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自己流経済学再入門、その他もろもろ

「蜂の寓話」復刊ならず

2010-04-29 | Weblog
本年度の書物復権にて、石川経夫著「所得と富」が見事復刊することになりましたが、上田辰之助の「蜂の寓話」は落選してしまった模様です。復刊を期待していたんですが、残念。

とりあえず、ここは都築忠七一橋大学名誉教授の解説を紐解いてみましょう。
上田教授によれば、「蜂の寓話」の作者マンドヴィルは、マキャベリ、ホッブズにつながる利己心の哲学の伝統に位置づけられます。これに対するのが、シャフツベリ、ハチスン、アダム・スミスとつながる利他心の哲学で、道徳心、社会感情を強調する流れです。さらに利己心と利他心をつなぐ思想の系譜にはアダム・スミス、ベンサムが位置づけられ、19世紀産業社会が発展するなかで、功利主義は個人主義を経てフェビアン社会主義へと至る、という解釈になります。

イギリス社会というと、ヴィクトリア朝の謹厳かつ道徳的なイメージがありますが、それに先立つ「リージェンシー」の時代(19世紀初頭)は「放蕩、贅沢、堕落、自由奔放、快楽主義」の時代だったそうです(新井潤美「ジェイン・オースティンとイギリス文化」, NHK出版)。マンドヴィルが「蜂の寓話」を書いた18世紀初頭のイギリスもやっぱり「繁栄と享楽」の時代でした。平和を謳歌しつつも政治的には腐敗していた時代。

都築教授の文章から引用しますと、

”またこの本の副題は「自由主義経済の根底にあるもの」となっており、それは個人創意及びこれと関連を持つ生産能率の問題であるとされております。.....この問題の世界史的な意味を取り上げた先生の「蜂の寓話」は、戦後日本経済再建期のクラシック、古典だと私には思われます。”

”「蜂の巣」のテーマは、原著者の序文に示されています。それは悪徳の奨励ではなく、また一般道徳への風刺でもない。そうではなく個人の悪徳が巧みな管理、あるいは政治的な英知によって全体の壮麗さ、そして現世的な幸福に貢献する、奉仕させられるということであります。そして人類が貪欲、あるいは利己心というその先天的な弱点を取り除かれてしまったなら、強力で文化の誇り高い社会を築くことは望めないとも言っております。”

さて、上田教授といえば敬虔なクェーカー教徒として知られていますし、広く経済思想、経済史をカバーする専門のなかでも、トマス・アクィナスを中心とする中世経済思想のエキスパートでもあります。そんな上田教授が「経済人」をどのように捕らえていたかを見るのは興味深いものがあります。

都築教授は文中で「二人の上田辰之助」論を展開されています。つまり、「現状に異議申し立てをするクェーカーの上田辰之助」と「現状肯定の経済人に傾く上田辰之助」です(上田教授は日本橋小網町の回漕店の次男として生まれています)。「蜂の寓話」の研究は、後者の上田辰之助のなせる業だったといえます。

再び都築教授を引用すれば、

”マンドヴィルの利己心は、動物と同列に置かれるような、まさにそういう意味ではエコノミック・アニマルの利己心と言えるものでありまして、これを巧みに操縦する政治の知恵が問題にされた。そういう意味で自由主義とマーカンティリズムとの巧みな結合がマンドヴィルの世界として提示された。それがまた戦後焼土から立ち上がろうとした日本経済復興の筋道として示されたようにも思われます。”

もう一つの経済人の系譜、即ちスミス、ベンサム流の利他心の哲学が、前者の上田辰之助と結びついたとき何が生まれるか。それは結局果たされなかった訳ですが(上田教授は1956年に亡くなられています)、むしろ現代にこそ相応しいテーマであるように思われます。