犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

京都茶道の旅

2024-09-20 21:03:18 | 日記

三連休を利用して、夫婦で京都に行ってきました。
炎天下、長距離を歩くのはお互いに無理だとわかっていたので、茶道に関係する場所だけにしぼって訪ねる旅でした。

裏千家今日庵の前でお互いの写真を撮っていると、茶道会館の方がわざわざ夫婦並んだ写真を撮ってくれました。一昨年お茶名を拝受した妻と、今年頂いた私とで、こうやって今日庵の前で並んでいる姿は、十年前には想像もしなかったことです。娘たちの独り立ちを間近にした、人生の門出にふさわしい記念写真だと、話をしました。

今日庵からしばらく歩いて到着した、京菓子資料館で頂いた薄茶の美味しかったこと。これまで頂いた薄茶のなかで、おそらく最も美しく点てられ、口当たりの良いお茶でした。

床の間には「掬水月在手」(水を掬すれば月手に在り)が掲げられています。禅語の中でも私の特に好きな言葉で、当ブログでも何度か取り上げたことがあります。日が暮れたのも忘れて野に遊んでいると、ひと掬いした掌中の水に思いがけず月が映っている、という詩の一部です。掌中の水に月が宿るように万物に仏性が宿る、などと解されることもありますが、私はむしろこの詩の中に描かれる「驚き」にこそ、心打たれるのです。

手のひらのひと碗のお茶の美しさ、美味しさは、突然に姿を現した月のように驚きであり、「掬水月在手」がより近くにあるように感じました。これまで、頭のなかでだけ理解したつもりになっていた言葉が、身体のなかにストンと落ち着いたような心地すらしました。
これから、この言葉に接したときには、必ず今日のこのお茶の味を思い出すだろう、そう思ったほど素晴らしい一服でした。

相国寺承天閣美術館は、お茶道具関係の充実した展示でした。
武家文化と禅宗とが融合し、室町幕府が京都にあったことから、この地で茶道文化が一気に開花したことがよくわかります。金閣寺にある茶室「夕佳亭」を原寸大で復元したものがあり、三畳の茶室が、のちに利休が大成した侘び茶の世界をすでに醸し出していました。

色々な展示会場を訪れて思ったことは、実際に現場を切り盛りしているスタッフが、たったひとりのケースが多いということでした。もちろん展示物の保存、展示、収集などには多くの関係者の労力と相当な費用が掛かっているのでしょうが、現場を任されているスタッフの苦労はいかばかりかと思います。
京菓子資料館の薄茶は、そんなたったひとりのスタッフに点てていただいた絶品でした。生涯忘れることのない味だと思います。


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