鳴瀬川の河口に「野蒜築港(のびるちっこう)跡」がある。
明治時代、貿易港と町を作り、北上川と松島湾を運河で結ぶ計画があった。
しかし、その建設は台風のために途中で頓挫した。その幻の港の痕跡が残っている。
この辺りも、石巻湾に沿って緑にふち取られていたのだが、2011年3月11日の大津波で濁流に襲われて傷んでいる。
鳴瀬大橋から矢本へと続く石巻街道辺りも、震災の数日後は、たくさんの崩壊した家の破片で埋まり、棒を持って行方不明者を探す捜索隊の姿があったのを、我が連れ合いは目にしていた。
今はすっかり片付いて、街道から北の内陸側は穏やかさが戻り、海側だけが痛々しい跡を見せている。
(↓2012年10月11日撮影)
田んぼに囲まれた中に家があり、海沿いには木々が一杯あったはずだった。
そこに壊れた家が残り、修繕しているところもある。
豊かだったはずの緑地は荒れた姿になり、松林もまばらになっているし、
陸方向の北側に向かって傾いている木々もあった。
(2012年10月11日)
周辺に、駐車場があるのかと思ったら、実は壊れた車が置かれていたのだった。
乗りあがる海水の、重く強くのしかかって流れ込む怖さが分る。
近くに小学校がある。
浜市小学校だ。
(2012年10月11日撮影)
1階部分は壊れていて、人の気配は無い。
新聞報道によると、ここにいた児童や教職員、消防団や周辺住民は、押し寄せる津波にも機転を利かせて行動し、全員無事であったという。
(参考:朝日新聞 2011年5月9日『〈学びと震災〉先生ら機転 犠牲者ゼロ 宮城県東松島・浜市小』)
さて、この小学校の前に、人名の刻まれた石碑がある。
なぜだろうと思って調べると、この学校の土地が寄贈されたもので、石碑の文字は寄贈者の名だと分った。
浜市小学校には、大正12年と昭和5年の2度に渡り、斉藤宗蔵氏から土地の寄贈を受けて校地を拡張してきた記録がある。
(参考:市報ひがしまつしま2013年5月1日号鳴瀬旧4小・中学校を振り返る』)
地域のために財産を分けたのだろうか。人情の厚さに感動。
今、津波で住まいや職場を失い、再出発するための土地を探す人がたくさんいる。
巷では、土地を分割せずに広くしか売らない例や、値が高いなどという話もちらほら。
だが、中には出来うる限り条件を下げてくれる人や、自費で整備し、借家を建てて被災者の再出発を助けたいという人もいる。
こんな時、実際は政治家よりも一般市民の方が良く動く。
だから、善良な人の動きを、しっかり補助して適切に進めるよう助けるのが国の役目となろう。
市民の善意を助ける施策も、良い国と政治にあるべき一つではなかろうか。
そして、明日を生きる人々への応援や、困っている人に手を差し伸べるという、市民の善意が広まる世の中を、いつの時代も失わずにいたい。