goo blog サービス終了のお知らせ 

歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

花の美学 その2

2005-06-17 | 美学 Aesthetics
住するところなき心―無常のなかに花を求める

まさに住するところ無くしてその心を生ず(金剛般若経)

人の心にめづらしきとみるところ、すなはちおもしろき心なり。花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは、同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあれば、めづらしきなり。能も、住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風躰に移ればめづらしきなり。(世阿弥「花伝」)

めづらしきといへばとて、世になき風躰をし出すにはあるべからず。(同)

時・をりふしの当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風躰を取り出だす。これ、時の花の咲くを観んがごとし。花と申すも、去年咲きし種なり。能ももと観し風躰なれども、物数を究めぬれば、その数をつくすほど久しし。久しくて観れば、まためづらしきなり。(同)

抑、花とは、咲くによりて面白く、散るによりてめづらしき也。有人問云、「如何無常心」。答、「飛花落葉」。又問、「如何常住不滅」。答、「飛花落葉」云々。
面白と見る即心に定意なし。さて、面白きを諸藝にも上手と云、此面白さの長久なるを、名を得る達人と云り。然者、面白き所を成功まで持ちたる爲手は、飛花落葉を常住と見んがごとし。(世阿弥「拾玉得花」)

ここで引用されている禅的なる問答の典拠は不明であるが、その内容は、対立規定の一致をとく大乗仏教の「矛盾的相即」の論理を、「飛花落葉」というイメージのかもしだす情意の空性のうちに感性的・美的に表現したものである。謡曲「箙」にも

飛花落葉の無常はまた、常住不滅の栄をなし

とある。世阿弥にとって「美の本質」は「時間において」存続しないことによってその永遠性を現す。もし桜の花に散るということが無く、いつまでも咲き続けたとすれば、その花を愛でるということがあるだろうか。それは、まさに「散る花」であり「存続」に執着しないが故に、「美しい」。「飛花落葉」が無常であり同時に常住不滅であるとは、生は死によってあり、死は生に依ってあること、ゆえに生死一如の現実の生成流転のただ中にこそ「永遠の美」を現成すべし、という教えである。それは、時間と存在に関する独特の新しい見方であり、生死の根本問題に対して答える大乗仏教の空觀ー矛盾的相即の論理-を我々の美的構想力の情意の地平に射影し、観想と言語行為、身体的な芸術表現として現成せしめた物なのである。
Comment (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 花の美学 その3 | TOP | 花の美学 その1 »
最新の画像もっと見る

1 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
■花の美学への賛同 (阿部 仲麻呂)
2005-09-02 16:28:49
■世阿弥の「花」の思想は、理論と実践の相即によって実現した稀有な藝術論であると思います。



■私は、1988年ごろより、現存する世阿弥のテクストは世界的に価値のある「藝術哲学(演技の具体的研究)=美学(美の本質の思索)=修道論(宗教的境地の実証)」であると考えております。



■以上のような成り行きで、『信仰の美学』(春風社、2005年)を刊行しました。



■今日、先生のブログで「花の美学」に関する論考を拝読させていただき、先生の思索のなかにも「花の美学」が確かな発想として息づいていたことに感銘をうけました。心より賛同いたします。



■ちなみに、最近、心動かされた論文がありましたので、以下に紹介いたします。世阿弥の藝術と宗教性を関連づけて明解に説明した名批評です。おそらく、先生は、もう御存知のことでしょう。

 ⇒源了園(ほんとうは「まどか」という字です;口のなかに員が入っています)「世阿弥の能楽論における宗教と藝術 禅との関わりを中心として」(『季刊 日本思想史』No.52、ぺりかん社、1998年、44-76頁所載)。



2005年9月2日(金)
返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 美学 Aesthetics