益鳥の思いつき放題放談之記

他愛のない話題で綴る無責任放談・・・

嗚呼無念なることよ・・・&何がどこが違うのだろうか・・・

2006-10-23 15:32:23 | Weblog

                                         

                      襲名菊NO2

衆院補選自民2勝 “小沢神話”に陰り 民主党内、再び路線対立も・・・

選挙結果は変わらない。幾度繰り返しても同じ自民党(自公民連立)の勝利・・・民主党が第一党の野党では勝てるはずもないことは明白だ。民主党に政府与党との政策的違いは殆どない。

いつまで再編を考えることもなく、国民の為の政治の奪還にまともな取り組みをしないのだ。

第一党である民主党が自公民と変らない政党で存在し続け、その上に分散型党勢小能力プチ政党が散らばっていても、真の国民の為の政治の実現は程遠いばかりでなく、如何に国民の為の政党を誇示したところで、党勢の弱きは民主党と同じく、国民の為の政治看板を掲げながら全く機能しない存在と何等そこに違いは見い出せない。

せめて真に二極政治態勢が整い、全てが緊張感溢れる政治の場とならなければ、未来永劫我国国民は政治の恩恵に浴することなく、欺かれ通しで終わらなければならない。嗚呼無念なることよのう・・・(笑い)

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昨夜は遅く、一時的に激しい雨音が暫く続いたが、後は小雨が降ったり止んだりの状態で朝を迎えたようだ。コンビニへ一走りした。ゆうパックでは配達時間に居ないと持ち帰られ、局まで受け取りにゆかなければならない手間がかかるのだと言い、その時間的ロスも惜しい程の多忙さなのだという娘の場合は、管理箱へ入れて帰ってくれる黒猫ちゃんの方が都合が良いのだと言う。

コンビニにもゆうパック提携店と、クロネコ提携店がある。近い方のコンビニはゆうパック提携店で、それより百メートル余り離れてあるもう一軒のコンビニが、クロネコちゃん提携店であった。そのコンビニは昼時の所為もあって昼食を求める人達で混雑していた。

L字カウンターのはずれで伝票を書いたが、そこは背後が電子レンジが置いてあり、弁当をチンする人達がひっきりなしに、それを利用する為に私の背後に蠢いていた。伝票を書きつつ、その視野のはずれにその人達の手が、私の股下辺りの前へ、にゅっと突き出されてくるのが気持ち悪く、それでも伝票を書きながらそれとなく掴んだ状況は、私の足元にゴミ入れが置かれている為だと分かった。

弁当をチンした彼等はその其々が、包装してあるラップをそこで剥ぎ取り、私の前に備えられているダストボックスに投げ入れる動作を執って店を後にしていたのだった。(笑い)


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何処かが違う、違っているのは確かだが・・・どこが、どこで、どう、何によって違ってきたのか、違っているのだろうか???・・・

新聞コラム欄より・・・

 映画監督の才を発揮しているビートたけしさんにセピア色の場面を思わせる詩がある。「兄ちゃんが、僕を上野に映画を見につれて行ってくれた/初めて見た外国の映画は何か悲しかった」で始まり、題は「兄弟」

▼ラーメンを食べ、喫茶店でアイスコーヒーを飲む2人。しかしたばこを吸っている人たちに兄ちゃんが殴られ、お金をとられた、と詩は語る

▼「帰りのバス代が1人分しかなく/兄ちゃんが僕をバスに押し込もうとした/僕はバスから飛び降りた/兄ちゃんと歩いて帰った/先を歩く兄ちゃんの背中がゆれていた/僕も泣きながら歩いた」

▼淡々と兄弟の1日を描いた詩。悔しさをかみしめる結果になったほろ苦さも漂うが、救われた気持ちにもなる。バスに乗せようとした兄とバスから飛び降りた弟。2人を結ぶ強い糸が感じられるからだろう

▼時代小説で知られる作家の山本一力さんが上京して新聞配達をしながら学校に通っていた中学3年のとき、休日を利用、銀座に行ってコロッケ定食を食べた思い出を語っていた。初めての経験で何とか食券は買ったが、その後どうすればいいか分からない

▼込み合う店で立っていると、サラリーマン風の人に食券を出して待つよう教えられ、一緒に座ってナイフとフォークの作法も手ほどきしてくれた。山本さんは大人の親切が身に染みたそうだ。兄弟に限らず子ども同士、そして子どもと大人の関係。型にはまらない生きた教育の場である社会の土壌の現実を思う。


 高校生の大学進学率が50%を超えたのは、ここ二、三年のことで全国平均は52%強になっている。今や二人に一人が大学生になる時代である

一八八七(明治二十)年、四高など全国に五つしかなかった旧制高校は、後に富山高校などの創設で三十以上に増えるが「戦前社会で高等学校に入学できたものは同年齢の1%以下」(北國文華7号=近代日本と旧制高等学校・竹内洋氏)だった

旧制高校生は百人に一人のエリートだったのである。百人中五十人が大学生になる今日の教育の大衆化は、それはそれで大事なことだが、当時と今の学生の間には比較できないほどの差があって当然だろう

その1%のエリートが各界で指導者の大半を占め、戦前の日本を動かした功罪は様々に言われている。が、ひとりよがりの選良意識ではなく、周囲の人々から愛されたことは名作「伊豆の踊子」に描かれたとおりだと竹内さんは指摘する

きょう金沢では四高開学百二十年祭が開かれる。旧制高校生は今の若者とどこが違い、何が共通するのか。学都の遺産が未来にどのように生かされるのか。市民とともに考える機会になれば幸いである。



 郊外地の車の往来が後を絶たない大通り脇の地べたにあぐらをかいて談笑していた女子高生数名。缶ジュースを片手に一目で学校名が判別できる制服を着たまま。周りの大人の視線などまったく意に介していない

▼商店や食事処が連なるにぎやかな通りの店舗の外壁には同様に制服姿の男子高生が立て膝になってもたれている。会話もなく道行く人々の視線を気にすることもなく置き物のように座っている

▼いつの頃からか下校後帰宅することなく何をするでもなく人通りの多い通りの店舗の軒下に群れて傍若無人に過ごす高校生の姿が目につくようになった。通行人を冷やかしたり絡んだりすることはなくただ無為に過ごしているだけである

▼そのためかメディアが取り上げることはない。世の大人たちも関わりを避け静観の構えである。学校の先生方は授業の前後はもとより放課後も煩雑な校務に追われており以前のように校外補導に出向いて指導するゆとりも時間もない

▼選挙の投票権の下限年齢が現行の20歳から18歳に引き下げられることがそう遠くない日に実現しそうな日本において大人社会は高校生世代も国の将来に対して義務と権利の自覚ある行使は大過なく果たせると認知しだしたようである

▼要はこれらの自覚のみならずタテヨコ複雑な社会のしがらみの中で人として欠くことのできない規範を誰がどの段階で芽だし支援するかである。識者の多くは幼児期における親のしつけが出発点であり怠ると成長後に悔いを残すと指摘している。