今は主の居なくなった家の庭に取り残された苦瓜 (画像クリック)
益鳥の身辺余話
去る8月。一ヶ月近い入院生活からやっと帰宅してみると、ご近所でお付き合いのあった一人住まいのご婦人の家の雨戸が閉まったままになって、夜も灯が点らないので、「ご旅行にでも出掛けられているのだろうか・・・」などと推測しながら、「あるいは・・・」という嫌なケースを無理に打ち消して様子を見ることにした。
勿論10分ほどのところにご長男がお住まいだとは訊いていたが、お家の所在も知らず、お会いしたことも無いままだった。様子を見る・・・それが当面は私どもとしては、仕方のない対応だと自分達を納得させていた。一週間が経ち、10日が過ぎ、やがて二週間になんなんとしたある日、気づくと門扉が開き玄関のドアも開き人の気配がし、雨戸が一枚開いている。
「あれっ。何方か見えてるわ」と家内が見つけて言った。ご本人がお帰りなのか、それとも・・・。お姿を見かけない限りそれは分からない。「それとなく覗いてみようかなぁ・・・」家内が思案していたところ間もなくチャイムが鳴り、そして我家を訪ねられたのはそのご婦人で、ご長男の奥様だと分かった。つまり「嫁の私には何一つ相談されることもなかったものでして・・・」とあっさりその事情と成行きをかいつまんで説明され、回覧や、ゴミ当番の組内のお付き合いの出来なくなった届け出を何方へ出せば良いかを尋ねられた。
そしてご婦人は、つまり「お姑は検査入院してまして・・・脳梗塞の疑いがあるのだとお医者様はおっしゃられるのですよ・・・」と話された。私どもの「嫌な」予感が的中したことも大きなショックだったが、加えて県外にお住まいの弟さんのお家へ当面落ち着くことになるような話が進行中であるとも言われ、このお家には帰って来られないらしいことが分かった事だった。
お付き合いのあった人とのこんな別れが日が経つにつれて寂しさを増し、身につまされる思いに陥るのは、単なる晩秋の季節的感傷にすぎないものだ等とは済まされない、無理も無い歳になっている自分がそこに居るからだと気づいた。気づいたが故に尚更増して止まない寂しさなのである。
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気をつけないといけないのは、教育現場の荒廃は深刻で、いじめや、自殺や必修科目の未履修問題も相次いだとはいえ、教育基本法を改正する必要はない・・・のであって、現在の状況を即「見ろ!・・・必要ではないか!」と解釈、こじつけ、必要性の拠りどころとするのは明らかに間違いであり、政府の思う壺に陥る考え方だ。明らかに違うことであることを肝に銘じて考え、政府の改悪法案を阻止しなければならない。その立場は教育現場の荒廃的現象の続出とは無関係であり、「必要性」という点において、政府の主張する改正の「必要性」と混同してはならないものだ。
新聞コラム&社説より・・・
社説
2006/10/31(火)付
教育基本法改正案 「いま、なぜ」もまだ不明確だ
安倍晋三首相が臨時国会で最重要法案に位置づける教育基本法改正案の実質審議がきのう、衆院特別委員会で再開された。
だが、いま、なぜ改正か、関連する他の法律がどう変わり、現場はどう改善されるかの出発点からして、いまだ不明確だ。
「志ある国民を育て、品格ある国家をつくるのが目的」。首相はそう答弁したが、抽象的なうえ、言葉と裏腹に首相のめざす教育再生のもとでは金がものをいう教育格差をもたらさないか。危惧(きぐ)がぬぐえない。
野党側が成立阻止で一致したのに対し、自民党は先の通常国会で長時間審議したとして強行採決もにおわせる。ただ民主党は対案に政府案より直接的な表現で愛国心を盛り込んでいる。与党への揺さぶりだとしても国民にはわかりづらい対応だ。
「国家百年の大計」の教育にあって憲法とされるのが教育基本法だ。禍根を残す強引な審議の進め方は避けねばならない。
教育現場の荒廃は深刻で、いじめ自殺や必修科目の未履修問題も相次いだ。とはいえ処方箋(せん)は個々に見いだすしかなく、理念法である基本法が解決してくれるわけではない。ほかならぬ政府自身がそう認めている。
そもそも改正案には問題が多い。思想信条の自由を侵害するおそれがある「国と郷土を愛する態度」の規定に限らない。
たとえば教育の目標である。「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与」「伝統と文化を尊重」など五項目を新設した。
これに、義務教育の目的を「国家および社会の形成者として必要な資質を養う」としたことなども考え合わせたい。
教育を受ける権利を保障する意味合いから、現行法は教育を行う側の責務に比重を置き、自発性や自主性を重んじている。それに対し、国民に必要な資質を規定する改正案では教育を受ける側の責任が問われるようになる。国家の求める人材を育成しようという意図もにじむ。
国の権限強化も大きな転換点だ。戦前の軍国教育への反省から不当な支配の排除を掲げたのが現行法だ。ところが改正案は「(教育が)この法律および他の法律の定めるところにより行われる」とつけ加えた。
政府は教育振興基本計画も定めることになっており、国家統制色は大幅に強まるだろう。
首相が手本にするのは英サッチャー政権の市場原理導入による教育改革だ。が、英国在住のジャーナリスト阿部菜穂子さんによれば、学力テストによる学校序列化は貧富差による教育の階層化を招いた。そのため、地域によりテストを全廃するなど修正に向かっているという(雑誌「世界」十一月号)。
テスト順位を上げるため地方教育庁が学校にテスト科目以外の授業をしないよう迫ったという話は、日本の未履修問題と重なる。無批判な追随は疑問だ。
「百年の大計」に拙速はそぐわない。今国会成立の日程ありきなら論外で、改正が本当に必要かも含め、いくらでも時間をかけて論議を尽くすべきだ。
2006年10月31日
教育基本法改正 机上論争の前に現実に目を
「愛国心」などを争点にする教育基本法改正案の実質審議が30日、衆議院の特別委員会で再開した。議論がともすれば空疎に響くのはなぜだろう。社会や教育界で現実に起きている緊急問題や矛盾とかみ合わないからだ。
立て続けに表面化したいじめ自殺や高校の大量未履修は、今の日本の教育の骨格を揺るがす問題をはらんでいる。
いじめに追い詰められた子供の遺書を無視した北海道の教育委員会、教師が率先していじめた福岡の中学校。これらは戦後の学校教育の基本的仕組みである教育委員会制度や教員の資質チェック機能に不信を広め、教委廃止論や教員免許更新制論に弾みをつけた。
文部科学省は異例の現地調査を踏まえ、全国の教委の担当者を集めていじめの隠ぺい防止と対策改善を強く指示した。その足をすくうように岐阜県で23日、女子中学生が自ら命を絶つ事件が起きた。
事前の様子や遺書はいじめを示唆するが、学校側の説明は二転三転し要領を得ない。「『ウザイ』などのからかう発言はいじめに当たると思うが、自殺につながるかは推測の域を出ない」。この説明は、いじめは受けた子の身になって判断し対処するという90年代からの共通基準にも反している。
未履修は、学習指導要領や高校教育とは何か、さらに学力、教養とは何かまでも問う。横行の理由(言い訳)が入試準備のためだから、そんな入試をやってきた大学の責任でもある。問題はわが国の「最高学府」の中身と質まで問うているといっていい。
文科省は、学校側の指導で未履修組になった生徒も、正直に履修した生徒も混乱の被害者であり、できるだけ不公平感のない措置をするという。ぜひそうしてほしい。だが、乗り切った後、問題の論議を打ち切って幕を引くようなことがあってはならない。
一連の問題は子供たちに不幸、不運を重ねながら次々に浮上した。その痛ましさや影響の大きさから、教育状況に対する国民の関心はこれまでになく高い。そこで与野党に提案したい。教育基本法改正案の審議も当面は逐条的な論争ではなく、こんな連鎖的な教育危機ともいうべき状況の中で教育の基本問題を真摯(しんし)に考え、率直に論議する場にすべきではないか。
そうした社会の空気を背景に、30日の審議で、法案だけではなく、いじめや未履修について質問や意見が相次いだのは自然だろう。しかし現実先行の中で、とらえ方はまだ浅く、社会の不信や疑念、不安に答える内容にはほど遠い。また法案阻止の時間稼ぎの方便にこの論議が利用されてはならない。そうした駆け引きは不信を大きくするだけだろう。
一方、教育基本法改正論に対しては「それで現場の難問が解決するのか」という異論が常にある。推進派もそれに答える意味で、眼前にはだかる現実問題とまず向き合い、国民的論議に広げていくべきだ。それが、ひいては法の改正をめぐる論議に厚みをもたせることにもなる。
いじめ自殺 悲しみの連鎖を断て
また、いじめの自殺である。教師や教育委員会の体質に批判が集まるのもやむを得ぬ。だが、それだけで連鎖は防げない。要は社会全体が、かけがえのない命の価値をどう伝えていくかである。
こんな連鎖は、何としてでも断たねばならぬ。
福岡県筑前町で中二男子が、クラスでのいじめを苦に自宅倉庫で首をつって自殺した事件の衝撃から半月足らず。岐阜県瑞浪市の中二女子は、「これで、お荷物が減るからね」という悲しい遺書を残して自らの命を絶った。
もちろん、「お荷物」な命などこの世に決して存在しない。十四歳という、可能性と希望に満ちた命より尊いものは、この地球上のどこを探しても見つかるはずがない。
未成熟な体の中に、不安定な“ガラスの心”を漂わせるのが思春期だ。ガラスの心は外からの風に傷つきやすく、割れやすい。
相手に対してさしたる不満や嫌悪を抱くわけもなく、ただ大勢に流されていじめに回る側にも、心の不安は潜んでいる。
ちょうど二十年前の春、一人のアイドル歌手が自殺した。その直後、落胆、あるいは同情したファンの後追い自殺が相次ぎ、国会でも取り上げられる社会問題と化した。
思春期の不安や悲しみは、同じ世代の心から心へと急速に伝染していくものなのだ。
福岡の事件を機に、いじめ対策は安倍内閣の目玉の一つ、教育再生の重要課題として浮上した。
政府や自治体、学校現場がそれぞれに対策を講じていくのは当然だ。だが、それだけで、短絡的な背景を持ついじめを根絶することはできないし、子どもたちの心の不安を取り除くのも難しい。
社会を構成するすべての大人が、子どもたちの心の揺れやサインに目を凝らし、不安を吸い取る役目を果たしていくべきだ。
そのためにはまず、子どもに信頼される毅然(きぜん)とした大人であらねばならぬ。教師主導のいじめや学校ぐるみの隠ぺい工作などはもってのほかだ。そんな大人に子どもたちが安心感を抱くはずがない。
教育者でない人も、学校などを批判するだけではすまされない。経済優先で自然の命を軽視してきた社会全体の風潮を改め、続く世代と命の尊さを共有し、話し合う機会を見つけていかねばならぬ。
そしてマスメディアの側も、子どもたちの心の“揺れ”に細心の注意を怠りなく、死の悲惨と生きていく喜びを届けられるよう自戒したい。
■いじめ自殺 死に急いだら負けになる
北海道と福岡県に続き、岐阜県瑞浪市でも、中学2年の女子がいじめをうかがわせる遺書を残して自殺した。子供たちの心に連鎖反応が起きているとすれば、対処を学校だけに任せず、社会が力を合わせて連鎖を断ち切らねばならない。
岐阜県のケースでは、自殺した生徒の両親が「明らかにいじめがあった」と主張しているのに対し、学校は「いじめの事実は確認できていない」としている。遺書の内容や部活動での同級生の言動などをよく調べ、自殺の動機や背景を解明してほしい。
この種の問題が起きると、マスコミなどは往々にして学校の責任を集中的に追及しがちである。「先生はなぜ、いじめの兆候に早く気づかなかったのか」「校長はなぜ、いじめを隠そうとするのか」…。先生がいじめに加担した福岡県筑前町のような事例は別として、大半のいじめ問題は学校だけに責任を負わせても解決しない。
作家の曽野綾子さんは本紙のコラム「透明な歳月の光」(30日付)で、こう書いている。「私が違和感を覚えるのは、だれが悪いという犯人探しである」「自殺した当人も親も先生も、いじめをした側の当人も親も先生も、そして同時代の社会全体も、共に責任の一端を担うべきだろう」
その通りである。ただ、責任の軽重はなくはない。いじめた生徒とその親たちの責任はやはり重い。厳しい反省が求められる。
いじめ問題に限らず、教育は、学校と家庭、地域社会の3者の協力によって成り立っている。近年、共働き家庭の増加もあって、親が行うべきしつけまで学校に頼るようになった。いじめっ子をしかる近所の怖いおじさんも少なくなった。学校に負担をかけすぎた面を反省する必要がある。
もちろん、だからといって、学校が生徒指導に手を抜いていい理由にはならない。
安倍内閣の教育再生会議では、こうした現在の教育現場が抱える問題を幅広い視野で議論すべきだ。
自殺は、いじめに屈して負けを認めるようなものだ。真相も分からなくなる。曽野さんが指摘するように、いつかはいじめた相手を見返すくらいの気持ちをもって、心身共に強く生き抜いてほしい。