益鳥の思いつき放題放談之記

他愛のない話題で綴る無責任放談・・・

米国主導ロボット首相所信表明演説

2006-09-29 16:00:26 | Weblog

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今月の詩 (H18.9.NO2)

秋が深まりつつあるように、爽快な季節の到来が本来期待される筈なのに、我国の未来が暗雲に覆われた不吉な空模様のように感じられ、尚更悪く酷い結果の到来を予感させて、まだまださほどの冷気でもない今日この頃にも拘わらず、胸の内が震撼とさせられて来る自公民連立内閣首相の交代劇の、予定通りの米国主導ロボット首相として就任した安倍晋三の所信表明演説である。我々国民にとっても正念場であり、関が原の決戦の様相を呈して来た。

政治家が庶民の痛みの解る人物でなくては、国民の為の本当の政治はできない。安倍に何ほどの期待ができると言うのか・・・小泉よりも悪い結果が待っているのが落ちだ!!!しっかり監視せねば泥沼地獄政治の毒漬けにされる日々が待っている。・・・とはいえ、空しい時流に呑み込まれ、翻弄されて行くのが国民庶民の宿命的姿であることが哀しい現実であり、庶民の歴史でもある。秋めいた空を見上げ込み上げる慟哭に耐える。

ある新聞ニュースより


<安倍首相>集団的自衛権行使の容認検討 初の所信表明

 安倍晋三首相は29日午後の衆参両院本会議で、就任後初の所信表明演説を行った。政府の憲法解釈で禁じられている集団的自衛権の行使については「個別具体的な例に即し、よく研究する」とし、歴代首相として初めて容認に向けた検討に着手する方針を表明。憲法改正に言及し、教育基本法改正案の早期成立を目指す考えも示した。持論の「美しい国、日本」を掲げ、文化や伝統、自然、歴史を大切にする姿勢を強調するなど「戦後レジーム」からの脱却を意識した保守色の濃い内容となった。
 首相は集団的自衛権の行使容認の検討が必要な理由として、国際情勢の変化や武器技術の進歩、日本の国際貢献に対する期待感の高まりなどを挙げ「日米同盟がより効果的に機能し、平和が維持されるようにする」と説明。
 日米同盟の具体的構想として、米国の国家安全保障会議(NSC)の日本版創設を念頭に「首相官邸とホワイトハウスが常に意思疎通できる枠組みを整える」と説明。官邸の司令塔機能を再編、強化し情報収集機能の向上を目指す。小泉政権で悪化した中国や韓国との信頼関係の強化を唱え、「未来志向で、率直に話し合えるようお互いに努めていくことが重要」と指摘した。
 教育面では公教育の再生に向け、教員免許の更新制度などの導入や「教育再生会議」の創設を表明した。
 具体的な政策課題のトップには、イノベーション(技術革新)の必要性を強調した上で、医薬や工学、情報技術などの分野ごとに、2025年までを視野に入れた長期的な戦略指針となる「イノベーション25」の策定を約束する。学識経験者で構成する検討チームを近く設置する。格差是正策として「再チャレンジ支援策」の推進を盛り込んだ。
 財政再建と行政改革については「国や地方の無駄を放置したまま、国民に負担増を求めることはできない」として、抜本的な行革推進を強調。簡素で効率的な「筋肉質の政府」を目指す。
 首相は演説の結びに、アインシュタインが来日した際に残した「日本人が本来もっていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしい」との言葉を紹介。日本人の美徳を保つよう訴えかけた。

 


慟哭に耐えて・・・

2006-09-24 16:37:51 | Weblog
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今月の詩 (H18.9.NO2)

政治家が庶民の痛みの解る人物でなくては、国民の為の本当の政治はできない。安倍に何ほどの期待ができると言うのか・・・小泉よりも悪い結果が待っているのが落ちだ!!!しっかり監視せねば泥沼地獄政治の毒漬けにされる日々が待っている。・・・とはいえ、空しい時流に呑み込まれ、翻弄されて行くのが国民庶民の宿命的姿であることが哀しい現実であり、庶民の歴史でもある。秋めいた空を見上げ込み上げる慟哭に耐える。

ある新聞コラム欄と社説より


テレビから吉田拓郎さんの曲が流れている。静岡・掛川のつま恋…

 テレビから吉田拓郎さんの曲が流れている。静岡・掛川のつま恋での屋外コンサートの生中継。「ちょいとマッチを擦 りゃあ/燃えてしまいそうな/そんな頼りない/世の中さ…」。「ひらひら」という曲の歌詞が、心に響く

▼拓郎六十歳 。観客も団塊世代や中年が中心だが、青春時代の郷愁に浸るだけではないだろう。みんな前に進むためのエネルギーを欲 しているはずだ。言い知れぬ不安感の中で生きているのだから

▼小泉政権の約五年半はみんな大変だった。経済の立て直 しのため企業の淘汰(とうた)やリストラが加速し、規制緩和も積極的に行われた。競争主義、市場原理重視の政策だが 弱肉強食のすすめでもある

▼持てる者と持たざる者の格差は拡大した。貯蓄なしと生活保護の世帯数はともに上昇カーブ を描いている。労働者の三人に一人は派遣社員やパートという非正社員の時代になった。リストラにあって不本意ながら フリーターで生活を維持している人も少なくない

▼自己責任を問われるようにもなった。イラクでの日本人人質事件が転 換点だった気がする。「助けて」と言いにくい空気がこの国を覆っている。安全や人命より利益や効率を優先させること を「よし」とする土壌で起きたとしか思えない事件・事故も続いている。「思いやり」や「助け合い」のない世の中はや はり「頼りない」


「ありがとう/支えてくれて/ありがとう/激励/協力/只々(ただただ)感謝」。小泉首相が二十 六日の退陣を前に「現在の心境を託した」短歌。あっけらかんとしていて、こちらは心に響かない。


2006年09月24日
 ▼
自民党総裁に就任した安倍官房長官はこの連休、山梨県の別荘にこもり、組閣と党執行部人事の構想を練っている。

 ▼5年5カ月前に誕生した第1次小泉内閣。組閣作業の難しさの一つは、引きも切らない自薦他薦の扱いにあったとい う。永田町の「大臣病」。本人も周りの人々も一日千秋の思いでその時を待っている。いちいち希望を聞いていたら、後 で恨みを買うことにもなるので、小泉首相は派閥の推薦も受けない自己流を通した。

 ▼「サプライズ人事」の目玉は総裁選で功績のあった田中真紀子氏の外相起用。世論の支持を頼みとする小泉首相にと って、真紀子人気は魅力的だった。しかし、蜜月は長続きせず、やがて外相更迭に至る。内閣支持率もダメージを受け、 人事の難しさを浮き彫りにした。

 ▼田中元外相は政治家に対するネーミングの名人。かつて総裁候補者につけた「凡人・軍人・変人」は流行語大賞にも なったが、今度は甲子園のハンカチ王子をもじった「風船王子」という言葉が登場した。名称をたてまつられたのは安倍 総裁で、その心としては「空っぽな風船のような王子が生まれたと言われないように」との願いもあるようだ。

 ▼安倍総裁の祖父になる岸信介元首相の弟は、戦後の最長政権を率いた佐藤栄作元首相。「人事の佐藤」と呼ばれるほ ど人心収攬(しゅうらん)にたけていたが、時には支配原理の「分断と統治」の手法を用いるなど冷徹さも持っていた。


 ▼
孫の人事が風船のように軽いのか、その反対なのか。答えは間もなく出る。


多様な声に耳を澄ませ
 「闘う政治家」と威勢はよくとも、もちろん力ずくはいけません。一国の宰相となるならば、安倍晋三自民党総裁は、 まず社会の多様な声に耳を澄ましては。

 三つの「正義論」を考えます。

 一本の竹笛があります。そして、A・B・Cの三人の男性がいます。さて、三人のうち、誰にこの笛を与えるのが正し いでしょうか。

 どんな基準でもって、その正しさは決められるのでしょう。

 一つの答えは、三人の中でいちばん笛を吹くのが上手な人に、笛を与えるのが正しい。そういう考え方があります。


正義のものさしとは

 「最大多数の最大幸福」といわれる理屈です。いちばん上手なAさんが笛を吹けば、みんなが心地よく、幸せになれる というわけです。

 これは「功利主義」と呼ばれ、英国の哲学者・ベンサムやJ・S・ミルらによって、十九世紀に有力になりました。

 もう一つは、三人の中でいちばん貧しいBさんに笛を与えるべきだという答えです。最も不遇な人の暮らし向きの改善 を目指す正義論です。一九七〇年代になって、米国の倫理学者・ロールズが唱えました。

 さらに別の答えは、誰が笛を作ったかを探ります。Cさんが自分の材料を用いて、正当な手続きに則(のっと)って笛 を作ったのなら、Cさん個人の自由を尊ぶべきでしょう。ロールズと同時代を生きた米国の哲学者・ノージックが唱えた 「自由至上主義」という思想です。

 一本の竹笛をめぐって、ものさしを変えるだけで、A、B、Cと笛を与える相手が変わります。正義の中身は多種多様 でありうるのです。

 お互いに「正義の旗」を掲げ合って、血みどろの戦争を繰り返してきた人類史を思い起こしても、それはうなずけます 。

 実はこの設問は、「厚生経済学への貢献」でノーベル経済学賞を受けた、インド生まれのアマーティア・セン氏が考え たものです。セン氏の思想なら、竹笛を持つことが、その人の人生をどれほど豊かにするかを判断基準にするでしょう。

 もっとたとえ話を広げていけば、単純に「くじ引き」で持ち主を決める方法もあるでしょう。機会均等という考え方で す。

 「力は正義なり」という考え方をとれば、三人の中で、力ずくで笛を奪い取った者こそ、正しい所有者だということに なるでしょう。

 そもそも設問自体が、笛を吹くのを男性に限っていて、女性を排除しているのが問題だ、という主張もあるでしょう。 要するに、正義の考え方は“百家争鳴”といえます。


「タカ派」は祖父譲り?

 安倍総裁は祖父譲りの憲法改正論者であり、教育基本法改正にも強い熱意を燃やしています。「タカ派」と呼ばれてい ます。

 その著書を読むと、自らをことさら「闘う政治家」と強調し、中国古典「孟子」を引用します。

 《自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人といえども吾(われ)ゆかん》


 信念を抱けば、どんな反対があっても断固としてやり抜くという意思表示なのでしょう。「わたしの郷土である長州が 生んだ俊才、吉田松陰先生が好んで使った」言葉だ、とも紹介されています。

 しかし、憲法にしろ、教育基本法にしろ、半世紀もの歳月を積み重ねてなお、国民の意見が二分する重要問題です。そ んなに簡単に答えを出されてはたまりません。

 これまでの議論を棚上げする性急さは、見逃すことができません。

 孟子は人間の本性が善なるものという「性善説」を唱えた人です。
この言葉で大事なのは、「自ら反みて」の部分で、 本当に自分の考えが正しいと言い切れるか、十分に検証されねばならないのです。


 
つまり政治は、まず世の中の多様な価値観に耳を傾けてから、考え、行うべきではないでしょうか。

 孟子は「王道論」も唱えました。

 《民を貴しと為(な)し、(中略)君を軽しと為す》

 君主よりも、貴い存在が民衆であるという考えで、いわばデモクラシーに通ずるものがあります。

 《人に忍びざるの政(まつりごと)を以(もっ)てしたれば、仁は天下を覆えり》

 「人に忍びざるの政」とは、要するに惻隠(そくいん)の情が流れる「仁愛の政治」のことです。

 孟子はそれこそ、王道なのだと説いているのでしょう。「仁者は敵なし」の言葉も出てきます。慈しみが大切なのです 。

■小手先の慈しみでは

 でも、
安倍総裁のスタンスには、「国家」を優先して、個人の権利や自由をその分、軽くみる国家主義が見え隠れする のが気になります。

 誰にもカーブの先は見えません。困難な時代だけに、多様な正義論について考えることをお勧めします。

 
「孟子」には有名な「五十歩百歩」の言葉もあります慈しみまで小手先なら歴代首相と「五十歩百歩」と言われてし まうでしょう。

新聞人、マスコミに携わる者としての感覚を疑う・・・

2006-09-23 16:57:45 | Weblog

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今月の詩 (H18.9.NO2)

????????????新聞各社一斉に国旗国歌問題についての東京地裁の判断を支持している中で、読売と産経新聞だけが不支持表明した社説を掲載している。????????????

ある新聞コラム欄と社説より


ヒガンバナ
 「嫁の簪(かんざし)」「御神輿(おみこし)」「馬の舌曲がり」「手腐り花」「野松明(たいまつ)」--みなヒガンバナの異名という。「幽霊花」「死人花」などおどろおどろしい名はよく知られるが、ものの本によると各地には400以上もの異名がある。人に名をつけさせたくなる花なのだ

▲ちなみに英語名の「リコリス」は海の女神で、所変われば印象も違う。なかには「ハリケーンリリー」という呼び名もあるそうだからすごい。日本で最も一般的な異名「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は仏典に出てくる天上の花である

▲異名の一つに「はみずはなみず」もあるが、これは花の咲く時期に葉がなく、葉が生えるときには花がないためという。「葉みず花みず秋の野に/ぽつんと咲いたまんじゅしゃげ/から紅(くれない)に燃えながら/葉の見えぬこそさびしけれ」は中勘助の詩だ

▲秋いきなり花を咲かせ、他の草が枯れるころに葉を茂らせる。緑芽吹く春には枯れて、夏は土の中で眠っている。何ともへそ曲がりな花である。しかしこれがライバルのいない冬の太陽を独り占めし、栄養を球根に蓄える生存戦略なのだと聞けば、なかなか抜け目ないヤツだと分かる

▲日本のヒガンバナは花は咲いても種子を結ばないから、増殖には人手がかかわっている。その毒でモグラなどを防ごうと植えたり、毒抜きをして飢饉(ききん)の際の食料にしたり、そんな人の暮らしと共にヒガンバナは生育地を広げてきた。異名の多さは、人とのつき合いの長さと深さの証しだ

▲その昔、人々が真西に沈む黄金色の太陽を見て西方浄土を思い描いたというお彼岸の中日である。そんなおり、この世ならぬものを感じさせる赤く、あでやかな花で人間の心をひきつけるのも、もしかしたらヒガンバナの周到な生き残り戦術なのかもしれない。

2006年09月23日
 ▼ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや。室生犀星(さいせい)「抒情小曲集」中の有名な一節だ。古里といえば、この詩を思い出す人も少なくないだろう。

 ▼青雲の志に燃えて都会に出たものの、ついに故郷に錦を飾ることかなわず、帰るに帰れぬ者たちの望郷の思いとも重なったようだ。犀星も古里には屈折した感情があったらしいが、今は別の意味で、田舎に帰れない人が増えているという。

 ▼古里の消滅だ。過疎と高齢化が進む田舎は、身寄りも少なくなる一方。親が健在なうちはよいが、そうでなければ、盆暮れの帰省先さえ失ってしまう。「私たちには古里がない」と嘆く都会人と同じような状況が地方出身者にも生まれてきているというのである。

 ▼象徴的なのがお墓だろう。墳墓の地と言われる古里だが、そのお墓までが危うくなった。実際、老親の死などをきっかけに、お墓を身近な場所に移すケースが目立ってきたし、そうでなくても、墓掃除やお供えを業者に委ねる家族も年々多くなっている。

 ▼肉親たちの眠るお墓は、都会に出た者たちと古里をつなぐ最後の接点であったが、そのお墓を移せば、古里とのきずなは永遠に断たれてしまおう。まさに「遠くにありて思ふ」ことでしか、古里は存在しなくなる。

 ▼きょう23日は秋分の日、彼岸の中日。立ち込める線香の煙の中で、古里の行く末と、自らの墓所の今後を考える人も、きっといるに違いない。


2006年09月23日

【国旗国歌判決】教育に強制は要らない

 入学式や卒業式で国旗国歌を強いられてきた全国の教職員には目の前が開ける思いではなかったか。

 教育現場における国旗・国歌の在り方を東京都立高校などの教職員が問うた訴訟で、東京地裁は国旗国歌の強制は違憲として原告勝訴の判断を示し、斉唱しないことなどを理由とした処分を禁じた。

 「公共の福祉に反しない限り」との条件は付くものの、思想良心の自由を積極的に認め、行政による強制を排除したのが特徴だ。

 極めて妥当な判決だが、国旗国歌への正しい認識を持たせる教育は肯定している。要は教え方であり、教育本来の力への信頼が行間ににじんでいる。一審段階とはいえ、判決の趣旨を踏まえた対応が、行政や学校現場に求められる。

 教職員らが都と都教育委員会を相手に、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟で、大きな論点となったのは憲法との関係だ。

 判決は君が代、日の丸が戦前や戦中、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた、とし現在でも国民の間でその価値が中立的なものと認められるには至っていない、との見解を提示する。

 見解が想定するのは君が代、日の丸に対する異論の存在だ。それをどう見るかが問題になるが、判決は生徒に同調を求めないことなどを条件に、教職員の思想良心の自由は認められる、とする。少数意見を容認しつつ社会の多様性を保持する民主主義の理念に基づいている。

 こうした憲法観を前提に、判決は国旗・国歌と現行の教育行政との関係に言及する。対象となるのは教育基本法、学習指導要領、都教育長通達、校長の職務命令などだが、重視したのは教育基本法がうたう「不当な支配」の禁止だ。

 国旗国歌を強制する根拠の一つだった学習指導要領については、「大綱的な基準」と位置付けし、これを盾に教職員に国歌の斉唱、ピアノ伴奏を強いることはできないとする。

 指導要領の法的拘束力は学力テスト訴訟の最高裁判決で認められてはいるが、生徒に対する理論や理念の強制は認めていない。東京地裁の判断は、この判例とも矛盾しない。

 
国の責任も


 地裁判決は、国旗国歌で各学校の裁量をほとんど認めていないとして都教育長通達は違法とし、通達に基づく校長の職務命令についても同様の判断をした。

 1999年に国旗国歌法が成立した際、当時の官房長官は「強制するものではない」と強調している。これが法制化の大前提だったはずなのに、文部科学省は学校現場での指導徹底を求め、教育委員会への働き掛けを強めた。徹底を求める職務命令は、広島、福岡などの各県でも出されている。

 石原都政下での強制ぶりは突出しているが、濃淡はあっても文部行政の影響は広範囲に及んでいる。判決は都の教育行政ばかりでなく、国の姿勢も裁いたといえる。

 もっとも判決は国旗・国歌を教えることを否定してはいない。それどころか「正しい認識を持たせ、尊重する態度を育てることは重要なことだ」と指摘する。

 国旗国歌の強制はしないが、教えることの大切さは認める。そんな姿勢から導き出されるのは「自然のうちに定着させる」ことへの強い期待感である。

 われわれもこうした教育の在り方をこの欄で主張してきた。理想論との見方もあろうが、奥の深い教育に強制がなじまないのは確かだ。


国旗国歌の強制 違憲判決の重みをかみしめよ

 東京地裁は、入学式や卒業式での国旗国歌の強制は思想良心の自由を定めた憲法に違反するとの判決を出した。

 
 裁判は東京都立高校などの教職員らが都と都教育委員会を相手に訴えていた。判決は、君が代斉唱などを強制する都教委の通達や各校長の教職員への職務命令は違法と判断した。


 国際的なスポーツ大会では国旗掲揚や国歌斉唱がつきものだ。日本の選手やチームが勝利した後に日の丸が掲揚されたり、君が代が演奏されたら、誰もが感激を覚えるはずだ。

 
 しかし、それは自然にこみ上げる感情だから尊いのであり、強制されたのでは興ざめだ。ましてや心豊かな子どもたちを育てる教育現場にあって、教師に強制するのはなじまない。


 判決はそんな国民の常識的な感覚に合致するはずだ。その意味で当然といえる判決であり、評価したい。

 
 一九九九年八月に国旗国歌法が成立、施行されたのを受け、都教委は二〇〇三年十月に通達を出した。卒業式や入学式などで日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう義務づけ、通達に基づく校長の職務命令に教職員が従わない場合は責任を問われるとした。

 
 その結果、都教委職員が各学校の式典に出向き、教員の誰が起立しなかったか、歌を歌わなかったかを調査するという異常事態になった。従わなかった教員は処分した。

 
 こんな軍隊のような上位下達が教育現場にふさわしいわけはない。通達以降、校長は都教委の方針を伝えるだけのロボットみたいな存在になったという。教員は式典のたびに踏み絵を踏まされる心境だろう。

 
 子どもの教育にも良い影響があるはずがない。学校は多様な個性と自主性をはぐくむ場のはずだ。判決を機に、学校内の風通しを良くし、伸び伸びとした雰囲気を取り戻したい。


 県内の学校では以前から日の丸掲揚や君が代斉唱が定着しているため、職務命令などによる指導は行われていない。一方、共同通信の調べでは東京以外にも滋賀、広島、鳥取、福岡の各県が君が代斉唱などの職務命令を出して徹底を図っている。

 
 広島県や福岡県では過去に、君が代を歌うときの声の大きさまでチェックしていた市があった。あきれるほかはない。

 
 今回の判決は「国旗国歌は強制するのではなく、自然のうちに国民に定着させるというのが法の趣旨であり、学習指導要領の理念」と明快に断じた。さらに、国旗国歌を強制する通達や職務命令は「教育基本法が禁じた教育への不当な支配に該当する」と認定した。

 
 教育現場に無用の混乱を起こさないために、国、都など各自治体は判決の意味を十分かみしめなければならない。


 判決は、教育基本法改正など教育改革を重点政策に掲げて発足しようとしている安倍晋三政権にも大きな影響を与えずにはおかないだろう。新政権も判決を謙虚に受け止め、改革の中身を再吟味すべきである。


「国旗や国歌に敬意を表するのは法律以前の問題だ」。東京都教…

 「国旗や国歌に敬意を表するのは法律以前の問題だ」。東京都教委の国旗国歌強制は違憲とした東京地裁判決に、こんな感想を述べたのは、誰あろう小泉首相である

▼さすが内外から批判を浴びた8・15靖国参拝を、「わが心の問題」として強行した首相だ。思想信条の自由に関しては一貫している。ただし憲法は、総理大臣が公務より私心を優先することまで想定しているとは思えないが

▼そもそも国民的コンセンサスをもって支えられなければ意味がない国旗国歌を、法律で強制しようとするからこじれる。一九九九年の広島県立高校の校長自殺事件をきっかけに、法制化に走った政府は、当初「個人に強制しない」と約束したはずだ

▼それを東京都教委が二〇〇三年十月、入学式、卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱を通達。教員管理の道具として踏み絵的に強制したからややこしくなる。従わない教員を大量処分し、退職者の再雇用にも応じなかった。他府県に例を見ないこの強硬姿勢を地裁判決は教育基本法、憲法に反すると厳しくとがめている

▼幕府が鎖国を解いた江戸の昔から、「日の丸」は万国公法(国際法)に則(のっと)り海賊と区別するため、公海上で掲げられてきた。これを国旗とすることに異論を挟む国民はいまい。一方「君が代」は一八七九(明治十二)年に、天皇礼式曲として作られたもので、本来国歌ではない(松本健一『「日の丸・君が代」と日本』=論創社)

▼天皇が命じた戦争の思い出に結びつくと違和感を持つ人にまで、斉唱を強制することはない。妥当な判決だ。

(2006年9月22日9時21分 読売新聞)

国旗国歌判決 『押しつけ』への戒めだ
 入学式などで日の丸に起立せず、君が代を歌わない自由も認められる。東京地裁は教員らが起こした訴訟で明確に述べた。これまで「強制」と「処分」を繰り返してきた都教育委員会への戒めだ。

 そこまでしなくても…と、都教委のやり方に対して感じていた人々も多かったのではないか。

 「都教委の一連の指導は、教育基本法一〇条(行政権力の不当介入の排除)に反し、憲法一九条の思想・良心の自由に対し、制約の範囲を超えている」

 そう述べた東京地裁の判断は、「都教委の行き過ぎ」を指摘する画期的な内容だったといえる。

 なにしろ、入学式や卒業式で、日の丸に起立せず、君が代を歌わなかった教員らへの処分は強引だった。

 二〇〇三年十月に都教委は、「校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」という趣旨の通達を出した。それに基づき、〇四年春には、都立高校や都立盲・ろう・養護学校などの教員ら約二百五十人を戒告や減給処分にした。

 さらに同年五月にも六十七人を厳重注意している。処分は毎年続き、〇五年春は六十三人、今年春にも三十八人の処分を数えている。

 今回の訴訟で原告数が約四百人に上っていることにも、その“異様さ”がうかがえる。

 君が代処分をめぐっては、昨年四月に福岡地裁が「減給処分は違法」という判断を出した。一方で、君が代のピアノ伴奏を拒否した東京都日野市立小学校の音楽教師の場合は、一、二審とも音楽教師側が敗訴した。判断の分かれる問題だっただけに、今回の裁判は注目されてきた。

 その判決は「日の丸・君が代が軍国主義思想の精神的な支柱だったことは歴史的事実」と踏み込んだ。その点については、多様な意見はあろうが、「国歌斉唱などに反対する世界観や主張を持つ人の思想・良心の自由は、憲法上、保護に値する権利」としたのは理解できる。

 サッカーやオリンピックで日の丸の旗を振り、君が代を口ずさむのは、誰に強制されたわけでもない。国旗とか国歌とは、もっとおおらかに考えていいのではないか。

 問題とされたのは一律の「押しつけ」だ。一九九九年の国旗国歌法の成立時に、小渕恵三首相もわざわざ「新たに義務を課すものではない」という談話を発表していた。

 それにもかかわらず、都教委が「強制」を繰り返すことへ、司法がストップをかけたのである。都教委は判決を厳粛に受け止め、これまでの高圧的な姿勢を改めるべきだ。


平成18(2006)年9月22日[金] 産経新聞

■【主張】君が代訴訟 公教育が成り立たぬ判決

 都立高校の卒業、入学式に向け、教職員に国歌斉唱などを義務付けた都教委の通達をめぐり、東京地裁はこれを違法と判断し、都に賠償を命じた。これでは、公教育が成り立たない。

 判決によれば、「国旗と国歌は強制ではなく、自然に国民に定着させるのが国旗国歌法や学習指導要領の趣旨だ」としたうえで、「それを強制する都教委の通達や校長への職務命令は、思想良心の自由を侵害する」とした。さらに「都教委はいかなる処分もしてはならない」とまで言い切った。

 国旗国歌法は7年前、広島県の校長が国歌斉唱などに反対する教職員組合の抵抗に悩んで自殺した悲劇を繰り返さないために制定された。当時の国会審議で、児童生徒の口をこじあけてまで国歌斉唱を強制してはならないとされたが、教師には国旗・国歌の指導義務があることも確認された。指導要領も教師の指導義務をうたっている。

 東京地裁の判決は、こうした審議経過や指導要領の趣旨を十分に踏まえたものとはいえない。もちろん思想良心の自由は憲法で保障された大切な理念であるが、教育現場においては、教師は指導要領などに定められたルールを守らなければならない。その行動は一定の制約を受けるのである。

 従って、都教委が行った処分は当然である。東京地裁がいうように、いかなる処分も行えないことになれば、教育現場が再び、混乱に陥ることは確実だ。広島県で起きた悲劇が繰り返されないともかぎらない。

 裁判長は「日の丸、君が代は、第二次大戦が終わるまで、軍国主義思想の精神的支柱だった」とも述べ、それに反対する権利は公共の福祉に反しない限り保護されるべきだとした。これは一部の過激な教師集団が国旗・国歌に反対してきた理由とほとんど同じだ。裁判所がここまで国旗・国歌を冒涜(ぼうとく)していいのか、極めて疑問である。

 自民党新総裁に選ばれた安倍晋三氏は「公教育の再生」を憲法改正と並ぶ大きな目標に掲げている。そのような時期に、それに水を差す判決が出されたことは残念である。小泉純一郎首相は「人間として国旗・国歌に敬意を表するのは法律以前の問題だ」と語った。各学校はこの判決に惑わされず、毅然(きぜん)とした指導を続けてほしい。


また叱られながら・・・続けるブログ

2006-09-22 17:01:38 | Weblog

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医師と家族のPC作業停止勧告を無視してまで続ける価値が、どこかにあるのだろうか?(笑い)眼の症状は相変わらず、限界宣言を受けたままだ・・・


今月の詩 (H18.9.NO2)


ある新聞コラム欄と社説より

国旗国歌判決 『押しつけ』への戒めだ
 入学式などで日の丸に起立せず、君が代を歌わない自由も認められる。東京地裁は教員らが起こした訴訟で明確に述べた。これまで「強制」と「処分」を繰り返してきた都教育委員会への戒めだ。

 そこまでしなくても…と、都教委のやり方に対して感じていた人々も多かったのではないか。

 「都教委の一連の指導は、教育基本法一〇条(行政権力の不当介入の排除)に反し、憲法一九条の思想・良心の自由に対し、制約の範囲を超えている」

 そう述べた東京地裁の判断は、「都教委の行き過ぎ」を指摘する画期的な内容だったといえる。

 なにしろ、入学式や卒業式で、日の丸に起立せず、君が代を歌わなかった教員らへの処分は強引だった。

 二〇〇三年十月に都教委は、「校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」という趣旨の通達を出した。それに基づき、〇四年春には、都立高校や都立盲・ろう・養護学校などの教員ら約二百五十人を戒告や減給処分にした。

 さらに同年五月にも六十七人を厳重注意している。処分は毎年続き、〇五年春は六十三人、今年春にも三十八人の処分を数えている。

 今回の訴訟で原告数が約四百人に上っていることにも、その“異様さ”がうかがえる。

 君が代処分をめぐっては、昨年四月に福岡地裁が「減給処分は違法」という判断を出した。一方で、君が代のピアノ伴奏を拒否した東京都日野市立小学校の音楽教師の場合は、一、二審とも音楽教師側が敗訴した。判断の分かれる問題だっただけに、今回の裁判は注目されてきた。

 その判決は「日の丸・君が代が軍国主義思想の精神的な支柱だったことは歴史的事実」と踏み込んだ。その点については、多様な意見はあろうが、「国歌斉唱などに反対する世界観や主張を持つ人の思想・良心の自由は、憲法上、保護に値する権利」としたのは理解できる。

 サッカーやオリンピックで日の丸の旗を振り、君が代を口ずさむのは、誰に強制されたわけでもない。国旗とか国歌とは、もっとおおらかに考えていいのではないか。

 問題とされたのは一律の「押しつけ」だ。一九九九年の国旗国歌法の成立時に、小渕恵三首相もわざわざ「新たに義務を課すものではない」という談話を発表していた。

 それにもかかわらず、都教委が「強制」を繰り返すことへ、司法がストップをかけたのである。都教委は判決を厳粛に受け止め、これまでの高圧的な姿勢を改めるべきだ。


国旗国歌判決 やはり「強制」はいけない

 東京都立高校などの教職員が、入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟で、東京地裁は、国旗国歌の「強制」は許されないとの判決を下した。斉唱しないことなどを理由とした処分も禁じ、都に損害賠償も命じた。懲戒処分まで行って国歌斉唱などを「強制」してきた都教育委員会を「行き過ぎ」だとして厳しく断罪した。教職員と生徒の思想良心の自由を最大限尊重した判決である。この問題については、複数の裁判所で異なる判断が下されているが、行政と教育関係者は、今回の判決を重く受け止めるべきである。

 国旗国歌法が成立したのは一九九九年。国会では当時の小渕恵三首相が「国旗の掲揚および国歌の斉唱に関し義務づけを行うことは考えておりません」などと答弁していた。国旗国歌を「強制」しないことは何度も確認されていた。

 五輪やサッカーのワールドカップなどを見れば分かるように、国旗国歌への愛着は、国民の自発的で自然な感情によるべきものではないだろうか。「強制」はむしろ、国旗国歌への愛着を妨げる恐れがある。

 ところが実態はどうか。都教委は今春、卒業式で起立しなかったなどとして教職員を大量に処分。停職三カ月という重い処分もあった。処分を受けた教職員は「国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗国歌の拒否をあおったり」したわけではない。「懲戒処分までして起立、斉唱させることは憲法が定める思想良心の自由を侵害する行き過ぎた措置」とした今回の判決は説得力がある。

 判決も指摘したように、国旗国歌については、国民の間にさまざまな意見がある。それは一人一人の歴史観や価値観と深く結びついた問題だ。単にマナーや規律の問題とは片付けられない。まして、少数意見を否定し「排除」するようなことはあってはならないはずだ。多数派とは異なる意見を持つ人々を尊重し、その自由と人権を守ってこそ、自由な民主主義社会だからである。

 県内では、東京のように職務命令、それに基づく処分という状況には至っていない。しかし、県教委は各学校長に起立しなかった教職員の氏名報告を求め、強く指導する方針を示していた。今回の判決は、県教委の対応にも影響を与えよう。思想良心の自由という観点から、これまでの対応の再考が求められる。

 また、県立学校の教職員百五十二人(「神奈川こころの自由裁判をすすめる会」)が、国歌斉唱などの義務のないことの確認を求める訴訟を横浜地裁に起こしており、その結果も注目される。

 今回の判決を契機に、思想良心の自由の尊さについて、活発な論議を期待したい。



自民党新総裁に就任した安倍晋三氏は、一夜明けて二十一日が五…

 自民党新総裁に就任した安倍晋三氏は、一夜明けて二十一日が五十二歳の誕生日だった。感想を聞かれ「大変すがすがしいですね」と、笑顔で朝から首相経験者らにあいさつ回り
▼父親で外相、幹事長時代の、故晋太郎氏を現場で追っかけていた身としては、こんなに髪の毛が黒々した若い総裁を目の当たりにすると、しみじみ世代交代を感じる。議員歴十三年で当選五回、党三役、閣僚経験各一回の“若手”を抜擢(ばってき)した自民党のしたたかさにいまさらながら舌を巻く
▼世界の趨勢(すうせい)から見ればやっとロシアのプーチン大統領(53)、一年以内の退任を表明した英ブレア首相(53)、独メルケル首相(52)、台湾の陳水扁総統(55)に追いついたところ
▼主流は、とっくに米国のブッシュ大統領(60)、クリントン前大統領(60)、韓国の盧武鉉大統領(60)ら戦後生まれに移っている。自民党総裁選の前日、外遊中を軍事クーデターで追放されたタイのタクシン前首相(57)も同じ世代だ
▼日本では、野党民主党元代表の菅直人氏(59)、鳩山由紀夫氏(59)が団塊の世代だが、自民党内ではこの世代はみごとにすっ飛ばされた形だ。安倍氏と総裁のいすを争った谷垣禎一氏(61)も麻生太郎氏(66)も第二次大戦中の生まれで団塊前世代▼ちなみに小泉純一郎首相(64)と北朝鮮の金正日総書記(64)は同級生で、中国の胡錦濤主席(63)は“イッコシタ”。もっとウマが合ってもよかった。安倍氏らは、ポスト団塊世代、「無気力、無関心、無責任」の三無世代とも呼ばれたが、多極化時代の舵(かじ)取りをこなせるか。

 祭りを盛り上げるお囃子(はやし)の乗る山車を、英語でバンドワゴンという。にぎわいに誘われ、われもわれもと人が集って大群衆になる。バンドワゴン効果なる言葉があり、訳せば「勝ち馬に乗る」▼景気のよいお囃子を高らかに鳴らしたのは、さしずめ小泉純一郎首相。山車の上には、意中の後継者。なだれを打った人波には、ポスト小泉のライバルたちも最初から勝ち目がなかった

 ▼安倍晋三官房長官が圧勝した自民党総裁選。「改革を前進させたい」と総裁に当選した舞台で、5年間をともにした首相に敬意を表した。きょうで52歳の若さ。初の戦後生まれの首相誕生も確実だ
▼岸信介元首相の孫で、父は安倍晋太郎元外相。官房副長官時代、日本人拉致事件での北朝鮮への強硬姿勢で名を挙げた。しかしながら政治家として実績が豊かとは言えず、劇場型パフォーマンスで活路を開いた小泉流の勝負師でもない。安倍さんの勝負手は何?

 ▼憲法、教育基本法改正の公約に伝統回帰をにじませ、戦争への歴史認識は明かさない。外交の火種も、山積する小泉改革のひずみも、安倍さんは引き継ぐ。何を考え、どう解決するのか、自らの言葉で具体的に語らねばなるまい▼お囃子の山車に集った衆は、祭りが終われば散る。安倍人気とは何か。それが問われるのも早い。

「白洲手記」という。
日本国憲法誕生の舞台裏をメモした文書で、吉田茂首相の懐刀として戦後復興に尽力した白洲次郎の言葉をタイプしている。旧白洲邸「武相荘(ぶあいそう)」(東京・町田市)の特別展で見た

▼「『今に見ていろ』ト云(い)フ気持抑ヘ切レス ヒソカニ涙ス」。占領するGHQ(連合国軍総司令部)にのまされた憲法草案が、閣議で承認された時の思いをこう記す。日本人としての矜持(きょうじ)が伝わってくる▼白洲は本場仕込みの英語を生かし、GHQと激しく渡り合った。マッカーサー総司令官に物申し「従順ならざる唯一の日本人」と恐れられた

▼武士道精神がデモクラシーをまとったような「和魂洋才」の人。原理原則にこだわった。「いいものはいい」。涙した新憲法であっても「戦争放棄」を高く評価した▼強きを助け弱きをくじくような根性を最も嫌った。「ほかの東洋人にはえらそうなことを言うけれども、西洋人に対してはからきしだらしない」と当時の風潮を嘆いた

 ▼あれから60年。日本人はどれだけ変わったか。中国、韓国に強い態度を見せるが、米国には顔色をうかがうばかり。駐留米軍基地再編、自衛隊イラク派遣、牛肉輸入解禁…。どうもお追従が先に立つ。「無魂洋才」の政治家、役人には、白洲の気概に学んでほしいものだ。


中国で二宮尊徳の研究が盛んだという。
先月には大連で尊徳をめぐる学術大会が開かれた。発表者の一人として参加したノンフィクション作家の新井恵美子さんは「中国全土の研究者は増えるばかり」と本紙で報告している

▼大会は国際二宮尊徳思想学会(事務局・小田原)の主催で一年おきに開かれており、今度が三回目。第一回の開催地は北京。次回も上海が予定される。学会会長も北京大学日本文化研究所所長の劉金才教授である

▼尊徳はいうまでもなく江戸後期の思想家。農村復興を指導した。薪を背負った通称金次郎の勤勉な姿は、戦前の修身教育の象徴として仕立てられたが、そんな像もほとんど見掛けなくなった。以来、日本ではむしろ古びた価値観の代表格のようにみられがちだ

▼それがなぜ中国でもてはやされるのか。新井さんは「拝金主義に陥らない戒め」とみる。富の獲得は人々の幸せのため。経済大国への道に突き進みながらもその自制を忘れない。「経済と道徳の一致」を説いた尊徳思想は格好の教材となるらしい

▼ひるがえって日本はどうか。カネで購(あがな)えぬものなどないといった不遜(ふそん)、うそぶき。虚業にも似たマネーゲーム。後を絶たない粉飾騒ぎ。日銀総裁までが投資に踊った。尊徳への傾倒と乖離(かいり)。それが際立ってきた。