犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

戸口いっぱいの日射し

2018-07-22 00:22:22 | 日記

柳田国男の『山の人生』の序文は、小林秀雄によって何度も触れられており、これをきっかけに同書の世界に引き込まれてしまったという人も多いことでしょう。
背中をポンと付き押されて、そのまま異界へ連れて行かれるような、この導入部は若いころから常に気になるくだりでした。
西美濃の炭焼きの男が、十三歳ほどの男の子と養子の女の子を、男手ひとつで養っていたけれど、来る日も来る日も炭が売れず、ある日飢えきっている子供たちの顔を見るのが辛くて昼寝をして目覚めた後のことです。以下、原文を引用します。

眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍らへ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺(おとう)、これでわたしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。(『遠野物語 山の人生』 岩波文庫 94頁)

柳田国男は、この父親の行為の善悪や、その心理や、あるいは生活の困窮に至らしめた社会制度について語るわけではありません。「こんな機会でもないと思い出すこともなく、また何びとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代わりに書き残して置くのである」と結んだあと、ただひたすらに、「山の人生」の伝承を記し続けます。
私たちは、ちょうど戸口一杯に差し込んだ夕焼けに照らされて目眩を感じるように、ふっと、違う世界に入り込むことになります。

さて、これと似たような話が、坂口安吾の『文学のふるさと』にも記されています。これは芥川龍之介の遺稿をめぐる話です。これも長くなりますが原文を引用します。

晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやつてくる農民作家―この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしてゐる人なのですが、あるとき原稿を持つてきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であらうといふ考へで、生れた子供を殺して、石油缶だかに入れて埋めてしまふといふ話が書いてありました。 
芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になつたのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いつたい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。 
すると、農民作家は、ぶつきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言ひ、芥川があまりの事にぼんやりしてゐると、あんたは、悪いことだと思ふかね、と重ねてぶつきらぼうに質問しました。(中略)
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去つたのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたやうな気がしました。たつた一人、置き残されてしまつたやうな気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たさうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしてゐたばかりだといふ話であります。(「坂口安吾全集 03」筑摩書房、初出 昭和16年)

安吾はただもう「モラルがない」現実が、芥川を突き放したことに注目し、それを自ら語っていることに晩年の芥川の成熟を見ています。モラルがないとは子を殺すことをさすのではなく、安吾の表現を借りれば「女の話でも、童話でも、なにを持つて来ても構はぬでせう。とにかく一つの話があつて、芥川の想像もできないやうな、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあつた」ような現実を指しています。

柄谷行人は著作『坂口安吾論』(インスクリプト社)で 、次のように述べています。

フロイトは、芸術的活動を子供の遊びと類比したうえで、「遊びの反対物は真剣ではない―現実である」と言っている。これはひとをぎくりとさせる逆説である。こういう省察はけっして心理学からでてくるものではない。むしろフロイトの精神分析を生んだものこそ、この逆説なのだ。真剣であること、目覚めていること、リアリスティックであること、それはまだ《現実》ではない。狂気の反対物は正気ではなく、夢の反対物は覚醒ではない―それは《現実》である。どんな真剣な内省もまだ真の内省ではないというフロイトの精神分析の底には、心理学というようなものとは違った認識、理論的というより彼自身の経験からきたというほかないような認識がひそんでいるように思われる。(前掲書 145頁)

炭焼きの男が、戸口一杯に差し込む夕日を目眩がするように感じていたのは、柳田国男がおそらくそう感じた思いを重ねているでしょうし、芥川の「初夏の青葉がギラギラしてゐた」感覚は、安吾の思いでもあったのでしょう。
夢への入り口のようなこの目眩の感覚は、実のところ、夢の反対物である《現実》に出会ったときの「突き放された」思いと一致します。


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