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犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

仙厓さんの「○△□」再考

2025-06-20 22:01:43 | 日記

仙厓さんの遺偈のことを書いたこともあって、仙厓さんの遺した絵や書の図録を見直してみました。最も難解とされる「○△□」は、前に見た印象と異なるだろうか、という期待もあります。

玄侑宗久さんは、この図について次のように述べています。

一円相という型にこだわる心がすでに停滞ではないか。仙厓はたぶんそう考えたのではないか。絵画的な発想がこの場合強烈に既存の定型を破る力になっている。おそらく仙厓は、大まじめに「○△□」を描いたあと、何もいわず「うっふっふ」と笑ったのではないか。(『仙厓 無法の禅』)

私は昔これを読んで、はたと膝を打ち、なるほどと深く納得したのでした。ところが、やはり仙厓さんの「定型を破る力」のもう少し先にある思いに辿り着けないかと、欲が出てしまいます。虚心に眺めることで見えるものはないのかと。

まず真ん中の△は、人が座禅を組む姿のように見えて来ます。その右横が○で、円相は仏性や宇宙全体などと解釈されるところです。これは、何か望ましいもの、目指すべきものと理解してよさそうな気がします。左横の□は、四角四面という言葉があるように、この世の中の約束ごとや規則のようなものと捉えてはどうでしょうか。

人は四角四面の約束ごとのなかで、ようやく生きてはいますが、その一方で○的なものに命を賦活されなければならない。仙厓さんの図をよく見ると、△は□に接していますが、不即不離のような立ち位置であるのに対し、△は○のなかに大きく足(?)を踏み入れています。難しいことだけれども、命を鍛えながら、日々の暮らしも疎かにせぬように、という教えだと差し当たり解釈してみました。

われながら、全く面白味のない謎解きになってしまいました。そこで、次のように、大きくひねりを加えて考えてみました。
たびたび、何とかのひとつ覚えで恐縮ですが、○をトンネルの出口と考えます。△はトンネルの内側にいて、内部の世界にとどまっています。その証拠に四角四面の□を引きずっています。ところが、△は身を乗り出して円の内側(つまり外部)を覗き込もうとしているように見えます。こうすることで、四角四面の約束ごとに浸かりきっていた時とは、まったく違う命の輝きを得るのです。

どうでしょうか。
仙厓さんのヘタウマ風の絵は、生前から大変な人気で、偽物書きも複数いたようです。そのうちのひとりは、こんなものを描いたと言ってよく仙厓さんに見せに行っていたそうで、仙厓さんも面白がって、これはよう描けたといっては落款を押してしまうのだそうです。そんな訳で、本当のところ本物の仙厓さんの絵なのかどうか、判然としないものもあるということです。

この駄文にも、よう書けたと言って、仙厓さんが落款を押してくれるとよいのですが。

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