ぼくはどこにも勤めたことがなく、もっぱら自分で仕事を作り、会社を作り、いわば気ままにやってきた。海で暮らようなもので、人生が壊れるほど荒波に落ち込んだときもあったが、なんとかもちなおして、その間も結構楽しいことができた。レストランを経営してみたいと、バリ島に作ったことがある。それはすべてガラスでできたレストランで、海の中をイメージして有名なガラス工芸家にデザインしてもらった。レストランの名前は「グラン・ブルー レストラン&バー」とした。120席だった。映画「グランブルー」からイメージした建築物だった。
設計から始まり、デザインをし、シェフを探す。チーフバーテンダーを探す。彼らが冷蔵庫、冷凍庫、キッチン器具やらそんな物を買いそろえてくる。ウエイターやバーテンダー、コックらの服を決める。
そしてメニューを決める。メニューも食べ物と飲み物があり、カクテルなども含まれる。その味を決めていく。この仕事は楽しかった。音楽にも凝ったつもりだった。レストランで飾る物、置く物も凝ったつもりだった。どこにもないレストラン。興奮した六か月が過ぎ、メニューデザインはパトリシアが、開店時の混雑の仕切りはクミコさんが、ヨーコさんはキッチンに入ってスタッフが落ち着くまで手伝うこととして、店は十二月にオープンした。
店は本当に素晴らしく、壁としてあるガラス板がが海の砂漠と女性の乳房のように浮かび、まさに海の底のようだった。創作したテーブルと椅子も木のテーブルと椅子をパステルカラーの布で巻き、そこに樹脂を入れ、磨くとなんとも言えぬ波紋のような波のような模様が浮かんだ。白と青空の青の中に黄色が浮かんでいた。トイレだけは磨いていない大理石にした。
レストランは作るまでが楽しく、出来上がればぼくの役割は激減する。日々のルーティーンですぎてゆく。
レストランを作るのがこんなに楽しいのなら、ホテル作りはどれほどのものか、ホテルをやってみたいと思ったがこればかりは無理でチャンスはこなかった。レストランは食事とデザインと音楽。ホテルはひとつひとつの部屋、ガーデン、プールサイド、会議室、ホール、絵画、定期的なイベント、企画物がある。これはおもしろいだろうと思ったものだった。
レストランは繁盛した。ところがレギャンストリートでイスラム原理主義者による爆弾テロが起き、レストランのある道路は封鎖された。六ヶ月の封鎖であった。六ヶ月スタッフを抱え続けることはできたが、六ヶ月後観光客は戻って来なかった。ようやく爆弾テロ前の8割ほどまで戻ったのは一年以上経っていた。それからまた数ヶ月して今度はクタで爆弾テロがあった。これが撤退の決意となった。エステ店の管理もぼくの会社が管理していた。そのエステ店も爆弾テロで撤退することになり、ぼくは備品などを買い取り、サヌールに移って、「学校法人」を作った。急に、というわけでもなかった。エステテシャンは誰かに教えてもらっているのだが、どうしてここは押すのか、ここはひっぱるのかとか、ほとんどの知識をもっていないことを知っていた。それでぼくは身体のことをレストランをやっている間、勉強していたのだった。
皮膚のことや、マッサージのことを教えるのだが、ぼくは特に疲れない、自分を傷めないマッサージ法を身につけるには「力の伝え方」を教えなければならないと思った。ぼくの学校はこれが決定打となって日本からもいろいろな人が習いに来たのだった。バリの女性たちは子供の頃からバリ舞踊を習っていて、重心をとるのがうまく、力を伝えるにも何の問題もなかったが、日本人はできなかった。
ぼくも研究をすすめ、姿勢、歩き方の講座、免疫系、血管、内蔵と勉強していき、認知行動療法まで勉強した。世界で行われているマッサージの伝授、フェイシャルもヘッドも何種も教え、理論、知識を重視する学校にした。ぼくは知識、理論を教え、レストラン時代のスタッフにマッサージを習いに行かせ、そこから様々な独自の手法を加えていった。
講習の部屋にはモジュラのバリの舞踊の人形。部屋のランプは金の繭でランプシェイドを作らせた。
この学校も母が交通事故を起こしたときに売却した。それまではいつも若い人がまわりにいて、騒がしい日々があったが、今はもうない。
振り返るとなんとまあ、いろいろなことをしてきたことだと思う。バリ島では対葉豆も作って、日本に運んでいた。エッセンシャルオイルもブレンドして作っていた。大学にバリの伝統的な家を建てたいという要望があり、それを請け負ったこともある。映画ロケのすべてのコーディネートをしたこともある。そうそう、大阪駅の三国に「ハッピーバリ」というレストランも作ったのだった。それはぼくが経営者ではなかったが、バリ島からすべての資材を運び作ったのだった。すべてを任されて作ったのだった。今も三国にその店はある。爆弾テロのあと、スタッフの働き口を確保してあげる必要があった。在留許可証も労働ビザもみなぼくが手続きした。キッチンメンバーはお金を貯めて、バリ島に仕送りし、土地を買ったり、家を建てたりしていた。 シェフのバワは自分のレストランを作った。
バリ島に行かなくなってからもう四年以上経つ。この20年ほどのことはまとめておきたいと思い、昨年小説の形でまとめておいた。タイトルは「うんぷてんぷ」とした。まあ、運まかせ、という感じだ。
現在の為替レートを見てみれば、1円120ルピアである。なんと円が強いことか。初めてバリ島に行ったときは1円が15ルピアだった。それで大いに得した気分だった。ぼくがバリ島で事業を始めた22年前は50ルピアから60ルピアのあいだをウロウロしており、四年前には1円が100ルピアとなっていた。
観光客相手の仕事というのは何が起きるかわからず、とたんに客が来なくなることもある。
そう言えば、オリンピックの入場料が高いのにはびっくりした。ホテル建設ラッシュらしいが、オリンピック後どうなることやらと疑っている。
設計から始まり、デザインをし、シェフを探す。チーフバーテンダーを探す。彼らが冷蔵庫、冷凍庫、キッチン器具やらそんな物を買いそろえてくる。ウエイターやバーテンダー、コックらの服を決める。
そしてメニューを決める。メニューも食べ物と飲み物があり、カクテルなども含まれる。その味を決めていく。この仕事は楽しかった。音楽にも凝ったつもりだった。レストランで飾る物、置く物も凝ったつもりだった。どこにもないレストラン。興奮した六か月が過ぎ、メニューデザインはパトリシアが、開店時の混雑の仕切りはクミコさんが、ヨーコさんはキッチンに入ってスタッフが落ち着くまで手伝うこととして、店は十二月にオープンした。
店は本当に素晴らしく、壁としてあるガラス板がが海の砂漠と女性の乳房のように浮かび、まさに海の底のようだった。創作したテーブルと椅子も木のテーブルと椅子をパステルカラーの布で巻き、そこに樹脂を入れ、磨くとなんとも言えぬ波紋のような波のような模様が浮かんだ。白と青空の青の中に黄色が浮かんでいた。トイレだけは磨いていない大理石にした。
レストランは作るまでが楽しく、出来上がればぼくの役割は激減する。日々のルーティーンですぎてゆく。
レストランを作るのがこんなに楽しいのなら、ホテル作りはどれほどのものか、ホテルをやってみたいと思ったがこればかりは無理でチャンスはこなかった。レストランは食事とデザインと音楽。ホテルはひとつひとつの部屋、ガーデン、プールサイド、会議室、ホール、絵画、定期的なイベント、企画物がある。これはおもしろいだろうと思ったものだった。
レストランは繁盛した。ところがレギャンストリートでイスラム原理主義者による爆弾テロが起き、レストランのある道路は封鎖された。六ヶ月の封鎖であった。六ヶ月スタッフを抱え続けることはできたが、六ヶ月後観光客は戻って来なかった。ようやく爆弾テロ前の8割ほどまで戻ったのは一年以上経っていた。それからまた数ヶ月して今度はクタで爆弾テロがあった。これが撤退の決意となった。エステ店の管理もぼくの会社が管理していた。そのエステ店も爆弾テロで撤退することになり、ぼくは備品などを買い取り、サヌールに移って、「学校法人」を作った。急に、というわけでもなかった。エステテシャンは誰かに教えてもらっているのだが、どうしてここは押すのか、ここはひっぱるのかとか、ほとんどの知識をもっていないことを知っていた。それでぼくは身体のことをレストランをやっている間、勉強していたのだった。
皮膚のことや、マッサージのことを教えるのだが、ぼくは特に疲れない、自分を傷めないマッサージ法を身につけるには「力の伝え方」を教えなければならないと思った。ぼくの学校はこれが決定打となって日本からもいろいろな人が習いに来たのだった。バリの女性たちは子供の頃からバリ舞踊を習っていて、重心をとるのがうまく、力を伝えるにも何の問題もなかったが、日本人はできなかった。
ぼくも研究をすすめ、姿勢、歩き方の講座、免疫系、血管、内蔵と勉強していき、認知行動療法まで勉強した。世界で行われているマッサージの伝授、フェイシャルもヘッドも何種も教え、理論、知識を重視する学校にした。ぼくは知識、理論を教え、レストラン時代のスタッフにマッサージを習いに行かせ、そこから様々な独自の手法を加えていった。
講習の部屋にはモジュラのバリの舞踊の人形。部屋のランプは金の繭でランプシェイドを作らせた。
この学校も母が交通事故を起こしたときに売却した。それまではいつも若い人がまわりにいて、騒がしい日々があったが、今はもうない。
振り返るとなんとまあ、いろいろなことをしてきたことだと思う。バリ島では対葉豆も作って、日本に運んでいた。エッセンシャルオイルもブレンドして作っていた。大学にバリの伝統的な家を建てたいという要望があり、それを請け負ったこともある。映画ロケのすべてのコーディネートをしたこともある。そうそう、大阪駅の三国に「ハッピーバリ」というレストランも作ったのだった。それはぼくが経営者ではなかったが、バリ島からすべての資材を運び作ったのだった。すべてを任されて作ったのだった。今も三国にその店はある。爆弾テロのあと、スタッフの働き口を確保してあげる必要があった。在留許可証も労働ビザもみなぼくが手続きした。キッチンメンバーはお金を貯めて、バリ島に仕送りし、土地を買ったり、家を建てたりしていた。 シェフのバワは自分のレストランを作った。
バリ島に行かなくなってからもう四年以上経つ。この20年ほどのことはまとめておきたいと思い、昨年小説の形でまとめておいた。タイトルは「うんぷてんぷ」とした。まあ、運まかせ、という感じだ。
現在の為替レートを見てみれば、1円120ルピアである。なんと円が強いことか。初めてバリ島に行ったときは1円が15ルピアだった。それで大いに得した気分だった。ぼくがバリ島で事業を始めた22年前は50ルピアから60ルピアのあいだをウロウロしており、四年前には1円が100ルピアとなっていた。
観光客相手の仕事というのは何が起きるかわからず、とたんに客が来なくなることもある。
そう言えば、オリンピックの入場料が高いのにはびっくりした。ホテル建設ラッシュらしいが、オリンピック後どうなることやらと疑っている。