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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

震災前後の坂元駅周辺:2012年6月27日の記録

2017-10-28 16:40:52 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

山元町の沿岸を走る常磐線。

山元町には、山下駅と坂元駅があった。


水無月の末頃、梅雨の内だが青空の日だった。

草地となった平野の緑と青空の間に、ひと際濃い青色で線を引いたように、海が見えている。

坂元駅に立ち寄った。


かつて、白い柱と壁に赤い屋根の、木造の駅舎があった。

(2007年11月22日撮影の坂元駅↑↓)


どことなく、ゆったりした気分になる、穏やかな雰囲気の駅舎。

それも津波で壊れ、今はもう無い。



塀のように、高く長く駅の跡地を縁取る段差があった。

連れ合いの手を借りて、何とか少し足場がある所を探して上ると、目の前に線路があった。

上った所は、津波ででこぼこになった、駅のホームだった。


錆びた線路が、所々に砂利で埋もれながら、まっすぐに横たわっている。


だが、その線路ももう少し先へ行くと、分断されていた。



坂元駅から南へ進むと、まるで湿地の広場を行くみたいに、でこぼこの道と水溜りのある草地が続く。

方々から、オオヨシキリの声が聞こえる。


しばらく行くと、大きな建物が見えてくる。

窓は開け放たれ、人の気配が無い。震災による廃棄物が、敷地内に積まれていた。

そこは、中浜小学校だった。 


この校舎は、その時そこにいた人々を守ったそうだ。

津波情報から、2階でも危ういと判断して屋上に逃げたという。そして津波は2階まで達した。


津波の間、周りは海、屋上は島のような状態になったが、そこにいた人々は助かった。

取り残されたものの、みんなで協力し合い、冷える屋上で、びっくりするくらい美しい星空を見て一晩過ごし、翌朝救助されたそうだ。



あの日、みんな生き残るのに懸命だった。

翌朝の空は、切れ切れの雲の間が、朝焼けの紅色で染まっていた。

この屋上の人々も、それを眺めたろうか。

闇の中で輝いていた星たちが人々を慰め、やがて陽光が空いっぱいに広がり、人々を照らす。

今を、明日を大事に生きよう。 


今、この海辺の草むらの中で、オオヨシキリが暮らしている。

渡り鳥の彼らは、ここで子を育てているのだ。

この地で、命の輝きは繋がっていた。


山元町:2012年5月16日の記録

2017-10-28 16:35:16 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

前年は11月に寄った山元町。

その頃、一応は海沿いの立ち入り制限は解かれたが、片付けの邪魔になるからと6号線から様子を見たのだった。


それからおよそ半年後、再び山元町へ足を運ぶ。


皐月の空は青く、景色の輪郭が鮮明で、草花が輝いて見える。

緑は町の傷を癒すかのように、そっと風に揺れている。


その傍らで、壊れた家々の土台が、静かに周囲を見つめていた。

海辺の方には、まるで堤防みたいに、町の破片が積み重なって連なっている。


震災から1年と2ヶ月あまり、津波被災地は、まだ片付けが続く。

海辺の整備もこれからだ。


それでも、お弁当を売る店が、ぽつんと再開していた。

「きく邑」と看板にある。 

町のために、作業に励む人々のためにも、という気持ちが見えるようだ。


更に進むと、釣鐘が見えた。奥には鳥居が見える。

「青巣稲荷神社」の跡だった。



お寺ボランティアの「テラセン」という、現地の方と有志によって立ち上げた組織がある。

昨年、海辺の立ち入り制限で、ボランティアの派遣もままならなかったため、地元の人々が立ち上がったという。

そのテラセンの活動で、青巣神社跡の片付けや、流されて見つかった釣鐘が戻されたそうだ。


青巣神社は、伝承によると随分と古くからあったようだ。

花釜浜の守り神であったが、後年、その地に奥州藤原家の家臣が数名が移り住み、塩焼きを生業としたという。その者達が、社殿を修築して御神木にタブノキ(別名タマグス)を植えたという話がある。


現代になり、宮司さんが氏子のために奉納したというカエルの石像もある。

鳥居の奥に見えるのは、タブノキだろうか。幹の具合からして、御神木の何代目かなのだろうか。よく分からないが、よくぞ残った。


鳥居の手前の桜の苗木は、テラセンによって植樹されたそうだ。

人々のあったかさが伝わってくる。


カエルの石像が、山元の海辺の町と、その地に暮らした人々の再出発を見守っている。

良き町、良き日々が、きっとカエルぞと。


山元町:2011年11月8日と2012年6月27日の記録

2017-10-28 16:26:21 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

震災時の暮らしが落ち着きはじめ、あちこちの様子を確認して歩いて、ようやく宮城の最南端である山元町へ行くことができたのは、震災から8ヶ月ほど過ぎた頃だった。


2011年11月、海側の道は片づけで通れそうにない。

陸前浜街道(国道6号線)から様子を見た。

道路はうねっていたが、津波の被害はこの道から東側で止まっている。


海沿いに連なっていた緑が、すっかり欠けてしまって海が見える。

1階が空洞になるほど壊れている民家が、所々に残っていた。

そうした家々の人々が、「どうか無事でありますように」と祈りながら眺める。


被災地を巡る時は、いつもそうだ。心の中で語る。

失った人々に、どうか苦しかった時に縛られず、楽しかった時を思い出して安らぐように。

生き残った人々に、どうかよりよき再出発ができるように。


ただし、暗い顔ばかりせず、笑顔も見せながら通る。

和楽を忘れないことが、今を生き、明日を生きる力だから。


そんな思いを、汲み取るかのような人々がいる。

山元町役場に寄ると、そこには、いち早く地元に情報を届けようと出来た、仮設のラジオ局があった。

「りんごラジオ」だ。



必要な情報はもちろん、人々が生きることに明るさを見出せるようにという願いを、日々、町の人々へ届けている。


外から手を振った。

向こうも、笑顔で返してくれた。


役場の敷地内には、もうひとつ、写真を拾い集めて修復保存する場も設けられていた。

情報の発信と、市民のこれからを支える場所として、役場が使われていた。

町の人々が、少し落ち着きを取り戻した様子で通り過ぎる。


震災の春から、日々は過ぎ、季節は冬に近づいていた頃。

坂元小学校では子ども達の笑い声も聞こえ、今を明日を、大切にしている輝きを見た。


掲載写真:2011年11月8日撮影