25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

うんぷてんぷ

2019年01月31日 | 日記
  ぼくはどこにも勤めたことがなく、もっぱら自分で仕事を作り、会社を作り、いわば気ままにやってきた。海で暮らようなもので、人生が壊れるほど荒波に落ち込んだときもあったが、なんとかもちなおして、その間も結構楽しいことができた。レストランを経営してみたいと、バリ島に作ったことがある。それはすべてガラスでできたレストランで、海の中をイメージして有名なガラス工芸家にデザインしてもらった。レストランの名前は「グラン・ブルー レストラン&バー」とした。120席だった。映画「グランブルー」からイメージした建築物だった。

 設計から始まり、デザインをし、シェフを探す。チーフバーテンダーを探す。彼らが冷蔵庫、冷凍庫、キッチン器具やらそんな物を買いそろえてくる。ウエイターやバーテンダー、コックらの服を決める。
 そしてメニューを決める。メニューも食べ物と飲み物があり、カクテルなども含まれる。その味を決めていく。この仕事は楽しかった。音楽にも凝ったつもりだった。レストランで飾る物、置く物も凝ったつもりだった。どこにもないレストラン。興奮した六か月が過ぎ、メニューデザインはパトリシアが、開店時の混雑の仕切りはクミコさんが、ヨーコさんはキッチンに入ってスタッフが落ち着くまで手伝うこととして、店は十二月にオープンした。

 店は本当に素晴らしく、壁としてあるガラス板がが海の砂漠と女性の乳房のように浮かび、まさに海の底のようだった。創作したテーブルと椅子も木のテーブルと椅子をパステルカラーの布で巻き、そこに樹脂を入れ、磨くとなんとも言えぬ波紋のような波のような模様が浮かんだ。白と青空の青の中に黄色が浮かんでいた。トイレだけは磨いていない大理石にした。
 レストランは作るまでが楽しく、出来上がればぼくの役割は激減する。日々のルーティーンですぎてゆく。
 レストランを作るのがこんなに楽しいのなら、ホテル作りはどれほどのものか、ホテルをやってみたいと思ったがこればかりは無理でチャンスはこなかった。レストランは食事とデザインと音楽。ホテルはひとつひとつの部屋、ガーデン、プールサイド、会議室、ホール、絵画、定期的なイベント、企画物がある。これはおもしろいだろうと思ったものだった。
 レストランは繁盛した。ところがレギャンストリートでイスラム原理主義者による爆弾テロが起き、レストランのある道路は封鎖された。六ヶ月の封鎖であった。六ヶ月スタッフを抱え続けることはできたが、六ヶ月後観光客は戻って来なかった。ようやく爆弾テロ前の8割ほどまで戻ったのは一年以上経っていた。それからまた数ヶ月して今度はクタで爆弾テロがあった。これが撤退の決意となった。エステ店の管理もぼくの会社が管理していた。そのエステ店も爆弾テロで撤退することになり、ぼくは備品などを買い取り、サヌールに移って、「学校法人」を作った。急に、というわけでもなかった。エステテシャンは誰かに教えてもらっているのだが、どうしてここは押すのか、ここはひっぱるのかとか、ほとんどの知識をもっていないことを知っていた。それでぼくは身体のことをレストランをやっている間、勉強していたのだった。

 皮膚のことや、マッサージのことを教えるのだが、ぼくは特に疲れない、自分を傷めないマッサージ法を身につけるには「力の伝え方」を教えなければならないと思った。ぼくの学校はこれが決定打となって日本からもいろいろな人が習いに来たのだった。バリの女性たちは子供の頃からバリ舞踊を習っていて、重心をとるのがうまく、力を伝えるにも何の問題もなかったが、日本人はできなかった。
 ぼくも研究をすすめ、姿勢、歩き方の講座、免疫系、血管、内蔵と勉強していき、認知行動療法まで勉強した。世界で行われているマッサージの伝授、フェイシャルもヘッドも何種も教え、理論、知識を重視する学校にした。ぼくは知識、理論を教え、レストラン時代のスタッフにマッサージを習いに行かせ、そこから様々な独自の手法を加えていった。
 講習の部屋にはモジュラのバリの舞踊の人形。部屋のランプは金の繭でランプシェイドを作らせた。

 この学校も母が交通事故を起こしたときに売却した。それまではいつも若い人がまわりにいて、騒がしい日々があったが、今はもうない。

 振り返るとなんとまあ、いろいろなことをしてきたことだと思う。バリ島では対葉豆も作って、日本に運んでいた。エッセンシャルオイルもブレンドして作っていた。大学にバリの伝統的な家を建てたいという要望があり、それを請け負ったこともある。映画ロケのすべてのコーディネートをしたこともある。そうそう、大阪駅の三国に「ハッピーバリ」というレストランも作ったのだった。それはぼくが経営者ではなかったが、バリ島からすべての資材を運び作ったのだった。すべてを任されて作ったのだった。今も三国にその店はある。爆弾テロのあと、スタッフの働き口を確保してあげる必要があった。在留許可証も労働ビザもみなぼくが手続きした。キッチンメンバーはお金を貯めて、バリ島に仕送りし、土地を買ったり、家を建てたりしていた。 シェフのバワは自分のレストランを作った。
 バリ島に行かなくなってからもう四年以上経つ。この20年ほどのことはまとめておきたいと思い、昨年小説の形でまとめておいた。タイトルは「うんぷてんぷ」とした。まあ、運まかせ、という感じだ。

 現在の為替レートを見てみれば、1円120ルピアである。なんと円が強いことか。初めてバリ島に行ったときは1円が15ルピアだった。それで大いに得した気分だった。ぼくがバリ島で事業を始めた22年前は50ルピアから60ルピアのあいだをウロウロしており、四年前には1円が100ルピアとなっていた。
 観光客相手の仕事というのは何が起きるかわからず、とたんに客が来なくなることもある。
 そう言えば、オリンピックの入場料が高いのにはびっくりした。ホテル建設ラッシュらしいが、オリンピック後どうなることやらと疑っている。

 

日本が売られる? 面食らう

2019年01月30日 | 
 「日本が売られる」で恐るべき出来事が進行しつつあり、それをマスコミでもあまり報道されず、国会論議にならずに、ぼくらの知らないところで密やかに進んでいる。その実態は自由貿易を要語するなら、強いところ、技術あるところが弱いところ技術のないところを凌駕し、支配していぅことになる。
 たとえば、遺伝子組み換技術によって作られた大豆の種子はネオニコチノイド農薬に対しては耐性をもつが他の農薬を使うと全滅してしまう、という。つまり種子会社は農薬とセットにして売るわけだ。ところが5年も経つと、やはりその農薬に耐性をもつ雑草や虫が現れる。そこで農薬のりょうを増やす。ヨーロッパやアメリカ、この農薬を使っていた国々からから蜜蜂が激減した。植物の7割が蜜蜂による受粉だそうである。すると、アメリカはロボビーというロボット蜜蜂を作り、それに蜜蜂の代わりをさせるのだそうだ。 
 日本はといえば、この農薬に寛大で、基準値の緩和までして、アメリカもアグリビジネスに協力的である。政府は政府や都道府県が稲、その他の種子を作り、民間にまかせるべく法改正をした。
 アメリカっから輸入される種子によってできるものが遺伝子組み換え技術によるものかどうかを表示する義務も廃止した。これからアメリカの種子が農薬とセットになって入ってくる。
 作付面積の小さい日本で、今後の農地の土壌はどうなっていくのだろう。蜜蜂はどうなるのだろう。EUが反対し、この農薬が使えないようになったときに日本はアメリカに恩を売るように、この農薬使用の基準値を逆に緩め、使えるようにした。

 堤未果の報告を読んでいると、ホントかよ、と連発してしまう。「水が売られる」「土が売られる」「タネが売られる」「ミツバチの命が売られる」「食の選択が売られる」まで読んだ。ぼくなんかの耳目に入って来ないところで物事は世界争奪戦の様相だ。
 アメリカと中国の覇権争いも新技術の覇権争いがある。どう考えてよいものか、面食らっている。水道を民営化したイギリスなどのくには再公営化する、という流れの中で、日本は民営化に進んだ。だいたい日本はイギリスの20年遅れくらいで動いていくから、水道問題はまた起こるのだ。外国人労働者問題も起きるのだ。



中島みゆき EAST ASIA

2019年01月29日 | 音楽 ポップス
 NHK「Songs」が中島みゆきを特集した。時は1970年代から80年までものだった。彼女の歌は息が長い。歌そのものがもちこたえる力が強く長いという意味だ。「糸」なんてのはもう何年前のものだろう。それが新曲のように歌われている。幾人かの歌手がカバーするからだろう。
 1998年から、ぼくは人生を破壊してしまうようなことが起き、たぶん精神は奇妙な空虚感となんとかなるさという楽観感が混じり、地は這わず、空に向かって吠えることもせず、浮遊感覚で過ごしたことがあった。
 中島みゆきの歌を追いかけることもなく、この時期の歌が記憶からすっぽりと抜けているとともに、音楽の関心が違う方面に行っていたのだと思う。
 昨日聴いた「EAST ASIA」という歌は1992年ものである。すべてが暗喩で綴られている。現代詩として良い詩だと思う。メロディーは中国調で、やや複雑である。
 最後の部分に、
  世界の場所を教える地図は
  誰でも自分が真ん中だと言い張る 
  私のくにをどこかに乗せて地球は
  くすくす笑いながら回ってゆく
  くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
  むずかしくは知らないただEAST ASIA

 とある。NHKのSongs の映像は2007年の「歌旅コンサート」からのものだという。自分のお父さんが死んだときに書いた「雪」という歌も切ない歌だが、父の死には触れず、恋人なのか、恋愛話なのかわからないようになっている。歌にする場合、何か気をつけなければならないことがあるのだろう。
 EAST ASIA とはどこのくになんだと詮索するのはおかしい。今の世界は未だに国民国家によって構成されている。国民国家である限り、地図では自分の国を真ん中に置く。国民国家というのは一種の宗教と言っていい最終の姿であり、これが永遠に続く姿でもない。中島みゆきはりっぱな詩人である。
「ホームにて」「蕎麦屋」もよかった。録画しておいたので何度でも見ることができる。聴くことができる。
 ぼくはあの時期を埋めたいかのようにこれらの歌を聴いている。
 

玉鷲より嵐

2019年01月28日 | 社会・経済・政治
 玉鷲の優勝と大坂なおみの優勝でNHKの夜9時50分からのスポーツニュースはたいへんご機嫌に観た。玉鷲も笑顔だし、大坂なおみのイヤリングと髪と服のファッションにはアレーと思いながらも、楽しく観た。そしてそれは翌朝も続くだろうと思われた。ところが昨日の夜8時には「嵐」が2020年で活動を休止するという会見があり、今日の朝は「嵐」「大坂なおみ」で占領され、玉鷲のニュースがなかった。ムッとした。ぼくには「嵐」よりも「玉鷲」であり、相撲の玉鷲より笑顔の玉鷲、日頃の玉鷲を見たかった。そんなこともインタビューするはずだったろう。
 ぼくには「嵐の休業」のニュース価値は全くない。好きにしてくれよ。もう四十近いんだろ。てなもんである。

 さて、本読みのこと。「日本を亡ぼす岩盤規制」は新自由主義者、なんでも民営化の「上念 司」で、経済学ではアベノミクスを提唱した浜田宏一を信奉しているようだ。いわゆる金融政策におけるリフレ派である。上念 司はなんでも民営化である。ぼくに言わせれば玉石混交である。
 堤 未果の「日本が売られる」はシカゴ大学のフリードマンの愛弟子サッチャー元英首相、それを支持したレーガン大統領によって唱えられた新自由主義の一部結果の判断をするものであるし、今の日本で新自由主義的政策をとることの是非を議論されなくてはならない。様々分野での自由化規制緩和の将来への影響もよくよく点検されなければならない。
 命と生活に関わる「水道水の民営化」は姑息な手段で議会を通過した。今後、地方自治体の議会を通さずとも水道事業は民営化できるようになった。民営化を担えるのはフランス、イギリス、アメリカの大手上下水の会社だけだ。日本の業者にできるはずはない。
 ここからはぼくの考えであるが、地方自治体にも政府にも財政難で水道のメンテナンスをする力がないから、「新自由主義の民営化」路線に都合よく乗っているだけだ。

 JR、高速道路、水道は民営化してはならない。自由な競争があってこその民営化である。電々公社は民営化でもよかった。ところがJRは独占企業である。水道も同様である。高速道路も独占である。競争原理が働くはずもない。JRは国民の財産だったのに、株主に売ってしまい、ぼくらは株主収入も含めて、役員報酬も含めてJRのキップを買っている。それがバカ高い。飛行機の方が安い。地方で起業しようとしたって、この交通費の高さでは移動も不自由である。自由化、というが、自由化は独占化とは違うはずだ。
 JRも高速道路も国民のものにするため買い戻すにはたいへんなお金が要る。政府にはその財力はない。だから民営化は慎重であるべきである。
 要するにぼくは人材派遣会社の役員をして儲けたり、今度は外国人労働者の斡旋で儲けようとしている政府御用達の経済学者に賛同することはできないのだ。

 種子法とてよくよく考えなければならないことだ。これも自由化される。
 マスコミが別のことに電波を使っているときに、あるいはわざとかのようにオウムの死刑囚を死刑執行して、マスコミがそっちを向くときに法案を成立させるという手法をとる。
 

国際人 大坂なおみ

2019年01月27日 | テレビ
 いよいよ愛嬌のある玉鷲に優勝おチャンスが来た。貴景勝が一敗差で追っている。遠藤は惜しくも4敗してしまったため、優勝争いから脱落した。日馬富士の暴行事件があったときに、彼はモンゴル勢と一緒に酒を飲んだり、コミュ二ティーぽくすることも避けてきた力士だと知った。おもしろいのは一つ上の姉が東大の大学院にいて姉を頼りに日本にきたのだった。モンゴルではホテルマンになりたくて、その種の大学に行っていたらしい。身体が大きいので、相撲取りに興味が湧いた。姉と両国にいくと、鶴竜と出会い、旭鷲山の連絡先を教えてもらったのだそうだ。15年、休場なく励んだ。
 ぼくらから見て、玉鷲が強い力士だと思ったのはまだ2年ほど前のことだ。強烈なのど輪、しかも30歳を過ぎていた。
 ホテルマンを諦めた玉鷲一朗はクッキーを作ったり、小物を作るのが趣味だそうな。こういうことを聞くと、ますます優勝してもらいたいと思う。

 大坂なおみが全豪オープンで優勝した。嬉しいことであるが、ぼくの場合は彼女が日本人だからなのではない。日本人として世界一は初めての快挙だ、と興奮するアナウンサーの幼稚さにも苦々しく思う。讃えたいのは彼女を優勝に導いたコーチチームであり、大坂本人である。日本を鼓舞してもしかたない。日本人として・・・、とか日本で・・・とテレビでアナウンサーやコメンテーターが言ってもいいが、ぼくは違和感を感じる。彼女は国際人である。生まれ、育ち、テニス人生も国際人であり、チームも国際人のチームである。まさにグランドスラム2連勝で100億円プレイヤーの誕生である。ゲームも相当面白かった。筋肉質のようにも見えないが柔らかい瞬発力のある筋肉を持っているのだろう。

「日本を亡ぼす岩盤規制」を読み終えて「サピエンス異変」の方が進まない。翻訳ものというには読みにくいものだ。今度は昼版は「日本が売られる」(堤 未果)を読む。

ハナレイ・ベイ 再び

2019年01月26日 | 文学 思想
 北風ぴゅーぴゅーだけれど光が輝くような日である。昨日、サザエを買いにいくと鬼エビを発見した。2パック買い、塩ゆでして酒のつまみにした。相変わらず旨い。サザエは小ぶりのほうが旨いと思うので5個買った、これはつぼ焼きで、やっぱり酒の友である。こころの中で思う。これは贅沢なことだ。鬼エビは他所では手に入らない。旬の時期に旬のものを食べるよう心がけているため、あるいはいやしいため、またお人形エビがないか店に行った。残念今日はなかった。ついでにえたれいわしがないかチェックしたが、これはまだない、もうそろそろ小指くりのものが出てくるはずだ。ところがここ十年のえたれいわしは脂がなくなり、ずっと失望している。
 いいのが出てきたら、自分で干物を作ってみようと思う。

 今日は大坂なおみとクビトバの試合がある。とりあえず、相撲を優先させて見て、5時半からの全豪オープンは録画し、大相撲が終わってから観る予定だ。

 そうそう、昨日岡田さんに電話した。近況をきくと、村上春樹の「東京奇譚集」を読んだのdという。その中の「ハナレイ・ベイ」がよかったという。前段の話で、別の小説を読んでそれなりにおもしろかったのだが、全然おぼえていないということだった。それに比べて村上春樹の短い短編小説に惹かれ、余韻があり、不思議と感動し、深くこころにしみる、と彼は言いたいらしかった。そのままの言葉をおぼえていないので、ぼくの印象側から書かせてもらう。
「鮫に右脚の膝下から食いちぎられ、パニックを起こして溺れ死んだ息子。その息子を愛していたが、人間的には好きになれなかった」(これも記憶だけなもで小説そのままの文ではない)
 岡田さはいたくこの心情と理性に感心したらしかった。
 この母はレストランなどでピアノを弾いて収入をもらえる程度の才能で日常生活を送っている。息子が死んでから毎年、彼が事故にあったハワイのカウワイ島に3週間ほど滞在する。小説から海の光もサーフィンに適する波の光景も、若者のサーファーの姿も浮かび上がってくるが、何よりも静かな主人公のこころが奇妙に伝わってくる。
 恨みや憎しみで息子さんは死んだわけではなく、ときに襲ってくる自然災害のように死んだのですから、このハナレイ・ベイを嫌いにならないでください、という警察官の言葉も重いものがある。女性はその言葉にも素直に応じるのである。いたってバタバタせず、哀しみも、風景の中に閉じ込めてしまうように彼女はピアノを弾く。

 「回転木馬のデッドヒート」には「プールサイド」という名作もある。村上の短編小説は長編小説以上に語られるとよいと思う。映画ではこの女性を吉田羊が演じるのだそうだ。
 

岩盤規制のことなど

2019年01月25日 | 映画
 夜は「サピエンス異変」を読み、うとうとと寝てしまってなかなか進んでいかない。昼はテニスのない日は「日本を亡ぼす岩盤規制」という威勢のいい「上念 司」という経済ではリフレ派支援、市場原理主義自由経済支持の著者で、政治的には安倍政権に期待する人である。
 財務省の増税希望を斬り、銀行の審査能力なしを斬り、テレビ局の放送利権を解説し、農業政策では兼業農家への補助金をやめて、自由にせよ、と言い放ち、保育園を幾つ作っても待機児童はなくならないと言い、過剰な検査、多すぎる薬の処方の病院をぶった斬り、NHKを金満体質と、やりたい放題の朝日新聞大批判。
 痛快なところも多々ある。雑な論理を展開するところも多々ある。「誰もお金を使わなければ、だれも収入を得られない」という言葉使いは大げさに比喩っても乱暴すぎる。
 市場原理主義のいきつく先はグローバル化であり、その行き着く先の結論は今すでにアメリカに出ている。8人の富は地球上の半分の人口の富と匹敵するということだ。儲かっていれば役員報酬などいくらとってもいいということだ。
 失敗を許さない銀行批判などは大いにやってもらいたい。日清食品の創業者「百福さん」とて、信用組合の理事長を退任して以降、銀行との付き合いは一切しなかったというからこの銀行の体質は今も変わっていないのだろう。信用調査会社のブラックリストに載れば終わり。あらゆる金融サービスが受けられなくなる。日本はこれだから停滞するのだ、と嘆く人も増えてはいると思う。豊かな縮小社会にしていくためには七転八起の精神と再生ができるシステムを日本が整えることが必要だ。
 庶民というのはそれは宝クジを買って一攫千金を夢見ることもあるが、それでも十億円の年収などいるか、と思うのは当たり前だろう。「分かち合うのが人生さ」と桑田佳祐もよく言ったものだ。

 いやはや、では大坂なおみが獲得する生涯賞金とスポンサー料はいくらになるか、きっと100億を超えるだろうと言われている。チームで稼ぎ出すのだろうが、大坂なおみは主演である。こういうことには素直に感嘆し、疑問もないのだが、会社経営、株、為替差益となると、テニス賞金などと同レベルで考えられないのである。一方は社会を構成する企業である法人。生産、加工商品、サービスなどの提供で社員のそれぞれの役割で運営されるもにである。社長もその役割の一つのポジションに過ぎない。社会的役割は大きい。大坂なおみはチームで動いているのは同じだが、賞金をとりにいくゲームの主役である。庶民が宝くじを買うのと同じようなものであり、罪はなし、搾取もしない。
 大坂なおみがさらに節度があり、浮かれた女性でないならば、賢明なお金の使い方をするのだと思う。さて、明日が決勝だ。

語学学習のアプリ

2019年01月24日 | 日記
ぼくの仕事場の1メートル脇の床に、ゼンマイで動くラジオがある。緊急時に必要なものだとイギリスのおじいさんが開発したものだ。それは24年ほど前のことだ。おもしろそうな人だからパトリシアにその発明家を取材してほしいと頼んだ。彼女は尾鷲からすぐに成田へ。そこからロンドンに飛び、詳細に取材してきた。その記事は雑誌に掲載されている。今も持っていると思う。まだ携帯電話が普及していなかった時代だったと思う。
 災害時に携帯電話の充電光景をよくみる。どの会社もいち早く充電ができる体制を整える。だから日本ではゼンマイのラジオはもう必要がないのかもしれない。携帯電話システムが整っていない地域。もう世界にはないのかもしれない。
 またこのラジオは発想が面白かったものの売れなかったかもしれない。災害のためだけに買うとは思えず、ラジオだけなら乾電池の予備を用意しておいたほうが安いだろう。この発明家は今はどうしているのだろうか。このラジオからの応用で何かをまた発明しているのかもしれない。

 ぼくがやった語学教材のアイデアさえ、アプリになって実現化していないので、プログラミングができる人と話し合いたいと思っている。ぼくは語学学習は、例えば20の文があるものとして、1~20まで通しで聴ける。任意の文だけを何度も聴ける。一文、一文前にも後ろにも進める。その任意の文にサービスがつく。例えばスロー読みとか、解説とかである。さらに20の文を任意にグループ分けができる。こんな教材ツールがあれば世界最高だろうと思ったのだった。

 次に音源である。アプリにCDやSDからの音源、直接にICレコーダーからの音を入れる。その音を文ごとにインデックス分けしていく。文と文を自動的に区切って、見えない番号をふっていく。

 ぼくらはアプリではないが圧縮技術を使って従来のCDより16倍の容量にし、上記のことが自動的にできるオーサリングソフトを昔作った。このソフトを使って多くの教材出版社の教材を上記のことができるCDにした。パソコンでも使える。これは成功したのだったが、大手電機会社のプレイヤーに欠点があることがわかった。12時間目くらいで止まってしまうのである。その会社は製造した一万台の出荷を止めた。ぼくらにフォーマットを提供してぼくらが作ったものなのに、ぼくらの教材によって瑕疵が見つかることになった。結局大手電機会社とコンビでやらなければどうにもならなかったこの事業は頓挫した。会社は休業となった。それ以後、ぼくはすっかりこの件については忘れることにした。また実際に興味をなくすほどたいへんだった。

 この頃ふと考える。あのようなことができる教材は今の世界にあるか。アプリを探してみた。語学教材も調べてみた。無いのである。アプリにすることができないか、とこの頃思うようになったのである。
 22年経って、周囲のインフラ的な技術の環境変化があって、あのときのソフトは生きてくるのかもしれない。もうプレイヤは要らない。スマホやタブレットでいい。でもぼくはプログラマーではない。だからアプリは作れない。「だれでも作れるアプリ」と検索するとたくさん出て来るが、ぼくの勘では、無理だ、と思う。アプリ開発をしたいプログラマーの練習生みたいな人と知り合えればいいのかもしれない。そんな人がいたら紹介してほしい。中国の人でもアメリカの人でも、インドの人でもよい。おそらくプログラム言語に言葉の壁はないはずだ。
*この文で理解して作ってみようと思い、作った人が出てくれば、それはそれで結構なことだと思うことも一筆しておこう。

気にかかったこと

2019年01月23日 | 日記
ブログ、1750という閲覧数に驚いた。昨日何を書いたのだろう。「NHKさまさま」という題で書いた。それで多くの人が訪れたのか、原因は別のところにあるのか、一人の人が1000ページほども読んだのか、わからない。とにかくびっくりした。
 それはともかく、今日は朝の9時から大坂なおみの対戦があり、楽勝でいよいよ四強に入った。次は準決勝である。5時からは錦織戦がある。錦織の体力消耗は回復できているのか、それが心配である。
 相撲は白鵬がいよいよ強くなってきて、貴景勝がまた星を落とした。残るは玉鷲、高安、豪栄道、貴景勝の誰かが倒して、千秋楽まで賑わえばよい。ぼくは玉鷲に期待しているが、玉鷲は白鵬にずっと勝てないでいるという記憶がある。
 ぼくは中学時代に相撲部に入っていたせいか、実感的に相撲がわかるところがあって、相撲観戦が好きだ。テニスもかじったことがあるので、それもやや実感的にわかる感がある。卓球、バドミントンは驚嘆するばかりである。
 剣道を見るのも好きだが、残念ながら実感的ではない。ただ目にも止まらぬ早業に感嘆したり、一本時間内に取り返せるかとか、そんなところで見ているだけである。

 今回は一時、相撲、卓球、テニスが重なったので、興味がそこに行ってしまい、ロシアでの安倍首相の会談であるとか、韓国との問題であるとか、新聞程度で知るだけのことだ。賃金の上昇率をごまかしていたなどと、腹も立つが、横にしてもっぱらテレビ観戦である。

 そんな中、シルバーセンターの所長さんと話をする機会があり、驚いた。決して安くはないシルバーセンターへの頼み事で、多いのは空き家になった家の中の物を廃棄処分すること。物がなくなったあとに、掃除をすること。これが多いのだそうな。
 そう言えば、毎月の「尾鷲広報」で月ごとの人口と世帯数の動向が掲載されている。人口で月に平均20人程度減っている。世帯数に注目していなかったので忘れたが世帯数も減っていることだろう。すると、空き家が生まれる。その掃除アルバイトに登録している女性が多いのだとか。なるほど。そんなことが気にかかったのだった。 

NHKさまさまである

2019年01月22日 | テレビ
 曽根の民泊の家の鍵の取り替え、襖、障子の歪みによるつまりの修理をシルバーセンターに頼んだ。
それは朝のことだったので、昼からはビデオにとっておいた大阪なおみの試合と途中大相撲、その後録画で錦織の試合合計8時間以上が画面を見ていた。ポキッと折れそうな大坂なおみの精神はやや落ち着いているようだった。錦織はまさに死闘だった。5ゲームをフルに闘い、さらに10ポイントのファイナル。それも最後の最後で勝った。もう次の試合ができないのではないかと思わせるほどだった。次はジョコビッチである。大坂なおみは次の次がセリーヌ・ウィリアムズだろう。

 NHKさまさまである。よくぞ全豪オープンをやってくれた。しかも錦織、大坂のセットである。どちらの選手もこの先が読めない。それでそのことはさておき、相撲のことはこの先、まだ読める点がある。
 貴景勝は白鵬を破ることはあり得る。玉鷲のつっぱり、のど輪も今場所の白鵬ならいけるかもしれない。豪栄道も負け数が多いがあり得る。高安とてありえる。ただ白鵬は横の動きにも十分対応する。この身体能力に対抗するには、一気にどんなチャンスも封じてぶちかますしかないように思う。
 今日はテニスが休みで、卓球は終わったから、相撲に集中できる。世代交代が起こりつつあるが、が、白鵬だけは厚い、高い壁である。

 朝ドラは「失敗してやりなおせる姿」を描いている。いよいよ「インスタントラーメン」に取り組むのだろう。銀行のいやらしさを世間の人は知る。ああゆうもんだよ、と言いたい。そして、日本の金融制度は失敗した人を二度と認めないが、失敗が成功の元になっていることもまた事実であり、萬平がそれを示すのである。これも痛快である。失敗者がまた這い上がれるシステムを政府が考えるべき時期にきている。日本の停滞はこういう硬直した金融制度にもある。
 

 
  

新書買い置き

2019年01月21日 | 日記
新宮のひとつ隣にある佐野のショッピングモールまでドライブした。ここには書店、音楽CDショップもあり、金魚屋さんもある。それとウィスキーの品ぞろえがよい。「麻布」というピュアモルトがあった。へえ、麻布、日本のメーカー、しかも大阪のメーカーのようである。それを買ったみた。夜、それを飲んだ。スモーキーである。「山崎ウィスキー」をスモキーさ1だとしたらアイラ島の「ボウモア」は10である。スーパーニッカは4。麻布は7ほどである。ところがこの「麻布」、最後の氷で薄まった一滴の味が雑なのである。このあたりはニッカやサントリーはうまくできている。ロックで飲んでいると最後は水の雫のようになる。その雫が二杯目へと進ませない。熟成がまだ足りないのだろうか。これであれば、「麻布」より安い「知多」の方がうまい。しかしこれはグレーンモルトである。

 書店で新書を買い置きした。
 「日本が売られる」(堤未果) 水が売られる、土が売られる、種が売られる、ミツバチの命が売られる、食の選択肢が売られる、牛乳が売られる、農地が売られる、森が売られる、海が売られる、築地が売られる、とうとう日本人の未来まで売られるという話らしい。
 もう一冊は「日本進化論」(落合陽一)。人口減少社会を危惧する中、彼は「人口減少社会は、史上稀なるチャンスだ!」という。果たして? という感じで手にした。
 最後の一冊は「極上の孤独」(下重暁子)である。これは新聞広告で見たので、あれば買おうと思っていた。タイトルからわかるように「孤独であってもいいじゃないか、こんな自由ってないよ」と言っているような気がする。まだ読んでないからわからないが、きっとそうだと思う。「孤独を寂しいとか、孤独じゃいけないから人との交流に無理をするとかそういうことはもういいんじゃないの」と言っているような気がするのだ。
 これらはしばらくの間は読むことはない。「サピエンス異変」を読んでいるからだ。昨日までは考古学でしか言えない、人類の遠い、遠い昔の「中央、東アフリカの環境がサバンナになって、「足の進化」が始まり、汗をかくことの有利性、手の進化と話が続いた。労働時間はせいぜい1日4時間から6時間ほどだったという研究もあるらしい。今日からは有史時代に入る。軸はあくまでも「人新世」が来年から始まり、今は「完新世」だということである。

 ヨーロッパ、アメリカは難民、移民でたいへんである。適度な労働者として使ってきた歴史があり、そこへ戦争などで難民が押し寄せることになった。白人系は押しやられるというか、確実に人口割合を減らしていく。今のアメリカがそうだ。日本も同じステージに入っていく。中東、アフリカ、地球経済はグローバル化が進行する中、一国主義が登場している。混然としていきながらも、5G,AI,Iot、ブロックチャーン、ビッグデーター、解像度、センサー技術、医学などは進んでいく。人類の新たな産業革命が起こりつつあると言われている。
 ぼくは飢餓がなくなり、貧困が底上げされ、戦争という言葉がなくなれば人類はもはや言うことなしという気がするが、みなどう考えているのか知りたいから新書を読むのである。  

スポーツの裾野

2019年01月20日 | テレビ
 福原愛らが盛り上げてきた日本の卓球。ダブルスでペアを組んでいる伊藤美誠と早田ひなが個人戦準決勝で闘う。14歳の木原美悠。15歳の張本。十代の活躍がめざましい。
 全豪オープンテニスをNHKが総合で昼間放送するのも、錦織と大坂なおみの活躍があってのことだろう。
 昔は限られていたスポーツの種類は増えた。校庭で円を描いて相撲をとるか、ドッジボールや橋合戦をするか、放課後は野球をするしかなかった昭和の30年代にはバレーボール、卓球、軟式テニス、水泳、柔道、陸上は中学に入ってからあったが、まだバスケットボールや硬式テニスやサッカーはなかった。現在は都会ではありとあらゆるスポーツを習おうと思えば習える。
 相撲に力士候補がなかなか集まらないのもわかる。スポーツの裾野が広がり、運動神経のよい者には様々なスポーツが用意されている。「おまえ背が高くて、体格がいいなあ」ということであれば、ラグビーも、柔道もある。背が高ければ、バレー、バスケットボール、テニスなどがある。太っているだけで相撲がとれるわけでもない。

 白鵬の身体能力はずば抜けている。この身体能力も才能に勝る力士が見当たらない。日本では身体能力の優れたものは他の人気スポーツに吸い寄せられいき、たまたま相撲と縁があったものが相撲界に入るという感じである。一方モンゴルでは円い土俵はないが、いかに倒すかという練習を子供の頃からやっている。人気スポーツなのだ。だから身体能力のある者が集まるのだ。
 貴景勝や阿武咲もスピードがあり、自分の体型を考えての取り口をしているが、組めばどうしようもない。相撲界は人材の少なさで苦しんでいるように見える。

 話は違うが、逸ノ城は自分の体が太過ぎて、それで体が動けないという矛盾に陥っている。惜しくも幕内に空きがなく、十両にとどまった照強は身長が165センチで太っているわけでもないがよく動き、上手な相撲をとっている。

 連日卓球、テニス、相撲と見ていると、ドラマをみる気がせず、朝ドラだけを観ている。とりとめのない話である。
 
 

環境とのミスマッチ病

2019年01月18日 | 社会・経済・政治
 「サピエンス異変」(ヴァイバー-クリガン=リード 飛島新社)を読み始めた。来年にあると地質学の会議で、「人新世」という地質年代が、命名されるらしい。有史時代(現在を含む)は新生代/第四紀/完新世/メーガーラヤン期に含まれるらしく、この名称が来年に変わるということは地球と人間の関係がこれまでと著しく変化してしまったということなのだろう。まだほんの少ししか読んでないため、どう展開し、人類はどうなり、どうしていけばいいのかという彼の意見を知るのはまだ数日かかる。
 人類の身体がこの「人新世」についていけるのか。世界のほとんどの道はアスファルトやコンクリートに覆われ、石油、石炭、鉱物が掘削されて穴があく。海にはプラスチックゴミが漂い、大気には核実験や原子炉事故の放射能も漂っている。地球を移動するのは飛行機、船、車となり、ぼくなどは一日に一万歩も歩かなくなっている。
 惨めな死に方はしたくない、こどもに迷惑をかけたくない、美しくありたい、と脅迫されるように運動をする。
 イオンに行けば、食べよ、飲めよの陳列で、ワインだけでも相当な種類、ビール、発泡酒、焼酎、日本酒、それぞれの種類もふんだんにある。そんな目でみると、これでもか、というほどにある。
 今日は豆腐を食べて、漬物とサンマくらいにしておこうかと思ったが、魚売り場に行けば、「サヨリ」「アカイカの赤ちゃん」が並んでいた。サヨリの皮はとても旨い。皮を剥いで身は刺身にして、皮だけを串に巻いて焼くのである。これは東京の寿司屋さんで知った。アカイカも柔らかく旨いのである。だからつい買ってしまい、つい食べてしまう。
その食べた分のカロリーを消費しないから、太ってくる。酒も飲むから肝臓がなにやら重たい。

 遺伝子レベルでこの飽食過剰な時代についていけないのではないか、と思えば、いやいや医学の進歩は目に見張るものがある。もう4年で多くの病気が克服される。人生100年と言われてきている。120歳克服も可能である、となってきた。だったらサピエンスはこれまで歴史上のどのサピエンスより平均的に長く生きてきたのではないか。地球環境との闘いに勝ち抜いてきたのではないか、と思う。だがしかし、と用心しなければならない要素もある。
 若い人の腰痛って何か? 大企業で起こるうつ病って何か。ストレートネックは何か。
 「サピエンス異変」はぼくらのような質問にどう答えるのか楽しみである。
 さてぼくはいつまで生きるのか。環境からのストレスとのミスマッチがあるのか。煙草を止めたら3キロ増えた。油断だった。


ネット社会、首、膝、肥満

2019年01月18日 | 社会・経済・政治
 コンピュータ、ネット社会になってから、ある人はコンピュータやタブレットが、ある人はスマホが必需品となっている。その普及に伴って便利さを感じるものの、社会が脆弱化していくことも感じる。個人においても、ウィルスに対処するために対策ソフトを購入したり、詐欺っぽいサイトに誘導されたり、迷惑メールを削除するのに時間やバッテリーとられたり、シンプルだったコンピュータはOSが更新されるほど複雑になってくる。
 戦争が始まればすぐに、攻撃対象になるのは人工衛星だろうし、無線、有線の中継基地やら電気系統なのだろうと思う。
 インターネットがなかった時代に戻るだけのことで、なかった時代の方が長かったぼくなどはさほどの落胆もないように思えるのは良しとしよう。

 マックにいくと、高校生は歪んだ姿勢で首を前に傾けてスマホを見ている。都会に行けば、電車の中、カフェ、歩道で、スマホを見ながら歩いている。ストレートネックなどの首の病、それからくる頭痛が多くなるのだろう。うつ病も俯く病気だから増えるに違いない。多くの人が下を向いている人間の光景はこの20年くらいの変化である。

 歩くことはよいことだと、歩く運動をしている人がいるが、基本的に歩き方の重心の捉え方が間違っていて膝を捻りながら歩いている人をよく見る。スーパーへ行っても、ぼくが見る限り、正しい歩き方をしている人はほとんどいない。あ、この人は正しい歩き方をしているという人の脚のふくらはぎは美しい。

 日本人は歩き方からくるロコモティブシンドロームと、飽食から来る肥満と、スマホから来る首にこれからさき増々悩まされすうである。医療費を高齢者の割合で考えていたら間違うかもしれない。もっと若年層で起こってくるのではないかと疑いをもっている。


 昭和の5.15事件や2.26事件はこの国の改造を計るために青年将校らが立ち上がったのであるが、その背景には東北の飢饉、貧しさがあった。
 日本はようやくに飢餓を克服したのは戦後十年ほどたってからのことで、歴史上、飢餓から解放されてから、まだ60年ほど経ったばかりである。当然豊かな地域もあったにちがいないが、悪天候による凶作、不作、水害などの災害による被害もあったろう。人類800万年の歴史の中で飢餓がないのは日本においてはまだ60年しかないのである。だから身体は飢餓に供えて、食べられるときに食べて脂肪を溜めこむという機能になっている。しかし溜め込んだ脂肪を使う時がない。これは「異変」である。

 車社会になってからは特に地方の人間ほど歩かなくなった。移動は車となった。どんな近い場所でも車となった。一家に一台ではなく二台となり、やがて一人一台となった。都会の人はバス、電車は使うものの、駅では歩かされ、駅から仕事場も歩かされ、よほどぼくらのような田舎人よりはしっかり歩かされる。だから脚腰にいいと思うがやはり歩き方が気になる。なんども言うように膝を捻って歩いている。AKBや欅坂のメンバーの脚を見ているとXO脚が多い。O脚なのではない。それなら単純である。XO脚は膝から上がX脚で、膝から下がO脚と言う複雑な捩じり方をしている。両膝はくっつくが、ふくらはぎがくっつかないというものだ。なぜほとんどの若い娘がそんな脚形になったのかわからない。何が原因なのかぼくは知らない。
 孫が歩いているのを見ると、「もっとつま先を外へ」と言ってしまう。当然、孫はなぜなのかわからないので、聞かない。しかし、やはり聞いていたのか、母親がうるさく言ったのか、この正月に来たときは脚形がちゃんとなっていて、歩き方もほぼ正しかった。
 学校での体育教育はどうなっているのか、知りたいものだ。

 話を戻して、人間がこれから歩む問題である。首、膝、肥満、こころ には注意した方がいい。姿勢が正しいと見た目も良いし、精神上もよい。
 

玉川徹のそもそも総研

2019年01月17日 | テレビ
 日本は取り残されていくのではないか、という問題提起を「モー二ングバード」で玉川徹コメンテーターが取材していた。取材していたというよりも元ゴールドマン サックスで働いていて、日本に三十年ほど住んでいるアメリカ人(アトキンス)にインタビューしていた。そのインタビュー内容を紹介したというわけである。

 このような番組を作る切っ掛けとなったのはカルロス・ゴーン氏の拘留事件があったからで、報酬をめぐる金額がテレビや新聞で取り沙汰されたからである。官民ファンドを作ろうとしたが、経済産業省はあきらめてしまった。役員の報酬が一億円というのは高すぎるという批判めいた意見があったからで、経産省が及び腰になると理事候補だった人達は辞めてしまった。バブルの頃は日本に駐在することは出世コースであったが、今は左遷コースだと思われている。優秀な経営者は日本に行きたがらない、という。アメリカ、EU,中国。世界はこのみっつで回っていて、日本は入っていない。中心から外れている、とアトキンスは嘆く。玉川徹はどう思っているのか訊きたいものだが、アトキンスの意見に同調しているようなところがあった。いつもははっきりと物を言うコメンテーターであるし、痛快なことも多いが、今日は歯切れが悪かったし、考えが纏まっていなかった。

 そもそも日本は世界の中心にいなければならないのか。新しいアイデアを出すにも日本は時間がかかるというし、なにかと障壁があり進んでいかない。経営者は人当たりがよく運よく出世した人が経営者となり、会社のこれまでを守る傾向にあるという。このあたりは賛成するが、ぼくにはどうしても報酬のことが気になる。
 一年で10億円の報酬をもらう人がいたとして税引き後6億円が実収入としよう。そのうちの3億円でも新規雇用すれば年収500万円の人を60人雇える。あるいは給料を増やすこともできるし、残業を減らすこともできる。一年で3億円もあっても使い切れるものでもないだろう。毎日、高級な酒や高級な食材を食べても、糖尿病になるくらいでいいこともない。高い服を買ってもしれたものだ。こうなると「欲望」というものを考えざるを得ない。
 経済成長とよく言われるが、それは絶対使命のように言うのも可笑しい。成長のために企業が借金するのは資本投下でもあるが、政府が借金して、社会にお金を回すのもよくよく気をつけてやらなければ国民の財産を奪ってしまうことになる。 

 経営者からしてみれば、野球選手やサッカー選手と同じで、経営で活躍すれば高い報酬は当然だろう、とまあさしずめこういう論理なのだろうか。

 8人の「富が地球の人口の半分の富と同じだ」などと言う実際がある。玉川徹の同調はそのグローバル化の結論を支持しているように見える。
 ぼくは欲望の資本主義の時代は終わりに向かいつつあるように思っている。大富豪もいい加減にしなければならない。自由というものにも節度が要る。弱者には手を差しのべる。社員も経営者も仕事は役割であり、1人が百人分に相当するような報酬などというのはよいことはないのである。
 玉川徹にこういう視点がないとも思えないが、話がゴッチャになってすでに遅れた日本経済の原因のようなことを述べたにすぎないのだった。ぼくはそれがどうした、と問い直したい。