犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

湯気が舞う

2022-11-07 23:15:08 | 日記

先日はお茶の師匠の「炉開き」でした。11月からは風炉をしまって、炉の稽古が始まります。
釜の中で沸く湯気の音がすぐ近くに聞こえると、炉の季節なのだと改めて感じます。臨場感という点では、炉は風炉を圧倒していると思います。

正客の席に着くと、釜から湯気の柱が渦を巻いて立ち上がっています。炭の火力の強い時の湯気の勢いはいつ見ても壮観で、亭主の姿が湯気の影にかすんで見えることもあります。釜から柄杓で湯を汲むと、合(湯を汲む部分)に付いた湯気が柄杓の動きに合わせてついてきます。釜の蓋の開け閉めが多い炉の点前では、柄杓の動きも複雑で、それに合わせて湯気のダンスも美しい軌跡を描くのです。柄杓を釜の縁にかけると、湯気の柱が崩れて釜の辺りにたゆたうので、茶を点てる亭主の姿がくっきりと現れます。
炉の点前における湯気の演出に、改めて見入ってしまいました。

そして、こんなことも考えました。柱のように勢いよく立ち昇る湯気は青年期の活力、空間を優雅に舞う湯気は壮年期の躍動、釜の辺りに低くたゆたう湯気は老年期の静寂のようで、たった一服のための点前にも人の生涯のリズムが繰り広げられるのではないか、と。我ながらつまらない喩えかと思いましたが、このサイクルは季節が巡るように、心がけ次第で何度でも繰り返すことができる、と考えるならば、それなりに示唆に富んでいるのかもしれないと思い直しました。

還暦を迎えて3年が経ち、第一線の仕事から手を引き始めると、人生の「底」が見えてきたようにも思います。深い井戸のように見えていたものが、まるで水の補充を忘れた水指のように、いつのまにか底を見せているのです。この数年、自分が何を失ってきたか、何を成し得なかったか、何をすればよかったのか、そんなことばかりが頭の中を占めていました。
ところが、妻が病を抱えるようになって、これがだいぶ変わったように思います。
とにかく前を向かなければ、不安の影に引きずり込まれてしまうので、無理にでもみずからを鼓舞しなければなりません。水をたたえなければならないと思うようになりました。

稽古から帰って夕暮れの街を歩いていると、ポップミュージックの大音響が聞こえてきたので、音の聞こえる公園の方に歩いて行きました。夜空が様々な色に輝きながら動いています。近づいて、ようやくそれが夥しい数のシャボン玉で、音楽に合わせて色を変えながらライトアップされているのがわかりました。7人のシャボン玉師による「泡 a-so-bi」というイベントなのだと見ている人に教えてもらいました。
夜空を背にした光の粒は、活力に満ちて生まれ、風に吹かれて躍動し、やがて静寂に沈んでいき、それが何度も何度も繰り返されていました。


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