いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(483)「御霊に委ねる」

2015年02月27日 | 聖書からのメッセージ
「コリント人への第二の手紙」3章12節から18節までを朗読。

18節「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。

今日はペンテコステといわれる記念の礼拝をもたせていただいております。ペンテコステとは聖霊降臨という出来事、聖霊が弟子たちに注がれたことを記念する言葉でもあります。それはまた弟子たちばかりでなく、実は私たち全ての人に神様が聖霊を与えてくださったことを確認するときでもあります。「ペンテコステ」という言葉は、直接「聖霊降臨」という意味ではありません。「ペンテコステ」という言葉は50日目という意味の言葉です。

「使徒行伝」2章1節から4節までを朗読。

1節に「五旬節の日がきて」と語られています。50日目という意味です。過越の祭の日から数えて50日目という意味であります。しかもその年の過越の祭では何があったか。イエス様が十字架にかけられた日であります。弟子たちの愛するイエス様がいなくなってしまった。十字架にかけられ、死んでしまわれた。ところが、イエス様は三日目の朝、よみがえられて、ご自分が今も生きておられることを様々な形で表し、証ししてくださいました。ところが、イエス様は、40日目のことでありましたが、弟子たちが見ている前で、イエス様は天に携えられて姿が見えなくなったのです(使徒 1:9)。天に帰って行かれました。こうなると、弟子たちにとって何を頼りにしていいのか、親を失った孤児のような心境であります。まことに心もとない、頼りない者になってしまったのです。
しかしそのとき、イエス様が彼らに約束してくださったことがあります。それは「わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(ルカ 24:49)とのご命令です。エルサレムにとどまって待っていれば、真理の御霊、聖霊、助け主を遣わすから、神様からの約束の賜物を頂くまでエルサレムにとどまって待ちなさい、と言い置いて、天に帰られたのです。しかし、肉体の目をもって見、手で触る、声を聞くことができるイエス様はもはやいらっしゃらないから、弟子たちは大変心細い思いをしていたでしょう。しかもイエス様が約束してくださったその約束がどんなものか分かりません。賜物、神様が与えてくださるという賜物を受けるまでエルサレムで待てと言われたのです。弟子たちは、イエス様がそうおっしゃるからと、エルサレムに戻りまして、一つの家に集まっておりました。

 「使徒行伝」1章12節から14節までを朗読。

 イエス様は「エルサレムにとどまってかねてわたしから聞いていた父の約束を待ちなさい」と言われたのですが、いつまでという期限はありません。とにかく与えられるのだから待ちなさい。彼らはイエス様のお言葉を信じてエルサレムにあるひとつの家に集まりました。何をしたかというと、14節に「心を合わせて、ひたすら祈をしていた」とあります。そこに集まった弟子たちが心を合わせて、真剣に毎日祈っておったのです。いつまでか分かりません、とにかく言われたとおりに祈り続けていました。10日目、イエス様の十字架から50日目です。イエス様が天にお帰りになられたのが40日目のことでありましたから、それからなお10日ほど祈り続けておりましたとき、2章1節にあるように、「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった」と。しかも「舌のようなものが、炎のように分れて現れて」と、どんなものなのかよくは分かりませんが、一つの異常現象といいますか、何か尋常ならないことが起こった。それが過ぎてみると、4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」のです。聖霊が彼らの内に宿ってくださった。まさにこれがイエス様の約束なさった父からの贈り物、父なる神様が与えると約束してくださったものでありました。

では、その“聖霊”とはいったい何か?世間で「霊」と言うと、なんだか散臭く、へんてこりんなおかしな話になりやしないかと思いますが、聖書で語られている「聖霊」はそういうものとは大きく違います。他にもそういうまやかしの霊といいますか、様々な悪しき霊といわれるものがあることも聖書には語られています。「いろいろな霊があるけれどもあなたがたは惑わされてはならない」とあります。聖霊は神様から与えられる霊、キリストの霊ともいわれますし、御霊、あるいは神の霊など、いろいろな表現ができますが、いうならば、神様の力です。そういう神様の霊が私たち一人一人に注がれるようになる。なぜ、そのことが必要なのか?御霊に満たされること、これは私たちのいのちでありまして、不可欠な大切なものであります。なぜかといいますと、私たちはそもそも神様によって造られたものであります。聖書の初め、創世記に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2:7)とあるように、神様はご自分の命の息をふき入れて人を生きる者としてくださいました。これは、人が造られた目的は神様の御心にかなう者となること。神様は、神様の願い、神様のご計画、神様の御思いにかなう者として私たちを造ってくださったのです。だから、その中に神様の霊を注いでくださる。神様の霊を受けた私たちは、神様の御思いを敏感に感じ取ることができ、その霊の働きによって、創造者と被造物とが交わることができる。

 親子というのはそうです。私は最近、いろいろな親子関係を見ていて、殊に私の家内なんかも……。私自身を振り返ってみると、「そういうところがやはりあるのだろうな」とは思いますが、家内と母親との関係、その他皆さんのいろいろな親子関係を見ていると、子供はどうしても親の意向といいますか、願いを感じ取り、先取りして、くみ取ろうとしがちです。これは小さな子供たち、小学生くらいから既にそうです。親が自分に何を期待しているか、何を求めているだろうかと子供は思わず知らず、考えもしないうちにそちらのほうに心が引かれて行くのです。しかし、そういう自分に非常に苛立(いらだ)つ。私は家内を見ていてそう思うのです。家内は長女で、しかも弟と二人姉弟(きょうだい)です。年も60を超えて、いい加減人生も終盤だから、しかも、結婚して40年以上もたつわけですから、親との関係はなかろうと思いきや、年を取って90歳近くなった母親が弱ってくると、やはり子供のときの親子関係、子供のときにいつも母親の言葉に従って自分の思いを捨てて、自分がしようと思ったこともあきらめて、親が言うからそれに従う、そういう関係が何十年たったのちにも出てくるのです。恐らく皆さんもご自分のことを振り返って、ご自分の親子の関係を見てみるとそういうことがあると思います。「こんな親のわがままなことは聞いておれん」と突っぱねるのですが、結局、している事は親の意向に何とか沿ってやりたいという思いに変わる。

神様と人との関係にあっても同じです。人も神様の思いを知り、それに従う者として造られている。神様を離れて人は勝手な道を行きますが、しかし、造り主でいらっしゃる神様を離れて人は真に生きられないのです。その証しとして、人が造られたとき命の息を神様から吹きいれられたのです。いうならば、神様の力を分かち持つといいますか、神様と共有(共通)するものを持っている。これは親子間でもそうです。世間で言う血のつながりであるとか、肉親の情だという言い方をしますが、神様との間にそういうもの、つながりがあったのです。ところが、私たちは神様から離れてしまった。罪を犯して神様に従えなくなり、神様とのいのちが断たれた状態。「死んだ者となってしまった」と聖書にあります。その結果、私たちは自分勝手でわがままな自己中心の生き方になってしまう。これが私たちの住んでいる世に様々な悪のはびこることになった大きな原因です。人は罪の中にあって神様から離れて、身勝手な生活をしていますが、全ての人の心の中に造り主でいらっしゃる神様を求める思いがあります。まさにそれは親子関係のように切っても切れない関係なのです。「神なんか、仏なんかあるものか!」と、蹴飛ばしてみても、どこかでやはり何か……、それを神と言えないかもしれない、その人自身にも分からない、自覚していないけれども、人を超えた大きな力があって、自分だけではなく、自分の力以上のものがあって、人は生きているのだ、と感じているのです。だから、神様から離れている間、人の心は、精神的な意味で不安定です。落ち着きがない。何をしても満足がない。楽しいことや思いどおり自分の願いどおり思いっきり好きなことをやってみても、そこで「良かった」と満足することがない。それは自分の思いを遂げ、情欲を満足させることが私たちの求めるものではなく、造り主である神様との正しい関係に戻ることを願っているからです。だから、神様の所へ帰ることがまことに幸いな生き方、人として造られた者の本来の生き方です。

だから、私たちに神の霊をもう一度新しく注ぎたい。神様は創世の最初に人が造られた時の神様との交わり、何一つ神様と隔てのないエデンの園の祝福と恵みの中に私たちを取り戻すためにひとり子を遣わしてくださったのです。なぜひとり子を遣わしてくださったか? 私たちの罪を清めるために。何でそんなややこしいことを……、「神様がちゃんとしてくれればいいではないか」と思いますが、神様は潔い御方、聖なる御方、いと高き所に住み給う、私たちとは全く次元の違う御方でいらっしゃいます。その御方が私たちの内に住んでくださる。いうならば、神様のいのちの息が私たちの内にとどまっていただくには、私たちが神様と同じように潔い者にならなければ不可能です。神様は一分一厘どんな罪をも共有できない。汚れた所に住み給う御方ではない。とどまることがおできにならない。だから、私たちが潔い者となることが不可欠です。ところが、私たちは自分の力で自分を潔くすることはできません。どんなに熱心になって、難行苦行をやってみても、私たちは決してそれで「よい」ということにはなりません。普段の生活でも痛切にそのことを味わいます。「これは正しいことだから、このことはやり遂げよう」「これは大切なことだし、これは神様の御心にかなうことだし」と思いながらも、私たちはついできない。しなければいけないと思いながらできない。そして「これはしてはいけない」と思いながらやってしまう(ローマ 7:19)。そういう罪の性質が私たちにあるかぎり、神様と共に生きることはできません。となると私たちはいつまでも永遠に滅びの世界、滅びの中にとどまる以外にないのです。まことに絶望的な状況だったのです。しかし、それを取り除く道がただ一つ、神様がご自分の罪無き御方、ひとり子でいらっしゃるイエス様をこの世に遣わして、私たちと同じ罪の世に生きる者としてくださった。だからと言ってイエス様は私たちのように罪を犯した御方ではありません。神の御子でいらっしゃる罪無き御方が、今度は罪人の身代わりとなる、実に驚くことを神様はご計画してくださった。そして私たちの罪の一切、過去、現在、未来にわたって、またすべての人々のために、イエス様を十字架に釘づけて、父なる神様の全ての呪いを主に注いでくださった。刑罰を置いてくださった。いまイエス様を私の救い主と信じることによって義なる者、罪無き者として神様は私たちを受け入れてくださった。神様は全ての人のために主イエス・キリスト、ご自分のひとり子を十字架に釘づけなさる、滅ぼしなさったのです。だから、全ての人、ここにいらっしゃる私たちもそうですし、世界の人々、どんな国の人のためにもイエス様は死んでくださったのです。ただ、それを信じる者、「私のためです」とイエス様を信じて受け入れる人はその恵みにあずかることができるのですが、「そんなもの、馬鹿げていて信じられない。そんなもの、何の役に立つか」と言って蹴飛ばす人にとっては、せっかくの神様の恵みが届かない。

私どもでもそうですね。全ての人が「この手紙をもって来てくだされば、この素晴らしい物を差し上げます」という招待状を全員がもらうとしますね。もらっても「え!」と封筒を見ただけで「これはどこから来た。こんな物」と、ポイと捨ててしまった人は、それはもらえないのです。ところが招待状を開いて、「なるほど、この日この時ここへ行けばいいのか」と、その言われているとおり信じてそこに従って行くと、「よくいらっしゃいました。これをそれじゃ差し上げましょう」ということでしょう。

先だっても家内の買い物に付いて行きました。するとデパートの特別売り場で何か催し物があるという。たまたま時間があるからそこへ行ったのです。すると入り口で皆さんが何かもらっている。でも私どもはもらえないままで売り場に入ったのです。「あの人たちは何をもらっているのかな」と見る。すると家内が「忘れて来た」と言う。「うちにも来ていた」「何が? 」「封筒を持って来たら粗品を進呈という……」。たった粗品でももらい損なったら「惜しいことをした」と思います。その封筒を持って来ないと駄目ですね。「ご持参の方に」と書いてあるのです。私はそれを持って行かなかったからもらえなかった。「封筒が来ていたの」「来ていたけれども忘れて来てしまった」と。「惜しいことをしたな。持ってきておけばよかったのに……」。
デパートの粗品ですらもそのくらい、ましてや、神様はあなたのためにイエス様を立てて「罪を赦したのだから、わたしの所へ帰って来なさい。そしたらあなたを義なる者、正しい者、永遠のいのちに加えてあげます」という招待状があるのです、皆さん。イエス様は全ての人に「あなたのために死んだよ」と宣言してくださっている。それを「こんな私のためにイエス様が死んでくださったなんてうれしい」と感謝して、皆さんがイエス様を信じたからここにいらっしゃる。そして今、その神様の恵みを頂いているわけです。世の中の人は「ではもらえていないか」と言うと、全ての人にイエス様からの招待状が行っているのです。だから早く気付いてそれをもらっていただければと、私どもはこうやって伝道するのです。伝道というのはそういうことです。「あなたにも神様が許しを与えてくださる。清めてくださる」。イエス・キリストを信じるとき、清くされた私たちに神様が住んでくださる。よみがえったイエス・キリストが私たちと共に生きるものとなってくださる。

その出来事が先ほどお読みいたしました「使徒行伝」2章の出来事です。4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。彼らはイエス様を信じたのですが、よみがえってくださったイエス様が天にお帰りになった。「さぁ、これから私たちはどう生きたらいいのだろうか」と不安でした。しかし「大丈夫」とイエス様はおっしゃる。「父が約束してくださったものが与えられる。それを待ちなさい」と、十字架に清められた一人一人の内に今度は神の霊、あの創世の初めに与えられた命の息を私たちの内に宿してくださる。与えてくださる。だから、弟子たちはそこで一生懸命に待ちました。そうしましたら、10日目、五旬節の日に驚く事態となった。それは彼らの心、魂の内に新しい力があふれてくるのです。そして「他国の言葉で語り出した」という、今まで彼らはガリラヤ湖畔の教育のない、学校なんか行ったことがないと思いますが、そういう彼らが突然いろいろな国の言葉で語り出した。言葉が使えるというのは、力の象徴です。ですから新しい力に満たされる。その新しい力とは何か?私たちを神様の御心に従うことができる者に変える力です。神様の御思いを知る力です。

「コリント人への第一の手紙」2章10,11節を朗読。

11節に「神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない」とあります。神様の御思い、神様の力、それは神の御霊、聖霊以外に知るものはない。だから、私たちがいくら聖書を研究し、勉強してみても神様のことは分かりません。私たちがいろいろな修業をしたり、努力したり、勉強して万巻の書を読もうとも、神様のことを悟ることはできません。ところが、御霊、聖霊が私たちの内に宿ってくださると、御霊は神様の御思いを私たちに教えてくださる。神様が何を願っていらっしゃるか、あなたに対して神様が求めていらっしゃることが何なのか、神様がどんなにご愛に満ちた恵み豊かな御方か、力ある御方でいらっしゃるか、いろいろなことを神様は御霊を通して私たちに語ってくださる。この聖霊が私たち全ての人にいま注がれている。では、私たちもあのペンテコステのように「炎のようなもの」「舌のようなもの」が届くのかというと、決してそうではありません。あのペンテコステの出来事、これは私たちイエス様の救いにあずかる者の右代表として、このように神様は聖霊を注いだと、証ししてくださった出来事です。それから後は「信じる者に与えられる」と約束されている。いま私たちの内にキリストの霊が、神の霊が宿ってくださっておられるのだ。イエス様が私を十字架にあがなって清めてくださった。といって、私たちは聖人君子になったわけではありません。私たちの思うところ、願うところはまだまだ汚れた思いがあり、罪があり、また過つこと、失敗すること、神様の御心を痛めることしかできない私たちでありますが、しかし、現実はそうであっても、もう既にあなたの罪はイエス様が十字架にすべて処分してくださった。神様は「もう問わない」とおっしゃる。ここを信じて行くのです。自分の状態、自分の今まだ汚れていて清められない自分であることを嘆くのではなくて、イエス様は既に「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)、「全てのものを完成した」とおっしゃる。今度は全ての人に霊を注いでくださる。力を与えてくださる。だから、いま一人一人にキリストの霊が宿ってくださっている。これを信じる人にはそのように働いてくださる。信じないかぎり御霊はその力をあらわしてくださらない。ですから、私たちは自分で信じなくてはいけない。人に聞いても駄目でしょう。「私の中に御霊があると思う? あなたよく見て」と言われて、見たって分からない。「いや、なさそうよ」と言われたらがっかりします。そうではないのです。あなたの内にいま神の霊が宿ってくださっておられる。これがこのペンテコステです。私たちの内に宿ってくださった霊は、では、私たちに何をするのか?

 「コリント人への第二の手紙」3章18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。キリストの霊、神の霊、聖霊が私たちの内に宿ってくださったとき、いま宿ってくださっているのですが、その聖霊は私たちの内にあって何をするのか? 私たちの召使になって、「はい、ご主人様、どこへ行きましょうか、何をしましょうか」と、そういう御方ではありません。逆に、私たちの内に宿ってくださった聖霊は、私たちに新しい業をさせてくださる。私たちを造り替えて、私たちの内にあってエデンの園に人が創られた時のように神に仕え、神と共に生きる命の生涯、永遠の命の生涯に歩ませてくださる。これが聖霊、神の力の私たちに宿っている目的であります。そして、その聖霊は、18節に「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。私たちの内に宿ってくださった御霊、聖霊は私たちに絶えず干渉してくださる。声を掛けてくださる。起きているときも、寝ているときも、どんなときにでも御霊は常に皆さんと共にいてくださって、皆さんの思いの一つ一つを導いてくださる。私たちの心にいろいろな思いを神様が与えてくださる。時には自分の身勝手な思いと、どこがどのように区別がつくか、色分けされていません。「これはブルーだから神様から、こちらは赤いから神様ではない」と、私たちの心の思いをそのように色分けで見分けるということはできません。なんだか自分が思っているようであり、そうでないように思う。
よく言われるのです。「先生、御霊の思い、神様の御思いが私に与えられると、どれがどれか私には分かりません。何もかも自分の勝手な思いのようにも思うし、どれもこれも神様からのように思うし、どうしたらいいのですか」と言われる。見分け方は一つだけです。私たちが神様のことに心が向いているかどうか?もしイエス様がこれをご覧になったら「よし」とおっしゃるだろうか、このことはイエス様だったらどうするだろうかと立ち止まって、心を神様に向ける。だから聖書には「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とあります(Ⅱテモテ 2:8)。イエス様をいつも思っている。そうすると、おのずからどれが神様からの御思いであるかがよく分かります。「こうしようかしら」「あそこへ行こうか」「あの人があんなことを言ってくれたからこうしようか」と、いろいろな思いが次々と湧(わ)いてきます。夜寝ていても、「明日安売りがあるな、あそこへ行こうか」とか、いろいろなことがパッパと浮かんでくる。そのときに「これは主が喜んでくださるだろうか」「イエス様が見ておられて『よし』とおっしゃってくださるだろうか」「イエス様だったら、ここは何とおっしゃるだろうか」と、そこへ私たちが思いを一瞬向けていただく。そうすると明らかに分かる。「これは自分のわがままな思いだな」、「これは神様が私に求めておられることだ」と。その見分け方は、ある程度訓練しなければなりませんが、常にイエス様のことを心に置いて行きますと、何の苦もなくそのことはよく分かります。時にはイエス様からの語り掛けを拒んで勝手なことをして、たとえうまく行っても、後で何だか心に空虚な思いが残ります。御霊が、聖霊が常に私たちの内に働いてくださっておられる。そのことが18節のお言葉であります。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映す」、「主の栄光」、よみがえってくださったイエス様を絶えず心に思って、その方を目(ま)のあたりに見つつ、絶えずイエス様のことを思っている。そうしますと「これは道だ、これに歩め」(イザヤ書30:21)、「そこは危険だからやめておきなさい」、「それはあなたのわがままなことだからやめておきなさい」と、ことごとく一つ一つ、神様はちゃんと教えてくださる。その御霊の導かれる所に従う。これが神様と共に生きる、ただ一つの道であります。そうやって神様と共に生きて、御霊の導きに従って歩んでまいりますと、私たちを造り替えて心を新しくして、「主と同じ姿に変えられていく」のです。キリストの姿に私たちを造り替えてくださる。イエス・キリストの弟分、妹分に私たちをしてくださる。神の子供としての内実、実質を神様は私たちに造り出してくださる。私たち一人一人の心を新しく造り替えて、栄光の姿に変えてくださるのです。これが、いま御霊が私たちの内に日夜絶えず働き掛けてくださるご目的です。

 この御霊の働きに自分を委ねる。導かれるままに、主のなしてくださるわざの中に自分を委ねて、栄光から栄光、主の栄光の姿に造り替えられて行きたいと思う。人が変わるのではないのです。自分が変わるためです。私が、皆さん一人一人が新しい者へと、キリストの姿へと神様は何としても変えたい、これが神様の私たちを造ってくださった創造のご目的だからです。どうぞ、神様の御心にかなう者へと私たちを作り変えてくださる主の働き、御霊に生かされていることを信じて、御霊の御声に従って行きたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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