25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

親と子の永遠の問題

2019年05月31日 | 文学 思想
人間は親の良し悪しにかかわらず、生まれたというそのことだけで、倫理を有する存在となる。そしてそれは責任となる。こう考えるのは例えば岩崎隆一のような殺人犯の親は彼を捨てた。母親と父親の関係はどうだったのだろう、母親はどんな人柄で、息子をどう育てたのだろう。おそらくは母のお腹にいた胎児の頃から乳児期まで母親の心や体の調子はどうだったのだろう。その時期夫は妻にどう接したのだろう。このあたりのことが犯行の根源的なものだと思うが、それでは、そんな母や父を作った親はどうなのだ、そのまた親はどうなのだ、とこの問いは際限がない。

 要するに、この世に生まれ出た子が背負う倫理というべきものをキーワードとして導入するしかない。ただ親の子育て失敗責任は99%はあるのではないかと思うが、それを突き詰めることができない、ということに人間の手が届かないところがある。

 脳のブローカー言語野には、カメラのようにひいて映すところとアップで映すところがあり、アップの像に母親の笑顔が大きく映っていたら、物事をひいてとらえ、客観性を持ち得るように脳が育っていたら、と思うと、なんともやるせない。しかし、これは少年の殺傷事件ではない。岩崎隆一は51歳である。親を克服する、脳を正常に戻すようなチャンスはあったはずである。ブロカー言語野に大きなラーメンが浮かび、食べたいと思っても、ぼくらはときによっては我慢もできるし、ラーメンをアップの像からひくこともできる。

 戦争以外の人殺しでは最悪の人殺しである。このような事件で社会生活を営む人間は怯んではいけない。怯んで神経質になると、それを利用しにかかるものも出てくるし、神経質のシッペ返しもくる。岩崎はそのようなことまで考えていないが、また監視社会は一歩進み、警察国家へと一歩近づく。権力に抗えなくなる国家はよい国家とは言えないのだ。

ダメだ、これは!

2019年05月30日 | 文学 思想
 「暴言」というなら云え!と帯にある本が目にとまり、題を見ると、「日本アホバカ勘違い列伝」とあって、著者は北岡俊明という昭和18年生まれの「日本ディベート研究会会長である。肩書はそうなっている。
「勘違い人間」とは、
1、生まれながらの特権・利権をもった世襲人間
2、能力がないのに有名になり図に乗っている人間
3、能力がないのに、自分を偉いと錯覚し、価値観を押しつける人間
4、国民の血税をすすっている人間
5、勘違いしている組織やテレビ局の人間
 
 と裏表紙に書いてある。
 「なるほど、その通りじゃないかと、その本を買い、読んでみた。すると、プロローグの中で、このような文がある。
 戦後平和主義の惰眠をむさぼっている是枝(万引き家族の監督)には、一兵隊としての小津安二郎や山中貞雄の気持など永久に分からないだろう。当時のすべての日本人は、祖国を守るために銃をとったのである。是枝よ、安っぽい戦後平和主義を振りかざすな。」

この文 「すべての日本人」と書いたのを見た時点でこの著者は終わりである。こういうこともわからず文を書くのか、と思うとあまりにも情けない。著者はもっとデータをとるべきで、安易に「すべて日本人」などという言葉を使うべきでない。その言葉を見るだけで信用できなくなる。
 結局、この著者は軽い男なのである。話にならない。だめだ、これは。それだけだった。
 

ヤケッパチ

2019年05月28日 | 社会・経済・政治
 ヤケッパチになる動機はこの国ではいくらでもある。親に捨てられた子だけではない。老人でさえも年金だけでは生きていけなくなり、若者は年金さえももらえないことが明らかになれば、必ずヤケッパチになる者が出てくる。治安は悪くなる。
 ぼくなどは、安倍政権は戦闘機のような不要な買い物しているし、お金はいくら借金をしても自国通貨を持つ国だからどんどんお金をすればよいと思っているとしか思えない政策を続けている。このツケはいつの日か必ずまわってくる。こうなったらしばらくは治まりはつかないだろう。ドイツのように無借金運営をしてほしい。借金1100兆円。どうやって返す? 返さないと開き直る手もある。物価を上げまくってしまって、借金の価値を減らしてしまうこともできる。もちろん、経済成長をさせて、税金で返済していくこともできるし、国民の預貯金を使ってしまうこともできる。
 しかしこの国は本当は縮小社会に入っている。西欧の先進国は北欧三国しかり、現在のイギリスも縮小した社会に先に進んだのだ。日本も必ずそうなる。そうなる上での国の有り様、計画書がほしい。
 経済、経済と言ってきて、経済はちっともよくなってないし、これからも高度成長期のように成長することもない。
 20年は耐えられるエアコンを5年で故障するようなものを作って、やっていく。これもたまらん話だ。20年持たせる技術はあるのに、買い替えを早くさせようとするこずるい戦略だ。スマホもおよそ耐久年数は5年。修繕なしの時代。人生100年時代になってきて、あと何機エアコンを買い、冷蔵庫、洗濯機、テレビを買い、車を買わなければならないだろう。うんざりする。

いいようのない事件

2019年05月27日 | テレビ
 なんともいいようがない凄惨な事件が起こった。4、50代の犯人(まだ詳しいことはわかっていない)両手に刃物を持ち、バスに乗り込もうとする小学生に襲いかかった。
 この前は交通事故で保育士さんや園児が被害にあった。こういう子供が狙われる事件が起きると社会が神経質になる。社会が分断されていくようないやな予感もする。富裕層は安全な地域を形成し、壁を設ける。そんな町つくりもあり得そうだと心配する。

 ぼくも東京に7歳の孫2人と4歳の子が家を離れて学校・幼稚園に通っているので、他人事でもないような気がするが、どうにもならんしなあ、と思うだけである。

 だいたいこの種の事件が起こると、まずテレビは中継で実況を紹介する。警察や救急車の動きなどを映し、事件の表層部分を報じる。次いで目撃者などを探しだし、同時に現場で何が起こったのか詳しく報じ始める。ついには犯人を割り出してくる。写真も出してくる。犯人はどんな人物で、日常はどんな風だったか、人に聞いたりして、報じる。
 だいたいそんなところでテレビニュースは終わる。それを引き継ぐのは雑誌である。雑誌では犯人の背景や家族、性格、人物がより詳しく描かれる。そして週刊誌報道が終わると、月刊誌の番が来る。より詳細な取材がおこなわれ、書き手の意見や興味の先もわかってくる。詳しい生い立ちも当然わかる。しかしながらここまでである。
 今日、明日はこの事件でもちきりとなる。
 

酒のバチ

2019年05月27日 | 日記
 昨日は昼にはワインを飲み、夕方にはビール、焼酎を飲み、夜にはウィスキーを飲むというあり様で、アルコールに負けた一日だった。脳細胞も何万個、何十万個と死滅したにちがいない。酒のコントロールを間違えると短命化すると思えるので、注意!注意!と思いながらも昨日のザマだ。
ちょっと愚痴になってしまうが、朝乃山の大健闘は褒めておきたい。しかしながら「くそ!」と思うのは、栃ノ心戦での審判部の在り方である。言葉で説明できないのである。「行事軍配は栃ノ心を有利とみて栃ノ心に上げましたが、物言いが付き、協議の結果、栃ノ心の足が出ており、行事差違いで朝乃山の勝ちといたします」と言いかねた。六分の協議中、テレビ画像は何度も何度もいろいろな角度からビデオを流している。

 今日、シブ5時で能町みね子が場所を振り返るので、どういう言うのだろうかと期待している。彼女はあの取り組みのあとすぐ自分のツイッタで「栃ノ心の足はでてない」と「審判何してるの」と憤慨していた。今日はNHKからたしなめられるのではないか。

 バドミントンは中国に圧倒された。白い巨塔の財前五郎は膵癌で死んだ。福山雅治の下手な笑い演技の「集団左遷」はまだまだ続くようでうんざりした。ボーッとテレビを脳を働かせることもなく昼のワインで脳がだらけ切ってしまっていた。テレビの方もだらけ切っていたというわけだ。トランプ大統領が桝席に特別の椅子を用意され、日本の首相と奥方が並んでいる。「チッ」。細君は「あんなに相撲が大好きだった昭和天皇にも同じようなことを一回だけでもしてあげればよかったのに」とまで言い出す始末。「それもちゃうだろう」とか言って、要するになんだかあの取り組みの日から不機嫌なのだ。栃ノ心が大関に復帰できたのはよかったが。

 夜、両胸郭出口のところの筋肉が痛くて、何だろうと不思議に思った。首を後傾し、息を吐きながら前に落とすようにして、最後に額に手で抵抗を与える。これを5回ほどした。すると痛みは治まった。頸椎からくる悪さだと思う。自己診断であるが、酒のバチが当たったのは確かである。

58年ぶりに

2019年05月25日 | 日記
 イオンを出て駐車場までの間、すれ違う初老の男と顔を合わせた。たぶん、目をあわせたのだろうと思う。「じゅんちゃん?」、はて、あっ「あきちゃん?」。58年の歳月が経っているにもかかわらず、パッとわかった。
 あきちゃんは尾鷲の中学校にはいかず、大阪の中学校に行った。小学卒業後会うことはなかったが、あきちゃんの母親をよくスーパーで見た。教育熱心な母親だと思っていた。あきちゃんの母親を見なくなって四年。あきちゃんと偶然会った。「互いの58年を話そう」ということになり、三日後の昼「葉っぱがシェフ」というレストランで会おう、ということになった。
 3日後、「葉っぱがシェフ」に着き、まだあきちゃんが来ていないので、裏庭を見て廻っていた。中村山の裾を上手に使って、よい借景を作っている。シェフが声をかけてくれた。ぼくにはこの人もまた懐かしい。彼はあきちゃんをよく知っているらしかった。
 誰それはどうしている。だれそれとだれそれとだれそれの、お母さんはわれわれ二人の母親と同い年とか、あきちゃん、よくおぼえている。「葉っぱのチーズ」「自家製の生ハム」「縄文焼き鍋」にワイン。生ハムが美味しく、特製のパンも旨かった。

 話は弾み、瞬く間に時が経ってしまった。
 あきちゃんのお母さんは帰り道を間違えて山の中に入ってしまい、滑落したらしい。捜索をしたが見つからず、7か月経って白骨となって発見されたという。ぼくの母も同じようなことがあった。ふらふらと、何を思ってか北浦の奥地に入ってしまい、その辺の叢に足を取られた。母の場合、運良く、人が近くを通った。それで発見されたのだった。
 もうこの年頃になると人の生き死になどに驚きもせず、無情感もない。粛々と人は交替していくだけである。
 また会おう、と言ってぼくは尾鷲小学校から下り、彼は泉方面に上ったのだった。

栃ノ心応援

2019年05月25日 | テレビ
 大相撲のこと、今場所、物言いをつけるべきところをつけない取り組みがあり、首を傾げた。また審判部長のトンチンカンな説明に力士も視聴者も困惑したことがあった。手をちゃんとつけない力士も多く、見てみぬふりをしている。貴景勝のようなに両手をきちんとつけてから立ち会わせるべきだと考える。
 それにしても昨日の栃ノ心は可哀想だった。涙ながらをこぼしたことも、ジョージア語で喚いたことにも同情する。仮に朝乃山が優勝したとしてもすっきりしないことだろう。
 一番の原因は何か。それは審判部長の説明不足にある。ビデオでは踵が着いていないように見えるのに、どうして踵がついたと判断したのか、をわかるように説明するべきだ。俵の上には砂が散らばっているものである。放駒親方の言う砂が舞ったのは俵の砂が落ちたのではないか。ビデオよりもその現場の前にいる審判員の意見を聞いた、とネットニュースなどでは書いている。取り直しをさせるという判断もあったはずだ。
 映像判断か、言葉の判断か。
 栃ノ心には「あんな相撲はとるな」「前へ出て攻めよ」というしかない。あと1勝だぞ、栃ノ心。怪我から這い上がってきたときの根性みせろ。固くなるな。廻しを掴め。
 

大相撲 審判部

2019年05月24日 | テレビ
 なんだ。大相撲。審判部は総入れ替えだ。阿武松審判部長の説明のトンチンカンさはこの前みたが、今日も説明のないコメントだった。普通ビデオを見ている視聴者に納得のいく説明がほしい。栃ノ心の踵は着いてなかった。栃ノ心が勝っていたら極めて妥当な14日めの鶴竜対栃ノ心という好取り組みとなる。不服申し立てができないのか。ああ、がっくり。

疲れた、面白かった

2019年05月24日 | 
 天気もよく、身体もよいので、朝の11時から草刈りをし、昼休みをしてまた午後2時まで、たぶんセロトニンは出まくり今夜はメラトニンがいっぱい出て熟睡できるかもしれない。
 この前の大雨でどんな隙間にも入ってくる水は手強いと思ったのだった。金魚槽用の酸素を水槽に送る電気器具を取り付けた電気プラグを厳重に水が入らないようにしているつもりだった。前もそうだったがやっぱり水が入っていた。
 今日は草は手強いと思う。どこでも生えてくるし、遠慮なく寄生する。野バラなどはいかにも池に近づくなというように、枝をはりだし、服が引っ掛かり、手を傷つける。この前は蛇を見た。池の橋のような植物、硬い杉の葉っぱが茂ったような植物。その植物を寝床にして蛇がいた、鱗が動くのが見えた。蛙を狙っているのだろう。今日は蛇はいなかった。草刈機で刈っても熊手で掻かないと全部刈れているかどうかわからない。一回だけではだめなのだ。必ず狩り残しがある。ハサミも使って狩り残しや石の際を刈る。
 2時間やればぼくはすっかりバテている。
 これ以上はやらない。疲れた。

 ぼくにとっては、「炎立つ」週間だった。一気に昨日までで全部見てしまった。この1993年の大河ドラマ。前九年の役が一部。後三年の役が第2部。奥州藤原家の滅亡(義経を庇護したことが最大の三代目秀衡の判断ミスだった。いやいや、前九年の役の時、八幡太郎源義家とその父頼義に藤原経清が武士の情をかけず、殺しておけば、頼朝も義経も生まれることはなかった。
 藤原泰衡。奥州藤原氏4代目。彼は徹底した和平主義者で、文化を重んじる男であった。平泉を清く明け渡して去るのだった。王さえ代われば、民は戦に狩りだされず、平穏に生活が続いていくのである。被権力者たちというのはそういうものである。面白かった。
 作者の高橋克彦氏とは昔会ったことがある。「剣」という料理屋で。かれはまだその時作家デビューをしていなかったと思う。遠い昔のことだ。忘れてしまった。


理解不能

2019年05月22日 | 社会・経済・政治
 アメリカと中国の貿易戦争はわけがわからない。アメリカが多くの製造業を賃金の安い中国に移し、今度は出ていった会社が中国から輸出するのに
関税をかける。ファーエイを締め出すということは日本の会社もアメリカの会社も締め出すということだ。別に中国の新技術が発展していくことも悪いことではない。
 アメリカの人口はたかだか3億2千7百万人である。仮に13.86億人の中国がインド13億人市場を開拓すればアメリカなど相手にしなくてよいということになる。中国が消費社会に入れば、どこも中国に物を売りたがることだろう。インドもそうなれば相互に経済交流が起こる。
 トランプ大統領がファーウェイを締め出すと言って、なぜ、日本の企業もしたがわなければならないのか、これもよくわからない。せっかく安いスマホが買えるというのに買えないのも不思議だし、5Gという次世代高速通信が日本で遅れることも腹立たしい。
 中国は未来を見据えているように見えるし、日本は未来をみようとしても手続き環境が岩盤なので未来を描きにくい。あまりものアメリカ追従も見苦しい。中立国として、肝を据えてほしいとも思う。
 
 

  

個人主義

2019年05月22日 | 文学 思想
2002年の4月1日に「個人主義」という題で、ホームページの日記欄に書いている。現在1999年からのものを再読、推敲、校正中なので、「アッ」と思うものがある。これが自分が「アッ」と思った文である。


2002年4月1日
個人主義

 人間は絶えず二人以上でいることが本質的で、自然のあり方だとしたら、近代以降重んじられてきた個人主義の考え方を点検する必要がある。 バリの女性が赤ちゃんを産む。母親は個人ではなく二人以上と存在しているからエゴが希薄である。いつも近くに誰かがいるから用事があればちょっと世話を頼める。だから、女ひとりとしてのエゴ(というか思い)と赤ちゃんの世話をするということは互いに逆方向に分裂しないで赤ちゃんを育てることができる。

 赤ちゃんが乳をほしいと泣く。私は今テレビドラマの一番のクライマックスを見ている。こういう分裂である。
 この分裂の極限が虐待である。バリならこれはまずあり得ない。いつでも人が近くにいるからだ。

 バリには個人という尊重されるべき概念が希薄であるのと同様に「他人」という概念も希薄に思える。時々、自分と他人を混同している場面もある。
 人からの恨みや嫉妬はとても気にするが、他人を他人と思うのではなく、自分と同様に人がそこにいる。植物や動物がそこにいるように人がそこにいる。そしてその中でも「人」が一番厄介な存在であることは知っている。おそらくこういう感じである。

 一人でいる時間がほとんどないバリ人は日本で一人アパートで暮らすということがいかに恐ろしいことか知っている。一人でいることが自由きままになれる、邪魔はされない、何を考えてもよい、規制がない、と思わない。不自然だと思う前に恐怖なのである。

 日本でもこのような段階があったのだと思うが、個人の尊厳が教科書で唱えられ、経済の発展とと共に、人間関係のあり方が変わってしまった。今は病的な人間関係の社会となっている。「病的」というのは「エゴ」が丸出しにされて、それが保護される形で基本としてあり、そこから人間関係を求めていくという関係のありかたである。 隣近所の人との関係は避けながらネットでのグループに入るとか、自分の趣味をより満足させるために趣味の会に入るとか。意識して自分の都合のよい人間関係を求める、という風である。

 すべて「わがままきまま」の裏返しの「寂しさ」とか「孤独」から「他人」を求めるという風になっている。

 別段に、バリ社会を絶賛したいのでもない。恐らく息苦しい場面も多いに違いない。
 コンピャンが日本に来た時、「バリと日本、どっちがいい? 」と馬鹿な質問をした。コンピャンは「いつも周りに人がいて助け合えるバリのほうがいい」と言った。

 個人が自由な意思で振舞えるそのおいしさをコンピャンは知らないのだろう。
あるいはこれは相当な毒だと気づいているのだろうか。

 日本社会は90%が中流階級意識をもった人々で構成されている。この90%が自分たちは正常だと思えば正常であろうが、どこか別の場所から見ればみんなわがままな神経症であ
り、人間関係は「不安恐怖症」に陥っているように見える。

 個人の自由をはっきりと意識化し、その問題点を認識し、そして自分の足で立ち、しかも他人という個人を尊重して個人主義は成り立つのかもしれないが、そんなものは幻かも知れない。

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 この年の10月12日にバリ島爆弾テロ事件が起こった。直接的にぼくらは被害を浴びた。1999年から日記を読んでいると、爆弾テロというよりもインドネシア内のイスラム原理派が何かしかけるかもしれないという雰囲気があった。ニューヨーク同時多発テロに呼応しているのは間違いのないことだ。
 同じホモサピエンスの中に「いつまでも戦争を止められない一群、二群の人々がいる」。
 「強いものは滅んでいく」という自然史の流れをよくよく考えることだ。

 


大雨の中で

2019年05月21日 | 映画
 夜の九時頃になって大粒の雨が速い調子で音を立てて降ってきた。ぼくは「炎立つ」に夢中でDVD2枚を見るつもりだった。DVD2枚には大河ドラマの4回分が一枚に収録されている。朝廷から俘囚という差別用語で呼ばれていた蝦夷の安倍一族は同じ蝦夷の清原一族と源頼義国司の連合軍によって滅ぼされる。この時の国司の副長官であった藤原経清(つねきよ)は源頼義の武士にあるまじき振る舞い、欲望に嫌気がさし、安倍側につくのである。そして源頼義と息子義家を殺す機会があったのである。この時「武士の情け」で殺すことはなかった。生涯これでよかったのかと思うことになる。そしてとうとうそれが自分の身に災いする。経清が捕らえられたとき、源氏側は経清を部下にしようとするが、激しく源氏のあり様をののしる経清に堪忍袋の緒が切れて、鋸刑で首を切るのである。これが一部前九年の役の終わりである。

 二部は藤原経清の子清衡が主人公である。清原一族によって育てられている。母は戦いの折り、略奪されたのであるが、一族の長男にめとられ正室となっている。母は家衡という子供も産んでいる。この母は経清の復讐を胸に誓っている。すでに母を演ずる古手川祐子は四十代後半かもしくは五十代であり、妹の鈴木京香はやや年下であるが、そのメークアップ技術に感心する。古手川祐子は復讐と家衡可愛さで時とともに、判断する力も失っていく。このあたりのこころの内をあらわす脚本はとてもよくできている。

 清原の長男が死ぬと、その嫡子、家衡、清衡が次の後継者であるが、清衡は父親が違うため、かやの外である。嫡子である萩原流行が清原真衡を心憎いほど上手く演じている。彼には子ができないため、平氏と源氏の血をひく夫婦を養子とするのである。彼は「俘囚」である。彼の血が続く限り「俘囚」なのである。これを子がないことで、自分の時代に断ち切ってしまいたいのである。自分が死に、養子夫婦の時代となり、子ができて繋いでいけば清原一族は「俘囚」ではなくなる。
 ストーリーをツラツラ書いてもしかたがないのだが、雨がザーザーと屋根をたたく中でじっと画面に集中して見ていると、入り込んでしまうのである。NHKは渡辺謙に続き、村上弘明という俳優をよくも選んだものだ。素晴らしい。のちの「柳生十兵衛」もよかったが、この頃の衣装や鎧兜の方がよく似合う。5時間見続けたのだった。

炎立つ

2019年05月20日 | 映画
NHKの大河ドラマで1993年は前半に「琉球の風」をし、後半は「炎立つ」と半年ずつで二作放映したのだった。以前に「炎立つ」は見ていたが、今度二度目を見ていて、NHKも気合が入っているね、と思い、セットや衣装も何もかも気合が入っている、まあお金がかかっているというのだろうか、作り手に拘りがあるというのだろうか、とにかくたいへんは撮影であったろうと思う。吹雪の中、馬に乗り、戦闘する場面も手抜きがない。
 藤原経清を演じる渡辺謙だけでなくその息子奥州平泉を拓く藤原清衡役の村上弘明もよい。
 話は1051年に始まる「前九年の役」から始まり、「後三年の役」、朝廷からも独立した奥州平泉王国が滅ぶまでの大河ドラマである。
 武士の台頭。武士の手柄をたてる焦り、一族を興隆させようと金銀にとりつかれ、陸奥の安倍一族を滅ぼしたい源頼義。朝廷から離れて独立国としてやっていきたい安倍一族は国守源頼義に従順し、頼義の任期の終わりを待つが、計略に嵌められ、戦争となってしまう。
 当時は城というものはなく、柵と呼ばれる要塞があった。北国での舞台、豪雪、吹雪、蝦夷的習俗、舞踊、衣装など珍しい物を知るのも楽しい。登場俳優陣も素晴らしい。この頃にすでに稲垣吾郎がでていたし、鈴木京香出ていた。麻木久仁子もちょこっと酒くみ女として源義家を演じる佐藤浩市に酒を注ごうとすると、はねかえされていた。この義家の武士としての潔癖さが、ドラマに変化を与えていく。このドラマの期間には朝廷では院政が始まり、朝廷の衰退があり、平家の興隆から滅亡、源氏の台頭、武家政治の始まり、西と東の政治の二重構造の始まりがある。奥州藤原家は滅びる。

 「翔ぶがごとく」は幕末物だったが、安いっぽいセットに呆れたものだった。昨日はとうとう「いだてん」を見るのを止めてしまった。学生時代はあまり見ていなかったが、結婚してからは欠かさず見ていたような気がする。「女城主直虎」まで続けてみたのだから、「いだてん」はよほど何かが足りないのだろうと思う。第一に主人公の金栗四三の人格や知識のほど、考えていること、感情がよくわからない。それとどうしてビートたけしの話がくっついてくる意図がわからない。
 大河ドラマで好きなものを挙げてよし、と言われたら、まず、炎立つを挙げる。ぼくとしては次が「獅子の時代」「独眼竜政宗」「花の乱」と続く。

 TSUTAYAのレンタルビデオにすべての大河ドラマとすべての朝ドラがあればいいのにと思う。

ジョギング議員連盟

2019年05月19日 | 社会・経済・政治
 国会議員が超党派で「ジョギング議員連盟」を結成するらしい。ぼくはジョギングという言葉を聞くたびに心配事することがある。少々身体や筋肉、重心、力の伝え方を知識として知っているからだ。両足の裏、うちくるぶしから垂直に線を下ろし、足の親指の隣の指から踵に直線を引く。その交差するところが左右の重心点である。よく「踵着地」というが、踵と言っても広くて、厳密にいえば上記の点になる。ここを一直線の上にあてて着地する。つま先の角度は15度で、両足だと30度となる。
 これであるけば膝を捻ることはない。新体操や体操の選手を見ていればよくわかる。特に日本の女性は歩き方が悪く、それゆえにO脚、このごろの若い女性はXO脚が多く、複雑に捻れている。
 本来、姿勢、座り方、立ち方、歩き方、走り方は小学生の段階で学校あげて指導しておくべきである。ロコモティブシンドロームは激減するだろう。
 こういうことを議員有志連盟が学校に働きかけてくれたり、テレビなどで訴えていただければよいと思う。ジョギング議員連盟にケチをつけるつもりはないが、根本的なところに考えを進め、踏み込んでほしい。でないと走るたびに膝を捻るなんて、医療費の抑制にならない。

日本軍の兵士2

2019年05月18日 | 社会・経済・政治
 ある軍医の推計であるが、日中・アジア太平洋戦争での戦死者は310万人。そのうち戦闘による戦死は約33%。次は戦病死、これは栄養失調による餓死、栄養失調によるマラリア、赤痢や他の菌への抵抗力のなさによる死。神経をやられ拒食症になる死、など、戦病死が一番多いらしい。
 さらに水没死。とくに船が減ってきて、速度の遅い船の中ですし詰め状態となり、熱中症を起こして死ぬ以外に、攻撃を受けて海に放り出されて死ぬ。自分が生きたいために、人の足を引っ張る、海上に浮かぶ板きれを必死で奪うというようなことがあったらしい。この水没死数は36万人である。次は自殺。もうこの部隊にいたら生きられない。捕虜となってはいけないという戦陣訓もあった。次は「処置」という名の「殺人」。こいつは助からない、部隊を乱す、それで「処置」。

 崇高な精神もクソもあったものではない。陸軍、海軍大学校、他の大学で習ったことなど何の意味もない。平気で速度のでない船を必死こいてつくる。遅い輸送船だから潜水艦の格好の的となる。これも水没死であるが、肛門から爆発による空気が入り、腸が破裂するという苦悶の死だ。

 自衛隊が海外に派遣されてから派遣隊員の自殺の多さが話題になったことがあった。激しい戦いのある中に行ったのではない。安全だといわれる地域に行ったのである。しかし緊張感、恐怖はあったのだろう。

 間接的に空爆でボンボンと撃っているうちはいいが、地上戦となれば、兵士は死と隣り合わせになる。自衛隊は集団的自衛権に抵抗してほしい。国民が反対しなければならないのだけれど、多くの国民は理解しようとしない。自衛隊員のことは考えていない。集団的自衛権を決めた人達は戦争には行かない人達だ。

 なんと愚かな戦争への扉を作ったことだろう。日本は戦争を放棄しているのだ。これが一番重たい価値なのだ。なんとしても安保法制を元に戻さなければならない。アメリカの言いなりになっていてはいけない。