25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

青葉の季節

2016年04月29日 | 日記

  朝起きると、天気が良すぎるせいか、若葉で溢れる楯ゲ崎を縦断してみようと思っ

た。起伏のある古代の道をこの老いた脚が耐えられるかが、問題である。いつも、突然、日常と違うことすると怪我をする。しかし、一度は、外側だけ眺めるのではなく、縦断して森の中に入り込み、千畳敷のある海岸まで歩いてみたかった。やっとチャンスがきたと思わせたのは、この頃のトレーニングのせいである。

 体が、「楯ゲ崎も歩けよ」と今朝囁いてきたのだ。東尋坊など、ここに比べたら、話にならない。森の道を歩くと、樹齢何千年だろうかと思う樹木がうねっている。クスノキ、ヤブツバキ、ヤマモモ、ウバメガシ、シイ、樹皮が青と茶色の模様になったカゴノキ、ビワノキロ。照葉樹林の葉は光っている。眼下の海は澄みきって、碧色のなかに石や砂が見える。持統天皇が作ったという小さな神社は建て替え中であった。神武天皇が上陸したといわれる千畳敷まで、なんとか脚がもった。大腿四頭筋とふくらはぎの筋肉が断裂してしまうのではないかと、途中で思ったが、帰りには、馴染んだのか、なんなく歩くことができた。

 ジャスミンのような薫りがしてくる。樹木の名を知っていればなあ、とか市民講座のようなもので、樹木を見ながら、名前や、特徴などを教えてもらえればなあ、と思いながら、往復2時間ほどを歩いたのだった。

 するとスマホから、「歩行数最高新記録 です」という知らせが入った。こんないい場所にアオリイカを狙った釣り人以外に歩く人はいない。日本最古の神社である花の窟も十年前にはひっそりとあったが、今は奇妙に観光地化している。楯ゲ崎もひっそりしてもらった方がありがたい。

 爽快感に体が包まれて、青葉の季節を堪能したのだった。


いろいろと

2016年04月27日 | 日記

  筋トレを6日続けて、5分×3回を6日続けたら、7日目はなんだかくたびれてしまって、休むことにした。本当は3日に1度が筋肉作りにはよいと言われているが、それを実感した。

 曽根の知人の宅を訪問したら、奥さんが尻もちをついて腰の骨を圧迫骨折したという。その知人も昨年に転倒して鎖骨や肋骨を折っていた。七十も過ぎると、そんなことが多いのを聞く。

 筋肉は代謝を活発にし、体温を上げ、免疫力を向上させるだけでなく、骨を支える役割もし、特に体幹筋になってくるとバランスは言うに及ばず、呼吸の取り込みなど、内臓にも作用が大きい。

 夕方あたりになると疲労感も抜けてきて、友達と久しぶりに食事に出かけた。二人の共通のよもやま話をし、酒を飲み、最後はそばを食べた。

 こうやって気兼ねなく酒を飲み、語るというのはよい。他にも興味深い話題が最後の場面であり、この首尾一貫の親、兄弟姉妹、奥さんなどに共通した筋の通し方と態度は心強くするものであった。具体的に書きたいが、例として言えば、中国の要人たちが田中角栄に筋をとおして、ロッキード事件でやられようと、日中国交回復を成しとげた彼に敬意を払い出し続けるという気概のようなものである。プライベート過ぎるので、ここではこういう言い方しかできない。二番目のスナックでは知り合いの女性が気前よく奢ってくれたのだった。無事、100%仕事から引退できたことを喜んでいた。

 メロメロになって家に帰ると、「僕のヤバい妻」のビデオを見ていて、こんな世界に住んでいなくてよかったと思った。疑い、奪い、巻きこみ、という世界からは今はほぼ僕は抜けている。その代わりその人間戦みたいな世界に橋下徹や政治家などはいるのだから、よくよくそういう世界からも縁がなくなったものだとも思った。

 考えなければならない思想は、フランスやアメリカでもうもたくなってきた「自由・平等・人権」の思想である。そういう思想が基礎となって憲法や政治制度ができている。経済制度も同様である。この持たなくなってきた思想を越える思想について考えておればよい、と僕は思っている。

 そんなことを思いながら、テレビドラマはつまらなく思え、奨められて読んでいる有吉佐和子の「芝桜」を読んでいたら眠ってしまった。やや二日酔い気味である。


橋下徹

2016年04月26日 | 社会・経済・政治

 元大阪市長の橋下徹がテレビでコメンテーターのような仕事をしている。テレビは大扱いのようである。とにかく歯切れがよい。そして日本人の未成熟さについても、あの、そのー、ええと、なくすっきりと語る。

 橋下率いる維新の会がどうして「太陽の党」と合併し、次に松野が率いるグループと合併し、また分かれるということをして、「おおさか維新の会」で落ち着き、安倍政権の補完勢力だとみなされている。

 権力の一角を占めるには公明党のように自民党とぴったりくっついているほうがリアリスである政治家には良い、事はなりやすい、と思っているのだろうか。

 あのような弁の達者さと討論するとなれば、他の人はもたないだろうと思う。山口組み問題、テロ問題、政治家秘書問題、パナマ文書等について、澱みなく話す姿を見ていると、見る者はその爽快さに魅了されることだろう。法と政治、行政のことをよく知っている。制度を変えていくことに理想を見出しているように見える。また法知識でのみ勝負するしかない自分というものをよく知っているようにも見える。

 思想となると、何を考えているのかわからない。例えば、集団的自衛権の行使については賛成している。経済政策についてもアベノミクスを支持しているように見える。

 どのようなことが幸福なのか、最低限の生活とは現代日本でどのようなことをいうのか、どの方向に日本を行かせようとしているのか、その辺がわかりにくい。

 大阪都構想はわかりやすかったが、全国区に出たとたん、わかりにくくなった。それにしても歯切れがよい。この歯切れのよさも薄ら怖い。小泉元首相も爽快に見えた。だがたいしたことはできなかった。規制緩和の悪い方が出てきた。公共工事を減らしたのはよかったが、格差を広げてしまった。そしてイラク戦争への加担で、テロに気をつけなければならない国となった。その間、国民はきゃあきゃあと小泉人気で騒いでいた。政治の評価はあとでなされるとよく思ったものだ。小泉元首相が引退のときになぜに安倍晋三を後継としたのか、その辺もよくわからない。

 

 

 


若葉の季節

2016年04月24日 | 日記

  庭の草が茂ってきて、筍のような匂いがする。若葉の季節になってっきた。山は新芽で膨らみ、エネルギーに充ちているように見える。自然界のエネルギーほどに、ある絵画や詩歌に感じる時がある。若仲やゴッホ。彼らの精神力には、若葉の自然界力と同程度のものを感じる。

 僕は秋の紅葉や、春の桜よりもこの若の山の姿の方が好きだ。なにがなんでも生きろ、と若葉は沈黙はしているものの、薫りで語るようだ。

待ちに待った季節である。溢れんばかりの生理の噴出だ。たったひとりの人間がそれに対抗できる。芸術は爆発だ、という岡本太郎の言うこともわかる。この面では命は短くても永遠だ。


筋トレ始める

2016年04月22日 | 日記

 毎日、6000歩を目標にスマートフォンに助けられて、歩いている。今日からこれに、各食事前に、3分~5分ほどの筋トレをすることにした。年で1%ずつ減っていったのだろうから、10%上げれば、十年取り戻せると単純に考え、たんぱく質と糖分を食後に取る。この塩梅を間違えると太るから、そのへんのさじ加減は難しい。

 腹筋や背筋などは衰えに衰えて、これが一番しんどい。これも続けてみようと張り切っている。

 自宅から事務所の二往復で約3000歩。それでは足りないので、遠回りして海岸線を歩いている。すると、これまで気がつかなかった岸壁の下に磯があったりすることに気付く。藻も生えている。もしかしたらここにガシでもいるんじゃないか、と思ったり、アイナメでもいないか、今度竿を出してみようと思ったりする。いやいや、ここは汽水域に近いからいないかもな、とも思う。

 よく食べていた母親の食事量が減ってきたので心配している。冷蔵庫にいつも僕が食料を補充しておくのだが、この頃いっこうに減っていない。毎日毎日食べていたみかんも減っていない。デイサービスの方から「今日は血圧の低い時があって、ちょっと横にさせました。通常に戻ったんですけど、一応、連絡しておきます」と心配の声があった。

 相撲小説の第三部を書いている。どうやら第四部までいきそうな気がする。自分では勢いよく書いていると思っているが、読む人にはダラダラとしていると思うかもしれない。漫画のように、奇抜なアイデアで進んでいるのではないので、どう読めるか、またいずれ書き直しのときに点検してみるつもりだ。

 


僕のヤバい妻

2016年04月21日 | 日記

 「僕のヤバイ妻」というテレビドラマが始まって、息もつがせず、ドラマが展開していき、どうなる、どうなる、と思っていたら二時間が過ぎていた。連続物だから来週は一時間枠でやっていくのだろう。俳優としてうまくなったなあ、と思うのは「佐藤隆太」である。この俳優は一皮二皮も剥けたのだろうと思う。木村佳乃も相棒でよい演技をしているが、今回はどうやら悪妻のようである。伊藤英明もよいが、相武紗季が清潔派から大胆な大人の女を演じているのも印象的だった。宮迫博之も大河ドラマでよかったが、なんだか意味あり気な存在感のある俳優になっている。

 ストーリーが二転三転、四転五転とスピード感があってジェットコースターのようにすべっていくのはどこか爽快感がある。

 突っ込みどころ満載にもなっていない。妻が誘拐されて指定の場所にようやく到達するとドローンが空からやってきて地上に降りた。それに身代金を入れた。こういう手できたか、と思わせ、それを追跡すると身代金は新聞紙を切った紙に代わっていた。

 貞淑で潔癖症の妻が誘拐された。実はこの妻が悪そうなのだが、悪を予感させるあまりにも貞淑な妻の演技というものは難しいことだろう。

 今日も新聞の一面はすでに知っている地震や三菱自動車の記事。天声人語では、「原発稼働のストップ」を訴えていた。新聞は新聞のよいところを全面に出してほしいと思うので、朝日新聞のオピニオンの紙面が2ページになっており、充実してきている。テレビでわかるニュースと同じものよりも新聞はニュース解析や意見などに重きを置いた方がいいのかもしれないし、テレビもSNSやYou Tube などとは違う役割でいかざるを得ないだろう。

 テレビの役割のひとつにドラマがある。ドラマが現代という社会を映し出す。もちろんニュースも映し出すのであるが、ドラマは現代という時代の息遣いまでも取り込むことができる。もちろん問題点も。

 この潔癖症という現代病を抱えた妻がどのような顛末となるのか楽しみにしている。


歩く

2016年04月20日 | 日記

  この2ヶ月、毎日イワシと蕪を食べている。これには飽きない。途中でカレイのつなぎを焼くこともあるが。それでもイワシを追加する。もうじきこの季節も終わるので、次は何だったか思いだすのが難しい。

この頃毎日、意識して6000歩以上を歩いている。自宅と事務所を朝昼2往復して4000歩である。2000歩足りない。それで帰りに、海岸沿いを歩く。岸壁の際を歩いて、魚、例えばガシやアイナメが潜む姿を想像する。

  600歩に足りないと、 無理して、あちこちと、空き地や駐車場を歩く。 そして、スマホから6000歩達成という連絡がくる。

  エコノミー症候群で死ぬ人がいる。どうして男性よりも女性に多いのかわからない。ただそう言われている。エコノミー症候群を防ぐ体操が紹介される。それはひとつの知恵であるはずなのに、人は習慣になるまではすぐに忘れる。今回の大地震の避難場所でもすでに11人がこの病気になっている。

 明日もきっと歩く。習慣になるまで歩く。歩かないと気持ち悪くなるまで歩くつもりだ。この頃、脚や尻の筋肉がはっている。でないと筋肉量は落ちるばかりだ。すると体温が下がり、免疫力が落ちる。

   ああ、そんなことに無自覚でいられなくなっている。嘆かわしいことだ。

 


表と裏

2016年04月19日 | 社会・経済・政治

  テレビニュースは熊本地震一色で、トランプ候補はどうなっているのか、クリントンやサンダーズはどうなっているのか、報じないが、さすが新聞は国際面、経済面などと紙面が分かれているため、ミャンマーが憲法改正に意欲的であることなどを報じている。軍部が議席割当てで四分の一を占めていて、外国国籍を家族に持つものは大統領になれない、という憲法を改正しようとすると軍部との衝突が起きるのではないか、と案じられる。軍人に民主主義への理解があればいいのだが、インドネシアもフィリピンも一応の民主化には成功した。まだ大地主制や相続税などの制度の問題は残るが、ミャンマーも成功してほしいものだ。

 ある時期、国の混乱期に強力なリーダーが出てきて、独裁政治を行うことに良い面も悪い面もあるが、とりあえず国をまとめるという点ではしかたのない現象であろうと思う。

 中国においても共産党に一党独裁でやっているが、混乱期の頃、毛沢東率いる独裁政権が出て来なかったら、中国は相変わらず群雄割拠が続いていたのではないか、と思える。国民の経済生活が向上してくると、今度はいかにして独裁政治を平和裡に壊していくか、ソフトランディングをどのようにするかが課題になってくる。

 自ら、国民の力でソフトランディングをするのが望ましい。日本は農地解放や教育制度など、憲法ですらアメリカにやってもらったから、たやすかった。従順であれば、日本人ではできないことを次々とやってくれた。目玉焼きモハンバーグも、栄養面から寿命の短い日本に持ってきてくれた。

 日本はその代わりに基地を提供した。日本には独裁政治は今のところないから、当面、アメリカとどう付き合っていくか、べったりなのか、対等なのか、従属なのか、トランプが大統領になったらどうするのか、というような問題がずっと残っている。安保法制もその中にある。

 日本は戦後の復興で高度経済成長を遂げた(熊本も復興で経済成長を遂げるだろう)。ほとんど人が掃除機、炊飯器、ガスコンロ、洗濯機、エアコン、電子レンジ、オーブン、車、携帯、オーデオ、パソコン、印刷機を持つようになった。いわば生活はやや落としたとしても昭和20年に戻ることはないだろう。維持する経済力があり、成熟させ、向上させる子育て環境、胎児期、乳児期、教育格差などの問題に取り組むべき時期にきているのだと思う。

 地震列島に住む我々はまた不安を突きつけられ。いつ起こるかわからないことへの不安を減ずるのも日本の課題なのだろう。断続的に続く地震への怯えがテレビを通じて国民が共有せざるを得ない。昭和19年の東南海地震津波は報道が軍部によって規制され、人心を不安にさせるから、ということを聞いたことがある。これも困ったことだが、他所の知らない人は平気でいられた。なんでも表面と裏面があることよ。

 


地震で思うこと

2016年04月16日 | 社会・経済・政治

  熊本は断続して起きる地震がもう3日も続いている。人々は夜も眠れないことだろう。最初の地震が本震ではなくて兆しであると、またそれは阿蘇や由布、ひいては愛媛の方でも起こるという予知を地震学者はどうして把握できないのだろう。いつも地震学者は起きてからあれこれと言う。

  NHKにたいして地震 ニュースの番組編成で言いたいことがある。

 今日のお昼の番組「生活小百科」も「とと姉ちゃん」も休みとなり地震番組を続けた。しかも同じ映像を繰返し使って、延々とニュースを続ける。こちらとしては、一時間や二次間で、整理をして報道してくれるほうが有り難い。娯楽番組もあったほうがよいと思う。

   日本は活断層列島である。地震は一瞬で家屋を倒壊させ、道路を寸断し、山崩れを起こし 、鉄道を歪める。南海トラフであればそれに津波が加わることになる。無常という敷かないこの危険な日本列島に2、3万年前から延々と人は住み続けてきたのだ。津波を逃れるほうに山を段々にして家を建て、安全そうなところに移り住んできたはずだ。ところが地下の断層の様子までわからない。いっそどこも地震が起こり得ると考えた方がいいのではないか、と思う。

  これほどの地震列島ならば、東京オリンピックや無駄な堤防つくりなどのお金を、地震予知ができるよう徹底した予算化をしてくれたほうが有り難い。なんともこの地震の多さには、歯痒い思いがする。また国民の税金を被災者支援や家屋建築にあててもらったほうがよい。

 最近の地震予知研究で、日向沖で地震が起きれば、2週間後に南海トラフに連動してくる可能性が高い、と言われている。今回の地震が日向沖につながらなければよいが、と心配もする。関東大震災もあり得る。阪神淡路大震災以降 、何か変わりつつある日本。

  政治も地震と真剣に向かわなければならない時代に入っているのかもしれない。その為にも財政の健全化は なにがなんでもんでもやっておかないと、いざの時、どうにもならなkk事態になるかもしれない。

 

 

 

 


大衆小説

2016年04月15日 | 文学 思想

  スマートフォンにヘルスメーターのようなアプリが入っていて、それが毎日警告してくる。この前、「あなたがあるいた時間は1分です」とお知らせがあってドキッとした。これはいかん、と思い、翌日から事務所へは歩いていくことにした。6000歩に達すると音がして、達成を知らせてくれる。そして励ましのメールが来る。不思議なもので、今日で4日続けて達成している。都会に住む人なら笑ってしまうような歩数であるが、尾鷲のようなところに住んでいると、生活圏歩数では6000歩はいかない。無理してどこかを歩かないと達成できない。

 昨日はK弁護士と大衆小説談義となって、酒をたらふく飲んだ。かれは純文学系は読まないという。 そして村上春樹の小説を純文学だと思っている。これは思い込みである。村上春樹の「1Q84」を読めばわかるように、村上春樹の言う「総合小説」という方が納得できる。恋愛、ファンタジー、ミステリー、哲学、冒険など娯楽要素も深淵な会話もあり、わけのわからなさも入っている。やはり小説は理解のしかたが幾重にもできて、謎めいていなければならないもので、それもちゃんと盛り付けられている。お奨めしたが、ついに彼は「読んでみる」とは言わなかった。

 それにしても、吉村昭や有吉佐和子、宮尾登美子など全部読んでいる。もう読む本もない、と嘆いている。直木賞作家の本などはだいたい目を通し、好みに合うとその作家の作品を読んでいくらしい。

   人間の表現手段は現代においては多数ある。映画よりも 文字で書かれた物語の方が良い場合もあればその逆もある。95点以上の大衆小説をKさんに挙げてもらい、 メモをした。図書館に生き、借りて読んでみようと思う。とりあえず、絶賛していた有吉佐和子の「芝桜」になるのだろう。

 

 


自分ってわからないものだ

2016年04月13日 | 映画

  小学生の頃の通知表は科目別の5段階評価で 段階が最上位最高が5で、最下位胃が1であった。僕はこの小学時代だけはオール5であった。

 鉄棒や相撲をとることが好きで、野球が流行りだしてからは野球もした。授業の合間の遊び時間と放課後が一番楽しい時間で、大人になっていくことなどは考えることもできなかった。

 当時、放課後の遊びに流行があり、カクパンやビー玉などの勝負事も流行が終わったと思ったらまた流行ってくる繰り返す時期もあった。港では鯵釣りもした。

 カクパンにしろ、ビーダマにしろ、才のある奴がいた。勉強はさしてできるわけではないが、あなどれない才能で僕はそのような才はなかった。怖い話をさせたら、芸人よりも上手いのではないか、という女の子もいた。

僕は中学に入った時、野球部にしようかとも迷ったが、結局相撲部に入った。

 何かに特に才を発揮するものもたいていはやがて中庸になる。僕は勉強の方も中庸になり、相撲でもチーム戦では中堅という位置で、とりたてて圧倒的に強いといのではなく、強かったのが三人ほどで並んでいた。

 高校に入るとますます学業がおろそかになり、卒業時には卒業ができるかどうかほどの最下位あたりにいたと思う。ギターを弾いても凡庸であった。ただクラブを作り、クラブ運営で企画を出し、オーケストラにするためにレコードを聴いて写譜をしたり、新しい効率的なギター教則本を作ったりした。大学、社会人となると、自分は何に向くのかだんだんと砂糖水が薄まっていくように、大人数の社会では、小学や中学で見る才能ほどのものは星の数ほどあるものだ、と思ったものだ。20歳ごろは急速に自分がわからなくなっていく時期でもある。

 水泳競技を見ていて若い選手がしのぎを削っている。大した才能の持ち主ばかりの中でさらにその最上位をオリンピックのために選ぶ。それを見て、今の自分を見ると、凡庸なものだ。そしてその凡庸さはどこから来るのだろうと考える。集中力?環境?縁?コミケ力?性格?

 今得意と言えるものは何ひとつない。どれを取っても凡庸である。字は下手。絵が描けない。ギターも難しいものになるとできない。歌も今ひとつ。スポーツはできない。何かの達成感もない。挫折感はある。無理して人と会うことはしない。なんだか、このまま十年も経てば死期に一段と近づいていく。運がよければ医学療法が進歩しているかもしれないが、それまでに間にあうのものだろうか。

 中庸で生きてきて、楽しいことも数多くあった。辛いことも、後悔することもしきりにあった。気分の上昇気流に乗りたいのだが、まだその時期は来ない。心の持ちようの話なのだが。 


半農半漁ーアズミ

2016年04月11日 | 日記

 79歳で死んだ僕の父は尾鷲の生まれである。僕は知らないが、父の父、つまり僕の祖父は船主だった。父が幼少の頃に海難事故で救助され、病院で死んだらしい。その祖父は古江の旅館で生まれて育ったことを知ったのは古江の床やさんが知っていて、6年前に初めて知ったのだった。父や母にあまり家系のことなど訊いたことがなかった。父の母、つまる僕には父方の祖母は引本で生まれ、尾鷲に嫁いだ。

 縄文人は主に関東以北が住みやすかったらしく、縄文遺跡は三内丸山に見られるように、集落をつくり、東の方で暮らしていた。稲作技術を持った弥生人にもいろいろな部族というか、民族らしきものがあったようだ。朝日新聞で「アースダイバー」を週1回で連載していて中沢新一が「アズミ」について書いていたので、空想を巡らせることになった。祖父の生まれ、育ちの古江という地域には平地というものがない。家は津波を避けるように山を切り崩し、段々として、そこに家を建てている。ここでは「アズミ」のように半農半漁はできない。「アズミ」は九州からやがて瀬戸内海の方に出立し、瀬戸内海で定住するものやさらに大阪にいたり、紀伊半島を海岸沿いに移動していった。すでに「海人族」が暮らしている。

 祖母の引本も海で生計をたてる村である。ここも農業ができる場所はなかったように思える。

 父の弟は特攻隊員を志願して予科練に入り、出撃の間際で敗戦となった。叔父は祖父のようにそのご船主になり、それをやめ、車を運ぶ大型船の船長となり、退職後は鹿児島の仙台の船間島の公民館長をしていた。器用な人であった。独創性はなかったように思うが、アイデアがあり、こまめで、話好きだった。その叔父が父が新船を買う時、古くなった方の船をもらい受けにきた。尾鷲まで鉄道で来て、帰りには船に乗って船間島まで行ったのである。

「いやなに、海岸沿いに停泊しながらいけばええんじゃ」という具合だに出ていった。この話を思い出し、「アズミ」は沿岸を伝って、紀伊半島海岸部に入ってきたのだろうか、と想像してしまう。

 祖父母が結婚した尾鷲は林業と農業と漁業の町でいわば半農半漁が可能な地域である。明治時代の頃の尾鷲の写真を見れば、農地の多さに驚く。それでもこれだけの小さな町である。祖母は野菜作りというものは一切しなかった。ある朝コロリと死ぬまで天狗倉山さんでびしゃごやさかきを採って一人暮らしていた。子どたちが成人し、結婚してからは全国の工事飯場で飯炊き仕事をして漂っていた。

 そんなことを思いながら、僕は、どうやら「アズミ族の血はひいていないのではないか」と思うのである。根っからの狩猟採集で暮らしてきた血筋なのではあるまいか。ただし半分だけれど。


剣道 & NHK

2016年04月08日 | 日記

 「剣道」をウィキペディアで検索してみると、その歴史がわかる。さらに「考え方」もわかる。

剣道の理念「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」

剣道修錬の心構え
剣道を正しく真剣に学び
心身を錬磨して旺盛なる気力を養い
剣道の特性を通じて礼節をとうとび
信義を重んじ誠を尽して
常に自己の修養に努め
以って国家社会を愛して
広く人類の平和繁栄に
寄与せんとするものである

 とある。

さらにウィキペディアでは、

全日本剣道連盟は、戦後の剣道を民主的的スポーツとして実施する方針を示したが、純粋なスポーツにはなりきれず、「剣道は武道かスポーツか」という論争は現在に至るまで剣道界が抱えるジレンマとなっている。

剣道の国際化にともない、剣道をオリンピック種目にしようという意見が唱えられるようになった。これに対し全日本剣道連盟は、剣道がオリンピック種目になれば勝利至上主義や商業主義に陥り、剣道の持つ武道的特性が失われるとして、現在まで反対の立場をとっている。また、剣道は有効打突の判定基準が曖昧で、フェンシングのように電気審判機も導入されていないため、特に国際試合では審判が難しい問題もある。

 柔道が国際化してつまらなくなったと僕は思っている。剣道はどうなっていくのかと思うが、僕にはひとつ剣道に疑問がある。

 例えば、真剣での勝負となると、頸動脈や手首裏側の動脈などが切られたら致命傷である。動脈ではなくても脚のどこかでも切られれば、応戦できなくなるにちがいない。現在の剣道は、面、小手、喉への突き、胴 に対してどう打つか、という審査基準によって、勝敗が決まることになっている。これが何を意味するのか知りたかったのだが、ウィキペディアではわからなかった。なぜそうなったのか。真剣を想定せず、スポーツとして考えたためなのか。あるいは四つのポイントが竹刀の打突部できちんと正確に打てれば、他の箇所へ打つ場合においても相当できると考えてのことなのだろうか。

 まあ、岡田さんがいるので、今度聞いてみようと思っている。毎日、毎日、野球、サッカー、ゴルフのニュースばかりが流れる。人気があるのだろうが、剣道や空手、バドミントンや卓球の試合など他のスポーツや武道も週に一度くらいは中継してほしいものだ。特にNHKなどはそういう希望も取り入れるべきではないのか、と言いたくなる。NHKだけで5チャンネル持っているのである。

 

 

 


不満たらたら

2016年04月07日 | 社会・経済・政治

  絶対消費の商品は値上げラッシュである。塩まで上がった。しかし選択消費商品は値下げの傾向である。巷では景気がよいという人は10%。景気が悪いが86%というアンケートがでている。

 つまりこういうことになる。絶対消費が押し上げられる分、人々は選択消費で調整をしている。

 こういうことは当たり前のことで、安倍政権はアベノミクスに危機感を抱き始めたのか、また公共事業でバラマキを始めようと考えている。ケインズ式の公共工事が景気の下支えをする、とまだ本気で思っている。そこには「消費を増やしたい」という政治家の固定観念がある。

 消費は増えるはずはないのである。理由ははっきりしている。少子化、人口減に加え、すでに人にはあまり買うべきものはない。そこに老後の年金不安がある。介護料は上がる。年金から容赦なくとっていく。

 イランの石油増産で石油価格がまだ下がりそうである。日本はどうやら2%物価上昇とそれに見合う賃金の上昇がなく、実質賃金は上がっていないうえに、絶対消費の値上げが続いているのだから、貧富の差は開くばかりの状況となっている。

 テレビを何台も持つ必要はない。洗濯機も掃除機も複数もつ必要もない。冬の服も、夏服も、コートや靴も数多くある必要もない。ある程度の本は図書館やブックオフで済ますことができる。アマゾンでも古本は買える。CDとて同じである。酒ばっかり飲んでいたら、身体に悪いこともわかってきている。つつましやかに暮らせれば、それでよい、という人も結構多いと思うが、女性に活躍しろ、と政府は音頭をとる。それにマスコミも応じる。冷房病はよくない。女性はお尻を冷やすのは子宮や卵巣によくない。障害をもつものが生まれる可能性は大きくなる。女性の晩婚化については思い切った議論が必要である。女性と男性は法的には平等であるが、身体的には違う。

 一方で人間のある種の労働が必要でなくなる(昔の電話交換手みたいに)ロボットが登場し、新しい運搬手段、3D技術、宅配の合理化などが進んでいる。

 僕らが普段、新聞やテレビ、ネットで見るもので、だいたいの景気の雰囲気はわかるのだろうが、もっとわかるのは現在の町の様子である。スーパーなどでの買い物である。人は生活感覚でわかるから、そちらの方が日銀や政府の発表データより信頼ができる。日本は経済成長を目指すよりも維持し、熟成させる方向に進んだ方がよいと思う。そのためには教育である。しかし、財政難という一番困難な状況を歴代政権は借金を積み立ててきた。日銀が買い取った国債はどうなるのだろう。結局は国民にツケが回ってくると思えるが、貯金封鎖にならないよう舵をとるのは至難の技のように思える。僕は常識的に言っているのだが。


桜と若葉

2016年04月05日 | 日記

 四日ほど雨が続き、久しぶりに曇り日だったので、桜も終わってしまうと思い、玄工山と元尾鷲工業高校の桜を観に行った。満開は8分咲きらしいから、すでに満開の時期を過ぎているようだったが、十分に花をつけていた。もう今日ぐらいから散っていくのだろう。やはり桜は青空を背景に見えるのがよいと思うし、桜の下にしばらくいるのがよいと思う。テレビで見ていると、奇妙なスタンド式の提灯も、ぶら下がり方型の提灯が桜の時期に出てくる。あれほど桜に似合わないものはないと思うが、どこもそれをやりたがる。これもあそこもやっているから、という真似なのだろう。尾鷲にも一時期玄工山にあったが、今はないので、風情もよくなっている。野生の桜など見たことはない。桜とは人が手を入れて整備されるものだ。どこもかしこも日本は桜である。

 桜が終わると躑躅が咲き始める。根津神社の躑躅はりっぱなものであったことを覚えている。日本には大木で紫色や青色の花を咲かせるものはない。大木での紫の花も見事なものである。バリ島で見たことがある。またフラボヤントという大木に桜のように紅色の花を咲かせる樹木もある。美しい。見たこともない花があると、異国を感じる。去年那覇で見た黄色のゴールデンシャワーにも驚いた。「一夜花」とタクシーと運転手がわざわざ見に連れていってくれた。元遊郭街にあることからか、タクシーの運転手は「儚い花ですねえ」とか言っていた。調べたら、花は一日で落ちるのだが、次の日にはまた新しい花が咲いているということでブーゲンビリアのようなものである。暖かい地域ではこのような樹木の花もある。

 日本人に桜を美として定着させたのは「西行」の歌だと言われている。

  願はくは花の下にて春死なむ その きさらぎの望月のころ

 はあまりにも有名である。

 ところが僕について言えば、なぜこんなに桜で騒ぐのだろうという疑問もある。なぜそこまで儚い、感傷的な花を好むのか。僕は五月頃の緑の雲のように湧き立つ山々の若葉を見るのが好きだ。どうもこころから感傷するという気分がなくなってきているのだろうか。エネルギーが欲しいのだろうか。若葉の季節は待ち遠しい。