25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

無責任国家 日本

2019年09月25日 | 社会・経済・政治
 今日は天気があまりにもよく、急にBook Off にこの2年ほどの間読んだ本を売ろうと思い立ち、段ボール2箱に積めて、松阪に出掛けた。新書は20円から50円。単行本は500円から350円。総額約7000円で買い取ってくれ、古本が鰻に化けてしまった。
 今年と来年とで、捨てるべきもを決めて、ごみに出すもの、業者に頼むものをきちんと頭の中で仕分けして、処分しよう、と思ったのだった。
 
 現在三度めの「昭和史」を少しづつ読んでいるという報告をしたが、ひとつ言いたいことがある。それは国民についてである。昭和の満州事変あたりから、軍部、新聞、雑誌、国民がだんだんと戦争の方向に向いて行った。日清、日露戦争で勝った日本は驕っていた。
 国民も、中国一撃論、ソ連脅威による満州フロントライン論などが入り交じり、多くの情報がないまま興奮していった。国民も馬鹿だなあ、と今では思う。けれど、馬鹿なのは政治家であり、軍人のお偉方であり、マスコミ幹部である。結局ツケは国民が払う。青年、その家族一同、最後には少年兵まででてくるが、その責任は死んだ兵士だけでなく、その妻や子供、親も払う。興奮し、煽られ、煽ってもツケは自分で払わなければならないのが国民である。死刑となった政治家や軍の幹部は少数いるが、大方の政治家、官僚、軍幹部、マスコミ幹部は責任もとらず、戦後を生きた。かれらには命というツケは払えないのである。払えるのは国民国家の国民だけである。
 ヨーロッパは第一次世界大戦でこれからの戦争は国民もともに戦う総力戦になること知った。そのことを知った軍人たちは、日本も総力戦体制をつくらないと戦争には勝てない、と考えた。軍部にたてつくものは殺すことまでした。5.15事件、2.26事件でのテロで、学者、文化人もだんだんと口を閉ざし始めた。

 日本は被害者に冷たい社会だ、と先日書いたが、日本は上にいけばいくほど、無責任となる。東電の裁判で、3人の大幹部も責任をとらない。とらせない。原発事故を起こしただけでアウトのはずだ。福島がどうなっても、かれらは無実なのだ。
 たまりにたまった汚染水を海に流すことも徐々に言い始めている。
 この頃そんなニュースが出てくる。トリチウムは安全だという学者と安全ではなく、細胞の核にも入り込むという意見もある。この場合も、原発建設に賛成した地元の人もそのツケを払わされている。そして払っている。東京に住居がある大幹部らは地元民ほどのツケも払わない。
  
 この国は無責任国家なのだ。政治家が世襲制になろうとしているのもその極みである。これにも国民も絡むが、国民だけは責任をとるはずだ。愚かな国民になりたくないが。