いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(212)「迷わない生き方」

2014年05月28日 | 聖書からのメッセージ

 コリント人への第一の手紙15章50節から58節までを朗読。

 

58節「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。

50節以下に、この地上の生涯が終わったとき、その後どのようになるかということが語られています。今朝車に乗って出ましたら、車が少ないのです。今日はいったいどうしたのかな?と思ってふと考えましたら、祭日でしたね。祭日といって今日は何の日かな?と考えましたら、春分の日ですね。世間でいうところのお彼岸です。お彼岸と言えば先祖のお墓参りがいちばんの行事だろうと思います。恐らく多くの方が今日あたりはお墓に出掛けて、水や花を換えたりしているだろうと思います。その事を思うとき、死ということをふと考えさせられます。

 

 50節に「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」とあります。地上の生活は必ず終わります。すべて存在するものは、初めがあり、またその終わりがありますから、必ず最後がきます。人によって早いか遅いかその程度の差です。しかしそれですべての事が終わってしまうのなら、むなしいですね。もし私たちの人生、この地上での生活が苦労や悲しみや悩みの中を何とか我慢し忍耐しながら、様々な戦いを戦い抜いて、最後は全部無くなってしまうならば、私たちは何のために生きているのでしょうか。聖書には、地上に命を与えられたこと自体が、目に見えない神様の大きなご計画、御思いであったと記されています。これを信じるのか、信じないのか、これは大きな違いです。私たちはこの地上に生かされて、仕方ないけれども気がつかないうちに命を与えられて、嫌だけれども、とにかく生きている以上仕方がない、生きておこうというだけでしたら、長生きするもしないも関係がないし、またこんなに苦労をしてまで生きていなければならないのなら、早く死んだ方がましという話にもなりやすい。ですから、まず第一に大切なことは、今私たちがこの地上に置かれているその始まりがどこにあったか、何によって始まっているのかをしっかり信じる。もちろんそれを具体的に見たことはありません。それを手で触ったり、私たちが確かめたわけではないけれども、聖書にははっきりと「はじめに神は天と地とを創造された」(創世 1:1)とあります。すべての事の始まりが神様によるのだと信じることです。これは私たちにとって人生に向かう大切な姿勢、態度ではないかと思います。だから、私は若い高校生に話をしてくれと頼まれて行きますが、必ずその事を繰り返しお話しするのです。と言うのは、それが物事の出発点だからです。それを抜きにして、その後の事をいくらどう言っても、その一番最初の土台になる所がきちっとしていなければ、どうにもならないのです。私たちが今この地上に置かれているのが、偶然な事でもなければ、たまたまそうなったのでもない。何かわけは分からないけれども、とにかく自分がここにいるのだから仕方がないというような、あやふやな始まりであると思うなら、これは大きな間違い。もう一つは、神様が私をここに造り生かしてくださったと信じるのと、何か分からないけれどもとにかく今生きているのだから仕方がないという生き方と、この二つがいつも私たちの前にあります。どちらに自分が立っているか、これは非常に大切な事だと思います。私たちが導かれて、聖書に証しされている神様を信じる者としていただいたこと、これは幸いな事だと思います。

 

 よく「ルーツ」ということを言います。幼いときに親を失ったり、やむなき事情のために親から別れて里親に出されたり、いろいろな境遇に置かれ、自分がどこから出てきた者であるかが分からなくて、大人になっても精神的な成長ができない、いつまでも自立できない人がいます。自分がどういう親から生まれ、育てられ、どういう者だろうかが分からない。だから、近ごろ話題になりました「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)、熊本の病院が子供を捨てたり殺したりするぐらいならば、私たちにあずけてほしいというポストを設けました。そのときに大きな議論になったのは、そこなのです。将来その子が成長したときに自分の親は誰だったのだろうか、自分はどういう親によって生まれたのかを問われたときにどうするか。そのような子供が持つ精神的な弱さ、心の傷をどうやってケアしていくことができるかが大きな問題になりました。どのように解決したか分かりませんが、今は制度として出発しています。しかしそれは確かにそうだと思います。自分たちがどこから来てどういう者であったかが分からないことによって、不安と恐れ、自信をなくす、世の中に立っていけない不安感が付きまとってくることがあります。

 

 アメリカに居りましたときに、一組の友人夫婦がいました。彼らは白人ですが、彼らには子供が二人いました。その子供が大体手を離れたころに、更に二人の養子をとりました。一人は黒人の男の子です。その子は何かの事情があってどうしても手放されてしまったのです。それからもう一人別の子供、女の子を養子にしました。私はびっくりしたのです。自分の子供がいながらも、なおそのような境遇にある子供たちを自分で養ってあげようという。大したものだな、と思いました。そのころ私たちには子供がいませんでしたから「和義たちは、どうして養子をしないのだ。いくらでも困っている子供がいるではないか」と言われました。向こうの方はその点は非常にオープンです。日本ではそのような子供を育てるのはいろいろと周囲の、社会的な問題が必ず出てきますからなかなか難しいだろうと思います。ところが、アメリカの場合はそのような事は日常茶飯事ですから、誰も問題にしません。私は彼らの子育ての仕方をつぶさに横で見ていまして、肌の色が全く違うのですから、いわゆる擬似親子、私はあなたのお父さんよ、お母さんよとだますようなことはできない。明らかに自分の両親でないことは子供も分かるし、親になっているほうも分かっています。だからといって、お父さん、お母さんと言わないわけではない。しかし、明らかに産みの親ではない。黒人ですから、やはり黒人の民族的な文化とか背景があります。だから、養い親、養父母は白人ですけれども、白人社会の習慣や生活観ばかりをおしつけるわけにはいかない。やはり、黒人の生まれ持ってきた伝統、文化、そういうものをも学ばせなければならない。と言うのは、もしその子達を、自分は肌は黒いけれども、いわゆる西洋系の人間として黒人文化から切り離して育てることは、決して将来よい結果を生まないというのが、アメリカの人々の考え方です。だから、その子に必要なルーツ、そのつながりは決して絶やしてはいけない。いや、むしろ積極的に子供に必要なその文化だとか、その教養とか、あるいは、いわゆる、黒人の民族としての誇りとかそのようなものを与えてやるのです。ですから、学校に行っている以外にそのような事を教えるボランティアだとかいろいろなものがありますから、そういうものを必ず利用している。私はそれを見て非常に感銘を受けました。人は、自分がどこに所属して、何であるかがはっきりしないことには落ち着かないのです。いつも不安と恐れを、心に陰を持ち続けて生きるのです。だから、あなたはこういう者なのだ、こういう文化の中でこういう中で育っていくべきなのだよと教えることが大切です。私たちは日本人ですから、あまりそのようなことを自覚しない。周囲を見ればすべて日本人、顔かたちも似たり寄ったりですから、別に違和感はありません。

 

これはもっと広い意味で言いますと、人間が、人種にかかわらず人というものがそもそも何から始まったかということをしっかりとつかまなければ、安心を得られないということです。いつも言い様のない頼りなさ、手ごたえのなさ、何か自信が持てないのは、自分が何で造られ、どうしてここに生きているか。何のために今日ここに在るか、もう一つ確信が持てないからです。生活の中でも、何かしようと、取り掛かろうとするとき、本当にこれをしていいのだろうか、これでうまくいくのだろうか。私がこれをしていいのだろうかと、自分を省みる思いのほうが先立って、手放しでドンと大胆に踏み出せない。「大丈夫よ」と言いながらも、本当にこれでいいのだろうか、誰かに保障をしてもらいたい、そういうケースが多々ある。自分の子供を育てるにあたっても、家庭のいろいろな事柄にあたっても、これでいいのだろうか、こうしていいのだろうか、良かったのだろうか。ひょっとしたら間違っていたのではないかというような、頼りなさを自分自身がいつも感じている。それは自分に能力があるとか、ないとかではない。自分がそれを十分できる力があっても、何一つ知力、体力、あるいは経済力においても不足はない。これをするにあたっては別に問題はないのだけれども、もう一つ何か自分の心にカチッと支えてくれる、力を出してくれるものがないことを時々ふと感じる。それは、今ここに自分がこうやって生きていることを神様が「よし」としてくださっているとの確信がないからです。私が生きているのは、ひょっとしたら間違いなのではないだろうか。そこまで意識しないかもしれませんが、私がこうやって生きているのはこれでいいのだろうか、こんなことをしていていいのだろうか、私の人生はこれでよかったのだろうかと、自分の心の中に迷いのようなものがいつも消えない。その原因は、私を造り生かしてくださる神様が今日も「生きよ」と、「よし」とおっしゃってくださったという確信、これがないからです。

だから、小さなお子さんをみていますと、そう思います。お母さんが非常に管理的といえば管理的なのかもしれませんね。子供のすることに逐一あれこれ口を出すからかもしれませんが、大抵子供は、小学生くらいまで、必ず親の承認を求めるのです。殊に長男、長女などはその傾向が強い。何か教会で集まりがあってお茶を出します。「さぁ、チョコレートがあるから食べなさい」と、家内が子供たちに好きそうなものを用意してすすめると、チラッとお母さんのほうを見る。お母さんがまゆ毛をチョッと動かす。そうすると「いただきます!」と取る。一つ食べ終わって、まだ欲しそうだから、家内が「はい、食べなさい」と言うと、またお母さんのほうを見ます。無意識なのです。お母さんが顔を横に少しだけ動かすと、もう手が出ない。その子にとっては、いつもお母さんが「よし」と言ってくれたら安心。私はそれを見ながら、神様がそのようなお母さんなのだと思いました。実は私たちは、自分が今これをしていることを「いいよ、それでいいよ」と言ってほしいのです。

 

子供のころはそうであったけれども、だんだん親から離れて自立して、自分の判断と自分の決断と選択でやっていくでしょう。ところが、その中で自分が命を与えられ生かされてきた目的、自分の人生に、今していることはふさわしいことなのかどうか、あるいは、これで良かったのだろうか、悪かったのだろうか。人が「よし」と言う以上に、やはり私たちの心に造り主を求める思いがある。だから、私たちが神様に帰っていくことが大原則です。これは神様が「よし」とおっしゃってくださる。今私がこの事をしていることを神様が「うん、大丈夫だよ」とバックアップしてくださる、後ろから押し出してもらえるとするならば、こんなうれしい話はない。そこに本当の安心を得ることができる。これが本来人のあり方なのです。だから、人は神様によって造られ、この地上に置かれ、そして神様の「よし」と見給うところに従うことが誠に幸いな生涯であります。ところが、その安心がないから、多くの人々は不安と恐れの中にある。いつも何かいらいらしていて、不安があって、頼りなさがあって、していることにいつも「これでいいのだろうか」「これでいいのだろうか」と自問自答しながらやっているのが現実であります。その不安や恐れを取り除くために何をすべきか。神様に帰ることです。万物の創造者である神様に立ち返って、神様が限りない愛をもって、かけがえのない存在として私を愛してくださっていることを知る。神様は、私のすることなすこと、どれ一つとがめだてをなさる方ではなく、私たちを「それでよろしい」、「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ 43:4)と認めてくださる。そればかりか、私どもに知恵を与え、思いを与え、願いを起こさせ、すべての必要を備えていらっしゃる。そのことを確信しているならば、人生は揺るがない、確固とした確かな生涯を生きることができます。

 

ところが、それが無いから多くの人々は自分たちの先祖を祭ることによって、自分の今を確かなものにしようとしてきたのです。日本の社会で先祖祭りを大切にするのは精神的な安心を得ようとすることなのです。戦前、「国体」と言われましたが、天皇陛下を自分たちの親として、私たち日本人、国民は天皇の臣民(しんみん)と言いますか、天皇により守られた天皇家の一つのピラミッドの傘に覆われた者として存在するという、これが明治憲法から始まり、日本人にある一つの精神風土です。その根本はどうしても先祖なのです。そしてその先祖の行き着く先が天皇に結びついていくところに、日本人の精神的な流れがあります。それを祭ることによって、自分の今を肯定するといいますか、「よし」としていくのです。だから、先祖があって今、先祖のお陰で今自分があるという、これは恐らく皆さんも周囲でよく耳になさるとおりです。ところが、先祖がどうこうと言っても、これは私たちを造る力があるわけでも、神でも、何でもありません。ただ、生物学的なつながりがあるだけのことで、先祖、先祖といっても、何の意味もないのです。それは、言うならば、一つの幻想のようなもの、夢を見ているようなものですから、そこには実質的な力も慰めもわいてきません。それだけに、日本人の心がいつも定まらない、落ち着かない。不安があり苛立ちがあり、焦る思いがある。落ち着かない気持ちで生きているのが現実なのです。やがてこの地上の生涯が終わるとき、人は自分がどこから出てきたか分からないから死を恐れます。死んでしまったらどうなるか分からない。先祖、先祖というけれども、自分が先祖になると、祭られて神になったとしても、では、それがどのような意味があるのか、全くその世界が分からない。それは朽ちていくものなのです。ところが、造られた私たちは、神様が定められた時がきて、地上の生涯を終わるのだと聖書にはあります。そして、私たちがこの地上に肉体を持って、あるいは社会という場で、日常生活をして生きているのではなくて、神の霊によって人は生きるものとされているのです。私たちのうちに神様の霊が宿って、神の霊によって生きた者となる。だから、伝道の書の終わりにあるように「霊はこれを授けた神に帰る」(12:7)と。「人の子よ、帰れ」(詩90:3)と、霊が取り去られたとき人はこの地上から消えていくのです。

 

 先日も親しい方がお召されになられまして、ひつぎに納められた姿をまじまじと見せていただきました。そのとき、心を打たれたのですが、遺体はまるでスーパーの袋のようなものではないかなと思う。荷物を入れて下げているときはしっかりして役に立ちますが、中を抜いてしまったらフニャフニャ。人間の体は、そのような袋のようなもの。袋をふくらませて生き動いていた命、霊がそこからスーッと抜かれてしまったらただのむくろ、うつろな入れ物が残されただけです。まるで大慌てで洋服を脱いだとき、脱ぎっぱなしで置いたら、ズボンなんか脱いだままの形でそこにあるでしょう。人の死はそういう事なのだなと痛切に感じました。言うならば、肉体だとか、生活だとかそのようなものは一つの器なのです。その中に神の霊が宿って、命となって、私たちを生かしている。だから、今日皆さんがこうやって生きているのは、心臓が鼓動しているから、あるいは血管に血液が循環しているから、あるいは、こうやって筋肉が動いているからという、そのような機械的、物理的な仕組みによって生きているのではなく、実は私たちのうちに霊が宿ってくださって生きている。もし、関節や手が自由に動くから生きているというのでしたら、最近精巧なロボットも生きているといえます。ラッパを吹いたり自転車に乗ったり、駆け足をしたりするロボットがあります。実に精巧に出来ています。それは生きていると言わない。動くか止まるかという表現はしますが、生きている、死んでいるとは言わない。「ロボットが死んだ。葬式をしなければ」なんて話は聞いたことがない。「壊れた」「故障した」「止まった」ですよ。私たちはそうではない。車が故障しても、人の死んだときのようなうつろさはありません。見たところ車は動かなくても、動く車と動かない車は見分けがつかない。ところが死んだ人と生きている人はすぐ見分けがつきます。寝た状態でも、死んでいる人とぐっすり眠り込んだ人とを横に並べてみても、どちらが生きているのかすぐ分かります。中に何にも入っていない袋とぎっしり詰まっている袋とは見たら分かるでしょう。私たちのうちに何かが入っているのです。私たちはその事を自覚していない。神様は私たちに息を吹きいれて、人は生きるものとなった。私たちはその命によって生かされているのです。だから、肉体が止まって死ぬとき、機能しなくなったから死ぬのではなくて、中にあるものが取り去られたから、袋がそこにじっと動かなくなっているだけのことです。

 

 その事が、50節に「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」。「朽ちるもの」とは私たちのその外側にあるもの、肉体であり、それを支えている生活、あるいはその仕組みです。そういう社会は永遠に続くわけではない。51節に「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる」。やがて、私たちはこの地上の生涯を終わって、肉体は動くことをやめ、与えられた神様からの霊、魂はそれを授けた神様の所へ帰る。世の終わりのときまでしばらく休みに、眠りにおかれます。そして最後の裁きのとき、天地万物のいっさいのものが改まるその瞬間、終末の時を迎えたとき、すべてのものはその眠りから覚まされて、もう一度神様の前に立つ。これは黙示録に記されているとおりです。そして「いのちの書」に名が記されている者は永遠のいのちにつながる。そうでない者は第二の死へ、滅びへと定められるとあります。ところが、51節に「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる」。終末のラッパの響きと共に眠りから覚まされて、神様の前に立ち、一瞬にして栄光の姿へと、新しい霊の体へと、私たちをよみがえらせてくださる。52節以下に「というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」。私たちはこの朽ちゆくものでとどまり続けるわけにはいかない。それは必ず朽ちていく。ところが、終わりのときラッパと共によみがえらされた私たちは、朽ちないものとして、永遠のいのちの体へと造り変えられるのです。そこに私たちの最終目標があります。神様はそうやって私たちを、文字どおり神のものとしてくださるときがくる。53節以下に「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである」。やがてそのとき、私たちに約束された勝利の日がやってくる。その勝利は死に勝利していくこと。55節に「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。もはや、私たちを不安にし、絶望に追い込む死はもはやないのです。死は私たちに何一つ不安も恐れも失望も落胆も起こさせることはできない。それは私たちを永遠のいのちに導く入口にすぎないからです。この地上の朽ちゆくものを脱ぎ捨てて、朽ちない永遠のものへと一瞬にして造り変えてくださる恵みのとき、それが死であって、死は死ではあり得なくなった。ここに私たちの勝利があるのです。56節に「死のとげは罪である。罪の力は律法である。57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」。何とこれは素晴らしいことでしょうか。イエス様はあの墓に葬らて、陰府(よみ)にまで下ってくださった。しかし、主はそこで終わりではなくて、墓を打ち破って、死を、私たちを捕らえて滅びに引き入れることができない無能無力なものへと変えてくださった。私たちにとって死は地上の終わりであって、永遠の滅びではなく、闇の入口ではなく、栄光の生涯へ移り変わっていく勝利の道筋になっていることを、イエス様はご自分の復活を通して証ししてくださった。

 主の復活、主がよみがえってくださったことが、私たちにはどんな恵みであるかをもう一度味わっておきたいと思います。死を恐れるのではなく、死を通り越して、その先に輝く主の栄光の生涯へ私たちを引き入れてくださる、私たちの魂をそこへ引き上げてくださる恵みの時です。それにふさわしいものとするために、イエス様は十字架に命を捨ててくださいました。血を流してくださった。「死のとげは罪である」と、罪を取り除いて、はばかることなく主の御前に立つことができる者として私たちを選んでくださった。だから、主のご復活の力を絶えず見上げて、やがて受くべき永遠のいのちこそ、私たちの受くべき報いであることをしっかりと心にとどめておきたいと思います。だから57節に「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」。私たちを生きる者として勝利を与えてくださる。

 

 58節に「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず」、どうぞ、この信仰に堅く立って、主が私たちのために開いてくださった永遠のいのちの生涯に導きいれられる者であることを、そのための勝利を主が取ってくださったことを固く信じて、「主のわざに励みなさい」と、神様の御心に従って歩んでくださいと勧められているのです。「主のわざ」とは、主の御旨に従うこと、主イエス・キリストを信じることを努めていくことです。ヨハネによる福音書6章にそのことが記されています。「神の業とはなんですか」と人々がイエス様に尋ねたとき、イエス様は「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」(29節)と語っていらっしゃいます。日々の生活の中で主を信じることを努めていく。よみがえってくださった主が、今私にこのことを求めておってくださる。御心がここにあるのだと、絶えず求め続けていく生活、これが主のわざです。神様を信頼して、その御心に従っていく。

 

 「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。そうやって主にあってなす私たちの業の一つ一つ、何一つ無駄に終わる、無益だったことは決して無いと言う。先ほど申し上げましたように、自分はこれで良かったのだろうか、自分の人生はこれで良かったのだろうか、こんな生き方をしたけれども、私が悪かったのではないだろうかと、そんなことは無いのです。どんな事も主にあってなされたことだから、一つとして無駄なことはないことをあなた方は知っているではないかと。だから、一日一日、今日も神様、あなたの御心に従って歩ませていただいて、本当に感謝のほかありません。それができるできないとか、思いどおりいったとかいかないとか、そんなことに関係なく、心から感謝したいと思うのです。「今日も主が生きる者としてくださって、この地上に命を与えてここまで導いてくださいました。本当に感謝に耐えません」と、主を褒めたたえること、これが私たちのただ一つのなすべき事です。「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」と、主にあってした事のどれ一つ無駄に終わらない。それどころか、神様は私たちがし過ぎた事も足らなかった事もことごとくを益と変えてくださる。だから、私たちは喜んで大胆に与えられたこの地上の命を生き抜いていきたい。やがて終わるとき、私たちは喜び勇んで、主が備えてくださった永遠の体に私たちを造り変えられ、栄光の生涯へ入れてくださる。神と共にある生涯を望み見ていきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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