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いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(73)「見ないで信じる者」

2013年12月03日 | 聖書からのメッセージ
ヨハネによる福音書20章24節から29節までを朗読。

29節に「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」。皆さんもよくご存じのように、デドモと呼ばれているトマスについてであります。イエス様は十字架にかけられ、亡くなり、墓に葬られましたが、神様が約束してくださったように、三日目の朝、週の初めの日の朝早くに、イエス様は死からよみがえってくださったのです。しかし、これはなかなか信じ難いことです。人がよみがえることがあるだろうかと誰でも思います。よく言われるように、キリスト教には、幾つかの信じ難いことがある。信仰を阻害するもの?があるというのです。まず一つは、処女懐胎という、乙女マリヤからイエス様が生まれたこと。もう一つ大きな躓くものがある。それは、死んだイエス様がよみがえったこと、これが信仰の妨げになっている。せっかくいい話なのに、そんなことを言うから、誰も信じようとしないと言うのです。

パウロがアテネの町へ来たとき、みんなが集まっている所に行きました。当時、アテネの人々は議論をするのが好きだった。どういう議論をしているのかなと思って、パウロも議論好きな人ですから、近寄って話に加わったのです。そこで皆から歓迎されて、パウロの番になりました。パウロが「あなたがたは、一体何を信じているのか」という話から、神様のことになって、「あなたがたのうちには、『知られない神に』と刻まれた祭壇もある。それだけ信仰心があるのに、どうしてまことの神様を信じないのだ」と語ると、「なるほど、そうか」と、パウロの言葉に引き付けられました。パウロは、神様のこと、罪のこと、そしてイエス様のこと、しかもイエス様が、死んでよみがえったという話になった途端に、アテネの人々が「その話はもういい」と言って、途端にパウロの話にそっぽを向いてしまいました。

今でも、イエス様が多くの人を愛してくださって、命を捨てたという話までは、感謝感激します。喜びます。ところが、死んだイエス様が生き返ったのは信じられないと多くの人が思います。確かに、人の考えで言うならば、その通りだと思いますが、根本的には、神様を信じるか信じないかにかかっているのです。神様がいらっしゃって、なさるのですから、できないことはない。人を造られる神様ですから、死んだ者を生き返らすくらいたやすいことです。どんなことでもできる神様を、信じるか信じないかが問われている。神様は信じるけれども、イエス様のよみがえりは信じられないというのはうそです。イエス様がよみがえられたことが信じられないのは、神様を信じていないことになります。普段は神様を信じていると自分では思っている。しかし、イエス様が乙女マリヤからお生まれになった。救い主としてこの世に来てくださった。そんなことはあるはずがないと思うのだったら、その時、既に神様を信じていないのです。自分を信じているだけのことです。自分の考えていること、自分が理解できる範囲だけを信じようとするから、神様を信じられないのは当然です。神様は、私たちの頭の中に住むことができるようなそんなちっぽけなものではない。私たちを超えた、もっと大きなものです。だから、神様がいらっしゃるのだったら、どんなことでもできる。イエス様が「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)とおっしゃいました。だから、神様にはできないことがない。これは、私たちの信仰の根本、土台ですから、まず、神様はどのようなことでもおできになる方、その神様は、今も生き働いている。私たちを造り生かしてくださっている。こうやって生きていること自体が、不思議としか言いようがない。

昨日も、ある兄弟からお聞きしたのですが、彼は若いときに召集を受けて中国の方に行きました。戦争の末期になって、中国の国民党が勢力を持ってきて、日本が敗戦になろうとしている時に、彼の部隊がばらばらになり、どこの所属ともわからない。とにかく逃げる。彼は、中隊長の乗っていた馬を預けられました。馬を引いて行かなければならない。ほかの逃げて行く日本兵と一緒になって、臨時の部隊を作って逃げ延びていた。部隊は夜間移動します。暗闇を歩いている時に、どうしても馬が動こうとしないから、ほかの人たちに遅れてしまった。そうしましたら、先に行った人たちが待ち伏せしていた敵に皆やられてしまった。気が付いてみたら、自分だけが生き残っていた。それで独りぼっちで馬を引いて、日本軍のいる所へ行ったら、その馬を預けた中隊長にばったり出会ったというのです。「中隊長、あなたの馬を連れてきました」と言ったら、「お前、なんというバカなことをするか。そんな馬なんか捨てて早く逃げよ」と言われたというのです。ところが、翻ってみると、その馬を預かったために皆と一緒に行動できなかった。たった独りぼっちになって歩いたゆえに、助かったのだと言うのです。それからこの年まで、神様は生かしてくださいました。本当に死の中を生きてきた。どうしてこうなったのか、私にはわからないと言って、しみじみと感謝しておられました。

実は、私たちはそういう中に生きているのです。生きていて当たり前、元気なのが当たり前と思っていますが、神様が許して、一人一人に命を与えてくださるから、生きておれるのです。それを忘れている。当たり前のように思って、神様を信じようとしない。考えてみたら、本来なら死んで当たり前のところを、神様が許して生かしてくださっている。このことを思っただけで、奇跡としか言いようがない。イエス様が死からよみがえったと同じことなのです。私たちが今日も生きているということ自体を、神様のわざとして受け止めていくなら、神様をどうして疑うことができるでしょうか。自分の努力や、自分の健康法によって今があると思っているなら、大間違いです。どんなに健康法で命を得ようと思っても、神様が許してくださらなければ、終わりです。

そのことを思うと、パウロが「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」(Ⅰコリント15:10)と告白しているとおりです。私たちは、今日も神様の奇跡によって、神様の力によって生きる者とされている。死んだイエス様を墓からよみがえらせた力以上に、もっと大きな力が、私たちのうちに働いているに違いない。乙女マリヤからイエス様がお生まれになられたことも、また、墓からよみがえられたことも、あって当たり前、そんなのは何の疑いもないわけです。ところが、私たちはその根本の神様を信じようとしない。神様はすべてのことがおできになることを信じようとしないために、自分の生きていることすらも、自分で何とかしなければ明日にでも死んでしまうように思っている。神様が許して、力を与えて、生きる使命を与えてくださるから、今日もこうやって元気でおられるのです。

この時も、イエス様はよみがえった後、弟子たちにご自身を現してくださいました。ちょうど弟子たちが集まっている所にイエス様が来てくださって、手を広げて、わたしであるよと、釘あと、また胸の傷を見せてくださいました。弟子たちはびっくりしたのです。なるほど、思い返してみると、三日目によみがえるという話は聞いていたのですが、まさか、それが現実になるとは思わなかったのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。ところが、その時、24節にありますように「トマスは、彼らと一緒にいなかった」。用事で出かけていたのでしょう。帰ってきたら、皆が普段と違う様子で、喜んでいる。「どうした?」「イエス様がよみがえって、私たちの所へ来てくださった」。それを聞いた時、トマスはムカッとしたのです。私たちでも、自分の留守の時に何かいいことがあったと聞くと、しゃくに障りますね。恐らく、トマスも同じでありますから、25節に「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。ほかの弟子たちは、見ただけで触ってはなかったのです。だから、トマスは自分は触らないと、釘あとに指をさし入れ、胸の傷に手を入れてみないと信じないと言ったのです。
私たちもどちらかというとそのように考えます。ところが、信仰とは、今、目の前にあることを信じるのではありません。今、目の前に現実に起こっていること、体験していることは、信じるも信じないもない。ずばりそのものですから、信じるとか信じないとか問う必要はない。信じるか信じないかというのは、まだ見ていないこと、まだ起こってこないことです。へブル人への手紙11章に「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあります。私たちが、望んでいること、まだ見ていないことを信じるかどうかというのが、信仰です。目の前にある状態を見て、こうだから、こうなっているから、信じますという。それでは信じる必要がない、事実そのものだからです。だから、目の前にイエス様を見ていて、お前は信じるのかと、そんなことは聞く必要がない。もう目の前にいるのですから。ところが、信じるかどうかとは、見えないこと、まだ見ていないことを信じるかどうかを問うのです。
26節以下に「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた」。この時はトマスも一緒にいました。「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた」。一週間前に同じような事があったのです。その時は、トマスはいませんでした。しかし、この時は、トマスもいました。そこへイエス様が来られて、「安かれ」と言われました。安心しなさい。そしてトマスに向かって、イエス様は「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と言われた。トマスは、びっくりしたと思います。先日、イエス様がいないところで言ったのです。ところが、イエス様は全部それを知っていたのです。トマスに向かって「触ってごらん」と。その後に「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。イエス様は実にねんごろな方です。トマスは触らないと信じないと言いました。そのことを知って、イエス様は疑っているトマスではなくて、信じる者にしてあげようとしたのです。だから、具体的にご自身を現して、トマスの願いどおりに手を入れなさい、触ってみなさいと勧めました。信じる者になってほしいと言うのが、イエス様の切なる願いです。
これは、今でも変わらない私たちに対する願いです。現実のいろいろな問題や事柄を通して、失望落胆します。しかし、神様は失望しないでよろしい、わたしを信じなさいと、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)とおっしゃいます。しかし、イエス様や神様は私たちの目に見ることができない。手で触ることもできない。だから、つい、いろいろな現実、目の前の事柄、見えること、自分の心に思うこと、考えることによって不安と思い煩いと苛立ちの中に落ち込んでいくのです。しかし、イエス様は、そうではなくて、信じる者になってほしいと。
28節に「トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』」。この時、トマスは触る必要がない。もう目の前に見ているわけですから、彼はそこでイエスを、主、神と信じたのです。だから「わが主よ、わが神よ」と告白しました。まさに、これはトマスの恵みでした。そこで更にイエス様は、トマスに向かって、29節に「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。トマスが、よみがえって今も主が生きていることを信じました。これは誠に幸いなことです。しかし、イエス様は、更にもう一つ踏み込んで、「見ないで信じる者はさいわい」だと。信じるだけでも幸いですが、見て信じるよりは、もう一つ「見ないで信じる者は、もっとさいわいだ」とおっしゃるのです。なぜならば、いつもどんな時でも、自分の目で見ることばかりを頼りとしている限り、それは失望に終わるのです。自分に確信が持てること、自分が納得できること、自分が理解して了解できることだけを信じようとする。それは見て信じている状態です。自分が納得できる、自分が考えて合理的であり、つじつまが合っているから信じようとする態度は、自分をより所にして、見える状態で信じようとしているのです。トマスはイエス様を目の前に見たから、「わが主よ、わが神よ」と言ったのです。しかし、イエス様が、私たちに求めていることは、見ないで信じる者になることです。そして、何を信じるのかと言いますと、イエス様がよみがえって、今も生きていらっしゃることを信じるのです。これが私たちの信仰の中心です。私たちが信じることの中心は、イエス様は目には見えないけれど、今も生きていらっしゃる。そして、聖書に約束されている一つ一つの言葉を信じることが、イエス様が今も生きていると信じることです。
具体的な生活には、いろいろな悩みや困難や現実の問題が絶えずあります。そこで、イエス様を信じるとはどうすることか? それは悩みや苦しみの中で祈ります。主を求めます。その時、神様は私たちの心に御言葉をとおして臨んでくださいます。神様の御霊が私たちの心にあって、忘れていたことを思い起こさせてくださる。集会で聞いたこと、礼拝で与えられた言葉、普段読んでいる聖書の言葉、それらの言葉を私たちが握ることなのです。これが、イエス様がよみがえって今も生きて働いてくださっていることを信じることにほかならない。主が、今、私にこう語ってくださっていらっしゃる。しかし、現実はそのお言葉とはなんら関係がないような、遠い感じがします。今、目の前にある事柄と、聖書の言葉とは、なんかちぐはぐな感じがする。そこでどちらを採るかと言うと、やはりつい現実を見てしまう。自分の置かれている立場、あるいは、与えられている事柄や問題ばかりを見ているから、御言葉に信頼できない。これが日ごとの信仰の戦いなのです。私たちは、目で見、手で触ることが、日ごとの生活の土台になっているからです。
父や母が晩年よく病気をしまして、入院をします。離れていますと、やはり気になります。今日は病院でどんな状態だろうか、良かろうか悪かろうか、苦しいことがあるのではないかなどと、いろいろなことが気に掛かります。だから、つい、ちょっと行ってみようとなります。聖書のお言葉を信じて、神様が共にいてくださるから大丈夫と思えないのです。見れば安心すると思って来るのです。いろんなことを人から聞いてもまだ信じない。母に電話すると、「大丈夫よ、今日は元気そうにしていたよ」と言います。それでも「ひょっとしたら」と考えてしまう。とにかく見て来よう、会って来よう。そして顔を見ると安心する。病室に入って父の顔を見て、「良かった」と安心する。そうした時に、父が「お前は、見ないと信じないのか」と言うのです。「だけども、心配だから」「いや、心配だろうとなんだろうと、神様が共にいらっしゃるのだから、そんなにいちいち見に来なくてもいい。見ないで信じる者はさいわい」と言われる。確かに小さなことかもしれないけれども、そのことの中にも、自分で確かめなければ納得しない、己というものがある。そうである限り、神様のお言葉を信じることができません。
信じるとは、その人の言葉を信じる以外にないのです。イエス様を信じるとは、イエス様の約束のお言葉を確かなことと信じていくことです。この年頭に与えられましたように「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」(黙示21:5)と主は言われます。ところが、いろいろな新しい問題に当たると、どうしてやろう、なんでやろう、と不安になる。この問題があるのは、私を造り変えて新しくしてくださるのだと、御言葉を信じるよりは、現実の事柄を、今までと違った状態や事柄が起こってきて、今までの安定した状態が壊れてしまうのではないか。今までの生活のリズムが、めちゃくちゃになって、その先はどうなるかと心配ばかりが先立って、「見よ、わたしは新しくする」と聞いていても、目の前のことに心がいってしまう。それでは信仰に立てない。29節に「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」。どうぞ、徹頭徹尾、御言葉の中に自分を置いてしまいましょう。主がこうおっしゃるのですからと。神様が、こう約束しているのだから信じますと、そこに絶えず立っていきたいと思います。つい、主はそう言われるけれども、ああです、こうですと言い訳をする。これが私たちの不信仰な姿です。聖書を読みながら、いいお言葉だけど、と言って、御言葉を覆すといいますか、横に置いて、自分の思いを立てようとする。その結果、不安と恐れと思い煩いから抜け出せないでいるのです。
29節に「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。見ないで何を信じるのか。主のお言葉を、イエス様を信じる。神様を信じる。神を信じるとは、取りも直さず、神様の語っている言葉を信じることです。そうでしょう。人を信頼する時でもそうですが、誰々さんを信じています、と言う時、それは彼の言葉は真実、彼が言ったとおりになるのだ、約束したとおりに彼はしてくれるのだ、と信じるのです。言葉を信じるのです。相手の言ったことを信じることが、相手を信じることです。相手の言葉を信用しないで、その人を信じているとは言えない。イエス様を信じる、神様を信じるということも、取りも直さず、聖書のお言葉が真実であることを信じていく以外に、神様を信じる方法、イエス様に信頼する方法はないのです。聖書のお言葉は信じられないけれども、私は神様を信じていますというのは有り得ないことです。私たちが神様を信じる者とされたのは、何によってかと言いますと、御言葉によってでしょう。信仰を与えられたのは、主のお言葉を信じたからです。自分の思いではなくて、御言葉に立ち返って、見ないで信じる者となりたいと思います。
ローマ人への手紙4章16節から21節までを朗読。

これは、アブラハムの信仰について語った一節です。アブラハムは神様を信じました。では、神様の何を信じたか、と言いますと、そこにありますように神様の約束を信じたのです。17節に「『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした』と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。「あなたを祝福して多くの国民の父とする」との約束を信じることを通して、神を信じたのです。彼がどんな状態の中に置かれても、約束を信じ続けていく。これがアブラハムの信仰です。もちろん、アブラハムもそれに至るまで、疑うこともあり、また信じられないで苦しんだこともあったでしょう。しかし、ついに彼は、信仰の真髄といいますか、根幹に行き当たったのです。18節に「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」。望みがない、お先真っ暗という中であっても、彼は、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われていたことを信じたのです。神様の約束のお言葉を疑わなかった。これが私たちの信仰です。

ですから19節に「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり」と。彼は、自分の体が死んだと同然のように枯れ果ててしまっていた。「また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも」とある。現実の状態をはっきりと知っていた。見ないわけではない、聞かないわけではない。私どもは見たら失望するから見ないでおこう、聞かないでいようとします。「私には何も教えないで、言わないで、私は神様を信じていくのだから、邪魔しないで」と。アブラハムはそのような逃げ腰ではないのです。アブラハムの信仰はもっとダイナミックな、失望するような事柄や事態が目の前に突き付けられている。それは自分のことですから、否定のしようがない。自分が死んだ体で、サラが不妊であることを認めながらも、それをはっきりと知っていながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。その信仰とは、神様が多くの国民の父とすると約束してくださいました。神様のお約束を信じて疑わなかった。それどころか、20節に「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ」、いよいよ御言葉を固く信じる者となった。21節に「神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」。アブラハムの信仰は、いよいよ固く、神様の御言葉を信じて揺るがないものへと変わっていくのです。

やがて、イサクをモリヤの山にささげよと神様は求められました。そのとき彼は、朝早くスッと神様に従って、イサクをモリヤの山に連れて行くのです。彼は神様を信じていたからです。約束のお言葉を信じていたからです。たった一人の自分の身から出た子供、イサクをここで殺してしまったら、後がない、どうしようかと、不安があったでしょう。しかし、それどころか、神様が多くの国民の父とするという以上、イサクをここで殺しても、神様はそのイサクをまたよみがえらせてくださると信じたと、へブル人への手紙にあります。彼は神様の約束を疑わなかった。必ず、自分の身から出る子孫をして、神の民にしてくださることを信じていましたから、それが駄目になるような現実が目の前にあったけれども、尚それでも信じ続けていく。アブラハムは見ないで信じる者はさいわいであると、その信仰に立って、勝利を得るのです。私たちもアブラハムの子孫です。父アブラハムの歩みに倣う者は、すべて義と認められると約束されています。信仰をもたなければ、神に喜ばれることはできません。

ヨハネによる福音書20章29節に「 イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか』」。見ないで、まだ結果は得ていないけれども、神様は必ず約束を成就してくださると信じたと、アブラハムは信仰を全うしていきました。私どももどんなことがあっても、目の前に起こってくる問題や事柄を超えて、神様の約束、御言葉を固く信じて、それによって望みを得ようではありませんか。そして、神様を信頼する歩みを全うしていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたします。




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