる御方である」とも語られています。もう一つこの「聖」という意味は、取り分ける、分離するという意味があります。神様ご自身が私たちに対して「わたしはあなたの神となる」と宣言してくださった。神様は全ての人の神でいらっしゃる。

 

旧約聖書を読みますと、イスラエルの民を選んで、神様は「これはわたしの民だ」とおっしゃる。そのとき神様はイスラエルの民に「お前はわたしの民だよ」と言われると同時に、もう一つ大切なことをお語りになっています。それは「これからわたしはあなたの神となる」「これからわたしはあなたの主であって、あなたの神となる」と約束してくださいました。神様がイスラエルの民、この者の神になると約束してくださった。言い換えると、ご自分をイスラエルの民の専属とする。「わたしは神、あなたの神である」と詩篇50篇には語られています。「あなたの神」、言い換えると、私だけの神様になってくださる。全ての人の神、というと有難味が湧いてきません。しかし、神様は「わたしは皆の神だから、お前だけの願い事を聞いているわけにはいかない」と言わない。「わたしはお前の神だよ」と。神様がご自分を取り分けたもの、他の者と分離してご自分を聖別してくださった。聖なるものとしてくださったのです。「聖」というのは、他の者と切り分ける。他のものから取り分けて、その者だけに置くことに他なりません。神様のほうが一方的に私たちに対して「わたしはお前の神になってあげるよ」と。これはご自分を聖別してくださった。

 

「ヨハネによる福音書」17章14節から19節までを朗読。

 

19節に「彼らのためわたし自身を聖別いたします」と語られています。聖いものとする。分けるという意味であります。ここでイエス様があえて弟子たちのためにご自分を聖別するとはどういうことでしょうか? これは「わたしは彼らの主となる」、よみがえって彼らの、彼らだけのと言い換えても良いと思いますが、彼らの主となるためにわたしは身をささげる。イエス様がご自分を聖なるものとしてご自分を取り分けたものとして、弟子たちのために弟子たちと一つになって、わたしを弟子たちの手にささげて行く者であると証ししてくださった。神様はイスラエルの民に「わたしがあなたの神になる」と、他のことはさて置いて「あなたのものになる」とおっしゃってくださいました。

 

だから、神様がまたイスラエルの民に求め給うのは「わたしのほかになにものをも神としてはならない」(出エジプト20:3)。十戒の第一の戒めにありますように「わたしのほかになにものをも神としてはならない」とおっしゃるのは、それ以前に「わたしはあなただけの専属の神だよ。わたし以外にほかに神があってはならない」と、だから「あなた方もまた私に対して、自分を他のものから取り分けて、わたしにとって変わるようなものから切り離して、ただあなただけが私の神です、と心を一つにしてほしい」。これはそういう約束であります。お互いの契約であります。神様は一方的に神様のほうから、私たちにご自分をささげてくださって、聖なるものとして取り分けて、「お前の神になる」とおっしゃってくださいました。ところがイスラエルの民はどうであったかと言うと、神様の御心を踏みにじって、ついにはイスラエルの国は滅ぼされてしまいました。しかし、神様はそれでイスラエルの民を見捨てたのではなく、もう一度そこから具体的に「わたしはあなたの神である」、「あなただけの神である」と証しするものとして、ご自分のひとり子をこの世に遣わしてくださったのです。私たちのためにご自分をささげてくださった。それによってここにあるように「彼らのためわたし自身を聖別いたします」。イエス様ご自身が、信じる私たちの救い主となる。「わたしがあなたの主であるよ」と証ししてくださる。取り分けてくださる。他のものから切り分けて主のものとしてくださる。となると、私たちはそれに対してどう応えて行くのか?

 

「ペテロの第一の手紙」1章15節に、「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」と。私たちがイエス様の十字架のあがないを信じることは、別の言い方をしますと、私たちを罪の支配から解放して、イエス様のご支配といいますか、イエス様と共に生きる新しい関係に置いてくださったことに他なりません。だからパウロが言っているように「わたしはわたしのもののようであって、実はわたしのものではなくキリストのものだ」と、「主のものだ」と告白しました。私たちもいまイエス様の救いを信じて、「イエス様が私のために十字架に死んで命を捨ててくださった。そのように私もキリストと共に死んだのだ」。そのことを信じてバプテスマを受けます。そして死んだ者となって、今はよみがえってくださった主が私の内に生きてくださる。この年頭にも与えられたお言葉にもありますように、「キリストがわたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:20)。私はキリストのものである、というのです。主のもの、私たちの命も、家族も仕事も、ありとあらゆる全てのものが、これは主のものです。これが私たちいま救いにあずかった者の在り方です。

 

ペンテコステの霊が注がれて、弟子たちがイエス様の福音を多くの人々に伝えました。そのとき、最初にエルサレムに教会が出来たのです。それからエルサレムの教会が迫害に遭い、使徒たちが各地に散らされて行きました。その行った先々でいろいろな教会が出来まして、ついにアンテオケという町に教会が出来ました。そこにイエス様を信じる群れができました。彼らは自分たちのことを“クリスチャン”と呼んだのです。その意味は、キリストのもの、私はキリストのもの、いうならば、キリスト者という意味です。そのように名乗ったのです。今でも「クリスチャン」と言うときは「私はキリストのものです」と言っているわけです。だから、自分のもののようでありますが、健康も、毎日の生活も、また仕事も命も、どれひとつ主のものでないものはありません。全てが主のものです。それを私たちが「これは主のものです」と取り分ける。自覚すること、これが「聖なる者になる」ことです。だから15節に「あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」。私たちのすることなすことの一つ一つを主のものとしてささげて行く。自分自身をささげるのでありますから、朝起きてから夜寝るまでの全ての業も、「神様、これはあなたのものです」と取り分けてささげること、これが「聖なる者」に他なりません。私たちはどんなに自分が汚れた人間であるか、肉体は弱いですから、失敗だらけであり、また罪を犯しやすい者でありますから、「聖なる者になれ」なんて言われたら、成りようがない。けれども、ここで言う「聖なる者」とは、私たちの生活の隅から隅まで、これが全部キリストのものである、「主よ、イエス様、あなたのものです」、「神様、あなたのものです」と自覚して行く、それを絶えずささげて行く。

 

「ローマ人への手紙12章1,2節を朗読。

 

1節に「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」とあります。私たちのからだ、これは身体ばかりでなく、その生活の全て、どれ一つ取って主のものでないものはありません。いま私たちが受けているものすべて、神様が私たちに与えてくださったものに他なりません。そのことを認めて全てを主のものとしてささげる。これが聖なる者となることに他なりません。こうやって週の初めの日、安息日、主のよみがえりの日を記念して礼拝の時間がここに定められています。一週間、もっと沢山の時間があるのですが、ほんの僅(わず)か1時間半近くの時間を共に集まって、この所で心と思いを神様にささげる。

 

 礼拝というのは、集まってお祈りして、聖書の話を聞いて何かを学ぶといいますか、勉強会に出て来たように思うならば、それは大きな間違いであります。この僅かな短い時間の間に、神様のわざ、神様の恵み、神様から頂いた過ぎてきた一週間の全てをもう一度振り返って、本当に主にあがなわれた者としての歩みであったかを深く探り、悔い改めるべきは悔い改め、感謝すべきことは大いに感謝し、主を喜ぶことは喜び、そしてこの礼拝という短い時間を通して、「過ぎ去ってきた全てのものが、主のものでした」とささげるための場所であり、時間です。自分を主のものであると取り分ける行為であります。この礼拝なくして、人がクリスチャンたり得ないのです。私たちが神様の前に自分を取り分けて行くこと。ともすると私たちの住んでいる世の中は、先ほども読みましたように「神を恐れない」罪に満ちた世の中であります。ついそういうものに心が奪われ、思いが捉(とら)われ、神様のことを忘れてしまいます。いつも神様のことを覚えておきたい。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と(Ⅱテモテ 2:8)、いつもキリストを思っておりたいのでありますが、世の煩いや様々な事の多い中に私たちは日々過ごしていますから、気がつかないうちに主を離れます。自分では「私はクリスチャン、キリストのものだ」と信じていながらも、実際、いろいろなことで失敗をいたします。また神様の御心を痛めたり、御思いを知りつつも従えないでペシャンと落ち込んだりします。そういういろいろな思いを抱いて、このほんの僅かな1時間半の礼拝の場にあって、祈りをし、賛美をし、御言葉を聞きますが、しかし、その中を通して、御霊が、聖霊は働いて私たちの心と思いを清めて、もう一度新しい思いに立ち返らせてくださる。それは何かと言うと、「そうでした、神様、あなたが私の主です。全ては主のもの、もう一度主よ、ここからあなたにお従いしてまいります。あなたはわたしの神です」と、はっきりと姿勢を整える、これが恵みの時なのです。

 

 ですから、1節に「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。私たちのためにイエス様がまずご自分を聖別してくださって、あがないの神の子羊となって十字架に命を捨ててくださった。それに応えて、私たちもまた自分を主に付ける者、主の側に立つ者としてささげて行く。私たちの心と思いをキリストのものにしてしまうこと、これが「聖なる者になる」ことです。皆さんはこれからそれぞれの生活の場に遣わされて行きます。そこでいろいろな日々の生活の小さなことの中にも主を前にして歩みたいと願いますが、忘れます、あるいは自分の生まれながらの感情や様々な人間的な思いが私たちを強く捕えることがあります。しかし、何があっても、常にそこで悔い改めては自分を「主のものです」と主にささげることを努めて行く。これが日々の生活です。毎日の生活の中で自分を「神様のものです」と言い表して行くこと、これは自覚してやらなければできません。「なるほどそういう者になったのか」と、ぼんやりしていては駄目です。これから遣わされて行く皆さんの生活の場の一つ一つで、「いま私は主のものとしてここに立っている」「私は神様の前に主のものとしてささげられた者としてこの所に立っている」と自覚する。友達と話をするときでも、近所の人と交わっているときでも、あるいは神様を知らない人たちの中にあっても、別にそこから出て行くわけではありません。世捨て人になるわけでもありません。世の中から切り離されて、隠とん生活をするわけではないのです。私たちは世の中に遣わされて行くのであります。行った先にあって常に「私は主のものです」と自覚して行く。そして「いまここに主が置いてくださっておられる」。その主を絶えず覚えて行くとき、私たちはおのずから自分のするべきことも、語るべきことも、一つ一つなす業が清められた者と変わって行く。神様の御心がそこに働いてくるのです。だからあえて「私はクリスチャンだから他の人とは違う」と言って、事を荒立てて対立することはいらないのであります。ただ私たちが主のものとして遣わされていることを一人一人が自覚して行きますと、おのずから語る言葉が変わってくる。出掛けて行く場所が今までとは違ってくるに違いない。また交わりの中にあって自分がすべきことと、してはならないことの明確な区別ができるようになってきます。いろいろな意味で私たちの生活が変わって行くのです。これは確かであります。本当に素晴らしい恵みであります。だから、常に自分が主によって清められた、聖別された者、あがない取られた自分であること。だから「私もその主に対して自分をささげます」と、絶えず自分を主にささげる自覚を持ち続けること、これがその人の行動を変え、語る言葉も、心に思う思いすらも造り替えてくださいます。これは神様がそこに働いてくださるからです。

 

 だから、2節には「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。常に神様が何を喜んでくださるか、いま私に何を求めておられるか、それが分かるようになるのであります。「どうやったら分かる? 」どうやるもこうやるも、自分をいつも「主のものです」と、自覚して行く。自分を常に神様のものとしてささげて行くとき、気がつかないうちに神様のほうが私たちの思いを造り替え、私たちの考えることも変えてくださる。神様の御思いに沿うものとしてくださるからです。ですから、どんな時にも「私は神様から選ばれ、召された聖なる民であること」を忘れてはならないのです。

 

 「ペテロの第一の手紙」1章15節に、「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」。「あらゆる行いにおいて」というと、朝起きてから夜寝るまで、何をするにも「いま私はここに主のものとして遣わされている」「私は主にささげられた者としてここに置かれて、今このことをさせていただいている」「私は主のもの、キリストの名をもって呼ばれる者である」ことを自覚して行きますと、「こんなことをしてはいかんよな」と、おのずから見えてくる。自分はこうしたい、あるいは食べたい、こうもありたい、あそこも行きたい、と肉の思いが働きます。ところが「私は主のもの」「主が今このことをさせてくださっておられる」と知るならば、「これ以上のことは神様が喜ばれない」、「これはイエス様がお嫌いになる」とはっきり見えるのであります、分かるのです。しかも、それから離れる力を与えてくださる。これが「聖なる者になる」こと、これが大きな祝福と恵みです。

 

 15節にありますように、「あなたがた自身もあらゆる行いにおいて」、どんなことの中にも「聖なる者」、自分を「神に付けるものです」と取り分けて、ささげて行く者となってください。それを自覚して行く。どんなことでも「私は主にささげられた者、主のものです」、「神様、今日もあなたのものです」と自分を手放しで、主の手に握っていただく。そして、そのことを常に自覚して行く。そうしますと、おのずから私たちの生活の隅から隅まで変化が生じてくる。神様がそこに新しいわざを始めてくださるのです。私たちをその名にふさわしい者に造り替えて、神様の聖名を高らかに、栄光をあらわす者に私たちを生かしてくださるのです。

 

 聖なる御方、神様が私たちのために「わたしはお前の神になる」とご自分を聖別され、イエス様は神の位を捨ててまで、私たちのためにご自分をささげて、ご自身を聖別してくださいました。それに対して私たちも、全ての業において全てをささげきって、本当に主のものとなりきって生きる者となりたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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