いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(82)「神に生きる」

2013年12月12日 | 聖書からのメッセージ

ローマ人への手紙6章1節から14節までを朗読。

11節に「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」。

教会に来ると、罪とか罪びとだと言われます。そう言われると、自分の存在、値打ちが失われるように思われるので、かなり抵抗感があります。自分が罪びとだと認めるのはむつかしい、苦しいです。以前、私もあなたは罪びとですよと言われると、どこが罪なのだろうと。勝手に罪びと呼ばわりして……、と思っていました。罪とはなんであり、また、罪びととはどのようなものかを知らないから、そう思うのです。神様が私たちを造ってくださったことと、矛盾するのではないだろうか。神様が創造してくださったのに、私たちが生まれない先から罪びとだと言われても、私は責任を取れませんと思ってしまいます。

聖書には、神様がすべてのものを創られて、最後に人を創り、「良し」と言われたとあります。人を見て神様はパーフェクト、完全だと。完全とは神様が「良し」と認める存在のことです。それなのにどうして自分は罪びとだと言われなければいけないのだろうか、と疑問を持ちます。それは私たちの誤解です。パウロもそのように語っていますが、実は、私たちは神様に造られ、本来、神様の御支配、神様を求める思いを与えられています。それは私たちが神様のものである証しです。ところが、罪の支配を受ける者と変わってしまった。

わかりやすく言うと、私たちはこのような(講壇にある湯飲みを手に取り)器です。これを役に立つように使う方法もあれば、武器として使うこともできます。湯飲みですから、お湯をいれて飲むには実によい器です。しかし、投げれば凶器になります。この器自体が良いとか悪いとかではなく、結局その器をどのように使うか、あるいは、誰がそれを支配しているかが問題なのです。器自体がいけないとか、不完全であるとか、役に立たないということではありません。私たちが命を与えられ、肉体を持って生かされていること自体は、器のようなものでありますから、良いとか悪いとかいうことではない。命を与えられて、人として生きていること、自分の存在自体が問題なのではありません。そこをしっかりと理解しておきたいと思います。

ローマ人への手紙7章15節から20節までを朗読。

ここにパウロはそのことをはっきりと語っています。そもそも良いことをしたいという願いを持っている。初めに造られたときの目的、人としてどのように生きるべきか、私たちに使命を与えてくださった。ここにあります湯飲みは、陶器師がこれを作ったのですが、作るときにはおいしいお茶が頂けるようにという意図を持って作られたのです。その目的にかなって用いている間は、立派に役立つ良いものです。しかし、これが別の目的に使われる。投げて人をけがさせることになると、これは良いことのために作られていながら、別のものによって支配された、動かされた結果です。

罪がそれをしているのだと、パウロは語っています。罪と言うのは、この器そのものに初めからあるものではなくて、他から入ってきて支配者となり、それを振り回している、突き動かしている。そのために、良いことをしたいという、神様が最初に与えてくださった目的がありながらも、別の支配者が気が付かないうちに私たちのうちに入り込んで、支配するようになって違った目的に使われている。私たちは神様以外の別の支配者を求めたことはなかったのです。けれども、神様に罪を犯したアダムとエバの記事がありますが、サタンが私たちのうちに罪となって宿って、支配するようになったのです。だから、私という器自体が良いとか悪いとかいうのではなくて、悪いのはその中に宿っている罪です。だから、その支配しているものを別のものに置き換える。神様につながって、神様の御支配の中に自分を置きさえすれば、私たちは、また、その目的にかなう良い生き方ができる者になるのです。

よく「死ぬ」ということを言いますね。先ほど読んだ記事にもそう記されています。どうして死ななければならないのか。それは私たちを支配している罪の親玉、私たちを突き動かして良い行いをさせないで、してはいけないことをさせようとする罪。パウロが語っているように「もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく」と、「わたしの内に宿っている罪である」と言うのです。罪が宿って、支配して、神様に従わせないで、神様に反抗するような方向へと、私たちを牛耳(ぎゅうじ)っている。その支配しているものと、縁を切らなければなりません。あるいは、それを追い出さなければいけない。言うならば、私たちに宿っている悪の王様を追放する。そのためにイエス様がきてくださったのです。だから、クリスマスの記事に「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか」と、東の国の博士たちが、ヘロデ王様の所にやって来ました。ところが、ヘロデ王様は不安になったのです。自分を追い出して、この国をのっとろうとする別の王様がやって来た。私たちの所にそのような方としてイエス様が来てくださった。だから、イエス様が来られると困る別の力、支配するものが、私たちのうちにあるのです。それは、実は、本来の私たちのものではありません。

哲学で、そもそも人間は生まれながらに善であるのか、悪であるのかという議論をします。性善説と性悪説というものです。そもそも人間は悪に造られた者で、何をするにしても悪なのだという考え方の人と、一方性善説というのは、そもそも人間は善なる者である、だから、それを引き出して強めて、善なるものをいよいよ大切にしていきさえすれば、人間は変わるという考え方です。非常に楽天的な考えです。そうすると、キリスト教は性善説なのか性悪説なのかということになりますが、聖書で語られていることは、どちらでもない。私たち自身は、神様の御支配に基づいて生きるように仕組まれたのです。しかし、そこへサタンが、悪魔が、罪が支配者となって私たちを占領してしまった。だから、今は、私たちはどうしても良いことができない。良いと思いつつもそれができない。したいと思いながらできない。してはいけないと思いながら、それをやってしまうという矛盾の中にいます。それでは人間は、そもそも性悪なのかと言うと、そういうわけではありません。なぜなら、罪は後から私たちを支配するのです。では、そもそも人間自体が良い人間なのか。そうではなくて、神様の力の中に立ち返りさえすれば、人間は良くなるのです。人間そのものは良くも悪くもないのです。神様と悪・サタンと、二つの間で私たちは奪い合われているのです。ところが、気が付かないうちにサタンの力に支配されてしまっています。だから、そもそも自分が悪いのではなくて、私たちのうちに宿っている罪が支配している。私たちは、このことを良く知っておかなければなりません。

太宰治という作家は、私が生きていてごめんなさいと、私というものが罪なのだから、私が死んだほうが世の中の役に立つと言って、死んでしまった。何が間違っているかと言いますと、確かに私たちのうちに罪があって、その罪の支配によって「わが欲(ほつ)する所の善は之(これ)をなさず、返って欲せぬ所の悪は之をなすなり」という、実に苦しい矛盾の中に、日々生きている。だからといって、生きていること自体は悪でもなければ害でもない。私たちを支配しているものが悪いやつだからです。そうすると、安心して、そうか、私が悪しき心で人を憎んだりするのは、そもそも私は良い人間であるけれども、サタンがそうさせているのだ、では、これから何かあっても、私の責任ではないと思いますが、問題はサタンが神様から私たちを引き離そうとしている事を知りながら、それに喜んで従うのは、私たちの責任です。悪の支配から救い出すためにイエス様が来てくださいました。イエス様は私たちの王となってサタンを追い出してくださいました。そして、イエス様が私たちのうちに今度は宿ってくださって、右に行きなさい、左に行きなさいと支配してくださる。イエス様に支配されるとき、素晴らしい神様の御用をはたすことができます。そのために、イエス様は十字架に死んでくださいました。私のために死んでくださいました。そのとおりです。

「ローマ人への手紙」6章6節に「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」。ここで「キリストと共に十字架につけられた」と語っています。「わたしたちの内の古き人」、いうならば、罪に支配されていた私たちは、「キリストと共に十字架につけられた」。罪が私たちをしっかりと支配している。この支配から逃れる道がある。それは私たちが死ぬのです。死んだらその支配から逃れることができる。

最近、ガンという悪性腫瘍(しゅよう)といわれる病気が恐れられます。あるいはそれ以外の病気もありますが、生きているかぎり、いつも病気と闘わなければならない。そのような不安を持っています。ところが、どんな怖い病気も、死んだ人間を病気にすることはありません。死ねば全部癒されるのです。だから、病気の癒しは完全に死んでしまうことです。そうすれば、病気と縁がなくなります。だから、神様の最終的な癒しはこの地上の肉体を脱ぎ捨てて神様の所へ帰るその時です。神の御国に帰ると、病気も、悲しみも、嘆きも、涙もない。一番素晴らしいいのちの生涯に入っていくのです。だから、地上に生きている限り、病気は次々と絶えません。なぜならば、我々が生きているからです。死ねばその病気と縁を切ることができます。何十年の長い長い頑固な病気でも、死んでご覧なさい。病気も退散します。

罪もそうなのです。罪の支配も私たちが死ななければ続きます。聖書で別の言い方をしています。私たちがたいへん大きな借金をする。すると、生きている間は借金取りに追われます。だから、皆苦しくなって不幸なことに、自殺を図る方がいますが、死んだらもう取り立てはストップします。もう取りようがない。家族といっても別にそれを払わなくてもいいのですから、死んだ段階ですべての負債は消えます。サタンの力に対してもそうです。私たちが死ねば、もうサタンは私たちを縛ることができません。そこでサタンとは「はい、さようなら」です。だから、早く死んだほうがいいのです。ところが、生きていたい、死ねません。

イエス様は、実は、私たちを生きる者とするために、6節に「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び」と。死んだから罪と契約が消えるのです。死んだ者までサタンは追いかけませんから、おしまいです。それで「罪の奴隷となることがない」のです。7節に「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」。そのとおりです。どんなに頑固で強力な食らいついたら離さない罪であっても、こちらが死んでしまったら、どうにもしようがありません。私たちが死ぬこと、これがすべての始まりです。では、私たちはこれで死んでしまったら、せっかく神様がこの地上においてくださったのに、神様の役に立たないではないかと。

イエス様の救いを深く深く味わっていると、まことに神様は不思議な思いをもって、このことをしてくださっている、人間では到底考えられないことです。本来、私たちが死ななければならないところを、ひとり子である神の御子、罪を犯したことがない方が罪びととなって十字架に死んでくださいました。それは、6節にありますように「古き人はキリストと共に十字架につけられ」ることです。そうやって私たちの肉体は、現実として、事実として死んで葬られるのではないけれど、イエス様が身代わりとなって私たちの代わりに死んでくださいました。私たちが死ぬのは、私が悪いから、どうしようもないから、箸(はし)にも棒にも掛からないような人間だから仕方がない、これ以上は生きていても害悪だから、死ぬというのではなくて、十字架の死はサタンとの契約を断ち切るための死なのです。このことを多くの人は誤解しています。

太宰治はそれがわからなかったから、自分が文字通り死んでしまったのです。聖書が、私たちに死ねと言うのはサタンと縁切りをする、手を切り離してしまうためです。死ななければほかに道はありません。と言って、自分が文字通り死んだらいいのかと言うと、そうではありません。そもそも私たち自身は、最初に申し上げましたように、悪い者として造られたのではないのです。死ななければならないけれども死んだら元も子も失う。その矛盾をどのようにして解決するのか? そこに神様は素晴らしい知恵を発揮してくださった。それが、御自分のひとり子をこの世に送ってくださる。そして、私たちが死んでサタンと縁切りをすべきところを、イエス様が死んでくださることによって、私たちがキリストと共に死んで、サタンが私たちを支配することがないように縁を切ってくださいました。言うならば、アパートの契約が切れて、サタンが全部荷物を持って引っ越してしまった。空っぽになった。次に入ってくるのは何か? 問題はそこです。次にまた別の大きなサタンが入ってきたらまた死ななければならない。神様はまた素晴らしいことをしてくださいました。今度は私たちの主となってくださいました。イエス様を死からよみがえらせてくださった。これは大きな恵みです。7節以下に「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」。イエス様はよみがえってサタンに取って代わって私たちのうちに宿ったのです。本来、神様からいただいた性質、神のかたちにかたどられ、神様の命の息吹によって生かされる私を本来の目的にかなうように操縦し、支配してくださる主が宿ることになった。これがイエス様の救いです。

9節にあるように「キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである」。私たちは罪に対して死んだ者ですから、もはや死ぬことはない。イエス様がうちに宿って永遠のいのちを与えてくださる。イエス様を信じること、ただ、これだけです。イエス様が今日もよみがえって生きてくださって、私を生かしてくださっていると信じていく。そして10節に「なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである」。ここに「キリストが死んだのは」とありますが、イエス様が十字架に死んだのは「ただ一度」だけ、しかも、「罪に対して死んだ」のです。イエス様を信じて、私たちは死んだ者となった。この事をしっかり心に置いていただきたい。私は死んで、今、よみがえって生かされている。といって、この世離れして、仙人などの生活をしているわけではありません。寒い暑い、痛い苦しいなど、肉体にあって生きています。食べたいとか、何とかしたいとか、欲深いじゃないの、と言われますが、それは私たちの肉体が死んだのではなくて、私たちは「罪に対して死んだ」のです。肉体をもったままよみがえりの主に結びついて、永遠のいのちにつながっているのです。もはや、肉体の死は問題ではない。イエス様はそういわれました。この地上にある時から、永遠のいのちの生涯に移されている。だから、10節に「なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである」。私たちは、今は主であるキリストのために生きている。

確かに、今でも死んだはずの罪がなお私たちを支配しようとしてきます。でも、それは、ある先生が言われましたが、トカゲのしっぽのようなもの、もう本体は死んでしまっている。イエス様はサタンの脳天を打ち砕いて、十字架によって完全にサタンは滅ぼされていますが、なお、のた打っているのです。罪の残がいが、残党が私たちにいたずらして、昔のように支配しようとしてきますが、もうそれは力がありません。イエス様に心を向けて、イエス様を信じて、よみがえってくださった主のために生きることに徹底するとき、少々のサタンのいたずらなんて、なんの問題でもない。

11節に「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」。いや、私はまだそこまで死んだとは思えないと言って、信じようとしなければ、いつまでも駄目です。神様が「認むべきである」と言われるのに、私はちょっとまだ足らない、とか、何とかそうやってちゅうちょする。そこへ死にかけたサタンが、私たちを取り戻そうとしてくるのです。はっきりと確信を持って、私は「キリストと共に死んだ」者である。罪には全く縁を切った者。支配しているのはイエス様ですと、私の主はあなたですと、イエス様に向かって信仰を告白する。これが大切です。だから、私の主は誰か? イエス様です。私ではない。ましてやサタンでもない。私は、もうキリストのものなのだと、しっかり心を定めましょう。

11節に「キリスト・イエスにあって神に生きている者である」。今、私たちはイエス様を信じる信仰によって「神に生きている」のです。「神に生きている」と言うのは神様のみ心を行う者となっていることです。今日も神様の喜ばれること、神様が私たちに求めておられること、神様が私たちに願っていることを信じて歩ませていただく。だから、すべてのことについて、「キリスト・イエスにあって神に生きている」のですから、朝から晩まで事がある度ごとに、これも神様が与えてくださった恵みですと感謝する。また、神様が私を今日も生かしてくださった。そしてこの業を、このことをさせてくださったのですと、絶えず感謝して、喜んでいくこと。これが私たちに今もっとも大切なことであり、いのちにつながることです。ここに「神に生きている者であることを、認むべきである」とありますが、それは頭で知ることではなくて、実際の具体的な生活の一つ一つの事柄のなかで、神によって生きている私だと信じることにほかありません。他人からそのような保証をしてもらうわけではありません。あなたは確かに神様によって生きているらしいね、認定書をあげましょうと、そんなものはなにもありません。あるのは、ただ、私がそれを信じて生きるかどうかです。それらしくないね、と言われてもいいのです。あなたがそう信じていればいいのです。これが私たちの信仰です。

先だって、ある方とお話をしていまして「先生、時々、私は、自分に本当に信仰があるのかな? と、ふっとそのような思いにかられてしまうことがありますが、どうしてでしょうか? 」と言われる。それは自分の信仰を何か見えるもので支えようとするからです。保証しようとする、自分の見える状態や事柄、あるいは、することなすことによって、やはり信仰者らしい歩みをしているなと、自分で納得したい。しかし、それが見えなくなると、本当に信仰があるのかなと疑ってしまう。たとえ自分のしていることが、今までと何も変わってなくても、既にイエス様は私を罪の支配から奪い取ってくださった。今、私は「キリスト・イエスにあって神に生きている」のだと信じることが大切で、見える事柄や状態で自分の心をかき立てようとすることは間違いです。その結果、そうでない現実に会うと、え!私って本当に救いにあずかったのかな、という不安が出てきます。また、死んだはずのサタンがスーッと私たちを支配しようとやってくる。だから、絶えず、御言葉に立ち返って、見えるものによらないで、御言葉を信じて神様のものとされ、「神に生きている者」であることを喜び感謝する。これが大切です。見える状態を見ては駄目です。だから、「キリスト・イエスにあって、神に生きている者」だと思って喜んで帰る。そして自分の生活を振り返ってみると、どうもそれらしくないなと疑いを持つ。そうすると、死んでいたサタンが、「そうだ、そうだ、お前はまだ修行が足りん」と、もう少しああもしなければ、こうもしなければということを言ってくる。すると、私たちはイエス様の御支配から抜け出ていくことになる。いつも「キリスト・イエスにあって神に生きている者」となりましょう。

12節以下に「だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない」。罪の支配に立ち返るといいますか、また舞い戻っていくことをしてはいけません、とあります。そのためにいつも主を思っている。「テモテへの第二の手紙」2章に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」とあります。つい気が付かないうちに死んだはずのサタンが、私たちを取りもどそうと攻撃してきます。でも、もうそれは力がない。サタンの親玉は死んでいますから、私たちに対する支配力がない。ただ、私たちがイエス様に心をむけさえすれば、サタンに打ち勝っていくことができるのです。

毎日、絶えず、私は神様のものですと、心も思いも神様にささげるのです。事実、そのようにささげますならば、イエス様が私たちのうちに宿って、具体的な歩みも神様の御心にかなう者に変えてくださいます。イエス様のよみがえりのいのち、永遠のいのちに生きる者として、絶えずイエス様の御支配に自分を置いて、委ねていきたいと思います。そして、主のいのちに生かされている確信を、信仰を失わないで持ち続けていきたいと思います

ご一緒にお祈りをいたしましよう。


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