25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

やれやれどんどん

2019年09月07日 | 日記
 プログラマーとこちらのやりとりがうまくいかず、やれやれ、という事態だった。ぼくの方に落ち度があるのか、つまりぼくの方のスマホ、PCの環境が悪いのか、ぼくには判断がつかない。相手から指示がくる。そのとおりやってみるが、うまくいかない。google drive やgoogle play を知っていても、その中身や設定のしかたも初めてのことである。ようするにその手の経験がない。
 結局、今日は完成したアプリをインストールし、それを開いてみることができなかった。昔だったら相当イラついただろう。この頃はふーーんてなもんである。20年以上も経ってできなかったものができるのである。どうってことはない。何日でも待てる。

 ところで、今日は東京、大坂、名古屋から同期生が一同に曽根貸別荘に集まって飲み会をするのだそうな。りっぱな大人の会社員である。「前の浜で泳いでもいいですか」「低体温になれば溺れるよ」「いえ、自信があります」 りっぱなふくらはぎを持っている。大丈夫そうな躯体をしている。でもわからん。
「死なれたら困るんだよ」とぼくは「いかん、禁止だ!」と言えない。別にこの前の海で泳ぐには禁止でもない。好きにしてくれ、という気分である。
 彼が泳ぐのをみている人がいるとも限らない。陸側からは見えないが、海の筏からは見える。誰が「危ないことをして」と区長に告げるかわからない。それも面倒なことだが、自己責任の世界のことなので、「くれぐれも死ないように」と言って了承した。内心は、そんなこと俺に訊くなよ、である。
 そうそう海に飛び込んで死ぬとは思えないが、8月中は水の事故死のニュースが多い。
 ぼくの子供の頃は尾鷲港から佐波留島まで遠泳することもあった。ドーバー海峡を泳ぐものもいるのである。
 曽根の浜くらいで心配するな、と自分に言いたいが、やはり何が起こるかわからない、と心配である。そのうち台風の雨が降り始めたので、雨では泳ぐのも止めるだろうと思ってホッとした。
 本当は泳いだのか、泳がなかったのかわからない。
 何となく、若者が死に一番近いところにいるから、心配してしまう。きっとぼくが彼と同い年くらいなら、やれやれどんどん、である。