25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

中島みゆき

2020年01月09日 | 音楽 ポップス
自動車業界は大転換期に入っているようだ。トヨタは先進的な町つくり(コネクティッド シティー)を始めるらしい。車は自動運転でカーシェアリング。物と物とがインターネットで繋がり、AIやロボットも活躍するらしい。電気は太陽光や水素を使うらしい。
 この構想は自動車会社が生き残っていくためには、ITの技術が要ることを示している。逆に言えばIT会社は車産業に参入できる可能性もあるということだ。ソニーも参入するらしい。

 一方、日産はぼくにはイメージが悪い。経営陣が姑息で会社内で調査をおおかた済ませ、その結果をもって警察に行けばいいものを検察と取引した。おそらくゴーン氏のルノーとの合併を拒否したいと政府にも泣きついたことだろう。あくまでも憶測であるが。

 三菱も日産もこの事件で未来への戦略が消費者に示されない。日産はもつのだろうか。結局ルノーと合併するのではないかと正直思う。あまりにもイメージが悪すぎる。どうして反乱の役員たちはイメージ戦略に思いが及ばなかったのだろう。

 ゴーン氏との闘いはまだまだ続くことになる。続けば続くほど日産の価値は減っていくように思う。こういう批判合戦の車を誰が買うのだろう。ちょっと嫌だな、と思う人も多いだろうと思う。

 テレビは「アメリカ vs イラン」「ゴーン会見」「障害者殺傷事件の裁判」この3つ。

 そうそうぼくは「中島みゆき」の公式メルマガに登録した。彼女の曲には好き・嫌いはある。ぼくはプロジェクトXの主題歌なんというんだっけ?ああいう歌は苦手である。「宙船」も「麦の唄」も苦手である。ところが「川風」「寄り添う風」「月夜同舟」「恋文」「East Asia 」などが好きである。気持ちよさそうである。そしてアジアぽい。柳の木が両端にある川を舟に揺られて旅する感じもする。「恋文」を聴いていると作曲家宮川泰を越えているようだ。

 いつかコンサートでもあれば、と思ってメルマガを登録したら昨日最新のブログが来た。ぼくより1つ下。精力的な活動がメルマガからわかる。テレビでもコンサートをやってほしいものだ。

紅白歌合戦批判

2020年01月02日 | 音楽 ポップス
 紅白歌合戦の歴史は、歌に振りがついて、そのうちダンスがついてきた。踊りながら歌う。次第にグループでフォーメーションを作って踊り、歌う。Perfume を見ていると、これが音楽か、という「あきれさせ方」または「ビックリさせ方」を感じさせるだけである。とにかくグループで歌い、踊る者たちはみなお粗末で、せいぜいスーパーフレアーという女性の歌手が3分ほどの間歌の力で惹きつけて聴かせた。もっとはっきり言わせてもらえば、Misiaの歌もよいといえばよいのだけど、アメリカのほうにあんな歌い方をする歌手が幾人かいる。「ゆず」と「いきものがかり」では曲を交換しても同じような曲に聞こえる。とにかくじっくり聴かせる歌が少ないのである。「たけし」もどうしたんだい、とこの頃言いたくなる。「韋駄天」でのお粗末な落語。ぼくは呆れている。
 やっぱりユーミンの曲はよかった。彼女の才能を感じる。石川さゆりにたいしてはNHKも酷なことをするなあ、といつも思う。彼女は琉球の歌や民謡を研究し、新しい試みを多くやっている歌手である。
 もう紅白歌合戦も「歌合戦」ではないのだから9時から11時45分くらいまででいいと思う。
 もうやるべき傾向まではとことんやったのではないのだろうか。Perfume も究極だし、美空ひばりも究極である。武田のサックス付きの五木ひろし、マジック付きの水森かおりだ、ケン玉付きの三山ひろし。なぜここまでして画像に釘付けにさせなければならないものか。
 そしてやはり歌は歌として聴きたいものだ、と思ったのだった。
 
 息子らはスマホから情報をとりながら紅白歌合戦を観ている。ケン玉をしっぱいしたシーンをすぐにアップする者がいるものである。それを見たり、テレビ画面を診たりとテレビの見方も違っている。こういう見方NHKも総力上げて阻止しようとしているようである。
 
 「朝まで生テレビ」もみた。若い政治家が出ていた。ややポスト安部の雰囲気になっていた。31日。カルロス・ゴーンがレバノンに逃亡したニュースを聞いた。
 今日息子家族が帰り、交代で娘家族がくる。せわしい正月だ。

井上陽水の歌詞

2019年11月28日 | 音楽 ポップス
 昨日の井上陽水の歌詞について論議する番組「Love Songs」だったと思うが、興味深かった。ぼくがイギリスから帰った1973年には井上陽水のアルバムが大ヒットしていた。ぼくはキャロルキングを聴いていて、クラシックなどにも手を出していた頃だった。あの字余りのような歌詞が気にいらず、陽水の歌はずっと避けてきたのだった。ところが「陽水トリビュート」が十年ほど前に出て、いろいろな歌手が歌っているのを聞いて、井上陽水って、いい歌を作っているんだと思ったのだった。

 そしてぼくは鈍感なのだろうか。歌詞は面白かったが、思い付きのコラージュみたいなもんだろう、と思っていた。ところが昨日4人の男女、作家やシンガーソングライターは真剣に歌詞について論じていた。

 リバーサイドホテルの歌詞には重複した同じ意味をした箇所がある。たぶんわざとそうしている。

 部屋のドアは金属メタル
 に浮かんだプールでひと泳ぎ
 川沿いリバーサイド

 チェックインなら寝顔を見せるだけ

  これは意味不明である。女の作家は「死んでいるのではないか」「川は三途の川で生の側と死の側の境にプールがあるのではないか」と言う。へえ、そんなもんかね。つまりこれは心中の歌だということになる。ぼくはチェックインの時に、バスで疲れたような顔して、男がカウンターでサインするときに眠そうな顔をしてそばにいたという程度の理解だったが、おお、「心中」と読むか、人それぞれだなあ、と思ったのだった。ぼくは熱心に陽水を追いかけてきていない。が昨日のいくつかの初期の作品を読んでいると、コラージュというのは当てはまっていないと感じた。歌詞に一貫して言いたいことがあり、それが一行の歌詞の前後と意味としても繋がっていた。どうやらつながってこず、切り貼りのコラージュのように思えたのは中期以降の作品なのかもしれない。ぼくはテレビで歌う気持ちの悪い妖怪っぽい歌い方の陽水とセットで印象に残っている。

 「帰れない二人」は一体どこに帰るのか、どうなるのか。「もう星は帰ろうとしている 帰れない二人を残して」 ぼくは単純にとても互いに好きあっていて、いつまで経って離れたくなくて、帰れない恋人どうし」という風に読むが、これも心中好きの女性作家はみちゆきの歌ととる。へえーーーーー。深読みすぎじゃないか。

 こんなとき作家が実はこうなんですよ、と言ってくれればいいが、決して言わない。それが有名作家の醍醐味である。テレビ好きな井上陽水はニタニタしながら歌詞論議を聴いていたことだろう。

 松任谷由実もやってほしいし、中島みゆきもやってほしいものだ。 
 
 

「日本の歌」のカラオケ

2019年08月21日 | 音楽 ポップス

   津田大介が朝日新聞のインタビューで、「表現の不自由展 その後」を三日で中止とした理由から始まって、「言い訳」ばかりしていた。ぼくは反日ではないが、アートを公共の場所で扱うには津田程度の思想ではもたないことを露呈した。まあ、潔さがないというか、ビビった、というわけだ。河村名古屋市長ごときの政治介入とガソリンまくぞという脅迫電話くらいでビビったらいけないのだ。警察に相談すべきことだ。何かもっとましなことを言うのかと思ったら何もなかった。命かけて映画作る人も、命かけて政権を批判する人もいるぜ。

 昨日の夜の驚き。昨日は久しぶりにカラオケに行った。ぼくがデュークエイセスの「女ひとり」に代表される「日本の歌」のCD2枚組を懐かしくて買ったのは3か月ほど前だったか。車で各都道府県の歌を聞いていた。覚えやすい曲ばかりでいつの間にかほぼみんなおぼえてしまった。以前「あの橋を渡ったら(山口」や「潮風の中で(大分)がカラオケであればいいのにと探したことがあった。なかったので、がっかりした。ところが昨日、またデュークエイセスの歌を調べてみたら、ええ、とびっくり。どちらもあるのである。どうしてなのだろう。思いは通ずるのか。「小原庄助さん」も新しくあった。あと、「踊り疲れて(徳島)」「マンボ 鵜(岐阜)」「茶々茶(静岡」があれば言うことなしである。

 いつも思うことだが、若い4人や5人のグループにも歌い繋いでほしいと思うのだ。「あの橋を渡ったら」と「潮風の中で」と「小原庄助さん」を歌った。気持ちがよかった。スッキリした。どういうわけでカラオケに追加されたのだろう。リクエストがあったに違いない。多くの人の思いが通じたということなのか。それにしてもなぜ、今?


川風、寄り添う風、月夜同舟

2019年08月18日 | 音楽 ポップス

 中島みゆきの曲に、「川風」「寄り添う風」「月夜同舟」という歌がある。アジアのどこかの川で舟に乗っている様子を歌っている。川風にあたり揺れるようで心地がよい。決してアメリカのミシシッピ河ではなく、ロンドンのテムズ河でもない。アジアのどこかの川だ。曲がアジアぽい。中国っぽいのか、ベトナムっぽいのかわからない。

 ただこの時期の中島みゆきは音楽的に高度で詩も充実しているように思える。

 半年ほど前、NHKの「Songs」で中島みゆきが3曲歌った。「ホームにて」「蕎麦屋」最後に「イーストアジア」だった。大泉洋が「沁みるなあ」と連発していた。幸運にもこの3曲はカラオケにもあって、岡田さんもこの頃歌うので、沁みるなあ、と思いながら聞いている。

 「川風」など先の3曲はカラオケにないので残念である。

 びっくりしたことがある。それは「恋文」という

歌である。メロディーラインはおぼえるのに大変複雑であるが聴けば耳に流れるように美しく入ってくる。曲は大作曲家の宮川泰やいずみたくより実力は上だと思う。園まりの歌で「何も云わないで」「優しい雨」という歌があり、これら宮川泰作品を越えるのではないかと思うほどだ。どこの曲でもない。日本勢の曲で、日本の歌謡曲である。しかも詩人としてもしっかりした歌詞にしている。

 一度「夜会」を観に行きたいものだ。映画でもやってると聞いた。

 ぼくの中での夏休みが終わったら、静かに中島みゆきのことを考えたりしている。

 

 


ちあきなおみ

2019年06月17日 | 音楽 ポップス
久しぶりに「ちあきなおみ」の歌特集があった。歌ったのは蔵出しのような歌ばかりで、しかも歌が上手いのにはやはり、というかまた再び感心した。低音部から高音部への声に段差がない。表声が裏声にならずに突き抜けていく。この人は表声とファルセットの区別のない珍しい歌手だと思う。もしかしたらファルセットを使っているのかもしれないがその境がわからない。独特な「ちあきなみ叙情」があって、石原裕次郎の歌も、いかにも自分の持ち歌のように歌ってしまう。テレビ番組では「歌姫」と言っていた。シャンソンを歌い、ファドを歌い、演歌、ブルースも歌った。

 その前の晩には「美空ひばり」の特集があった。美空ひばりもずば抜けた上手さがあるが、ちあきなおみも負けてないように思う。
 三年ほど前に一青窈がユーミンの「ひこうき雲」を歌ったとき、「上手いなあ」と感動したことがある。この歌手もいろんなジャンルの歌を自分風に歌える歌手だと思った。

 ちあきなおみも西田さち子のように、山口百恵のように、二度と公衆も面前で歌うことはないのだろう。愛する夫が亡くなった。その喪失感の深さは歌でさえも埋められなかったのかもしれない。おそらく、ちあきなおみの歌を聞いたことがある人がいる限り、これから何度もテレビで特集が組まれるのだろう。

 昨日の夜遅く「薬師丸ひろ子」が「カバーズ」で歌っていた。井上陽水が2017年に曲を提供していた。「めぐりあい」という曲だ。
 なんか女性にうまい歌手が多いな、と思う。

中島みゆき EAST ASIA

2019年01月29日 | 音楽 ポップス
 NHK「Songs」が中島みゆきを特集した。時は1970年代から80年までものだった。彼女の歌は息が長い。歌そのものがもちこたえる力が強く長いという意味だ。「糸」なんてのはもう何年前のものだろう。それが新曲のように歌われている。幾人かの歌手がカバーするからだろう。
 1998年から、ぼくは人生を破壊してしまうようなことが起き、たぶん精神は奇妙な空虚感となんとかなるさという楽観感が混じり、地は這わず、空に向かって吠えることもせず、浮遊感覚で過ごしたことがあった。
 中島みゆきの歌を追いかけることもなく、この時期の歌が記憶からすっぽりと抜けているとともに、音楽の関心が違う方面に行っていたのだと思う。
 昨日聴いた「EAST ASIA」という歌は1992年ものである。すべてが暗喩で綴られている。現代詩として良い詩だと思う。メロディーは中国調で、やや複雑である。
 最後の部分に、
  世界の場所を教える地図は
  誰でも自分が真ん中だと言い張る 
  私のくにをどこかに乗せて地球は
  くすくす笑いながら回ってゆく
  くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
  むずかしくは知らないただEAST ASIA

 とある。NHKのSongs の映像は2007年の「歌旅コンサート」からのものだという。自分のお父さんが死んだときに書いた「雪」という歌も切ない歌だが、父の死には触れず、恋人なのか、恋愛話なのかわからないようになっている。歌にする場合、何か気をつけなければならないことがあるのだろう。
 EAST ASIA とはどこのくになんだと詮索するのはおかしい。今の世界は未だに国民国家によって構成されている。国民国家である限り、地図では自分の国を真ん中に置く。国民国家というのは一種の宗教と言っていい最終の姿であり、これが永遠に続く姿でもない。中島みゆきはりっぱな詩人である。
「ホームにて」「蕎麦屋」もよかった。録画しておいたので何度でも見ることができる。聴くことができる。
 ぼくはあの時期を埋めたいかのようにこれらの歌を聴いている。
 

国民的歌

2019年01月05日 | 音楽 ポップス
 久しぶりに国民的ヒットソングが出たと思った。ダ パンプ の「U.S.A」である。ぼくらにも何度も聞こえてきたし、ダンスもよく見た。3歳、6歳の子も喜んでダンスをしている。当然親たちも知っているわけで三世代が知っていて楽しめたらこれはもう大ヒット曲だろう。
 昨年の紅白歌合戦はとても工夫されていて、NHKの凄さを示した。E-テレビ番組の凄さがあって、それを紅白歌合戦につかう。
 彼らが70歳になって懐メロででてきたら、あのダンスはできるものだろうか、などと想像する。自分もやってみて大変な運動量ですぐにこれは足腰にくる、と思った。
 「勝手にシンドバッド」から40年かあ。衝撃的におもしろく、メロディーもよかった。このじさん、おばさんバンドはいけるところまでいくのだろう。新曲にこだわり続けている。やはりヒット曲が勝負だろう。それは桑田佳祐も言っていた。その自覚から遠ざかると、もういけない。懐メロ歌手になってしまう。
 また国民が皆知る歌をつくってほしい。頑張れ、応援しとるよ、サザンオールスターズと松任谷由実。


現在ではわからぬもの

2018年12月23日 | 音楽 ポップス
 居間のコンポのCD挿入が作動しなくなったので、新しいコンポを買った。十年以上はつかったからよしとしよう。
 設置して、久しぶりにモーツアルトのシンフォニー25番を聴いた。やっぱり良いなあ。モーツアルトと言えば、宮廷音楽家で、とかく華麗なイメージがある。映画「アマデウス」を観ると、死んだあとゴミのように捨てられる最後であった。レクイエムは死の間際に書かれたもので、この作品は暗く、壮大で、悲しみに充ちている。モーツアルトは宮廷を飛び出して庶民がお金を払って聞き、楽しむオペラも作った。
 入場料を払って人々に聴いてもらうスタイルはベートーベンに引き継がれた。
 ぼくはベートーベンの弦楽四重奏が好きで、特に14番、15番と毎晩寝床で聞きながら眠る。時にCDを替えて「大フーガ」のときもある。
 ぼくはそれほど詳しく聴いていないが、ベートーベンの後期の作品は古典派とはいいがたく、現代音楽のようにも聞こえてくる。
 
 音楽を聴くたびに、音楽家がうらやましく思う。お金を取って聴かせるほどになるには大変な努力と辛抱がいることだろう。それに才能がどこまであるのかも気にしなければならない。うらやましいというのにはリスペクトも含まれている。
 ピアノを、バイオリンを、ギターを自由自在かのように弾きこなす人がいる。桑田佳祐のように曲が溢れ出てくる人がいる。音楽に合わせて身体を自由自在に扱えるような若者がいる。
 ところでシューベルトの存命時代、一曲も楽譜は売れなかった。当然彼のシンフォニー「未完成」すら演奏されることなく、若くして逝ってしまった。友人たちや家族の間でシューベルトの曲は行き続け、やがて世にでた。
 せめて50歳くらいまで生きていたらさらに偉大な作品を残していたにちがいない。どうして天才音楽家は短命なにだろう。ショパン39歳。モーツアルト35歳。シューベルト30歳だったと思う。確かではない。 
 現在という時間でもてはやされるものはたいしたものではないのかもしれない、という気持ちも起こる。今も、どこかで100年後に理解される芸術家がいるのだろう。そう思う。
音楽を エルガーの「チェロ協奏曲」に替えた、指揮者およびチェロ奏者ジャクリーヌ デュプレの演奏で絶品と讃えられた盤である、

桑田佳祐礼賛

2018年11月08日 | 音楽 ポップス
 テレビ朝日系「関ジャム~完全燃SHOW」毎日曜日23:10 の音楽分析番組が面白い。へえ、となんども驚く。前々回は「ジャズピアノ」「クラシックピアノ」「ポップスピアノ」の奏法の違いやミックスするとどうなるか、連弾してみるとか、とても興味深い。前回は「サザンオールスターズ桑田佳祐のベスト曲20を専門家が選ぶ」というもので、スージー鈴木の「サザンオールスターズ1978年~1985年」を読んでいたので、二重に面白かった。メジャーセブンコードは「東京大人のコード」と言われるほどに音に都会っぽさが表現される。桑田佳祐はこれを多用していることや、メロデイーが歌詞とともに出て来るのではないか、という憶測。一つの音に一つの語という日本語音楽の縛りを一つの音に日本語を詰め込んだり、日本語と英語を合体させたりしていることも実例をして示してくれる。

 サザンと同じアミューズ事務所のスガシカオやLOVE PSYCHEDELICOが出ていた。専門家というのは音楽評論家や音楽家などのことだ。
 初期の(原由子が妊娠して活動休止になるまで)のアルバムはぼくもしっかり覚えている。スージー鈴木は最高傑作として「メロデイー」を挙げていた。今振り返って聞いていると、桑田佳祐の曲は、「LOVE物」と「社会風刺物」「有名人へのお節介物」「エロ物」「前川清物」「オチャラケ物」に分類できるように思う。時々カスみたいな歌もある。
 彼は一度「日本文学全集」という歌を歌った。長いオムニバスの歌であった。有名文学作品の出だしを歌にしていた。題材の人間失格、芥川の蜘蛛の糸、漱石の吾輩は猫である、などなど。
 現在すでに60歳になった桑田佳祐は書き散らす歌詞ではなくて、詞を詩としてとらえ、文学のように向かって書いているように見える。
「大河の一滴」はいい例かもしれない。
 歌詞でいえば、松任谷由実、中島みゆきは優れていると思うが、桑田佳祐もそのなかに入ってくるだろう。

 読売新聞が日本で最も歌が上手い歌手のアンケートを発表したことがある。3、4年前だったと思う。女性は美空ひばりだった。もうなくなっているのに、挙げられるのはそのご美空ひばりを越える歌手はでてきてないと判断されたのだろう。男性服は桑田佳祐であった。
 表現力が豊かである。
 今年の「ひとり紅白歌合戦」も楽しみにしている。

 さて、中南米の移民希望のアメリカに向かう集団行進。どこまできたのだろう。そしてどうするのだろう。不気味である。桑田佳祐もこのニュースを見ていることだろう。ところが行進の中に日本人ジャーナリストgしないから内部の様子もわからず、外側からしか歩いている集団は見えない。もどかしいところだ。

大政絢、スージー鈴木

2018年11月03日 | 音楽 ポップス
「昭和元禄 落語心中」を楽しみにして見ている。落語が何たるかもわかるが、岡田将生と山崎育三郎の熱演がよい。加えて大政絢(あや)という初めてみる若い女優の演技、雰囲気がよい。江波杏子にどこか似ているような、黒木メイサにもどこか似ているような。こういう新人が出てくるものだと久しぶりに思った。戦前、戦後と落語に生きる若い二人と死ぬほど一人の落語家を好きになる芸者の役が大政絢である。

 と、このことを報告しておき、堅苦しい本ばかり読んできたので、スージー鈴木の「サザンオールスターズ1978-1985」という新書判を買い、読み始めた。こういう研究家もいるのだ。サザンの分析本である。ほとんど知らないことだらけで、J-pop の勃興歴史にもなっている。日本語と英語混じりの歌詞は矢沢永吉の「キャロル」が最初だったとか、宇崎竜童をリスペクトしていたとか、日本語はロック音楽に乗せにくいのを破ったのが桑田佳祐であるとか、とにかくこのスージー鈴木は詳しい。これは読むに楽しみな本を見つけたと喜んだ。サザンオールスターズrのファンになってから40年である。全く歌が古ぼけてない。好きな曲である「朝方ムーンライト」などどれも古さを感じさせないし、懐かしさを感じさせるものでもない。やはりそれはサザンオールスターズが今も現在進行形だからなのだろう。11月30日、12月1日、2日と「ひとり紅白歌合戦」をするらしくこの企画中はこれで最後だそうな。チェリティーでやっていたが目標数が達成できたらしい。テレビでも放映されるらしい。

 これはサザンオールスターズと関係はないが、健康寿命の長い人は本をよ読む人だという調査結果を今度のNHK スペシャルでやるらしい。運動不足で焦りぎみになっていたぼくには良い知らせであった。
 寝床で、「サザンオールスターズ 1978-1985」を続けて読むぞ。
  

沢田研二ねえー

2018年10月23日 | 音楽 ポップス
 稀代のデュエット双子シンガーである ザ・ピーナツの歌声は素晴らしかった。ぼくは彼女たちは別格の存在でヒット曲があるとかないとか、そんなことに影響されない日本の国民的歌手であると思っていた。40代や50代の頃の歌声も聞きたかった。ヒット曲がでなくなったことが引退の理由のひとつのように言われるが、もうそんなレベルの歌手ではないことはみな知っていた。

 ただまだ歌謡界はテレビに頼る世界だった。井上陽水のように独自にコンサートをやり、テレビにはでず、レコードを売るというスタイルがまだ確立していない時代だった。ザ・ピーナッツはナベプロにいたのだからしかたのないことだったのかも知れない。

 恨みがましいことを言うが、作曲家宮川泰の曲からすぎやまこういちに変わったのを覚えている。お洒落さでは宮川泰の曲の方が数段に上だった。ザ・ピーナツの曲の質が落ちたと思ったのをよく覚えている。そこへ沢田研二がピーナツに曲を提供した。これが全くの駄作であった。そして沢田研二がピーナツを引退に追い込んだ。姉の伊藤エミ方と結婚したのである。そして離婚した。これが恨めしい。沢田研二と言えば、ぼくの中のイメージでは短気で、不寛容な昔気質の男だということになった。
 郷ひろみと比べればいいと思うが、容姿へのこだわりは郷ひろみの方が努力して歌手を保っているように見える。沢田研二にそんな努力が見られない。やはり太りすぎである。

 人気歌手だった彼にぼくは「フン」と思っていたのだった。ザ・ピーナッツの幕を下ろさせた男として沢田研二を嫌ったのだった。どっちが上じゃい、ときっとピーナツびいきをしていたのだろう。

 しかしながら沢田研二は七十歳になっても、太っても人気がすごい。テレビニュースになると瞬く間の次のチケットが完売し、プレミアがつくほどである。毎年アルバムを出していて、コンサートではあまり過去の懐メロはやらないと聞く。それは桑田佳祐が「やっぱり新曲だしてやっていくのが・・・」と言っていたのと重なる。新曲を出し、ヒットさせないと、歌手というのは懐メロの歌手になってしまう。沢田研二は懐メロ出演は拒否しているように見える。別格なのだろう。矢沢永吉や井上陽水、松任谷由実、中島みゆき、郷ひろみなどもそうなのだろう。前線で活動している。

 久しぶりにテレビ画面に現れた沢田研二であった。その一週間ほど前にBSでザ・ピーナッツの三時間スペシャルがあり、初めて聴く曲も多く、ぼくは大いに喜んだが、DVDに録画するのを忘れた。これほど偉大なザ・ピーナッツのことだからまた特集があることだろう、と安心感がある。

安井かずみと岩谷時子を紹介した番組を見た

2018年02月15日 | 音楽 ポップス
 昭和14年生まれの作詞家安井かずみと大正5年生まれの岩谷時子を紹介した番組を見た。女性の作詞家でともにヒット曲に恵まれた。共通しているのは外国の曲を日本語歌詞にするのが出発だったことだ。
 彼女らが作る歌詞は古さを感じさせなかった。いまでも十分に通用する歌詞である。
 安井かずみは生き方も派手で、ファッショナブルで最高級なものや才能を求めた。煙草を吸い、酒を飲み、六本木で遊ぶことも好きなようだった。八歳下の加藤和彦という作曲家とついには再婚して、完全な結婚生活を目指したという。肺ガンだとわかり、加藤は一年間の仕事を取り止め看病にあtたった。裕次郎やひばりのように凝縮して、あるいは短縮して人生を駆け抜けたように思える。いつまでも美しくありたい、一流のものに触っておりたいといような美的感覚に支配されていたのだろうか。どんなに注文がきても、時間は守り、最後にはきちんと清書して手渡していたというから、き真面目で、結婚生活すら本にしてしまう異常さがあった(とぼくは思う)

 あれだけ完璧な結婚生活を送り、対外には旦那をたて、内では夫のうえに君臨していたらしい。
 夫の加藤和彦はなんでもこなす器用人だったが、安井かずみが死んでから一年ほどで日本人オペラ歌手と結婚し、やがて離婚し、そして自死に至っている。

 一方の岩谷時子は宝塚からも乞われ、腰地吹雪のマネージャーとなり、越路吹雪が独立してからも、マネージャーを辞めなかった。マネージャーをしながら次々と世に残るような歌詞を書いた。ファッションはあきれるほどに安井かずみとは対照的で、地味そのもので、眼鏡も外さなかった。越路が55歳、胃ガンで死ぬまでマネージャーを続けた。唯一無二の愛する越路が結婚してから、岩谷の理性は、親友のプライバシーには踏み込まないという姿勢をとったという。
 そしてやがて本田美奈子を見いだし、本田は成長するが、残念にも若くして死んでしまった。
 岩谷時子はいつも客観的に、人との距離も感情的にならず、べったりともせずほどよい距離で越路や本田、加山雄三などを見ていたのだろう、とぼくは推測する。夜遊びもしなかったようである。
 彼女は97歳まで生きた。これは自身の体力のこともあるが、人との関係の取り方が上手かったのが一番の要因ではないかと思う。
 英語とフランス語ができた二人はネタを探すにも事かかなかったことだろう。おそらく濾過する力量があったのではないかと思う。
 それにしても、明暗のように、表と裏のように感情の突っ込み方の違う二人を題材にしたこの番組は面白かった。安井壮絶さと岩谷の愛と哀しみをよく表していた。

カミロ、家入、あいみょん

2018年02月13日 | 音楽 ポップス
 どうやら一番寒い時期は過ぎたようでこれから三寒四温の調子で季節は移っていくのだろう。金魚もメダカも無事にじっとして冬眠している。この二月、岸壁などでは魚が釣れないはずだ。金魚をみていてわかる。代謝しないため、餌を食べない。ごく当たり前のことだが、それは多くの海の魚も同様だろう。
 
 カミロの歌を車用にとCDにして、ついでにスマホのSDに同期させた。スマホのSDに入っている音楽を編集することもした。もう不要かなと思ったものは削除した。
 セサリア・エボラという西アフリカの島出身の歌手のアルバムを運よく、リスボンのミュージックショップで手に入れた時の感動をよくおぼえている。デビューしたての頃だった。彼女はあっというまに世界の歌手となった。クリントン大統領に招かれたというニュースを見た時は驚き、バリ島のバーで彼女の歌がかかっていたのにも喜んだ。モルナというジャンルの歌を彼女は歌った。日本ではこのリズムを聞いたことがない。
 
 まだ二十歳のカミロも独特のリズムを作っている。打楽器と男性コーラスがバックの音楽として曲を揺れるように支えている。気持ちがよい。J-Popはあまりにもお粗末だと思ってきた。そのとたん、二日続けて「あれ、これは」と想った歌手がいた。日本のシンガーソングライター家入レオ。
 次の日、あいみょんという歌手。ああ、歌はAKBだのなんだのではなく、ちゃんと出てくる者がいるのだと思ったのだった。CDを買おうかとも思ったのだった。あいにく一曲しか聞いていないので、なんとも言えないのだが、歌心のある曲を作っていた。メロディーも平坦ではなく、美しかった。歌手としての質も高かった。
 
 オリンピックで活躍する若者の曲芸的な技と天候の運、不運にいろいろ思いながらも、スポーツ競技としてジャンプやスノーボードはオリンピック競技として成り立つのだろうかと思う。2040年問題もしなやかに乗り切るのはこの十代の世代である。やっと日本からも新しい歌手がでてきた、という勘が十分働いている自分にもまだ感覚が鈍化していないと思ったのだった。


カミロ・カベロetc

2018年02月11日 | 音楽 ポップス
 久しぶりに津に出た。東洋軒でランチをし、目的の音楽CDと幾つかの興味を覚えそうな新書をじっくりとみるつもりだった。それとウィスキーも。

 20歳のキューバ生まれのアメリカ マイアミ育ちのカミロ・カベロ。ミュージシャンステーションで彼女の歌を聴いたとき、ゾクッとした。次の時代の音楽を作る天才が現れたのだと思った。不思議なリズムは体を揺するようである。声に優しさと力強さがある。和製ポップスの作曲能力がめためたに落ちていると、普段から思っていたので、カミロの登場は日本での宇多田ヒカル的登場で、それは世界的だ。帰りの車の中でじっくり聴きながらと思っている。

 書店では、「人工知能と経済の未来ー2030年雇用大崩壊(井上智洋)」と「日本史の内幕(磯田道史)を買った。この頃小説から遠ざかっている。両方ちもベストセラーである。新書のタイトルを見ていると、「投資はやめなさい」
とか「賢い人の筋トレ」とか「大人のコミニュケーション」など出版社のなんとかタイトルで買ってもらおうとする意志が伝わってきて、ちょっと自信がありすぎのタイトルに腰が引けてしまう。
 とくにダイエットや食事論は、去年までは野菜を先に食べ、次はたんぱく質といっていたのが、この頃はそれは間違いだ、と主張される。

 雪が降ってきたので早めに帰ることにした。カメロのCDを聴いた。「ハバナ」という曲です、だけじゃなく、どれも良かった。ついでに宇多田ヒカルはやっぱりたいした才能のあるシンガーソングライターであり、カミロとの共通点も感じられた。メロディックであり、打楽器と男性コーラスの使い方に共通性がある。出てくるものだ、と思いながら聴いていた。
 
 夜、本を取り出して、読み始めた。AI のことである。昔、電話番号をおぼえている電話交換手がいた。切符を切る国鉄の改札口があった。それらは機械化された。印刷会社は活字を取り出して型にはめていた。
 このような変化は徐々に進行した。ITによる技術、医療科学の大きな基礎が今できつつあり、大津波のように大変革が起こるのは2030年ー2040年と予測されている。
 翻訳機はどんな文脈をも読み解き、瞬時に喋ったことが翻訳される。
 ビジネス文書も翻訳にかければ瞬時に間違いなく他言語になる。AIの技術競争でどこが世界の人工知能や物ネットワーク(IoT)やインターネットやブロックチェーンの支配が進むともいう。世界各国は国もひともこの文やでは凌ぎを削っているという。
 この競争のなかで日本は生き残っていけるのか、という疑問がわく。危ない綱渡りをしている日本経済である。金融、財政政策に失敗すれば、回復するまでの期間、おおよそ5年とか10年、停滞することになってしまうのではないか、などと寝床で思ってしまうのである。
 思えば、今のぼくはおおよそ昔考えられなかった手のひらサイズのスマートフォンをパソコン代わりに使っている。
 雨雲の位置も、天体の位置も、世界の時計も、ミュージックや動画や写真、地図、広辞苑以上も情報、近辺にない商品もみなここに詰まっている。
 2040年まで生きたいものだ。物理学者のホーキンス博士は「とても危険」と警鐘を鳴らしているらしいが。