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犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

失えば自由になれる

2025-07-07 20:04:52 | 日記

七夕の短歌を調べていると、こんな歌に出会いました。

この家を出ていきたいと七夕の星につくづく願いをかける
(西橋美保)

独立をしたい少女の思いなのか、嫁ぎ先の息の詰まるような環境から抜け出したいという主婦の思いなのか、後者ならばとても重たい歌になります。嫁ぎ先のお墓には入りたくないと心情を吐露した女性の話を書いたので、どうしても後者のように読めてしまいます。七夕の日の願いなので、なおさら重たく感じます。

同じ作者の歌にこんなものがあり、少しほっとしました。

うしなヘば自由になれるきつかけは些細で後はとつぴんしやん、と

失うのは、嫁ぎ先の人間関係なのか、実家に対する過度な期待なのか、いずれにしても、些細なきっかけで人は自由になれるのです。

前にこんな話を読んで、なるほどと思ったことがあります。
生前の「無」と死後の「無」、いずれも無であるのに、死後の無を恐れるのはどうしてか。死後の「無」は、いろいろなものが生起したり退場したりする「場」そのものの消失としての無であるからだと、とりあえずの答えは出ます。しかし、話はここで終わりません。

われわれは時間軸が一直線に流れると思い込んでいるので、ものごとの生成の場が消失することを恐ろしいと感じることを当然と思ってしまいます。しかし、時間軸が円環を描いていると考えると、死後の「無」は生前の「無」と地続きになります。失うことは、ただちに始まることにつながるのです。

また、この円環が無限に大きくなるとすると、生と死をつなぐ有限の直線は「点」に近くなって、むしろ「無」が「デフォルト」としてわれわれの前に立ち現れます。これは輪廻転生ということを言っているのではなく、有と無のつながりをそう考えることに、なんら不都合はないだろう、という実践的な問いかけでもあります。

「うしなヘば自由になれる」とは、無限の円環のような視点を得ることで、完全に到達できる視座なのだと思います。そして、七夕の夜空を見あげるとき、われわれは日常のものごとの尺度から、自由になることができます。きっかけは些細なことでも、われわれ自身の自由さえ、手に入れることができるかもしれないと思います。

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