いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(147)「消えない望み」

2014年03月24日 | 聖書からのメッセージ
 哀歌3章21節から41節までを朗読。

 22,23節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」とあります。
 この言葉はよく耳にし、また心に覚えて励まされ慰められる御言葉の一つであります。まさにそのための御言葉と言ってもいいと思います。と言うのは、この「哀歌」をうたった預言者エレミヤは大変な苦しみに遭いました。3章の1節以下を読むと、大変つらい困難な中に置かれたことをうたっています。鎖につながれ、見世物にされ、多くの人の笑いものとなり、肉体的な苦しみを受けたと記されています。絶望的、望みのない事態や事柄のなかに置かれたのです。

 哀歌3章18節から20節までを朗読。

 私どもも、日常生活の中で、いろいろな思いがけないこと、考えもしない問題や事柄の中に置かれて、先が見えない、望みが持てないことがあります。これからどうなるだろうと、失望と落胆の中に落ち込みます。心が沈むのです。20節に「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」と。一つの問題があると、それが絶えず心に引っかかる。寝ても覚めても、そのことが思い浮かぶ。そのたびにシュンとなって、春先の素晴らしい天気に恵まれて、綺麗な花々が周囲にあっても目に入らない。そして、フッと気がつくとそのことを思っている。思ってはシュンとなり、思ってはシュンとなる。「うなだれる」とはまさにそのことですね。そのような中にエレミヤも置かれたのです。

ところが、「しかし」と21節にあります。聖書の中で「しかし」という言葉は非常に力強い言葉です。そのような中にあったのですが、「しかし、わたしはこの事を心に思い起す」。確かに現実目に見えている事柄、自分が体験して、今受けている事柄、そればかりを見ているかぎり、絶望しかない。どこにも望みが見出せない、そのために心はシュンと縮こまって、うなだれて、力をなくす。そのようなとき、何が私たちの心を励ましてくれるだろうか。もう一度力を与えてくれるものは何か? それを持つということが大切ですね。

イエス様の救いにあずかったから、強くなって、何が来てもへっちゃらだ、と言う人はいません。私達はやはり生身の人間でありますから、感情もあり、情もあります。見ること聞くことによって一喜一憂、上がったり下がったりします。それは、言うならば当然と言ったら当然であり、それは生きている証詞でもあります。だから、クリスチャンになったら、暑いも寒いも感じない、甘いも辛いもない、全く感情のない人間になるのではない。むしろいろいろと深く人のことを感じ、また、思います。
牧会伝道をしていますと、いろいろな境遇の方々と話をします。先だっても、一つの問題を抱えている兄弟の話を聞きまして、「どうするかいな」と、一緒になって落ち込んで、もうどうにもならない思いがしたのです。最近、血圧が高いので、その話をした後、ちょっと頭がぼやっとするな、と思って血圧を測ってみたら、200を超えていました。私の母や兄弟など高血圧症です。そういう体質的なものがあります。今まで自分はそうではないと思っていました。家庭の血圧計で測るとき、130,140くらい、下は80から90まではいかないから、年齢を考えるとこのくらいかな、と自己判断をしていました。

そのとき初めて気になるものですから、測ってみました。私にしてみれば高いのです。やはりそういう体質が年を取ると親に似てきますから、注意するようにと神様が教えてくださったときだな、と思っています。信仰があったら、血圧なんか上がるはずがなかろうと思うでしょうが、そうではありません。私どもは、生身の人間ですから、決してスーパーマンではない。イエス様も私たちと同じ「悲しみの人で、悩みを知り」とあります。ですから、感情が浮き沈みすることは、決して恥ずかしいことではない。「私はイエス様の救いにあずかって、何の心配もありません。私はもう大丈夫」と言っている手前、家族の前で泣き言はいえないから我慢しているというのはおかしい。ありのままに、素直に、やはり苦しいときは苦しいし、悲しいときは悲しい、うれしいときはもちろん手放しで喜びますし、これは当然のことだと思います。だから、心が沈むことはあります。

ただ、私たちにとって素晴らしいことがある。21節に「しかし、わたしはこの事を心に思い起す」という、逃れるべき、より頼むべき場所があり、信頼すべき方がいること、これが私たちの特権であります。ですから、感情に支配されず、浮いたり沈んだりしないのがクリスチャンではなくて、絶えず立ち返るべき方がいることを知り、また信じ、信頼する人こそクリスチャンです。このエレミヤもそうです。エレミヤも立派な預言者です。信仰の勇者です。しかし、今読みましたように「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」と言う。実に正直です。私は預言者で何の心配もありません、と言ったのではない。苦しみに遭い、人々の冷たいあしらいに遭って、望みをなくしていたと。21節に「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく」。そのような中にあるけれども、このことを思い起こして、望みとしていくのだ。そこに希望を、光を見出すことができる。これが私たちの恵みであり特権です。

「この事を心に思い起す」とは、22節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。これは文語訳聖書では「われらの尚ほろびざるはエホバの仁愛(いつくしみ)によりその憐憫(あわれみ)の尽ざるに因(よ)る」となっています。たとえ、意気消沈する、うなだれるような苦しみや悩みの中に置かれても、なおそこに神様のいつくしみがあり、あわれみが注がれていることを知る。それがこの22節の「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」ということです。生きて、苦しみの中に置かれたとしても、どのような悩みの中に置かれたとしても、神様の慈愛とその憐れみがまだ注がれて、滅びない者として支えられている。今なお滅びないで、この地上に命を与えられて、こうして主のみ声を聞くことができ、また祈ることができ、心を主に向けることができる。この素晴らしい恵みの中に置かれている。確かに見える状態は望みがない。魂がうなだれるような悩みと苦しみの中にたとえあるとしても、私にはもう一つその奥に、絶えず立ち返っていく、心を向けることができる場所があるというのです。

私もしみじみとそのことを教えられます。見える状態は絶望、確かにあれがあり、これがこうだし、これは無理だな、と思います。ところが、たとえそうであっても、なお神様はひとり子を賜うほどの御愛をもって、顧みてくださっている。そのような主が備えてくださることが必ずあることを信じますから、絶望して、それで終わりにならない。いや、絶望の淵から、もう一度心を上に向けていくことができる。これが私たちの特権です。いろいろなことの中に、日々、置かれますが、そこでしょげるならしょげたらいいのです。悲しいときは大いに泣いたらいいのですね。しかし、それでおしまいではなく、そこから、主に目を向けて、主の「いつくしみ」「あわれみ」に心を向ける。神様が愛なる方で、限りない愛をもって、ひとり子を賜うほどの愛をもって、私どもを愛してくださっている。この地上の生涯を終わるならば、主は私たちのために場所を備えて待っていてくださる。永遠の命の生涯に、私たちは引き入れられているのです。

23節に「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。しかも、主が私たちを愛してくださった愛は、何千年も昔のカビが生えて、役にたたない、古びたものではなくて、毎日毎日朝ごとに新しく、新鮮な、フレッシュな、取り立ての愛をもって、私たちを愛してくださっている。そこにいつも目を向けるとき、望みがわいてくる。心に力を受けることができ、いのちに満たされて、もう一度立つことができます。これは私たちの大きな特権です。もう一度、神様が私たちに与えてくださった恵みをはっきりと知っておきたいと思います。

24節に「わが魂は言う、『主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む』。」と。私どもは見える状態や事柄、いろいろな事があって、失望し、落胆し、心に魂がうなだれます。しかし、神様に目を向け、その神様がどんな大きな愛をもってわたしを愛してくださっているか、その御愛に心を潤される。そうすると、24節のように、「私の持ち得るものはあなた以外にありません。神様、あなたは私のすべてです」と、言えるところへ引き上げてくださる。ですから、私どもが何か問題に遭い、意気消沈して「もうこれは駄目だ」と思ったときに、もう一度「静まりて我のたるを知れ」(詩篇46篇10節)とおっしゃるでしょう。もう一度、神様の前に出て、賛美し、祈り、み言葉を求めながら、神様に目を向け、心を向けていくのです。そして神様がどんな大きな愛をもって私をあしらってくださっているか、今に至るまでどんなに神様は忍耐してくださって、顧みてくださったことか、つぶさに味わっていきますと、魂は喜びに変わってくると同時に、もうほかのものは何にもいらない。主がいらっしゃるから、神様が私の主となってくださったから、これがすべてですと言える、そう思える心に変わっていく。これが信仰生活の日々のあり方です。

25節に「主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい」。本当にそうです。どんなに失望し、嘆き悲しみの中に置かれても、そこで主の御愛に「いつくしみとあわれみに」目をとめていく。思いをそこに向けていく。一気にそこまでいかないかもしれません。問題や悩みが深ければ深いほど、なかなか神様の所へ心が向こうとはしません。しかし、少しずつ、少しずつ、荒れ狂う思いを静めて、賛美し、言葉にならない祈りの中から主を求めていく。そうしますと、気がつかないうちに心に主の力と御愛と、その大きな恵みがあふれてくるのです。そうやって心を神様にむけていきますと、今度は喜びに満たされて、確かに主を待ち望んで、主に期待していこうという、積極的な、ある意味で前向きな信仰に、神様は私たちを引き入れてくださいます。

26節以下に「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ」。何だかきびしい事を言われているようですが、実は、行くところまで行ったらいいということなのです。いろいろな問題の中に置かれて、それがどんどん悪い方へ、悪い方にいこうとします。そのような状況を見ると、ハラハラドキドキして、先を憂えます。しかし、ここで言われていることは、じたばたしないで、じっとして神様に期待しなさいと言うのです。26節に「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである」。「静かに待ち望む」、神様が救ってくださる。しかし、その救いがどこに現われるか分からない。現実はどんどん悪くなっていくに違いない。しかし「人が若い時にくびきを負うことは、良いこと」。重荷を負わせられるなら、それを負えばいいではないか。「主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい」。それは神様の手の中にあって進んでいること。ここまで腹をくくって、主を待ち望む者となる。主に期待していく。
しかし、焦る思いから、いろいろな方策を求めたくなります。イザヤ書30章にありますように、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(15節)と約束されているのですが、「私たちはそれを好まなかった」と。すぐに早い馬に乗って走り、早い解決方法を、何とか早く、と思ってしまう。そして主を離れていきます。見える状態がどんどん悪くなっていこうとも、その中で主を待ち望んでいく。神様が救いを現してくださるときを待つ。それはつらいことのようですが、28節に「主がこれを負わせられるとき」とあるように、主がそのことをさせているのだったら、文句は言えません。甘んじてそれを受けていく。

詩篇62篇1節から4節までを朗読。

1節に「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る」。この表題にダビデの歌とありますが、この62篇をうたったダビデは、このときまさに周囲が全部彼に対して敵となったような孤独の中に置かれたのです。3節以下にありますように周囲のすべての人々が、石垣のように自分に押し迫ってくる。しかも4節に「尊い地位から落そうとのみはかり、偽りを喜び、その口では祝福し、心のうちではのろうのである」。人の言葉と心の裏腹な現実の中にダビデは置かれた。徹底した辱め、あるいは苦しみの中に置かれた彼は、何をしたかといいますと「わが魂はもだしてただ神をまつ」と。「もだして」というのです。文句を言わない、ただ黙って神様だけに望みを置いていった。そして「わが望みは神から来るからである」。人ではない、事情、境遇、事柄によってではなくて、神様が私の救いとなってくださる。そこまで徹底して黙って耐え忍んでいく。これがダビデの生き方です。また5節に「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである」。「もだして」ただ、神を待つのです。人を待つのでもなく、お金を待つのでもない。あるいは息子や孫たちを待つのではないですよ。ただ神を待ち続ける。「もだして」ですね。

私はある方のことについて、家内と話をしていて、この御言葉を通して教えられるのです。「ああ、もうつらい。こんなひどい扱いで、私は朝起きてもう胃が痛い」。「胃が痛いくらいでは、まだ死なない」と家内が言うわけです。「はぁ、なるほどそうだな」と思いますが、どこまで行けばいいか? とことん十字架の死にまで行けばいいのです。私たちもそこまで覚悟を決めていく。本当に主を待つということはそのようなことです。神様を期待していく。

そして6節に「神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである」。神様が私の岩であり、救いである。8節に「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」。神様をよりどころとして……。この会社がよくないから、ここでの取り扱いが悪いから、意地悪されるから、それでは早くあちらにしようか、こちらにしようか、と焦る。まだそれはゆとりのある時期ですね。雪隠(せっちん)詰めといいますか、行き止まりまで行く。神様は私たちがどこまで待ち望み、信頼するか、とことん行くまで待たれるのです。

エジプトで奴隷になったイスラエルの民が救い出されて、やがて紅海に出会った。後ろからエジプトの軍勢が来ます。前は紅海。もう逃げ場がない、避け所がない。そのとき「もういよいよ駄目、これでおしまい」といった時に、神様はパッと驚くことをされるのです。海を開いて乾いた地を渡らせる。またアブラハムがそうですね。イサクをモリヤの山で「わたしにささげよ」と求められる。彼は朝早く起きて山へ行きました。いよいよイサクを縛って薪(たきぎ)の上に載せて刃を持って殺そうと、そこまで神様はじっと待たれるのです。朝起きて準備した段階で「分かった。そこでやめとけ」と言ってくれたらいいのですが、そうではありません。薪を背負って山を登っているときではなく、もうちょっと行って本当に自分の命を捨てる、もう取られる、これでおしまいと、刃を向けるまで神様を信頼して、自分を神様の手に握っていただく。その時、神様は間髪を入れないで、必ず救いの道を開いてくださるに違いない。私たちの信仰を神様が見ていらっしゃるのです。私どもはつい弱音を吐くといいますか、気が弱くなったり、あるいは周囲の人の言葉を聞いて「もうちょっと早めにこうしとけばよかった。あの道を、この道を」と、すぐ早い馬に乗るのです。「もっと早い馬に」と、私どもは逃げようとします。そうではなくて、最後までとことん主を信頼していくこと、これが私どもの求められていることであります。

もう一度初めの哀歌の3章22節以下に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。神様は御愛をもって私たちを導いてくださる方であることに望みを置いて、そこに自分を賭けて、見える現実、事柄の中でそれを逃げ出そう、それを避けようとするのではなくて、とことん主を信じて、主が負わせられるとき、「ひとりすわって黙しているがよい」。ダビデが言うように「わが魂はもだしてただ神をまつ」。今置かれたその所で、人がどのように言おうと、どのような取り扱いをされようと、どんな辱めに遭おうと、主を待ち望んでいく信仰。どこまで私たちがそれを待ち望んでいるかを神様は見ていらっしゃるのです。だから、あの紅海を目前にして行き所のないその所まで行く。イサクをして祭壇の薪の上に載せて今まさに殺そうとする、その瞬間まで行く。その心を神様は求めておられるのではないでしょうか。

ですから、どのようなことがあっても、そこでただ神を待つ。その神様は、いつくしみ豊かであわれみに富み給う方で、朝ごとに真実をもって私たちに目をとめていてくださる。決して私たちを見捨てる方ではない。私たちの思いを知っていて、置かれている事柄も何もかもご存じなのです。そこで私たちは主を信頼していく。心を主に向けて、主をよりどころとし「わが救は神から来る」「わが望みは神から来る」と、神様に期待していこうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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