気さくに話してくれた明るい声、量り売りの黒飴を勧めてくれたり、閖上の赤貝丼のことや菅野蒲鉾さんのことを教えてくれたりしたことを、今も鮮やかに思い出す。
この店の主からは、ふるさとの良さを引き継いでいこうという温かな思い、閖上を大切に思う気持ちが伝わってきた。
創業明治39年という「相馬屋菓子店」さんだ。
主は高野さん。4代目だという。
入り口の近くに、懐かしい量り売りの飴があった。
木枠にガラスがはめ込まれた蓋から、仕切りの中にまるっこい飴が、はしゃいだ子どもみたいに並んでいるのが見える。
手作りの黒飴は、黒蜜の旨味が見事に引き出された飴。
強く前に出るのではなく、穏やかに広がる甘さでコクがあった。
(↓2008年撮影)
飴やがんずきなど、昔ながらの菓子の他に、カステラなどの西洋焼き菓子も作られ、店の正面の硝子囲いの棚に並べてあった。右手には和菓子が並んだ硝子囲いの棚。
懐かしい。
(2008年4月撮影↓)
かつて閖上には、家々や商店がたくさん並び、閖上港から揚がる海の幸を加工して店先に並べる光景も見られた。
大津波で、その町は消えた。1年と八ヶ月前のことだ。
震災から1ヵ月後に、閖上に寄った。
町の破片が散らばり、道の脇に漁船が転がり、自衛隊が重機で片付けたり、警察も出て行方不明者の捜索に尽力したりするのが目に入る。
知人の家には大きな穴が開いていたし、もう何処を通っているのか分らないほど家も店も壊れていた。
かつて寄った相馬屋菓子店さんは、どうなったかと心配だった。
ずっと気がかりだったが、ようやく最近になって近況を知ったのである。
苦境の中で、踏ん張っていた。
閖上で、震災の語り部をしているという記事だった。
写真の姿は少し痩せたように見えるが、再びその姿が見られたのは嬉しかった。
ふるさとを思い、人々に温かな思いを伝えるのは、震災前に出会った頃と同じだ。
閖上を大切に思い、引き継いでいく温かな心。
今も、多くの人々に伝わっている。
そうか、高野さんはそこから始めたのか。
次はもう一度、菓子店が開けることを願っている。
また、あの黒飴や、より風味の良かったビーテラが食べたいものだ。
(相馬屋さんの品:2008年)
素晴らしい。何と見事に再現していることか。
「美味そう」というより、味わいがあって面白い。
「めんこい」と言ってもいい。
閖上名産、「焼きがれい」
・・・の、ストラップ(根付)だ。
閖上さいかい市場内にある、「せとや」さんで販売されている。
この根付は、仮設住宅で閖上のお母さんたちが作った品である。
講座で作り方を教わった後、商品として作り始めたそうだ。
手仕事で商いをし、物づくりが日々の励みになる。
この焼きがれい、ちゃんと裏側は白いのもお見事。
「焼きがれい」というものの、つぶらな瞳で活き活きしているのだ。
最近になって、「閖上の名物を」ということで「焼きがれいの根付」が生み出された。
閖上さいかい市場の限定品である。
昔から、閖上ではカレイがよく獲れたので、上手に加工することを考え、焼きがれいにして行商して歩いたそうだ。
やっぱり、その地域の特色を活かした品はいい。
「焼きがれい」の根付は、ふるさとの味や文化も、津波からの踏ん張りも、見事に伝えてくれるだろう。
仙台空港の東南辺りに、岩沼市の相の釜という地区がある。
荒浜に近いため、津波の被害が大きかった。
貞山堀を渡る「相の釜橋」の袂に、「相の釜水防倉庫」がある。
水害の時に積む土嚢や、スコップなどの道具が収納されていたが、空っぽの倉庫が橋と共にその地を見守るみたいに静かに建っている。
相の釜橋を渡ると、海沿いに南へと向かい亘理大橋を渡って亘理荒浜に出る道があるのだが、今は震災の片付けのため通行止めになっている。
そのため、相の釜橋から少し西の、いくつかの工場の間を通る岩沼市空港南地区の道から、亘理へと向かう。
道の東側に「いぐね」の跡が見える。
「いぐね」は、民家を樹木で囲んだ屋敷林だが、あの津波にも残ったとは驚きであった。
「いぐね」が残っていることから、この屋敷林が災害による被害を軽減すると考えられる。
周囲は、今の時期に早苗が光っているはずの田んぼであったが、津波の後で作付けの無いままだ。
この辺りは、岩沼市の復興会議で、計画的に丘陵を造成することや、住宅や施設移転のための整備と、集落全体を囲む新たな「コミュニティいぐね」を作るなどの計画が出された。
農地の活用も、被災状況に応じて、場所によっては水田からトマトなどの耐塩性植物の栽培に切り替えるという構想もある。
計画に添うと、地区によっては町割りや農地の区割りが新しくなるので、作付けの無い農地があるのだろう。
あの時、空港南地区の東面に沿って亘理方面に続く道路も、濁流が襲った。
その道では今も、歩道脇の柵が変形したままだ。
相の釜橋や仙台空港から近い、空港南地区には「フジパン」の工場もある。
昨年3月の下旬に、竣工式をするはずだった東北フジパンの工場も津波に遭った。
工場の2階まで真っ黒な水が押し寄せるのを、工場内で仕事をしていた人々が、屋上まで逃げて目の当たりにしたという。
それでも、フジパンは操業を開始してくれた。
昨年10月から工場が稼動し、地元の人々の働く場が一つ守られている。
東部道路を越え、航空大学校へ続く道沿いにある川内沢川。
気がつけば、東を向くと仙台空港の滑走路だった。
津波の押し寄せた空港は、あの日が幻のように思うほど、今はすっかり復旧している。
だが、滑走路の向こうに、まばらになった松林が見えるのが痛々しい。
空港近くには、震災での建物などの破片が、分別しつつ山と積まれているのが見える。
町の再生構想が出だされる傍ら、まだ解体を待つ建物も残っているのが今の被災地だ。
片付けと平行しながら、新たな部分が作り出されている。