セツの 日々つれづれ日記

猫たちの様子や感動した景色など、日々のささいな出来事をアップしています。

3.11 東日本大震災から4年

2015-03-11 21:16:53 | 日記


あの日、奈良にいた私はパタパタと仕事中で。

揺れているのに気付いたのは、周りでは一人だけでした。

しばらくして、事務員さんが駆け込んできました。

テレビで地震のことが……!!と。

パッとついた画面に映し出されたのは、海が、ゆっくりと何かを押し出し覆っていく映像でした。

みんな、次々と流れる恐ろしい光景に頭が真っ白になって固まっていました。

日本中の人たちがそうだったのではないでしょうか。


いや~~!もうやめたって!!!

画面に向かって涙したこと、数え切れません。

今でも、あの波の下にたくさんの人がいたなんて、信じられないし。

津波が来るぞ~! 逃げろーーーー!!!

そんな必死の叫びが聞こえてくると、そこに飛んで行ってみんな助けなくては!!と気が急いて。

でも何もできない自分がいて。

少し経つと、津波の映像が辛すぎて、それが流れようとするとパッとチャンネルを変えることが増えました。

CMはほとんど公共広告機構のポポポポ~ンと金子みすゞさんの詩でしたね。

ごめんね、というと、ごめんね、という。

静かな数秒の詩に、いくどもホッとさせてもらいました。



東北のために何かしたい。

ボランティアで現地に行くことができない人はたくさんいて。

それでも少しでもなにか手助けができないか。

そんな焦りに、みんな包まれていたようです。


支援物資の搬入がだんだんできるようになってきたころ、仕事場でいろいろ集めて送ろうということになりました。

当日、仕事場の玄関脇にうず高く積みあがった物資の山に、呆然としました。

先輩が、せっせと品物別に分けて、テキパキと数を数えていくのを見て、慌てて私も数え始めました。

この頃、あちこちのお店では、「支援物資のためにたくさん買っていくのは控えてください、逆に物資が不足し始めています!」というアナウンスが流れていました。

なので、みなさんたくさん買うわけにもいかなかったと思うんです、特に紙おむつとか。

それでも、ものすごい数が集まりました。

みんな、なにかしたい、なにかできないかと、私と同じように切実に思っていたんだな、って、ひしひしと感じました。



しばらくして親友からも、

「タオルが不足しているところがあるらしいんで、少しでも集めて送ろう」

そう声をかけてもらい、他にもなにかできることはないかと思っていたのですごくありがたかったのを覚えています。


近くの大型ショッピングセンターへ向かいました。

幸いタオルは不足していないようだったので、少し購入。

悩んだ末、洗濯機を専用の除菌液で何度も洗い、タオルを一度洗濯しました。

普通の状態であれば、まっさらなほうが気持ち良く使っていただけるに決まっています。

けれど、もしも洗濯もなかなかできない状態だったら、私なら一度洗って水気を吸い込みやすくしておいてほしい。

なので、その旨をきちんと書いておくことにしました。

あと、タオルを買った時に、そうだ!とひらめき追加して買った物。

それは、ジップロックの袋でした。

袋ってけっこう役に立ちそうだなぁと思って。

一枚ずつそれに入れ、桜の写真とメッセージを書いたシールを貼って、親友に委ねました。

今でも、その選択は正しかったのかな、と、迷うこともあります。

けれど、もし気持ち悪ければ雑巾にでもしてもらえればいいし、と。

思い出すたび、自分をそう抑えています。


今日の天気を考えると、ほんとうに、こんなに寒い時期に外に放り出された人たちがたくさんいたんだ、と、改めて被災された方々の大変なご苦労を感じます。


昨年旅した宮城県の石巻市と田代島で、津波がみんな持って行った後の大地を見ました。

震災から3年以上経過しても、まだ建物の土台だけが残る真っ平らな状態で、雑草が高く生え放題でした。

商店、小学校……、そんな痕跡を見つけても、とても信じられなくて。

一枚も写真が撮れなかった。

現実にあったことをいまだにちゃんと受け入れられていない自分が、よーくわかりました。

家族を失う、友達を失う、家を住んでいる町を失う。

被災された方々の言葉を聞いていくら涙が流れても、失ったことがない私にはほんとうに理解することはできないし、また、感じすぎることをセーブしてしまっています。

キャパシティの小さい自分が恥ずかしいですが、自分ができることをどんどんしていく、それそれしかない、と前向きに考えるようにしています。



さて、東日本大震災でもうひとつ大きなことといえば、福島第一原発の事故についてです。

震災から今まで、現地で作業してくださっている方々に、心からこころから感謝しています。

ありがとうございます、お疲れ様です。


事故から3日後、礼儀正しく整列して、食事などの配給に並んでいた人たちのところに、福島第一原発からの放射能が降り注いだという話を聞き逆上しました。

ヨウ素剤を正しく配布されなかった場所があったという話にも。

日本はこれではいけない。

そう強く思うきっかけになった日でもありました。


ドイツではこの事故をきっかけに、廃炉へと敏速に舵を切ったそうです。

この地震大国日本で、どうして分からないんだろう。

あの日以来、心の中で渦巻いていることです。

このあいだ、宮崎駿さんが私とまったく同じことを考えておられることを知り、心強く感じました。



もう一回ひどい目に合わなければ日本は分からないんでしょうか。

関電からも、電気代の値上げを伝えるチラシに「値段を元に戻すため、1日も早い原発の再稼動を目指します」なんて書いてあってひっくり返りました。

事故後、あんなにも反対運動があったのに、いまだに汚染水が流れ続けているのに。

廃棄物の処理もできていないのに。

何より、先祖代々大切に耕してきた土地を一瞬で汚染させられた方々の気持ちを思うと。

やりきれなすぎです。


原発がある街の方たちにとっては、なくてはならない経済の要なのかもしれません。

日本は原発のエネルギーで今まで発展してきたのかもしれません。

それでも、これからは。

どうかどうか、クリーンなエネルギーへの変換を、1日も早く始めて欲しいと願っています。

私にできることといえば、せいぜい選挙で原発推進の党には入れないことぐらいなんですけどね。



ヤフーで3.11と検索すると、一人当たり10円が被災地へ寄付されることを、ブログ友達のはいでぃさんから教えていただいたので。

やっぱりブログを書こうと決めました。


関西でろくになんの体験もしていない私の記事でも、少しでもどこかでお役に立てることを信じて……。







最後に。

海外からも、とっても暖かい言葉や義援金をたくさんたくさんいただいたこと、ずっと忘れてはいけないと思いました。

親友から聞いた話では、タイのスラム街でなんとかその日暮らしをしている方たちが、日本のボランティアの人たちにたくさんお世話になったからと、少ない収入の中から義援金をたくさん集めて送ってくださったとのことでした。

一度親友に連れて行ってもらったことがあるので、自分たちの生活が大変なのにそんなにも……!!と恐縮する思いでした。


1日も早い復興を願うとともに、世界中の方たちに感謝していこうと思います。



長い文章を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

コメント欄は一応開けておきますが、なしで全然OKですので。


それでは、また次回です。





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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (saiya24)
2015-03-11 21:28:54
あれからもう4年、いやまだ4年、、被災した人にとっては月日は関係ないのだとおもます。
私も何も出来ませんができることはしたいと思います。
ヤフーのクリックとかまずはできることはしたいと思います。

この日はやはり安易なブログも書く気がおきずでした。
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saiya24さん (セツ)
2015-03-11 21:37:49
ほんとうに、4年くらいあっという間だったでしょうね。
東京でもたくさん揺れましたよね、大変だったのではないでしょうか。
私も、経験していない私が書くのも……とさっきまで思っていたんですが、思い切って書いてみました。
ありがとうございます。
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Unknown (柚子)
2015-03-11 22:08:29
こんばんは(^^)
これからもたくさんの人達と一緒に応援していきましょうね!
「美しい国、日本」取り戻さなくちゃね(^^)
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柚子さん (セツ)
2015-03-11 22:18:47
ありがとうございます。
たくさんの人たちと一緒にって言っていただけて、とても心強いです。
これからも応援していきます!
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こんばんは~♪ (姫子)
2015-03-12 01:11:56
もう4年も経ったのに
まだ 何も済んでいない感じがします。。。
昨日 今日と 被害地からの今現在の映像など
映し出され 少しずつですが綺麗に成っているところもありますが 帰る家も無く 行く所も無く
狭い仮設住宅で住んでいる方。。。
仮設住宅も入れず 壊れて片付けも出来ない自宅で暮らしたままの方。。。
放射能で汚染された所は 何も出来ず
帰りたくても帰れない でも行く所も無い。。。
そんな方達を見ると 胸が痛いです
私の実家も福島ですが 幸いにも県境で放射能も 自宅も大丈夫でしたが親戚が大熊町の人なので もう 住めない所なんです
仮設住宅で暮らしているのですが 年を召しているので行く所も無く困っているそうです
若ければ 新天地で踏ん張って頑張れるのでしょうがね。。。
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姫子さん (セツ)
2015-03-12 02:17:53
こんばんは~。
そうですか、ご親戚の方が今も仮設住宅に…。
4年も経ってなお、高齢の方が不自由な思いをされているなんて、理不尽でなりません。

帰りたくとも帰れない。。。
…悲しいです。
姫子さんも、離れていてさぞご心配なことでしょう…。
またいつどこで大きな災害があるかわかりませんし、仮の措置ではなくしっかりとしたバックアップ作りをして欲しいですね。
まだ何も済んでいない…、そのお気持ちすごく分かりました。
1日も早い復興を、未だ避難されている方々が安心して暮らせるよう、心から願っていますm(_ _)m
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Unknown (ウルママ)
2015-03-12 22:31:30
四国に住んでいると東北地震より
阪神淡路大震災の印象が強い
復興に向け必死に頑張り平和が戻ったかなってときの
震災
原発事故がなかったら・・・
もっともっと早く復興進んでいたかも・・・
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ウルママさん (セツ)
2015-03-13 02:16:54
そうですね…。
阪神大震災、怖かったですね…。
奈良は震度4でしたが(←もっと揺れた気がする)、それでも長くて怖くて世界の終わりかと思いました。
ウルママさんもさぞ怖い思いをなさったでしょうね…。
あんなひどいことはそうそうないだろうと思っていたら、境港とか中越とか…そして東日本…。
おっしゃるとおり、原発事故がなければ…。
二度とこんな事故は起こってほしくないですね。
地震ももう嫌ですねぇ…(T ^ T)
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Unknown (タマ猫)
2015-03-14 14:50:02
もう4年ですね。早いようなきもしま。

あの日のことはよく覚えています。


仕事中で最初は弱い揺れから、長いなぁと思っていたら、だんだん強くなり、机の下に逃げ込みました。


会社の備品や製品が倒れ数トンする、機械までもが、自分の前で動いた時にはやばいと思い非難。


会社も早めに切り上げて帰ったけれど道路が波うっているんですよ。怖かった。

無事に帰りついたけど、停電していました


群馬県は震度5強~6弱でした。もうあんな思いしたくないなぁ


自分のことばかり書いてしまいました。
でも報道はすくなかったけど、群馬県も被害が大きくかったんですよ。

それをわかってほしくって書かずにはいられませんでした。

ではまた。





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タマ猫さん (セツ)
2015-03-14 15:34:39
うわぁ…、群馬県もものすごい揺れだったんですね!!
道が波打つなんて…、想像つかないです…(T ^ T)
ご無事でなによりでした…。
東京のビルが揺れる映像などはよく見かけますが、群馬県の被害は知りませんでした。
ものすごく怖かったでしょうね…。
私、関西人なもので、関東の地理はあまりわからないんですが、今Google map で確認すると、群馬県は結構内陸部ですよね。
それでもそんなに揺れたのですから、とんでもなく大きな地震であったことが改めてわかりました。
ありがとうございます。
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