みぃちゃんの頭の中はおもちゃ箱

略してみちゃばこ。泣いたり笑ったり

自分に素直に生きるには?

2008年06月19日 19時50分57秒 | 性同一性障害 (GID)
昨日のテレビ番組「ザ!世界仰天ニュース」をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。この番組は毎週見ているのですが、今回はたまたま性同一性障害 (GID) MTF*の人 (中村有里さん) のお話でした。内容は同番組のサイトをごらんいただくとして……

ザ!世界仰天ニュース 2008年6月18日放送: 以前はこんな人間でしたスペシャル「死を覚悟して 女子大生」

*MTF …… Male To Femaleの略。体は男性 (male) として生まれたが、自分を女性 (female) だと認識している人。


見ていて涙があふれそうになりました。あふれそうになりましたが、涙はこらえました。

母と一緒に見ていたから。

私は、自分ひとりで見ていない限り、ドラマや映画を見て涙を流すことはしません。

物心がついた頃には、自分の感情を押し殺すようになっていました。いつの間にか、ドラマや映画を見て涙を流すのがみっともないと感じるようになっていました。理由は分かりません。ただ、私の両親はどちらも自分の感情を表す人ではなく、家庭にも感情を素直に表現する雰囲気がないのは事実です。

「感情を殺す子に育てちゃったからねぇ……」

あるとき ぽつりと母がつぶやいた言葉が、今でも耳の奥に引っかかっています。私はとっさに「どんな風に育てたかなんて関係ない」と突っぱねましたが、突っぱねること自体、素直でない証拠です。そのときの話は、それで終わりました。

「もうちょっと自分に素直になろうよ」

最近は、自分にそんなことを言い聞かせています。
悲しくなったら泣けばいいんじゃない?
嬉しいときは笑えばいいんじゃない?
もっと取り乱してもいいと思うよ。


殺していたのは感情だけではありませんでした。

私は4歳頃に、突然自分が男の子ではないと感じました。自分の性別に違和感を感じたときの感覚を「雷に打たれたように」と形容する人がいますが、まさにその通りでした。そのときはテレビの幼児番組を見ていました。歌のお兄さんかお姉さんが真ん中にいて、その回りを小さい子供が取り囲んで歌いながら踊っている、ごくありふれた幼児番組でした。

当時の私は、男の子の持ち物も女の子の持ち物も、両方持っていました。小さなイチゴが散りばめられたバッグは今でも覚えています。

同時に、女の子みたいと言われていました。幼稚園の先生からも、母からも、友達からも、見知らぬ人からも。私の中には、女の子として生きていきたいと思う気持ちがある一方で、自分は男の子であり、男の子にならなければいけないという理性も存在しました。そして、何とか男の子らしく振る舞おうとしていました。

そんな私とは対照的に、番組で紹介された有里さんは、素直に女の子の服を着たいと言い、成長すると髪型を女性的にし、女物の服を着て外出するようになり、大学にも女性の服装で通学したそうです。

こんなに堂々と生きてきたなんて!

私との違いに愕然 (がくぜん) としました。私はずっと自分を殺してきました。素直に生きればいいのに。どうして私はこんなに自分を殺そうとするのでしょう。自分の感情を飲み込んだ結果、頭がおかしくなりそうになったこともあります。感情を飲み込むと心が壊れることを、身をもって経験しました。

このままじゃ本当に壊れちゃう。

これからは、自分の感情を素直に表していこうと思います。私が私であるために。私の態度が急に変わるので、うちの親は変に思うかもしれませんが、これも私です。

自分を押し殺してきた私とは対照的に、有里さんは自分の気持ちに素直に従って女の子の服装で大学に通いましたが、そのために周囲の偏見にさらされます。顔立ちも服装も女の子で、そこに女の子がいるとしか思えないのに、名前は男の子の名前。出席をとるときや身体検査のときなど、男であることが判明するやいなや、好奇の視線が突き刺さります。

つらいです。

私も何度も経験があるのでよく分かります。

例えば病院の待合室。診察を待っている間、周囲の人は私のことを気にも留めません。ただの女性患者のひとりとして、普通にイスに座っています。

状況が一変するのは、名前を呼ばれたとき。最近の病院は、ご丁寧にもフルネームで患者を呼んでくれます。番号札が発行されているのですから番号と名字で呼んでくれればいいのですが、フルネームで呼ばれます。名前を呼ばれると同時に、好奇の視線が四方八方から突き刺さります。針のように鋭い視線が刺さったかと思うと、じろじろと観察する視線に変わり、ドリルのように心の傷口を押し広げていきます。

車の運転免許の更新のときは、あからさまにひどい仕打ちを受けました。私は車を運転しませんが (かなり危ないらしい)、一応免許だけは持っています。

それは、免許更新の手続きを終え、更新後の免許証を受け取りに出向いたときのことでした。

免許更新の部屋には4人の警官がおり、部屋に入るなり「待ってたよ~」と声をかけてきました。私には何が何だか分かりません。どうやら、私の戸籍上の性別と見た目の性別が異なることが警官の興味を引いたようです。

「○○ちゃん、○○ちゃん」

奥にいた男性警官が、私の戸籍上の (つまり男性の) 名前に「ちゃん」を付けて、冷やかし半分に何度も呼んできます。

「美人さんが来るって、みんな楽しみに待ってたんだよー」
「○○ちゃん、写真 見たい? 美人に撮れてるよー」
私の免許証を持ってきた警官は、隠して渡そうとしません。私が手を伸ばすと、免許証を後ろに引っ込めてしまいます。
「○○ちゃん、写真 見てみたい? 見てみたい?」
部屋には、免許更新に来た他の人もいます。そんなところで性別なんかオープンにしてほしくありません。もちろん、周囲の視線は私に釘付け。食い入るような視線が私の全身をなめ回します。

何も言わなければ元の性別なんか分かんないのに。

警官は、みんな執務の手を止めて私を冷やかすのに夢中です。
「○○ちゃん」
「○○ちゃん」
「○○ちゃん」

もうやめて。

逃げ出したい。逃げ出したい。とにかくこんな場からは逃げ出したい。平静を装って、適当に愛想笑いでごまかして、逃げるように部屋から出ました。

どうしてこんな思いをしなければいけないのでしょう。私は見せ物じゃないのに。

私は見せ物じゃないのに。

地下鉄の中で、あふれそうになる涙をこぼさないように必死にこらえていました。こんなところで泣いちゃいけない。こんなところで泣いちゃいけない。

地下鉄の中で突然号泣したら、周りの乗客は何が何だか分からずにびっくりしてしまうでしょう。映画だったら、ここで泣き崩れれば絵になるなー、などと悲劇のヒロイン気取りだった もうひとりの自分もいましたが (泣きそうなときや泣いてる最中でも意外と冷静な自分がいたりします)。

好奇の視線に身を切られたのは一度や二度ではありません。

もうこんな思いはしたくない。

とにかく外に出るのが怖くて怖くて、次第に社会との接触を避けるようになりました。有里さんが大学にもアルバイトにも行けなくなって引きこもった、その気持ちは痛いほど分かります。

でも、引きこもってばかりもいられません。私は今、戸籍上の名前を変更するための申し立てをしています。書類は、既に4月に家庭裁判所に提出しました。まだ裁判所からの呼び出しはありません。

有里さんの場合は、社会からも家族からも追い詰められ、戸籍上の性別を変えるべく、家を飛び出して性別適合手術 (SRS) を受けました。有里さんは、SRSの後、滞在先のプーケットから母親に電話しました。泣きながら絞り出した「大切な体にメスを入れてごめんなさい」という言葉。その気持ちは分かります。私も、SRSを前にして期待と不安と罪悪感を抱えていました。

あのとき、私は玄関にいました。まだ夜も明けない真っ暗な空の下でした。空港まで見送ろうと一緒に支度をする母は、悲しげな不安そうな表情をたたえていました。
「本当にいいの? もう後には戻れないんだよ」

SRSを受けると、もう後には戻れません。SRSまでの経緯を母に話していなかったことに気づきました。電車の中で、つらい過去を母にぽつりぽつりと話しました。こんな過去があって、SRSに行き着いたんだと。そのときの悲しみがよみがえり、涙がにじんできました。電車の中でした。ハンカチで静かに涙を押さえました。昇り始めた朝日が真横から車内を照らしていました。

当時、私は社会との接点を持たないように生活していました。付き合っている彼氏もおらず、ほぼ引きこもりの状態でした。SRSを機に、堂々と社会に出ていこうと考えていました。

その一方で、街を歩いていても旅行に出ても普通に女性として見られるので、本名さえ使わなければ生活はできました。誰とも接点を持たずに引きこもっている限りは、体がどうであろうと戸籍上の性別がどうであろうと関係ないのです。

現在、日本ではGIDの治療に3つの段階が設けられています。第1段階は精神科でのカウンセリングです。性ホルモンの投与が必要と第1段階で認められれば、第2段階のホルモン療法に進み、体の性とは反対の性のホルモンが投与されます。その後、SRSも必要と認められれば、第3段階のSRSに移ります。

ホルモン療法はSRSと違って、意見書さえ出ていれば、決心が固まったときに病院に行ってすぐに始めることができます。しかし、SRSは、SRSを考えてから実際に受けるまでに長い時間がかかります。意見書の発行までに1年近くカウンセリングに通わなければなりませんし、意見書が出て、SRSを実施する病院に受理されてからも、大勢のSRS待ち患者リストの最後に名前を連ねて待機しなければなりません。

SRSの手続きは、SRSを考えた当初の気持ちに基づいて進みますが、手続きの進行に数ヶ月、数年とかかるため、次第に周囲の状況も変化していきます。

私はSRSをキャンセルしました。いろいろな思いが渦を巻いて、何だか分かりませんが、泣きそうでした。あそこに母がいなければ、タイに飛んでいました。SRSを受けなかったので、体に負担はかかりませんでした。しかし、SRSを受けなかったがために、今でも社会との接点を最小限に抑えようとする自分がいます。世界は広がりませんし、自分の心も果たして成長しているのかどうか。

SRSをキャンセルしなければよかったと、今でも後悔することがあります。あの選択が正しかったのかどうかは分かりません。

自分に素直に生きていきたいけど、どうしていいか分かりません。

(6月20日追記)
有里さんは椿姫彩菜 (つばき あやな) という名前でモデルをしていらっしゃいます。オフィシャルブログはこちら。

椿姫彩菜オフィシャルブログ

このブログを読んで元気をもらいました。私は、一時期はかなりテンション高めで、あれこれ挑戦していたのですが、今は元気がないんです……。かつては、会社を立ち上げて「やり手 女社長、元は男」なんてのもいいかも、と思ってたこともあったんですが、今はひっそりと潜伏したい気分。