いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(213)「病める時も、健やかなる時も」

2014年05月28日 | 聖書からのメッセージ

 雅歌2章8節から15節までを朗読。

 

 14節「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい」。

旧約聖書の中で「雅歌」はほかの書と少し趣が違っています。雅歌は「愛の歌」と言ってもいいと思うのですが、男女のいろいろな愛に関する局面、場面が歌われています。「ソロモンの雅歌」とよく言いますように、この雅歌を書いた人はおそらくソロモン王であったと思います。「雅歌」がどうして聖書の中にあるのか。それはもちろん、神様が私たちを愛してくださって、私たちと神様との関係が愛に基づく関係であることによるのです。私たちには、いろいろな人とのかかわりがあります。友人、知人がいます。小学校時代の同級生とか、近所の遊び仲間であったとか、成長してくると会社の同僚であるとか、先輩後輩、あるいは取引先であるとか、趣味の会で出会った人であるとか、その関係のあり方、結びつきは様々な形があります。理由があり、切っ掛けがあります。それぞれによって違いがありますから、商売の取引上の知人と、子供のときからの知人とでは、おのずから接し方が変わります。物の言い方から変わります。だから、電話を聞いていて誰からかかってきたかが分かります。おそらく家族の方が、電話を受けて、しゃべり始めると「あの悪友か」と思います。それはしゃべり方がガラッと変わるからです。初めは丁寧に、そして相手が幼友達だったりすると「なに、あなた」と、コロッと変わる。そこに相手と自分との関係が現れてくるのです、時にえらいかしこまった語り口だと、取引先人。大切にしなければいけない、機嫌を損ねてはいけないと、非常に丁寧な言い方をします。このように、人と人との関係はいろいろな形があります。一つではなくて複数の人とのいろいろな形の関係に私たちは置かれています。日常生活ではあまりそのようなことは自覚しませんが、考えてみると皆さんもあの人とはこういう関係、この人とはこの関係など、幾つかあります。それによって相手との利害関係といいますか、そういうものが決まってきます。

 

では、私たちと神様とはどのような関係でしょうか。神様は私を造ってくださった創造者、それに対して私たちは造られたもの。そのような関係、創造者と被造物、造り主と造られたものという関係がまず一番土台にあることは確かです。聖書を読んでいますと、神様と私たちの関係のあり方、それをいろいろな表現で表していますが、その一つは今申し上げた、造り主と被造物という関係。その後、神様と神様が所有してくださる神の民、神の臣民(しんみん)と言いますか、神の民というあり方。それから、イエス様の十字架を通してあがなわれた私たちは、今度は神の子供、天のお父さんと子供、親子関係というのがあります。それから更に今度はイエス様がご自分で例えている花婿と花嫁という関係です。イエス様が新郎、私たちが新婦という関係です。それぞれの関係の一番根底には愛の関係があります。といいますのは、創造者、造り主と、被造物、造られたものという関係、確かにそれははっきりしています。しかし、創造者は何のために私たちを造ってくださったのか?それは「愛のゆえ」と言われます。私たちを愛すべきものとして神様は創造してくださった。物を造るにしてもいろいろな目的があります。何のために造るか、何が動機となってそれを造るのか。神様が私たちを造ってくださった動機は愛にあるのです。それから、「天のお父様」と、父親と子供、親と子の関係、これも愛の関係です。その根底には愛があって成り立っている。それから、新郎新婦という関係、これも愛です。結婚するときにやはり何が動機か、もちろん打算がないわけではなかろうと思いますが、相手の遺産目当てにという人がいるかもしれませんが、まず、やはり愛の関係です。愛し愛される関係の中に置かれる。そのすべてに共通している土台は愛です。神様は私たちを愛してくださった。愛するものとして私たちを造り、愛するがゆえに子供としてくださったのです。愛するゆえに花嫁として私たちを求めてくださった。だから、神様と私たちの関係は根本的に愛なのです。ですから、雅歌で愛が歌われているのはそのとおりなのです。ここでの愛するものと愛されるものの関係は、取りも直さず神様と私たち、イエス様と私たちとの関係でもあります。

 

8節に「わが愛する者の声が聞える。見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る」と歌われています。「わが愛する者」とはイエス様です。私たちはイエス様にとって花嫁なのです。だから「わが愛する御方」、イエス様の声が聞こえる。イエス様が私たちに呼びかけてくださる。「見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る」と。山であれ丘であれ、どんな困難をもいとわないで、イエス様は私たちの所に近づいてくださる御方。だから「山をとび、丘をおどり越えて来る」と。そんな遠くからはせ駆けて来るのかと思うかもしれせんが、これは距離の問題ではない。あるいはそのような物理的な障害を言っていることではなくて、私たちとイエス様を隔てているものがある事を表しています。それは罪です。イエス様との愛の関係にありながらその愛を損なわせているものがある。それは私たちの不真実です。よく世間でも“三角関係”であるとか、不倫であるとか、最近はよくそのような話を聞きますが、それは愛を増し加わえることとは大違いです。むしろ真実な愛を壊して、それをないがしろにしてしまう。あるいは、その愛の関係を妨げるものです。そのようなものが私たちとイエス様との間にもある。私たちはイエス様の命をもってあがなわれた。私たちはそんな身分も資格も何もない、値打ちもないのですが、神様は私たちを愛するがゆえに花嫁としてくださったのです。それに対して、私たちはどうでしょうか。主のご愛に対して同じように真実に応えているかと言われると、どうも心もとない。それどころではない、何かイエス様のご愛に対して応えきれない障害物、山があり丘がある。しかし、ここに歌われているように「見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る」と。しかし、イエス様は私たちとの間にどんな妨げがあろうとも、あるいは何か愛を損なうような不真実なことがあろうとも、イエス様は私たちを切に愛してやまないがゆえに「山をとび、丘をおどり越えて」私たちに近づいてくださる御方なのです。

 

そのことが、8節以下に「わが愛する者の声が聞える。見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る。9 わが愛する者はかもしかのごとく、若い雄じかのようです」とあります。まるで「かもしかのごとく、若い雄じかのように」と。このような例えを聞いても私どもはあまりピンと来ません。それよりも新幹線のごとくとか言われたほうが「はぁ、なるほど」と思います。当時は「しか」とか「かもしか」、ソロモンの時代はそういう物のほうが非常に身近で分かりやすかったと思います。まるで、イエス様は恋焦がれるもののように私たちを求めてくださる。イエス様のほうから私たちに近づいてくださる。昔は大体そうですね。男性側が女性に求愛する。2月14日のバレンタインデーというのがあります。今ごろはチョコレートの日になってしまったのですが、その日だけは女性側から男性に求愛ができるといいますか、愛を告白するという……。普段いつも男性側からしか求愛ができない社会の中では、そのたった一日が貴重だった。ところが、今は逆転していますから2月14日だけにかぎりません。今は女性の方が積極的ですから、皆さんの世代とは違うと思います。聖書の時代はやはり男性が女性を求める。これが社会の一つの姿だったのです。それだけに、9節にイエス様が「かもしか、雄じかのように」と、私たちの愛を得たい、私たちと愛の関係を結びたいと切に思って近づいてくださる。

 

ところが、その後に「見よ、彼はわたしたちの壁のうしろに立ち、窓からのぞき、格子からうかがっている」。では、そんなにまで愛してやまない私たちの恋人、愛すべき御方、新郎のイエス様が、山をとび、丘を越え、様々な障害を物ともしないで近づいてくださるのに、私たちは喜び勇んで主にお会いしようと出て行くのでしょうか。そうではないというのです。そこに「壁のうしろに立ち、窓からのぞき、格子からうかがっている」と。この「壁、窓、格子」とは、イエス様のご愛に対する私たちの不真実です。「主は本当に愛してくださっているのかな」、「神は愛だと言うけれども、見てご覧なさい、私はこんな状態でどこに愛されたと言えるだろうか」と。「イエス様は私を愛してくださった。十字架にまで命を捨ててくださったと言うが、私は喜べない、感謝ができない、望みがない。そんな絵に描いた餅のような話、そんなもの何が愛か」と、つい心の底のどこかで、主のご愛に対する不信、罪が私たちと主との間を隔てる壁になっている。殊に、私どもはサタンに捕らわれていた時代が長いから、その悪い習性と言いますか、そういうものが残っていて素直に聞けない。そうでしょう、皆さん、人から親切なことをされたことがないから、たまにされると、これは何か裏があるのではないかと疑う。子供さんが「今日はお母さん、肩でももみましょうか」と「え!いいわよ」と、何かこれは魂胆があるなと疑うではないですか。そこが、その事が、この「壁」であり、「窓」であり、「格子」なのです。「イエス様はお前のために命を捨てて、お前をこんなに愛してくださる、お前の罪を赦したよ」と。「本当かしら、私の罪は、それは罪人と言えば罪人の頭のような私の罪を赦してくれたはいいけれども、本当にそうかしら、ちょっと試してみようか」と。そういう疑いの心が陰のようにどうしても付きまとう。

ローマ人への手紙8章33節から35節までを朗読。

 

33節に「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか」。神様が罪を赦してくださった者に対して、「お前はまだ罪があるよ」と、誰が言えるだろうかというのです。神様は完全なあがないを成し遂げたと、ヘブル人への手紙(9:12)にあります。神様のわざには不足はありません。欠けた所もない。自覚するしないにかかわらず、過去、現在、未来、時間、空間を超えて私たちの一切の罪のあがないを成し遂げて、清めてくださった、赦してくださった。もはや、私たちを責める、なお告発するものはいないのです。ですから、33節に「神は彼らを義とされるのである」。神様が私たちを「義」、言い換えますと、罪なき者としておられる。だから、誰が神様の手を越えて、私たちを罪に定めることができようか。それどころか、34節に「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。もう、私たちを罪に定めるものは誰もいない。ところが、なお私たちは肉にあって生きていますから、失敗もします。誤る事もあります。また主の御心を痛めること、悲しませることがいくらでもあります。罪を犯すこともあって神様の前に立てない。まともに神様に顔向けをできない。怒り、憤り、むさぼり、そのような思いが私たちの心を支配してくる。そういう自分を見て「もう駄目だ。私は救われない。何度イエス様を十字架につけたか分からない。これ以上は申し訳ないから私は地獄へ行く」なんていうようなことを考える。そうではないというのです。「だれが、わたしたちを罪に定めるのか」、それどころか「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって」、イエス様は私たちのために死んでくださいましたが、それでおしまいではない。よみがえって、「神の右に座して」くださる。今、天に帰られた主はご自分の血潮を携えて、今日も「父よ、彼らを赦し給え」と、私たちを弁護してくださいます。主が私たちの弁護者となって、私たちが罪を犯したこと、あるいは失敗したこと、とがを犯したこと、どんなことでも、イエス様がとりなす方となって、今日も私たちのために神様の前に立っていてくださる。何にも文句を言うことがない。そんなにしてまで私を愛し、私の罪を清めて、失敗だらけ、つまずくことばかり、神様の御心を痛めることばかりしかできない者を今日も赦してくださる御方、とりなしてくださる主のご愛のゆえに、私どもを「わが愛におれ」と、切に求めてくださるのです。だから35節に「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」。どんな困難な状況があり、問題があり、苦しい中に置かれても、主のご愛を忘れることも離れることもできない。ところが、私たちはすぐ離れる。苦しいこと、つらいこと、思いどおり事がいかない。お祈りをしていたけれども、こうならない、ああならない。どうしてだろう!と、ブツブツと言葉にならない言葉でつぶやく。神様に文句を言う。ここにパウロは「患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」と。とんでもないすごい苦しみや試練が押し寄せてきても「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」、「だれもいない!」と言っているのです。私どもはこれほどの苦悩に遭わずとも、チョッとあそこが痛い、ここが痛い。そうするとすぐに主から離れる。しかし、どんな事があっても、主のご愛、これを離れるわけにはいかない。イエス様と私たちの関係も愛に基く関係なのです。

 

だから、結婚式のときの誓約の中に「富める時も、貧しき時にも、病む時も健やかなる時も」とあります。「どんな時にもこの者を愛する」という誓約をいたします。「はい、します」と言うでしょう。「どんな時にも」ですよ。「病める時にも健やかなる時にも、富める時にも貧しき時にも」です。富める時、健やかなる時には愛におり、そうでないと離れようと逃げ腰になる。そうではなくて、イエス様と私たちは新郎新婦、愛によって結ばれた関係です。主は誓約してくださいました。イエス様はご自分の血を流して、血判を押して、私たちに対して誓約をして、「健やかな時にも病める時にも、富める時も貧しき時にも」私を愛して、皆さん一人一人を愛するよと言われる。私たちは条件をつけてこの時だけは愛するけれども、この時は……と。ここが問題です。

雅歌2章9節に「見よ、彼はわたしたちの壁のうしろに立ち、窓からのぞき、格子からうかがっている」。何とかして直接顔と顔を見、声を聞きたい。そうであるのに、私どもは、いや、そうは言われても、私のような者ができません。私のような者は何とかと、いろいろな壁を作って、格子をつけて、窓からしか主を見ようとしない。限られた主の姿しか見ようとしない。これは本当に申し訳がない。主は私たちの間近に近づいてくださる。その主を何の妨げもなく目の当たりに頭の先から足の先までスッポリと見ることができ、主の手にしっかりと握られ、愛によって結ばれたものと変えられたいと思います。

 

10節に「わが愛する者はわたしに語って言う」。新郎であるイエス様は、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい」。あなたはいつまでそのような取り除かれた罪の影の中に隠れているのか。そんなところに潜(ひそ)んでいるのか。さぁ、早く立って出てきなさい。「わが愛する者よ」、何と「わが麗しき者よ」とおっしゃる。「麗しい」という言葉はそれ以外に表現のしようのない言葉です。奇麗とか何とか以上に素晴らしい言葉です。見掛けの奇麗とか美しいとかではなくて、すべて麗しい者よとイエス様は私たちに呼びかけてくださいます。そんなにまで思ってくださる方がほかにいますか。家族だってそんなことは思わない。イエス様の御思いを私たちは知りたいと思います。「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい」。

 

更に11節以下に「見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、12 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。13 いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ」。これは素晴らしい言葉ですね。うれしいですね。「見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り」と、私たちが罪に閉ざされ、そしてサタンの支配の中に置かれていた冬の時代は過ぎ去った。しとしとと涙にくれていた雨の日々ももう終わったと宣言されています。

 

 『ナルニヤ国物語』という物語に、「ライオンと魔女」というタイトルの本がありますが、これは聖書のことを寓意(ぐうい)的に語った童話のようなものです。その中で、三人の子供たちがナルニヤという国に、大きな洋服ダンスの中から入っていくのです。行き着いた所は、真っ白な雪に覆われた冬の世界です。その冬の世界には、イエス・キリスト、アスランというライオンがキリストを表しているのですけれども、そのライオンがいない。そして、冬の女王が、これはサタンのことなのですけれども、支配した世界。そこは完全に氷に閉ざされた寒い冷たい冷ややかな世界です。やがて、アスランというライオンが、女王と戦って傷を受けて血を流すのです。その血が流れることによって、雪がスーッと解けてナルニヤの国が緑に変わっていく。これはまさに聖書の福音を語っています。「冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、12 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた」。罪に捕らわれ、サタンに支配された冬のときは終わった。今はどんな時?鳥がさえずり、花が咲き、輝いて喜んで生きるときではないか。「この寒さだから」と、寒さは関係ない。「寒の戻りだ」なんて、そんな話ではない。ここでは「見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた」。喜び、感謝し、歌うときではないかと。それなのになおあなたは壁の後ろに、窓からのぞき、格子の中に隠れて「まだ冬が終わっていない。まだ雨はやんでない、私はまだ悲しい」と、まだそんなことを言っている。

 

 13節に「いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ」。ぶどうの木の花がどんなにおいがするのか私は知りませんが、ここに「かんばしいにおい」とあります。木々が花咲いてまるで楽園です。この言葉を聞いていて思い浮かぶ箇所があります。

 

 イザヤ書35章1,2節を朗読。

 

 これも素晴らしい恵みを語った1節であります。殊に1節以下に「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、2 さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う」。まさにかつて荒野であった、さばくであった、潤いのない、不毛の地であった所にあふれるばかりに花が咲いて、木々が豊かに実り、また喜び、楽しみ、歌う場所へと変わっていく。それは乾ききった、さばくであり、荒野である私たちの心、魂に主が王となって宿ってくださるということです。

 

 34章16,17節を朗読。

 

 主が私たちをご自分の住まいとして選んで、民である私たちをそこに住まわせてくださる場所、それはカナンの地であります。そこは「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、2 さかんに花咲き」変わっていく所です。

 

 35章8節から10節までを朗読。

 

 素晴らしいですね。素晴らしいエデンの園、そこには「あがなわれた者のみ、そこを歩む」と。イエス様の命によって買い取られた私たちこそが、そこに住む者となり、主が私たちの花婿となってくださる。私たちを花嫁としてそこにとどまらせてくださる。そこでは「楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る」。もはや悲しみも嘆きもないとおっしゃいます。

 

 先ほどの雅歌2章11節以下に「見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、12 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。13 いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ」。素晴らしい恵みの時、主の豊かな喜びと望みと輝きに満ちた所へと、私たちを引き入れてくださっているのに、いつまでも戸を閉じて、雨戸を立てて、まだ寒い、まだ時は来ない。まだ私は駄目、もっとこうでなければ、ああでなければと、いつまでも壁を作り、窓を作り、格子を立てている。しかし主は13節に「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい」と、そして14節に「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ」と。今度は愛するものである私たちをして、「わがはとよ」とおっしゃいます。鳩は、比較的険しい所、大抵ビルでも人の手の届かない軒の端とか、棚になった所、垂直のがけのちょっとした隙間とか、そのような所に巣を作る。福岡の教会にちょっと出窓があるのです。そこの屋根のすぐ下の本当に狭い所、そこへ時に巣を作る。そうやって、外敵から身を守るのです。ここにありますように「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ」。そうやって私たちは身を縮めて「岩の裂け目、がけの隠れ場」、遠く離れて誰も近づかないようにと、自己防衛といいますか、自分を守ろうとします。苦しい目に遭えば遭うだけ、私たちは人を信じなくなります。人から離れ、人を信用できない。できるのは私だけ、私が何とか、私が……と、どんどん縮こまって、あれもしない、これもやめてと、狭い世界の中に自分を置いて、「まだ冬だ。まだ悲しみの日々が続く……」と思って、隠れ潜んでいる私ども。それに対して「もう出てきなさい」と、主は私どもに、「どうしてそんな所に身を縮めて隠れているのか、早く出てきなさい、わたしの所へ来なさい。わたしに、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい」。と探してくださいます。私どもは、「わたしはここにおります」と、主の前に出て、主に祈り声を聞かせる者でありたい。どんなときにも、どんな問題、どんな事柄の中に置かれても、主を求めましょう。愛してくださる主が私のそばに近づいているのに、 “羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く”と言いますか、これまでの痛ましい体験から心を開けなくなってしまう。かたくなな扱いにくい者になってしまう。そうではなくて、私たちは主の前に素直にへりくだって、出て行きたいと思います。なぜなら、主は私たちを愛してやまない。「立って、出てきなさい」と言われます。

 

14節の終わりに「あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい」。「あなたの声は愛らしく」と、こんなにしゃがれて年取った声が何で愛らしいのかと思うのですが、愛すれば“あばたもえくぼ”と言うでしょう。イエス様から見るならば、私たちの声はどんな声であっても、それは天来の音楽です。それほどであるから、「そんなに隠れていないで、私の所に来て思いの丈を述べなさい、心を注ぎだしなさい。あなたの顔を見せなさい」と、イエス様は今日も私たちに近づいてくださる。そうでありながら主を忘れて自分の浅はかな知恵で、ああしようか、こうしようか、こうなったら、ああなったらどうしようか。そんな事ばかりやって戸を閉じて「まだ冬だ。まだ私は救われていない」と言って、主のご愛に信頼しようとしない。だから、イエス様は「わたしの愛のうちにいなさい」と求めてくださいます。

 

「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい」と言ってくださる主に、隠れていないで、絶えず「主よ、こんなですから」と、素直に、何もかも開けっ広げで出て行きたいと思います。そして主に向かって声をあげようではありませんか。それを主は願っています。私たちと交わりたい、私たちと一緒におりたい。主はどんなにその事を喜んでくださるかわからないのですから、自分ひとりで考えて悶々(もんもん)と悩むことはありません。夫婦でもそうですが、相手が何か知らないけれど沈み込んで、ふさぎこんでいると、「どうしたの?」「どうしたの? 」と心配します。自分ひとりで抱え込んでいるよりは、「実はこういう心配がある」と言われたほうが一緒になって考える、また分かち合うことができる。ご主人だったら頼りないと思われますが、イエス様はそうではない。イエス様は大丈夫。だから、イエス様に向かって心の思いを語り続けていきたい。パウロが「死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(2テモテ 2:8)というのはそのことです。私どもをいつも愛してくださっている御方が、私どものそば近くに立っていてくださる、近づいてくださる。私たちを、愛をもって顧みてくださる。その御方に顔を見せ、お化粧した顔でなくていいですよ。素顔でいいですからね。イエス様の前に有りのままでなければいけない。自分のいい所だけを見せようと、そんな事をしたら主は喜び給わない。私たちは有りのままで出て行きたいと思います。欠けた所、足らない所、どんな事があっても主はそれを喜んでくださるからです。

 

15節に「われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」と。ここに「きつね」「こぎつね」と言われている。これはサタンです。今なおサタンは主の愛から離れさせようとやってきます。しかし、それも主が追い払ってくださる。自分で戦おうと、自分で抵抗しようとしたら負けますから、「主よ、こういう誘惑に遭っています。私は本当に心弱い者です。主よ、私は知恵もなく力もありません」と、主に頼って「きつね」「こぎつね」を主に追い払っていただく。するとさらに主は、ぶどうの園の豊かな恵みをもって私たちを満たしてくださいます。

 

どうぞ、この主の御思いを知ってその御心に応えていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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