漠然と見えているもの

2010-10-16 22:02:05 | 未解明
別マガのブログ 桜場コハル先生とのお仕事について
桜場コハルという人は異能の作家なのだろう。マイペースな人なのは作風からわかっていたが。
とゆーか単行本は来年春ッスか。

萌えの次のステージが見えたと思ったが「萌え」のターンが本当に来ていたのかどうかは怪しい。
萌えなんて言葉は由来からして不明である。ただ漠然と思うのはエロゲー的な文脈のキャラクター造形を一般メディアに移行する過程で萌えという言葉を使うようになってきたような気がする。広まり始めたのは00年ごろ? 記憶では確かにそのくらいだった気がする。

「あずまんが大王」が始まったのが99年だけどコミックス発売は00年くらい。
「萌え」文化の象徴があずまんが大王でいいのかどうかは知らない。いわゆる萌え漫画の類型があずまんがフォロワーであると思うだけのことで。
その、女子高生とかが出てきてゆるい日常が舞台で描きこみがゆるい4コマというイメージのアレのことで。内容は全年齢向きで。
そういった後追いはあずまんがなり他の何かなりの影響を多々感じるが、あずまんが大王じたいは何かの影響を受けているようには見えない。そこが革新的なところなんだろう。

あずまんが大王は断じて薄っぺらな作品ではない。4コマの中に必要な情報は全て詰まっており、かつ余計な情報は排除されている。「4コマあってそのうち2コマで何もしない」などという効率の悪いことはしていない。
きわめて圧縮率の高い、効率のいい漫画であるといえる。
残念ながらフォロワーにはそうでないものもある。情報が少ないほうが読みやすいこともあるんだとは思うが、果たしてそうなのか。
逆に背景を緻密に描き込んだりするのはどうなんだ。

次のステージ:
女子高生が出てきてどうのこうのいう「萌え」はもう定番となっているので次は「萌え」よりももっとわかりにくい『概念』が導入されることが予期される。
その概念がなんとなく「みなみけ」に見えた気がしたのだが言語化する方法が見当たらない。同じ傾向の作品が無いわけではなく、またみなみけより以前、たとえば「あずまんが大王」からもその『概念』は検出されると思うのだが、それが何なのか特定できない。

みなみけの画面は脅威的に白い。しかも一話8ページしかなく、その一話で下手すると4コマ二本ぶんくらいしか話が進展しない。これはおそらく「並大抵の萌え4コマ」では太刀打ちできないレベルと思われる。
だがこの表面的な密度の薄さから意外なまでにたくさんの情報が読み取れる。これは紙面に含まれている情報の量は少なくとも、各々の情報の重要性が高いからだという結論に達した。
情報の取捨選択、必要な情報だけを的確に伝える。たとえば女子高生の日常のうち必要なぶんだけの情報であるとかをだ。

みなみけの最大の特異性は中学生と小学生と高校生が同じ次元で仲良くしてることだと思う。