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馬寅初 (马寅初 Ma yin chu1882-1982) 百度百科

参照 福光 寛「中国の経済学者 馬寅初(マー・インチュ 1882-1982)について」『成城大学社会イノベーション研究』12巻1号,2017年2月, 273-298

百度百科・・・・・・・・・・・・・翻訳途中まで

马寅初 1882年6月24日-1982年5月10日 名の字義は元善である。中国の現代経済学者、教育学者、人口学者。浙江嵊州人。元南京政府立法委員。新中国建国後、中央財経委員副主任、華東軍政委員会副主任、重慶大学商学院院長兼教授、南京大学教授、北京交通大学教授、北京大学校長、浙江大学校長などを歴任。1957年に発表した「新人口論」方面の学説により右派として攻撃されたが、党の11期第三次中央委員会全体会議(1978年12月18日-22日)のあと、名誉回復(平反)された。彼が生涯に著した著作は極めて多い。中国の経済、教育、人口等の方面で多大の貢献。現代中国人口学の第一人者。

中国語名:马寅初。国籍:中国。出生地:浙江省紹興省嵊县浦口鎮(現在の嵊州市浦口街道)。出生:1882年6月24日(壬午年)。逝世日期:1982年5月10日(壬戍年)。職業:教授。卒業校:天津北洋大学、米国コロンビア大学。功績:経済学の父(泰斗)、人口学の第一人者。

抗戦時期

1927年3月、北京政府の張作霖は北京大学を封鎖。蔡元培は国民政府に身を投じて(投奔)杭州に至り、浙江臨時政治会議委員兼代理主席に任ぜられた。蔡元培は北京大学教授の马寅初、蒋梦麟などを浙江省建設に招聘した。马寅初は麻薬禁止(禁煙)委員会委員となりアヘン取締活動に従事し合わせて農民銀行の創設を準備した。間もなく張静江が浙江省政府委員に任ぜられると、蔡元培、马寅初など北京大学教授は浙江省政府から締め出された。马寅初は、杭州財務学校で教えたほか、上海浙江興業銀行の検査役(总稽核)を務めた。

1928年10月 马寅初は立法院立法委員となり、翌1929年に立法院経済委員会委員長と財政委員会委員長にそれぞれ選出される(当選)。また南京国立中央大学、金陵大学、上海国立交通大学の経済学教授を兼任する。1931年九一八事変勃発後、马寅初は「長期抵抗の準備」と題した一文を発表して、蒋介石の不抵抗政策、安内攘外政策を批判した。1934年の物価の大混乱と対外金融政策の不当について、马寅初は立法院会議で財務部長、孔祥熙を激しく非難した。

抗戦勝利後(抗戦勝利前の誤植か)、马寅初は、北京大学、南京中央大学(現南京大学)、上海交通大学、重慶大学、浙江大学で教えた。また北京大学経済系主任、重慶大学商学院院長を務めた。一貫して四大家族の官僚資本主義に反対し、国民政府が民族利益を売っていることを非難(痛斥)した。(抗戦勝利後の1946年7月)李公朴、闻一多(らの民主人士)が雲南で国民党の特務機関により暗殺されたことが伝わると、憤激した马寅初は、遺書を書き、家族に別れのあいさつをして、青色の民族服をまとって、南京中央大学で講演を行い、大量の事実で国民党反動派の内乱の罪状(罪業)を暴露した。(かつて)马寅初は物価高騰を論じたとき、実名を挙げて(指名道姓),蒋介石を論難(枰击)した。広く発表される論稿で、蒋介石政権の戦時経済政策を攻撃し、孔(祥熙)と宋(嘉澍)の貪欲を批判し、国難で儲けた者の財産に課税して、抗日の経費を賄うとして臨時財産税の課税を求めた。一字一句耳に響く力のこもった演説は、四大家族にまっすぐ刃を向けたものだった。马寅初の厳正かつ物怖じしない行動は、蒋介石を困らせ、马寅初は息峰集中営に閉じ込められた。马寅初は罪を問われ、1940年12月6日逮捕。貴州息峰と江西上饶に前後して閉じ込められるが、社会の世論と中国共産党の支援のもと、1942年8月出獄したものの、歌乐山に軟禁、外界との接触を制限された。马寅初は、当時の国民政府統治区の反蒋愛国民運動を強力に進めたことで、旧中国時代の一人の英雄(英勇)、不屈の民主戦士となった。

旧中国にあって马寅初は誉れ高い経済学者であっただけでなく、一人の英雄、不屈の民主戦士であった。抗日戦争が勃発して以後、民族危機が迫る中、彼は身を挺して文章を書き、講演を行い、官僚資本主義と通貨膨張に反対し、民族利益を売ることや独裁政治に反対した。このような愛国行為により、马寅初は国民党反動派の迫害を受け、集中営に数年の長きにわたり閉じ込められたのちに遂に脱出した。

建設中国

1948年末马寅初は香港を経由して北京に赴き、新中国の創建(筹建チョウチエン)に参加した。

马寅初は中国共産党の真の友人(诤友 諫言してくれる友人)である。新中国が誕生したとき、马寅初は新中国の誕生を心から喜び(欢欣鼓舞ホアンシングーウー)、積極的に共和国の創建に身を投じた。1949年3月25日毛沢東主席,朱徳総司令ら中共中央が西柏坡迁xibaipoqianから北平(現北京)に迎える歓迎式典で、马寅初は会場の秩序を無視して周恩来が乗るジープにかけより、周恩来に大声で「あなたの指示で私は無事北平に来ております」と話しかけ、喜びを爆発させた(喜悦心情溢于言表)。

马寅初は中国共産党の古い友人である。彼自身つぎのように言ったことがある。1939年以来、共産党と一緒でなかったときは一時もない(无时无刻不与共产党在一起)。建国後は、彼は学者の専門知識で、(また)自らの意志で(以主人翁的态度)進言献策を行った。

1949年8月 浙江大学校長、9月に中央人民政府委員、10月に政務院財経委員会副主任、12月に華東軍政委員会副主席に任ぜられた。(また)1952年5月北京大学校長に任ぜられた。1954年9月 第一期全国人民代表大会常務委員会委員に選出された。

新人口論

1953年中国歴史上最初の全人口調査(人口普查)が実施された。1953年6月30日現在の中国総人口は6億193万8035人。推計では毎年1200万から1300万増えており増加率は2%であった。

この人口調査は有名な経済学者で北京大学校長の马寅初の注意を引いた。彼は人口調査の結果に疑問を呈した。この調査は抽出調査を採用し、出生率から死亡率を引いたものを増加率としていた。马寅初はこの調査法では全貌を知ることができないと考えた。彼の理解では上海のある場所の人口純増率は3.9%であった。簡単な算術公式を使わなくても、中国の人口増加率を2%と説明できないのではないか。

马寅初は3年以上の調査研究により、中国の人口増加率が毎年2.2%以上であること、一部では3%に達し、実際はもっと高いことを発見した。このまま増加(発展)が続くと50年後に中国の人口は26億に達する。人が多く土地が少ないということで、飯を食うことすらままならなくなることが恐れられる。そこで彼は自身の研究成果を「人口の統制と科学研究」という一文にまとめた。1955年第一期全人代二次会議が開かれ、马寅初は書き上げた文章を発言稿にして、ほかの浙江小組人代代表の意見を求めた。马寅初が描く当時の状況によると、少数の人を除くと、多くは意見を表明しないか、あるいは馬の見方に同意しないかであり、ある人は馬の説はマルサスの類だとし、別のある人は、マルサスとは異なるがマルサスの思想体系に属するとした。彼らのの意見を、馬は受け入れることはできなかったが、(意見は)すべて善意から出たと考え、自ら発言稿を回収し、再び大会で提出できる機会を待つことにした。

(1955年)9月周恩来は中共八次全国代表大会の報告の中で「婦女と児童の保護のため、将来世代のもっとよい教育のため、民族の健康と繁栄のため、我々は生育方面に適切な制限(节制)を加えることに賛成する」と指摘した。马寅初はこの報告を読んで大変喜んだ。彼は人口抑制(节育)問題が中共中央の議事日程に上がってきた、人口統制問題をオープンに議論できるようになったと考えた。

1957年2月、最高国務会議の第十一次拡大会議において、马寅初は再び「人口の統制」を取り上げ、自らの主張を発表した。「我々の社会主義は計画経済であるが、人口を計画のうちに入れる(列入)のでなければ、人口の統制はできない。計画生育を実行できなければ、計画経済とはならない。」马寅初の発言はすぐに毛沢東に賞賛された。彼(毛沢東)は言う。「人口は計画的に生産できるものだろうか。これは一種の思い付き(设想)だ。この馬老人の話はよくできていて、私は彼と同志であり、

 陈云与马寅初・・・・・・・・

変装した马寅初は危険を逃れ首都に向かった

全国解放戦争勝利がすでに定まる中、中国共産党は新中国建設の準備工作を開始した。1948年4月30日 中国共産党は、各民主党派、各人民団体、各社会指導者(贤达)に政治協商会議の迅速に開催して、人民代表大会の招集を討議実現し、民主連合政府を樹立することを呼びかけた。この呼びかけは各界の積極的な反応を得た。

このとき杭州に住んでいた马寅初は国民党の統治区を離れて、解放区に移ろうと準備していた。

1948年の秋雨が続く夕刻(傍晚),马寅初の古い友人の茶学専門家吴觉农(ウー・チアオノン)が杭州法院路の马寅初の家に彼を訪ねてきた。马寅初は彼を見るなりとても喜び、吴觉农が話すのをまたず、滔滔と彼の時局の見方を語った。彼は次のように考えた。中国人民の百年来の流血と奮闘がついに、解放戦争の勝利により、今実を結ぼうとしている。国民党政権はすでに雪崩を打って瓦解し、その寿命は長くない(行将就木)。繁栄し富強の新中国がまさに今世界の東方に出現しようとしている。同時に彼は、毛沢東と周恩来に対する深い尊敬と敬愛の気持ちを表明した。これを聞いた吴觉农は大変喜んで、新政協の設立準備に加わらないかと尋ねたところ、马寅初は「私にその資格はない(我不能无功受禄啊)」と答えた。これは軽口の中で出てきた発言だが、马寅初の謙遜と自らに厳しい姿勢を表している。確かに彼は三つの大山の重圧から民主革命を実現するに多大な貢献があったが、彼は中国革命に対して自身の貢献は大変少ないと認識していた。「私にその資格はない」というのはまさにその心の声であった。

大师 马寅初 上・・・・・・・・・・

东总布胡同32号。1952年北京の马寅初の家に一人の若いソ連の女性教師がやってきた。彼女は老人にロシア語を教えに来た。このとき马寅初はすでに71歳だった。赫赫(すこぶる)有名な北京大学校長であり、かつ中央政務院の財政経済委員会副主任であった。このロシア語教師は、陈云同志が马の要請に与えたものだった。

诸天寅「马はソ連建設の経験を研究するためには、ロシア語の原文で読まねばならないといった。翻訳は誰かの手を経たものになるし、時に不正確だと。そこで彼は彼の秘書を通じてこの希望を述べた。その後この希望はすぐに実現された。そのとき彼は財経委員会副主任で陈云同志は主任であり、陈云はそれはとても良いことだといった。」

のちに馬老(馬先生)は「私はロシア語をものすごい力(九牛二虎之力)をかけてようやく学ぶことができた。」と述べている。马寅初は仕事が大変忙しかったが、毎朝早くと夜遅くそれぞれ1時間半ロシア語を学ぶ時間をひねり出した。こうした2年間の努力のあと、马寅初は、『ソ連共産党史簡明教程』『政治経済学』『弁証唯物論』『ソ連社会主義経済問題』などをロシア語原書で読むことができた。

新中国成立前、南京国民政府の立法委員と経済顧問を長期間担っていた马寅初は、民国時期の中国経済学会の権威だった。その後、马寅初は国民党と断絶し、中国共産党と歩むことを選択した。

参考

马寅初 维基百百科全日译 

马寅初   参考文献

現代中国研究

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