(最初の一文を読んで気持ち悪いと思ったら読んじゃだめです)
いつだって強気で伸ばした背筋を曲げもしない、貫くような瞳を壁際まで追い詰めて、この手の中にだけ閉じ込めてしまいたい。そんな欲を幾度か抱いては、苦い感情と共に押し殺して、噛み潰した。
男ならば一度は夢見るだろう。愛する女性への独占欲なんてありふれたもので、この世にはいくらでも存在するもの。けれどそれは、自身には当て嵌まっては"いけない"感情。この手で触れたら壊してしまいそうで、いつだって怯えて及び腰なのは俺の方だ。彼女が受け入れられたとして、おそらく俺の方が受け入れられない。彼女は気にしていないという、父と子ほど離れた歳の差。それがどんなに高い壁なのか、まだ彼女は知らない。まだ彼女は、とても、幼い。
「―ただいまあ、!」
一刻前に見た朧な夢のせいで浮かんだひどい妄想を振り払うように、深夜の沈黙に溺れる部屋へと大声をかけた。完全に闇に沈んでしまった奥の部屋ではもう彼女が眠っているだろう。夜の冷気に冷やされた身体をさすって、手探りに「ランタン」をさがす。これもこの三年で彼女が作り上げた作品の一つだ。何でもソツなくこなしてしまう彼女を、純粋に凄いと思う。心の中で賞賛を贈りながら、壁に特殊な加工を施した木の枝を擦り付けて、点いた火をランタンの中に移す。
ほの明るくなった廊下の先に目線をやると、彼女に貸している部屋のドアが開いていてどきりとした。高揚感にも似た不安感を抱きながら、慎重に足を進める。ノブに手をかけると扉は音もなく開いた。
「っうお!?」
中から白くて細い腕が伸びて、ランタンを奪い去ったのち上着をひっ捕まえ部屋の中に引きずり込まれた。そのままベッドに俺を突き飛ばすと、引きずり込んだ本人はドアを背中で乱暴に閉め、こっちを恐ろしい眼光で睨みつける。思わず後ずさりした。ランタンが消えたせいで目は認識の力を失っていたが、それでも月明かりで微かに見える姿は見知ったもの。だというのに純粋な恐怖を感じる。暗闇の中、僅かに蒼い目が光っているようにも見えた。
「…リタ?」
わかっていながら、確かめるように名前を呼んだ。ぴくりと人影が身じろぎする、どうやら、間違いない。
安堵の息をこぼしたのもつかの間、彼女はフローリングで素足をぺたりぺたりと鳴らしながら大股でベッドに上がって来た。二人分の重圧に耐えかねて、ベッドがぎしりと軋む。やはり無造作に着崩した上着を引っ掴み馬乗りになった彼女に、
体が反射的に目を瞑って身構えた。
機嫌の悪い時、よくこうして殴られた。理不尽な暴力、寝ている間にもちろん抵抗できるはずもなく、かといってその意思もなく。ただ恐怖として染み付いた記憶とは恐ろしいもので、中々目を開けることができなかった。
「…何よ」
不意に呟やかれた彼女の声は、震えていた。しばらく閉じていた目を開くと景色は幾分か鮮明に見えてくる。シーツを被っているのかと思ったがそうではなく、徐々にくっきりとしてきた輪郭に思わず目を逸らした。彼女の手が首へと伸びそうになって、それにひどい殺意を覚えたから。
手探りにベッドから滑り落ちかけていたシーツを引っ掴み、彼女へと巻きつける。上から降ろしてベッドに転がし脱げないように端を握り締めた頃には既に、指先へ酷い震えが広がっていた。押さえようのない不快な感情で息が乱れ、つい彼女の胸へと頭頂部をぶつけて俯く。嫌な汗が一筋伝って、シーツを握り締める自分の手に落ちた。「どうしたのよ、」正気だと言い切る事ができないで居ると、彼女は至極鬱陶しそうに身を捩った。けれどそれどころじゃない。彼女は、何がしたいのだ。
「リタ、何で」
「何ではあんたの方よ」
顔を見れないままで居るから、表情まではわからない。ただ無機質な声色で言われたそれに、彼女は気分を害しているのだという事だけは伝わってきた。俺が身を捩られてからシーツの端を尚更強く掴んだものだから、シーツの中でもぞりと動いてからゆっくりと起き上がったきり、動こうとはしない。
例えばそれが、ちょっとしたイラつきならば仕方がない。けれどそれ以外の理由なのだとしたら、いずれの理由であったとしても受け入れ難い事は間違いない。例えば、それが、そう。
「…殺したら、手に入ると思っただけよ。そうしたら、もうどこにも行かないって思った事くらい、あるでしょ」
無邪気な残酷さだったとしても、だ。いくらなんでもそれで殺人が許されるようでは、アレクセイの恐怖政治と天秤にかけても引けを取らないだろう。可能性を考えていたにも関わらず、手が大げさに強張った。それを感じ取ったのかシーツの間をすり抜けて出てきた両の指が、俺の手を引き剥がそうとしているのか爪を立てる。鈍い痛みに顔をしかめると、突然後頭部に重みがかかった。じわりと髪に広がっていく生暖かい雫、いつもならどこで涙を拭いているんだと笑い飛ばしたはずなのに、身動きすら叶わないほど動揺した。あんなに強かった彼女が、泣いている。そう考えただけなのに、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受ける。泣かせたのは、おそらく他でもない自分だ。
「怖いのよ、だって何もされない。そんなに魅力がない?子供なんて気持ち悪い?言ってくれないとわかんない…!」
独り言か訴えか、苦しそうに言うとリタの全身に込められていた力が抜けて、彼女はそのまま後ろに倒れこんでしまった。涙で濡れた個所が、夜の空気に当てられてひやりとする。
咄嗟に手放しそうになったシーツを、肌蹴ないよう彼女の手にしっかり握らせた。空いた手で掻き回されたようにぼさぼさの髪へ手櫛を入れる、さらりと指の間を零れ落ちていく髪が、掬うことのできない自分の感情のようで、物悲しくなる。無言で泣き続ける彼女の重圧耐えられなくなり、結局沈黙を破ったのはこちらだった。
「…おっさん、ちゃんとリタっちのこと、好きよ。好きで好きで、何かしそうになるくらいに。でもさ」
喉に詰まる息を吐き出して、上手く笑えず苦笑する。嘘を言ったつもりはない、驚きが勝って恐怖を抱いたとはいえ、そう思っていたのは事実だ。嘆息をどう受け取ったのかは知らないが、彼女は苦々しげに表情を歪めて怒ったような顔になった。その間も涙は絶え間なく零れ、漆黒に沈むシーツを濡らしていく。今はそれを拭う手すら持たないような、動けないような、そんな思い込みに駆られた。
今度はこちらから馬乗りになる。急にかかった重量に不信感を抱いたのか、ようやっと開いた彼女の目は少しばかり赤く腫れていた。小さな顔の両端に手をついて、耳元へ囁きかける。
「好きだから、なんもできないのよ。いつかおっさん以外の誰かが好きになったら、きっと、後悔するでしょうよ。だから、何もできない。なんもしない。ごめんね」
不安にさせて、ごめんね。
そこまで思いつめているなんて知らなかった。本当に申し訳ないと思っていても、口付けの一つすら贈れない自分が恨めしい。臆病なこの手は、いつも触れる一瞬前には「騎士シュヴァーン」に戻ってしまう。無感情で利他的で、臆病なくせにもう怖いものはないと嘯く最低な男に、戻ってしまう。
いつだって臆病なのは俺で、彼女は真っ直ぐ視線を逸らさずに、その気持ちをぶつけてきた。俺が答えを出すまでは待ってくれて、でも、納得できなければ駄々をこねる。鬱陶しいなんて思った事はない。ただ少し、困ってしまう。彼女と俺の価値観は違いすぎて、きっと彼女の抱いている感情と俺の持っている感情は最初から少しずつズレがあって、近い将来目を背けられない溝になる。
彼女はまだ子供で、きっといつもと同じように駄々を捏ねるだろうから、その時手を離すのは俺でなくてはいけない。その細やかな手を取った時からずっと決めていた、最悪の未来で俺が取るべき選択。それでもへらりと笑って、言って見せた。
「おっさんは、リタっちが幸せになってくれるなら、誰でもいいのよ。隣に居るのが俺じゃなくても」
「…~~っ!!」
ばしり、と乾いた音が響き渡った。今まで黙って聞いていた彼女が唐突に平手を振り上げ、力の限り打ったものだから頬に鋭い痛みが走る。「った…」じわりと熱くなっていく頬に、笑うより何より呆然となる。彼女を閉じ込めていた両の手を片方退けて打たれた頬に当てると、俄かに滑った感触。どうやら爪を立てられたらしい、猫にでも嫌われた気分になった。
彼女は泣いている。帰ってきてからほとんど泣き顔しか見ていない。まだ俺が上から退いてはいないから起き上がろうとはしないものの、泣いたままひどくこちらを睨みつけていた。襟元が破れるのではないかというくらい、強く胸倉を掴まれる。
「…好きだから何もしないってなによ、傍に居れなくてもいいってなによ?!あんたの言ってる事、全然わかんない!馬鹿じゃないの…?!」
悔しい、と、彼女の蒼い瞳の奥が、酷く訴えている。リタの痛切な思いを忘れないで居たかったから視線は決して逸らさないけれど、どこかその純粋な瞳を見つめているという実感は無く、スクリーン越しに見ているかのような、そんな心地がした。心底から無関心になるような、長らく忘れていた嫌な感情が顔を出す。
「そうね、馬鹿かもしんないわ」振り切るように首を振って、"俺"が困ったように笑う。そっと彼女の頬に手を当て親指で目元を拭ってやると、鮮明になった青の中で貫くようにねめつけられる。胸元を掴む手は脅しというよりももう、縋るのに近いほど震えていたのに、気付かないフリをして目を伏せた。気付いていても、何をしてやれるわけではないのだ。
「馬鹿な男だっただろう、実際に。"君"もその目で見たはずだ」
"いつだって強気で伸ばした背筋を曲げもしない、貫くような瞳を壁際まで追い詰めて、この手の中にだけ閉じ込めてしまいたい"。今その欲が違う形であれ叶えられているというのに、少しも満たされる事はない。彼女の強気な瞳が揺れて大きく見開かれてから、反動のように強く瞑られる。大きく跳ねた肩に、手には密やかに余韻が残り、窓辺から零れ落ちる光に照らされて唇は青白く震えていた。
「やめて、」乞うように呟かれた言葉に甘い響きを覚えたのは一瞬で、それを塗り替える黒くもやがかった感情を何と呼ぶのか。遠い昔に忘れてしまった気がする。
「…ごめーんね。もうおっさん駄目だわ、多分これ以上居たらまた変な事言うから。朝になる前に寝なさいな」
覆いかぶさっていた身体を無理に退けて、未だ離そうとしない彼女の手を、ほんの僅か力を込めて遠ざける。案の定引っ張られていた襟元はだらしなく伸びて、頭は反射的にレイヴンへと戻っていった。明日、何て言い訳をしようか。もう先程の事は考えないようにしていながらもベッドに目線をかければ、顔を背けたっきりこちらを見ない彼女が見えた。返事が無いのをいい事に上から退くと、歪曲から立ち直ったベッドが、今心が軋んだようにぎしりと音を立てた。
引き剥がしたまま掴んでいた手を離すと、失った温度に酷く冷えた心地がする。できればずっと、傍に居たい。夢を見ていいと許されるなら、何だって捨てられる。けれど彼女はまだ未来がある、そして俺には、もう、何もない。
「おやすみ、また明日」
呟いて、振り向きもせずドアを閉める。上手く笑えただろうか。閉ざされた部屋の向こう側から、また泣き声が聞こえる気がして、きりきりと胸が痛んだ。泣き出したい衝動を押さえ込んでどこまでも、奈落へと落ちて行きたくなる。少しも幸せになんて、してやれてないのに、あそこまで追い詰めて、一体何がしたいのかと思う。離した手は震えている。
魔導器に爪を立てて、増していく痛みに耐える夜はもう少なくない。決意もできないこの出来損ないの心臓を抱えて、どこまで行けるというのだろうか。良心の叱責、大人の卑怯さ、焦燥。胸が痛むのはそれだけが原因じゃない事ぐらい、とっくに解っている。
「……ちゃんと、愛してた。忘れない」
けれど、この胸の痛みは決して彼女にはくれてやらない。これはレイヴンが生きていた証、そしてシュヴァーンが存在していた罪。愛しい人を守りたいと思うのは、間違った感情などではない。この痛みが、全てを忘れない傷跡になればいいと、ただ漠然と思う。
愛しい人を、死人になど渡さない。
―――
(尚早へ、焦燥)
※尚早=時期が早いこと。
まだ彼女は幼いから。何もしないよ、できないよ。ごめんね、何もしたくないわけじゃ、ないんだけど。という話。
後半からだんだんgdgdしてくる様にご注目(文章が)。
もしも大好きな人が悪い男に引っ掛かってたら、自分の気持ちを抜きにしても、「やめろよ」って言いたくなりますよね。例えばそう言えなくて、好きな人が泣いていたら、その男、殴り飛ばしてやりたくなりますよね。いくら好きな人が、その男を好きだからって、引き離したくなりますよね。…なりません?女性に訊くのはアレですが。誰が見てるか知りませんが。そして私も女ですが。だから男性の気持ちはよくわかりませんが。
その「悪い男」が自分だったらというだけの、客観的な男の話です。
そしてリタをどう呼ばせるか迷った挙句「彼女」。レイヴンきめえ。
あとリタはちょっとヤンデレになりかけただけです。そんだけです。
好きだから殺した、っていう殺人事件がたまにありますけど、あれの一歩手前みたいな感じ。もちろん、研究者でたった18(三年後の話なので)の女の自分が、元騎士で現役のギルド員の男の首を折れるだとか、締め殺せるだとか、そんな馬鹿なことは考えてません。離れて行かれるくらいだったら自分から、というレイヴンとはまた別の考えで、離れて行かれるくらいだったら"いっそ縛り付けてやる"。いっそこの手で、ってなったらもうヤンデレですけどね。一歩手前一歩手前。相手が無理矢理なくらい強引でいてくれれば、それを受け入れる覚悟はあるのに、自分から強引に行くのは怖くて、「あんたは黙って~」も、精一杯の強がりでしかなかった。
だからあんたなんか嫌いだって、死んでしまえって、好きだと泣きながら首を絞める。死んでしまったらもう、どこに行かれることもなくて、不安になることもなくて、けれどそうしたら二度と、愛しているとは言ってもらえない。
そんな不器用な女の話。あとこのリタ最初の段階では裸だった。まじすんません切腹します。
いつだって強気で伸ばした背筋を曲げもしない、貫くような瞳を壁際まで追い詰めて、この手の中にだけ閉じ込めてしまいたい。そんな欲を幾度か抱いては、苦い感情と共に押し殺して、噛み潰した。
男ならば一度は夢見るだろう。愛する女性への独占欲なんてありふれたもので、この世にはいくらでも存在するもの。けれどそれは、自身には当て嵌まっては"いけない"感情。この手で触れたら壊してしまいそうで、いつだって怯えて及び腰なのは俺の方だ。彼女が受け入れられたとして、おそらく俺の方が受け入れられない。彼女は気にしていないという、父と子ほど離れた歳の差。それがどんなに高い壁なのか、まだ彼女は知らない。まだ彼女は、とても、幼い。
「―ただいまあ、!」
一刻前に見た朧な夢のせいで浮かんだひどい妄想を振り払うように、深夜の沈黙に溺れる部屋へと大声をかけた。完全に闇に沈んでしまった奥の部屋ではもう彼女が眠っているだろう。夜の冷気に冷やされた身体をさすって、手探りに「ランタン」をさがす。これもこの三年で彼女が作り上げた作品の一つだ。何でもソツなくこなしてしまう彼女を、純粋に凄いと思う。心の中で賞賛を贈りながら、壁に特殊な加工を施した木の枝を擦り付けて、点いた火をランタンの中に移す。
ほの明るくなった廊下の先に目線をやると、彼女に貸している部屋のドアが開いていてどきりとした。高揚感にも似た不安感を抱きながら、慎重に足を進める。ノブに手をかけると扉は音もなく開いた。
「っうお!?」
中から白くて細い腕が伸びて、ランタンを奪い去ったのち上着をひっ捕まえ部屋の中に引きずり込まれた。そのままベッドに俺を突き飛ばすと、引きずり込んだ本人はドアを背中で乱暴に閉め、こっちを恐ろしい眼光で睨みつける。思わず後ずさりした。ランタンが消えたせいで目は認識の力を失っていたが、それでも月明かりで微かに見える姿は見知ったもの。だというのに純粋な恐怖を感じる。暗闇の中、僅かに蒼い目が光っているようにも見えた。
「…リタ?」
わかっていながら、確かめるように名前を呼んだ。ぴくりと人影が身じろぎする、どうやら、間違いない。
安堵の息をこぼしたのもつかの間、彼女はフローリングで素足をぺたりぺたりと鳴らしながら大股でベッドに上がって来た。二人分の重圧に耐えかねて、ベッドがぎしりと軋む。やはり無造作に着崩した上着を引っ掴み馬乗りになった彼女に、
体が反射的に目を瞑って身構えた。
機嫌の悪い時、よくこうして殴られた。理不尽な暴力、寝ている間にもちろん抵抗できるはずもなく、かといってその意思もなく。ただ恐怖として染み付いた記憶とは恐ろしいもので、中々目を開けることができなかった。
「…何よ」
不意に呟やかれた彼女の声は、震えていた。しばらく閉じていた目を開くと景色は幾分か鮮明に見えてくる。シーツを被っているのかと思ったがそうではなく、徐々にくっきりとしてきた輪郭に思わず目を逸らした。彼女の手が首へと伸びそうになって、それにひどい殺意を覚えたから。
手探りにベッドから滑り落ちかけていたシーツを引っ掴み、彼女へと巻きつける。上から降ろしてベッドに転がし脱げないように端を握り締めた頃には既に、指先へ酷い震えが広がっていた。押さえようのない不快な感情で息が乱れ、つい彼女の胸へと頭頂部をぶつけて俯く。嫌な汗が一筋伝って、シーツを握り締める自分の手に落ちた。「どうしたのよ、」正気だと言い切る事ができないで居ると、彼女は至極鬱陶しそうに身を捩った。けれどそれどころじゃない。彼女は、何がしたいのだ。
「リタ、何で」
「何ではあんたの方よ」
顔を見れないままで居るから、表情まではわからない。ただ無機質な声色で言われたそれに、彼女は気分を害しているのだという事だけは伝わってきた。俺が身を捩られてからシーツの端を尚更強く掴んだものだから、シーツの中でもぞりと動いてからゆっくりと起き上がったきり、動こうとはしない。
例えばそれが、ちょっとしたイラつきならば仕方がない。けれどそれ以外の理由なのだとしたら、いずれの理由であったとしても受け入れ難い事は間違いない。例えば、それが、そう。
「…殺したら、手に入ると思っただけよ。そうしたら、もうどこにも行かないって思った事くらい、あるでしょ」
無邪気な残酷さだったとしても、だ。いくらなんでもそれで殺人が許されるようでは、アレクセイの恐怖政治と天秤にかけても引けを取らないだろう。可能性を考えていたにも関わらず、手が大げさに強張った。それを感じ取ったのかシーツの間をすり抜けて出てきた両の指が、俺の手を引き剥がそうとしているのか爪を立てる。鈍い痛みに顔をしかめると、突然後頭部に重みがかかった。じわりと髪に広がっていく生暖かい雫、いつもならどこで涙を拭いているんだと笑い飛ばしたはずなのに、身動きすら叶わないほど動揺した。あんなに強かった彼女が、泣いている。そう考えただけなのに、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受ける。泣かせたのは、おそらく他でもない自分だ。
「怖いのよ、だって何もされない。そんなに魅力がない?子供なんて気持ち悪い?言ってくれないとわかんない…!」
独り言か訴えか、苦しそうに言うとリタの全身に込められていた力が抜けて、彼女はそのまま後ろに倒れこんでしまった。涙で濡れた個所が、夜の空気に当てられてひやりとする。
咄嗟に手放しそうになったシーツを、肌蹴ないよう彼女の手にしっかり握らせた。空いた手で掻き回されたようにぼさぼさの髪へ手櫛を入れる、さらりと指の間を零れ落ちていく髪が、掬うことのできない自分の感情のようで、物悲しくなる。無言で泣き続ける彼女の重圧耐えられなくなり、結局沈黙を破ったのはこちらだった。
「…おっさん、ちゃんとリタっちのこと、好きよ。好きで好きで、何かしそうになるくらいに。でもさ」
喉に詰まる息を吐き出して、上手く笑えず苦笑する。嘘を言ったつもりはない、驚きが勝って恐怖を抱いたとはいえ、そう思っていたのは事実だ。嘆息をどう受け取ったのかは知らないが、彼女は苦々しげに表情を歪めて怒ったような顔になった。その間も涙は絶え間なく零れ、漆黒に沈むシーツを濡らしていく。今はそれを拭う手すら持たないような、動けないような、そんな思い込みに駆られた。
今度はこちらから馬乗りになる。急にかかった重量に不信感を抱いたのか、ようやっと開いた彼女の目は少しばかり赤く腫れていた。小さな顔の両端に手をついて、耳元へ囁きかける。
「好きだから、なんもできないのよ。いつかおっさん以外の誰かが好きになったら、きっと、後悔するでしょうよ。だから、何もできない。なんもしない。ごめんね」
不安にさせて、ごめんね。
そこまで思いつめているなんて知らなかった。本当に申し訳ないと思っていても、口付けの一つすら贈れない自分が恨めしい。臆病なこの手は、いつも触れる一瞬前には「騎士シュヴァーン」に戻ってしまう。無感情で利他的で、臆病なくせにもう怖いものはないと嘯く最低な男に、戻ってしまう。
いつだって臆病なのは俺で、彼女は真っ直ぐ視線を逸らさずに、その気持ちをぶつけてきた。俺が答えを出すまでは待ってくれて、でも、納得できなければ駄々をこねる。鬱陶しいなんて思った事はない。ただ少し、困ってしまう。彼女と俺の価値観は違いすぎて、きっと彼女の抱いている感情と俺の持っている感情は最初から少しずつズレがあって、近い将来目を背けられない溝になる。
彼女はまだ子供で、きっといつもと同じように駄々を捏ねるだろうから、その時手を離すのは俺でなくてはいけない。その細やかな手を取った時からずっと決めていた、最悪の未来で俺が取るべき選択。それでもへらりと笑って、言って見せた。
「おっさんは、リタっちが幸せになってくれるなら、誰でもいいのよ。隣に居るのが俺じゃなくても」
「…~~っ!!」
ばしり、と乾いた音が響き渡った。今まで黙って聞いていた彼女が唐突に平手を振り上げ、力の限り打ったものだから頬に鋭い痛みが走る。「った…」じわりと熱くなっていく頬に、笑うより何より呆然となる。彼女を閉じ込めていた両の手を片方退けて打たれた頬に当てると、俄かに滑った感触。どうやら爪を立てられたらしい、猫にでも嫌われた気分になった。
彼女は泣いている。帰ってきてからほとんど泣き顔しか見ていない。まだ俺が上から退いてはいないから起き上がろうとはしないものの、泣いたままひどくこちらを睨みつけていた。襟元が破れるのではないかというくらい、強く胸倉を掴まれる。
「…好きだから何もしないってなによ、傍に居れなくてもいいってなによ?!あんたの言ってる事、全然わかんない!馬鹿じゃないの…?!」
悔しい、と、彼女の蒼い瞳の奥が、酷く訴えている。リタの痛切な思いを忘れないで居たかったから視線は決して逸らさないけれど、どこかその純粋な瞳を見つめているという実感は無く、スクリーン越しに見ているかのような、そんな心地がした。心底から無関心になるような、長らく忘れていた嫌な感情が顔を出す。
「そうね、馬鹿かもしんないわ」振り切るように首を振って、"俺"が困ったように笑う。そっと彼女の頬に手を当て親指で目元を拭ってやると、鮮明になった青の中で貫くようにねめつけられる。胸元を掴む手は脅しというよりももう、縋るのに近いほど震えていたのに、気付かないフリをして目を伏せた。気付いていても、何をしてやれるわけではないのだ。
「馬鹿な男だっただろう、実際に。"君"もその目で見たはずだ」
"いつだって強気で伸ばした背筋を曲げもしない、貫くような瞳を壁際まで追い詰めて、この手の中にだけ閉じ込めてしまいたい"。今その欲が違う形であれ叶えられているというのに、少しも満たされる事はない。彼女の強気な瞳が揺れて大きく見開かれてから、反動のように強く瞑られる。大きく跳ねた肩に、手には密やかに余韻が残り、窓辺から零れ落ちる光に照らされて唇は青白く震えていた。
「やめて、」乞うように呟かれた言葉に甘い響きを覚えたのは一瞬で、それを塗り替える黒くもやがかった感情を何と呼ぶのか。遠い昔に忘れてしまった気がする。
「…ごめーんね。もうおっさん駄目だわ、多分これ以上居たらまた変な事言うから。朝になる前に寝なさいな」
覆いかぶさっていた身体を無理に退けて、未だ離そうとしない彼女の手を、ほんの僅か力を込めて遠ざける。案の定引っ張られていた襟元はだらしなく伸びて、頭は反射的にレイヴンへと戻っていった。明日、何て言い訳をしようか。もう先程の事は考えないようにしていながらもベッドに目線をかければ、顔を背けたっきりこちらを見ない彼女が見えた。返事が無いのをいい事に上から退くと、歪曲から立ち直ったベッドが、今心が軋んだようにぎしりと音を立てた。
引き剥がしたまま掴んでいた手を離すと、失った温度に酷く冷えた心地がする。できればずっと、傍に居たい。夢を見ていいと許されるなら、何だって捨てられる。けれど彼女はまだ未来がある、そして俺には、もう、何もない。
「おやすみ、また明日」
呟いて、振り向きもせずドアを閉める。上手く笑えただろうか。閉ざされた部屋の向こう側から、また泣き声が聞こえる気がして、きりきりと胸が痛んだ。泣き出したい衝動を押さえ込んでどこまでも、奈落へと落ちて行きたくなる。少しも幸せになんて、してやれてないのに、あそこまで追い詰めて、一体何がしたいのかと思う。離した手は震えている。
魔導器に爪を立てて、増していく痛みに耐える夜はもう少なくない。決意もできないこの出来損ないの心臓を抱えて、どこまで行けるというのだろうか。良心の叱責、大人の卑怯さ、焦燥。胸が痛むのはそれだけが原因じゃない事ぐらい、とっくに解っている。
「……ちゃんと、愛してた。忘れない」
けれど、この胸の痛みは決して彼女にはくれてやらない。これはレイヴンが生きていた証、そしてシュヴァーンが存在していた罪。愛しい人を守りたいと思うのは、間違った感情などではない。この痛みが、全てを忘れない傷跡になればいいと、ただ漠然と思う。
愛しい人を、死人になど渡さない。
―――
(尚早へ、焦燥)
※尚早=時期が早いこと。
まだ彼女は幼いから。何もしないよ、できないよ。ごめんね、何もしたくないわけじゃ、ないんだけど。という話。
後半からだんだんgdgdしてくる様にご注目(文章が)。
もしも大好きな人が悪い男に引っ掛かってたら、自分の気持ちを抜きにしても、「やめろよ」って言いたくなりますよね。例えばそう言えなくて、好きな人が泣いていたら、その男、殴り飛ばしてやりたくなりますよね。いくら好きな人が、その男を好きだからって、引き離したくなりますよね。…なりません?女性に訊くのはアレですが。誰が見てるか知りませんが。そして私も女ですが。だから男性の気持ちはよくわかりませんが。
その「悪い男」が自分だったらというだけの、客観的な男の話です。
そしてリタをどう呼ばせるか迷った挙句「彼女」。レイヴンきめえ。
あとリタはちょっとヤンデレになりかけただけです。そんだけです。
好きだから殺した、っていう殺人事件がたまにありますけど、あれの一歩手前みたいな感じ。もちろん、研究者でたった18(三年後の話なので)の女の自分が、元騎士で現役のギルド員の男の首を折れるだとか、締め殺せるだとか、そんな馬鹿なことは考えてません。離れて行かれるくらいだったら自分から、というレイヴンとはまた別の考えで、離れて行かれるくらいだったら"いっそ縛り付けてやる"。いっそこの手で、ってなったらもうヤンデレですけどね。一歩手前一歩手前。相手が無理矢理なくらい強引でいてくれれば、それを受け入れる覚悟はあるのに、自分から強引に行くのは怖くて、「あんたは黙って~」も、精一杯の強がりでしかなかった。
だからあんたなんか嫌いだって、死んでしまえって、好きだと泣きながら首を絞める。死んでしまったらもう、どこに行かれることもなくて、不安になることもなくて、けれどそうしたら二度と、愛しているとは言ってもらえない。
そんな不器用な女の話。あとこのリタ最初の段階では裸だった。まじすんません切腹します。