犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

ある一行

2018-07-03 17:51:34 | 日記

茨木のり子さんの詩『ある一行』は次のように始まります。

一九五〇年代
しきりに耳にし 目にし 身に沁みた ある一行

〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉

魯迅が引用して有名になった
ハンガリーの詩人の一行

絶望といい希望といってもたかが知れている
うつろなることでは二つともに同じ
そんなものに足をとられず
淡々と生きて行け!
というふうに受けとって暗記したのだった

―後段略―
(『倚りかからず』 筑摩書房)

〈絶望の虚妄なること、まさに希望に相同じい〉
こう述べたのは、19世紀ハンガリーの詩人ペテーフィ・シャンドルです。彼の同時代人であるキルケゴールは、絶望をどう乗り越えるのかではなく、絶望のなかでどう生きるかを考え抜いた人でした。

この世の中を「一切皆苦」ととらえ、世界を「空の視点」から、映画でも見るように「色即是空」と眺めることができれば、その苦しみから脱却することができる。そう考えるのが仏教の考え方です。
しかし救済を信じる人にとって、このような考え方は、恐ろしく虚無的な教えに見えるでしょう。実際、初めて仏教に触れたヨーロッパ人は、厭世的な恐怖主義として、これを嫌いました。かりに世の中が苦しみに満ちていても、苦痛から逃れるための鎮痛剤ならば、そんなものは「なし」で済ませたいと考える人もいたはずです。

哲学者の永井均さんは、アナロジー表現の限界を指摘しつつ、次のように語ります。
「色即是空」は鎮痛剤を勧めているのではなく、「希望」という覚醒剤を飲むことをやめるよう勧めているのではないか。そういう逆転を可能にする構造が、この世界の成り立ちに内在しているのだ、と。
深い絶望のなかにあって、希望に寄りかからない生き方に目覚めるとき、それは比喩ではなく、人生に対する覚悟として私たちの前に立ち現れます。

コメント (1)
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