ぼくは男で、女の人が妊娠して、子供がお腹の中で大きくなっていくときや産んでからの女性の心情とか、感覚、こころの具合はよくわからない。
川上未映子の「愛の夢とか」を読むと、女性が思ったり、感じたりすることが、<男>と絶対的に違うんだと思わせられる。つまり川上未映子はそこに拘り、女性にしかありえないようなことを小説にしているように思える。だから読んでいくうちにわからなさが出てくる。同じ人間なのに、違うのである。これは個性が違うというのではない。女性がもつものと男性がもつものは共通するものがあるが、異なるものが根底にあるのだ、と言っているようだ。川上未映子の作品は今頃純文学と言っていいかどうかは別として純文学的だ。
女性の書く小説で女性のわからなさをこんなに感じたものはなかった。宮尾登美子にしろ、有吉佐和子にしろ、山崎豊子にしろ、大小説家の小説の男女の描き方はワンパターン化していて、ごく普通に読めていける。ワンパターン化しているというのは男にも出てくる女性がわかるし、想像もできるということだ。
実は女性というものがどんな生き物なのか、女性が女性の心情を掘り下げて、巧みな文にして、小説にしたいんだ、と川上未映子の気持ちはよくわかる。
「文學界」で川上未映子の特集をやっていて、対談を読んでいた。やはり「女性」がテーマで、ぼくは対談の感覚も、出てくる言葉もあまり実感がなかったのだった。
ようやく女性が本格的に文学をやりだした。男には未知の世界を描き始めたのだ。それも自由に。世間の眼も気にせず。
ぼくは言語の芸術は吉本隆明の「言語にとって美とは何か」でよく納得したことがある。それは言語とは縦糸と横糸の織物のようで、「指示表出」言語と「自己表出」言語の織り合わせだと納得した。
「 静けさや 岩にしみいる 蝉の声 」 を例にとれば、「しみいる」が松尾芭蕉の自己表出言語である。この人しか書けない。そしてこの言葉が言語芸術としてキーワードになっている。他の言葉は「指示表出」言語である。
指示表出言語ばかりの小説は読めてもすぐに忘れるし、感動も少ない。川上未映子の文は「自己表出」言語が多い。だから短編であってもとてもよく印象に残り、なんだか考えてしまい、忘れることはないと思う。こういう小説家が出てきたんだ、と改めて思ったのだった。
川上未映子の「愛の夢とか」を読むと、女性が思ったり、感じたりすることが、<男>と絶対的に違うんだと思わせられる。つまり川上未映子はそこに拘り、女性にしかありえないようなことを小説にしているように思える。だから読んでいくうちにわからなさが出てくる。同じ人間なのに、違うのである。これは個性が違うというのではない。女性がもつものと男性がもつものは共通するものがあるが、異なるものが根底にあるのだ、と言っているようだ。川上未映子の作品は今頃純文学と言っていいかどうかは別として純文学的だ。
女性の書く小説で女性のわからなさをこんなに感じたものはなかった。宮尾登美子にしろ、有吉佐和子にしろ、山崎豊子にしろ、大小説家の小説の男女の描き方はワンパターン化していて、ごく普通に読めていける。ワンパターン化しているというのは男にも出てくる女性がわかるし、想像もできるということだ。
実は女性というものがどんな生き物なのか、女性が女性の心情を掘り下げて、巧みな文にして、小説にしたいんだ、と川上未映子の気持ちはよくわかる。
「文學界」で川上未映子の特集をやっていて、対談を読んでいた。やはり「女性」がテーマで、ぼくは対談の感覚も、出てくる言葉もあまり実感がなかったのだった。
ようやく女性が本格的に文学をやりだした。男には未知の世界を描き始めたのだ。それも自由に。世間の眼も気にせず。
ぼくは言語の芸術は吉本隆明の「言語にとって美とは何か」でよく納得したことがある。それは言語とは縦糸と横糸の織物のようで、「指示表出」言語と「自己表出」言語の織り合わせだと納得した。
「 静けさや 岩にしみいる 蝉の声 」 を例にとれば、「しみいる」が松尾芭蕉の自己表出言語である。この人しか書けない。そしてこの言葉が言語芸術としてキーワードになっている。他の言葉は「指示表出」言語である。
指示表出言語ばかりの小説は読めてもすぐに忘れるし、感動も少ない。川上未映子の文は「自己表出」言語が多い。だから短編であってもとてもよく印象に残り、なんだか考えてしまい、忘れることはないと思う。こういう小説家が出てきたんだ、と改めて思ったのだった。