いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(173)「心を見られる主」

2014年04月19日 | 聖書からのメッセージ

 サムエル記上16章6節から13節までを朗読。

 

 7節「しかし主はサムエルに言われた、『顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る』」。

 神様から選ばれて、イスラエルの王としてダビデに「任職の油」が注がれました。これは王の位に就く就任式のようなものです。といって、壮麗な大宴会が催(もよお)されたり、祝賀会があったわけではありません。それは寂しいと言いますか、ひっそりと行われました。それというのも、イスラエルには既にサウル王様が王として立てられていました。ですから大っぴらに次なる王様なんて言おうものなら、反逆罪ですから大変なことになります。サウル王様は神様から初代のイスラエル王として立てられた人物でした。初めはサウル王様も非常に謙そんで、自分のような者が王様などには到底なれない、その器ではないと言って、隠れてしまうような人だったのです。ところが、現実に王となり、位に就いたら、だんだんと頭角を現す。世間で言うならば、そういうことなのでしょうが、王としての権力、地位に目覚めたのです。といって神様に従わないわけではない。祭司サムエルが後見人としてサウル王様を指導していたのですが、事あるごとに彼は民の意見を聞く、民のご機嫌を伺う方向に変わっていった。神様の御心がどこにあるかというよりは、人が何と言うだろうか、あの人が何と言うだろうか、この人が何と言うだろうか、そういう生き方に変わった。

 

私たちも実はどちらかと言うと、毎日の生活の中で「神様を信じています」と言いながら、神様をそっちのけにして、人の思いだとか、あるいは人の考えだとか、自分の損得利害、そのようなものに従って生きている。あの人が何と言うだろうか、この人に気に入られたいとか、そんな気持ちで生きている。

 

サウル王様はそのようになってしまった。とうとう決定的な事件が起こったのが「アマレク人を皆殺しにせよ」と神様から命じられたことです。サウル王様に、男も女も子供も老人もことごとく皆殺しにして、すべての生き物、羊も牛も皆殺してしまえ、と言われたのです。サウル王様はアマレクとの戦いに出かけて行きましたが、その言葉に従わなかった。アガク王を生け捕りにするわ、家畜の牛や羊の傷のない良いものは全部取っておく。そんなことをして戦いに勝利して帰ってくる。戦勝記念と言いますか、祝勝会をやった。そのとき神様は大変嘆かれて、「わたしはサウルを王としたことを悔いる」と語っています。そのことを聞いたサムエルは大変心を痛め、憤慨もしたのです。急いでギルガルへ出かけて行きました。そこに戦勝記念碑、サウル王様の凱旋(がいせん)門のようなものを造って、王様万歳とやっている。そこへサムエルが乗り込んできまして、サウル王様に「あなたは一体何ということをしたのか」と問いました。「いえ、わたしは主に従いました、神様の言いつけどおりにしてきました」と。「では聞こえてくる牛の声や羊の鳴き声はいったいあれは何だ」と、「いや、あれは民が神様にささげるために残しておいた物で……」と言い訳をする。それでいてサウル王様は「私は主の命令に従いました。神様に従いました」と言ったものですから、神様からサウル王様は捨てられてしまった。とうとう完全にサウル王様は王の位からしりぞけられたのです。だからといって、次の日から失脚して夜露にぬれるような、うら寂しい生活をしたわけではなく、形としては王の位にとどまりました。しかし、神様の祝福、神様の恵みはサウル王様から離れてしまった。後のサウル王様は実に悲惨です。確かに見えるところは王様ですが、心は不安と恐れと失望の中に置かれました。次から次へと悪夢にうなされる生活に変わり、心に平安がない、喜びがない、憤りと怒りとつぶやきばかりになった。

 

私たちも自分の心をよくよく振り返っていただきたい。神様を信頼して、神様に御愛をいただいて、イエス様の救いにあずかったと喜んでいるかと言われると、案外それは昔の話、何年前、何十年前の話で、今はとっくの昔に忘れて、あれが嫌だとか、これがこうだとか、つぶやくこと、苛立つこと、憤ることばかりが心にあるとしたら、神様は実に残念、無念に思われる。

とうとう神様はサウル王様を見捨てられた。その後16章の1節を読んでみましょう。「さて主はサムエルに言われた、『わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角(つの)に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである』」。このとき祭司サムエルはがっかりした。せっかく民が求めて王にしたサウル王様が神様の心を痛める者となってしまった。そして神様からしりぞけられた。自分の不明を恥じ、祭司として、自責の念と言いますか、自分を責める思いもあった。それで悲しんでいたところ、神様が「何をいつまで悲しんでいるのか。さぁ、立って行きなさい」と。「私はベツレヘムのエッサイという人の子供の中に次なる王様を探した。見つけたからそこへ行きなさい」。ところがサムエルはちょっとためらった。なぜならば、そんなことを大っぴらにしようものならば、サウル王様からにらまれるに違いない。また命を奪われるに違いない。どうしようか、と思ったときに、神様は「そっと行って『神様に犠牲をささげるために来た』と言いなさい。そしてその場所にエッサイとその子供たちを呼びなさい」。神様は実に知恵者です。サウル王様の裏をかくような作戦を与えてくれた。

 

だから、いろいろな問題にあたるとき、自分が考えて「これはもう無理、もう行き止まり」と思ったら、神様に祈ればいいのです。神様はどんな知恵でも与えてくださる。人をだます知恵すらも与えてくださるから、こんなうれしい話はない。神様が「こうせよ」と言われたら、それに従ったら実に幸いなことです。このときも、サムエルに神様は言い訳まで教えてくださるのです。だから、何も心配しないで、いつも神様に、「どう言えばいいでしょうか。何を言えばいいでしょうか。言葉を与えてください」と祈りましょう。そうしますならば必ず思いもかけない、自分でも考えない言葉がポッと出ます。神様に自分の心を握っていただく。これは幸いなことです。

 

サムエルはそうやって、神様の命じられたとおりに動きました。先ほど読みましたように、エッサイとその子供たちを、神を礼拝する場所へ呼んだのです。6節に「彼らがきた時、サムエルはエリアブを見て、『自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ』と思った」。子供たちを連れてお父さんエッサイがやって来ました。見るとなかなか見栄えのよい立派な好青年が立っている。長男だと思いますが、エリアブという人物。サムエルは一目ぼれしたのです。「ああ、この人が次なる王様に違いない」と。ところが祈って神様のみ思いを知ろうとしたとき、7節に「しかし主はサムエルに言われた、『顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る』」と。サムエルに神様は、「顔かたちや身のたけを見てはならない」。「人は外の顔かたちを見、主は心を見る。しかしわたしは人が見るのとは異なる」と。

 

確かに、人を見るとき、外側しか見えません。いくら相手を知りたいと思っても、その人の心の中の隅々、くまぐまを知り尽くすことは不可能です。だから、何十年夫婦として同じ屋根の下で同じ釜の飯を食ってこようと、相手の心は分からない。これは皆さんもぜひ覚えておいていただきたいと思います。はかない希望を持って、主人は私の心を知ってくれているはずだと思ったら、裏切られます。私たち自身が相手を知らないでしょう。相手がどんな気持ちか分からない。見えるのは外側だけです。ご主人や奥さんの顔を見て「今日は明るい顔をしている。ああ、気分がいいんだな」とか、「しかめ面している。何か心配があるのかな」と見て知るくらいのものです。時にはそれでだまされます。私達はそういうものです。外側しか分かりませんから、人の顔つきを見たり、立ち居振る舞いを眺めて「ああだ、こうだ」とか推測をする。大体当たらずも遠からず、でも大抵外れが多いですから、人の心の中は分からない。ましてや、学歴であるとか、家柄であるとか、地位や立場や職業であるとか、そういう外側の条件で人を判断する。どこどこ大学の出身、だから代議士が学歴詐称までしたくなるわけです。女性の人だったら、背が高いとか、鼻が高いとか、目が何とかとか、そういう外側の見えるもので「あの人はいい人だ」とか、「この人は立派な人だ」とか、「そうでない」とか、判断します。しかし、人の値打ちは、そのような外側ではない。大切なのは心です。残念ながら、私たちは人の心を知ることができません。また自分の心すらも知りません。自分は自分の心を全部知っていると思ったら大間違いです。この年になって、私にこんな憎しみの心があったかと思いますよ。何十年来生まれてから、私は自分の心と付き合ってきているけれども、自分の心にこんな思いがあると思わなかった、と言われる方がいます。年を取ればもろに出てきます。若い時は若さで隠していた心が、年を取るとポッと出てきますから、自分もびっくりする自分というものがありますね。だから言うならば、自分であって自分ではないのです。そういう私たちを誰が知っているかと言うと、神様だけしか知らない。よく申し上げるように、神様は私たちの創造者、造り主です。ですから造った人がその作品、機械でも何でもいいですが、造られたもののすべての事を知っている。だから、何かが故障したら、テレビが故障したり、時計が故障したり、冷蔵庫が壊れたら、それは造った人、製造者の所へ持っていけばすぐに原因が分かる。私たちを造ったのは、人ではありません。神様が私たちをお造りになった。私たちのうちに心を与えてくださいました。だから私たちは自分が分からないのです。自分の事は自分が知っていると自負するのはごう慢です。私たちは自分のことも知らない、無知なる者である。ましてや他人様のことを分かるはずがない。皆さんも家族のことが分からないのが当たり前です。お互いにそのような思いで接しているとストレスがなくて済みます。すべてを知っているのは神様です。

 

だから、自分のことも神様に聞くのです。「私の心は本当はどこにあるのでしょうか」、「私の真実な思いはどれなんでしょうか」。分からない、皆さん。次から次へといろいろな思いが流れるがごとく浮いたり沈んだり、また浮いたり、私はいったい何を考えているのか、どれが私の心かしら、時にはあの人のために何とかしようと思って、ちょっと一瞬時が過ぎるともうひっくり返って、あんな人のためにしてやるものかと、口の乾かないうちにというか、それどころではない、日替わりメニューどころか、時間メニューのように次から次へと変わる。どこに自分の本心があるか分からない。だから私たちは主に聞く以外にない。「神様、私の心がいったいどこにあるでしょうか。私の本当の思いは何なのでしょうか」。そうやって、絶えず神様に問わなければ一歩も半歩も動けない者です。私たちはいつも神様を求めて、神様の知恵に満たされ、神様に導かれる以外に歩めません。

 

この7節に「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。神様は、人の外側の見えるところではなく、どこを見るのか。「心を見る」という、これはうれしいような怖いような話です。心を見られてうれしい方はいらっしゃいますか。レントゲン写真を見るように、今の自分の心を見せられてご覧なさい。「はい、これがあなたの心、真っ黒ですね」と言われる。「どこにも白いところはありませんね」と。それじゃ立つ瀬がありませんね。だから、私たちはそれを隠そうとする。何か繕(つくろ)って少しでもよく見えるようにしたい、と思う。ところが神様にはそんなまやかしは通じない。神様はすべてお見通しです。自分は知らなくても、神様は私の心を知っていらっしゃる。これは大切なことです。

 

時に言われる、「先生、安心しました。今日、神様が私の心を知っていてくださるとお話を聞きました。あの人が私を誤解していることも知っているのですよね」と、「そうです。知っていらっしゃる」、「ああ、安心しました。だから私はもう何を言われても平気です」、「いや、それはいいけれども、あなたの悪い所も知っていますよ」と言うのです。神様が知ってくれるのは自分が被害に遭っている、自分が非難されている、自分が不当な扱いを受けている、そこは知っていてくれるけれども、ほかは目をつぶってくれると思うと、そうではない。人を悪く思っていたり、人を憎んだり、人をねたむ心も知っている。その方にそう言ったら「怖いですね」と言われた。「それは怖いですよ」と。神様は私たちの全部を知っていらっしゃる。ところが、それは何と幸いなことかと思うのです。神様は私たちの心の隅から隅まですべてを知り尽くしている。その上でなお「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり故にわれたえず汝をめぐむなり」(エレミヤ31:3文語訳)と、神様は、私たちが心の汚れたる者であり、どうしようもなくねじくれて、焼き冷ましの餅のように固くて、どうにもならない心であることをご存じです。ただ神様の前にそれを隠して取り繕って、人の前に見えるような形で、神様に振舞うならば、神様は厳しく化けの皮をはがされます。だから、そうならないために何をするか。神様は全部お見通しなのだから、素直に神様の前に出て行くこと。「神様、こんな私です。主よ、あなたがご存じのとおり、はしにも棒にも掛からない、自分でも自分の事がよく分からない、訳の分からない人間です。しかし、神様、あなたは私を全部知りつくしています。主よ、今この問題の中で私はどうすべきでしょうか。神様のみ心を教えてください」と、素直に父なる神様の前に出て行くことが大切です。このとき神様は「心を見る」とあります。世の中にあって、人の目に見えることばかりが生活の中心になり、神様の前にはどうでもいいとなりやすいのです。しかし、実は見えるところはどうであれ、私たちの心がどこに向いているか、何を第一にしているか、私たちの心が何をより所にしているか、それを神様はちゃんと見て知っている。私たちが心から神様を信頼し、神様の前に子供になって、何もかも知ってもらう。これが幸いなことです。

 

だからお母さんやお父さんが子供を育てるとき、赤ちゃんや子供は、何をされても、裸にされようと、真っ裸になってもへっちゃらです。お母さんやお父さんが全部世話をしてくれることを知っていますから。実は私たちも神様の前に隠しようがないのですが、隠したつもりになるところに、罪があるのです。

 

 アダムとエバが罪を犯したとき、神様の顔を避けて茂みに隠れました。「あなたはどこにいるか」と、神様はこの二人を探しました。神様は、どこにいるか分からないから、探したのではない。彼らがどこにいるか、ちゃんと知っていた。知っていたが、自分から悔い改めて出てくることを待って、そういう声を掛けているのです。神様はアダムとエバが隠れているのを知らなかったわけではない。知っていたからむしろ探した。そして声を掛けた。私たちに対してもそうです。アダムとエバのように茂みに隠れて、神様の前に繕って、いい格好をして、神様、私はこんないい人間です、なんて出ようとするから、化けの皮をグッとはぎ取られる。いろいろな問題や事柄に置かれるでしょう。私はいい人間です、愛に満ちた人間です、なんて格好をするから、神様はいろいろな問題や悩みを与える。そうしたら一気に、あるのかないのか分からない自分の信仰が赤裸々になります。調子のいいときは「神様、神様」と言って、「感謝です。ああ感謝です、こんな恵みはありません」と言うけれども、ちょっと病気をしてご覧なさい。そんな信仰は吹っ飛んでいきます。それでは神様は「お前の姿はどこにあるか」と。そういうとき、素直にまず認めることです。神様、こんな私です。「信なき我を助け給へ」(マルコ9:24文語訳)。あの病んだ子供を持つお父さんが、イエス様の所でそう言ったのです。「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」(マルコ 9:23)とイエス様は言われました。そのときにお父さんが「ごめんなさい。私は信仰のない者です。私を哀れんでください」と出て行く。これが、神様から恵みを受ける秘けつです。神様は私たちの心の隅々、くまぐまを知り尽くしている。だから安心です。

 

よく結婚して何年かたったら、どうもうちの主人は結婚前と違ってしまった。あんなはずではなかったと文句を言われる。神様と私たちの関係では、それはありません。神様はひとり子を賜ったほどに大きな御愛を持って、目を留めてくださって、この救いに引き入れてくれました。知らないのは私たちだけ。「まぁ、私の罪はこのくらいかな」と思っている。ところが神様は私たちの罪のすべてを全部知っている。ただ私たちは自分が認める範囲が狭い。だからいろいろな事柄を通しながら、いかに罪多き自分であるかをちゃんと教えてくださる。そういうとき、素直に謙そんになりたいと思います。

 

今読みました先の所、8節以下にアビナダブという人、シャンマという人、7人の息子たちが次々とサムエルの前を通りました。ところが、神様は全部「駄目、その人ではない」と。とうとう誰もいなくなって、サムエルがエッサイに「もうほかに息子はいないのか」と言ったら、「あ、そういえばもう一人おりました。今、羊を飼っています」、「じゃ、その人を連れてきなさい」と言われた。実はそれがダビデだったのです。ダビデはそれほどに、家族の中でも数に入らないぐらいの小さな存在。お父さんすらも忘れていたのです。

 

ところが、12節以下に「そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、『立ってこれに油をそそげ。これがその人である』。13 サムエルは油の角(つの)をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った」。やがてダビデが連れて来られ、サムエルの前に立ったとき、神様が「この人だ、これに油を注げ」と。それは神様がダビデの心を見ておられたのです。彼の信仰にあふれた、神様を大切にし、神様に従う従順な心であることを知っていました。だからダビデを選んで、そこで任職の油を注いでくださった。ですから、その後の「サムエル記上・下」を読みますと、ダビデの生涯が語られていますが、誠に神様の目に狂いはない。ダビデを選んで幸いだったと思います。そのことがハッキリしたのが、ダビデがバテセバとの問題を起こしたときです。

 

ダビデが王になり、国が安泰になった。ペリシテ人との戦いはありましたが、立派な部下たちが育ってくれて、王様は自分の宮殿で昼寝をしていてよかった。みんな戦争に出かけていても、自分は行かなくて、宮殿にいました。一人の女性を見初(みそ)めて、無理やり自分の奥さんにしようとした。考えたら極悪非道と言えばそのとおりですが、その当時の王様は、もっと非道なことをしていますから、王様としては比較的罪がないかな、と思います。だからダビデもそれほどひどいことをしたとは思っていない。その上、その奥さんを自分のものにしたいために主人であるウリヤを激戦の地へ送って殺してしまう。それでも知らん振りをして平気な顔をしておった。そこへ神の人ナタンが遣わされて来て、例え話を語る。金持ちがいて、たくさんの羊を飼っていた。隣にはたった一匹の羊を大切にしている貧しい夫婦がいた。金持ちの家にお客が来たためにごちそうをしようと思ったが、自分の群れの羊をほふるのはもったいない、と思って、隣のたった一匹の大切な羊をほふって料理した。王様、これはどう裁くべきでしょうか、と言ったときに、「もうそんなやつは許しておけん、死刑だ」と言ったのです。そのときにナタンが「王様、あなたがその人です」と言った。「あなたがその人」。そのときダビデは自分がどんなに大きな罪を犯したのかを知ったのです。罪を犯したのですが、彼のその後が素晴らしい。預言者ナタンから「あなたがその人です」と言われたときに、王様ですからどんなことでもできる。預言者ナタンの口を封じる事だってできる。後の王様の中にはそのような人がたくさんいます。預言者を捕らえて、自分に不都合なことを言うやつは、全部捕らえて殺してしまえばいいことでしょう。ところがダビデはそれをしなかった。ナタンからそう言われたとき、彼はそこで「わたしは主に罪をおかしました」(2サムエル12:13)と。ダビデは神様の前に自分の罪を認めた。これがダビデの心なのです。神様が見ておられた心は、まさにここです。罪を犯さないのではなく、肉にある私たちですから、弱くて罪を犯しやすい者であることも主はご存じです。しかし、問題は罪を犯した後にどのように対処するか、それをどのように神様の前に解決していくか、その心がどこにあるか、これが問題なのです。日本の政治家がよく失敗するのは、その後始末が悪すぎる。神様を前に置いていないから、見える所ばかりうまく隠して誤魔化してやろうとするから、なかなか日本の国が変わらない。ダビデは王様でありながら、自分の罪を認めて、悔い改めた。そして神様の前にごめんなさい、と心を明らかにした。そのときに神様は「わたしもまたあなたの罪を赦した」と、罪の赦しをはっきり与えてくださったのです。

 

詩篇51篇5節から12節までを朗読。

 

7節に「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう」。6節には「あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください」とも語っています。ダビデは、バテセバとの問題を通して、ただ人の奥さんを取ってそのご主人を殺してしまったという、その行為が問題なのではなくて、神様は「あなたはどうしてわたしに求めなかったか」と問われているのです。「サムエル記下」を読みますと、彼が罪を犯したのは「わたしはあなたが欲しければわたしが与えたはずではないか。それなのにあなたは自分の力でそれを奪い取った。そこが問題だ」と。己を義とする心、己を神とする心、そういうダビデの心に、神様が「待った」をかけなさった。神様に対するダビデの悔い改めが、今お読みました記事です。6節以下に「見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう」。神様の前に清い者とは、外側ではなくて、自由な心、神様に見られて恥ずかしくない心、後ろ指を指されない心、これを持ち続けることができるようにと願っています。これは私たちの力ではできません。絶えず主に求めるべき事柄です。

 

その後10節に「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」。これはダビデの祈りであり、また私たちの祈りでもあります。「神様、あなたが私の穢(けが)れたる所、欠けた所、汚れた所、どんなことも全部ご存じです。あなたは心を見給う御方、私の心を知って、神様、どうぞ、私のうちに清い心をつくり、正しい新しい霊を今日も与えてください」と、切に求める祈りです。その後に「わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。12 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください」。これはダビデの切なる祈りであり、願いです。彼が神様の霊に満たされて、神様の御霊に導かれておれば、そのような失敗はしなかったに違いない。気がつかないうちに心が高ぶって、自分の力で何とかできる、自分の知恵で何とかやろう、神様に頼らなくても大丈夫、そう思った瞬間に、サタンが彼の心を捕らえ、とんでもない事態の中に引きずりこんでいく。それに気がついたとき、「神様の前に罪を犯した。神様を第一にしていなかった。私が神様をないがしろにした。自分勝手なことをしてしまった」と悔い改める。ナタンを通して神様が「あなたがその人です」と言われたとき、「本当にそうでした」。どうぞ、素直な正しい霊を、私の内に自由の霊を、どんなものにも支配されない霊をいただく。そうでないと、「あなたがその人です」と言われても、「いいえ、私も悪いと言えば悪いけれども、でもあの人ももっと悪いですよ」となる。その原因は、私たちが自由の霊ではなく、私たちが束縛されているからです。自由の霊があれば素直になれます。人の言葉も、自分のメンツも、何もかも捨て去ることができるのは、自由の霊に満たされ、それに振り回されていなければできません。12節に「あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください」。神様は私たちの心を見ていてくださる。その心を見給う神様の前に、いつも「清い」「正しい霊を与えて」いただいて、生きるものとなりたい。

 

ですから最後に「ローマ人への手紙」8章26,27節を朗読。

 

26節に「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる」とあります。そしてその先に「どう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」。確かにそうです。どう祈ったらよいか、心の隅々、くまぐま全部を自分でも知りません。しかし、心にある思いを何とか神様に伝えて祈ろうとします。しかし、祈りの言葉は、心の何十分の一、何万分の一か、ほんのわずかなことしか言葉になりません。それが言葉になって祈れないから、神様に届いていないのではない。神様は私たちのつたない、ほんのちょっぴりしか言えない言葉を通して、私たちの心を知ってくださる。私たちの思いを知って、それを執り成してくださる御霊ご自身が、私たちの思いを父なる神様に取り次いでくださっている。だから、私たちは自分の心が分からなくても、神様は知っていてくださる。そればかりでなく、私が祈った祈りは中途半端で何一つまとまりのない、何を言っているのかよく分からないような祈りであっても、神様はその欠けた所を御霊によって補って、自分でも知らない心まで知り尽くして、執り成してくださる。これはどんな大きな喜び、恵みであるか分からない。だから、祈ることができるのはどんなに幸いか分からない。27節に「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。人の心を探り知る御方、私たちの心を探って知ってくださる御方、神様は私たちの心を見ていらっしゃる。どうぞ、心を見給う御方に絶えず見られている自分であること、知っていてくださる御方がおられることを、絶えず心に覚えておきたいと思います。それが私たちの一つ一つの歩みや言葉や業を導いていく大きな力になります。

 

初めのサムエル記上16章7節に「しかし主はサムエルに言われた、『顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る』」。神様が見てくださるのは、私の心であることを、そして私の心が清い正しい霊に満たされて、神様を信頼して揺るがない幼子のような心を持っているかどうか、絶えず神様に探っていただいて、また知っていただいて、神様が清めて、私たちを新しくしてくださることを待ち望んでいきたいと思います。そして主に信頼して歩む者でありたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましよう。


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