歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

花の美学 その1

2005-06-18 | 美学 Aesthetics
一 連歌に於ける「花」の句の扱い

(定座)

連歌では百韻で「四花七月」、歌仙では「二花三月」といい百韻では「花の句」を四句、「月の句」を七句、歌仙では「花の句」を二句、「月の句」を三句詠みこむ。

月、花の句の詠まれるべき場所を「定座」という。この「定座」も最初からきまっていたのではなく、元来は花の句を一巻で適当な箇所配分するということのみが定められていた。しかし、俗に言う「花を持たせる」礼儀を尊重する余り、連衆が互いに譲り合い、折端の短句までいってしまうと、それでは一巻の飾りであり賞翫の花として尊重するという本意が薄れてしまう。したがって、歌仙ならば、折端の前の長句である初裏の十一句目、名残の裏の五句目に必然的に詠まれる場所が定まっていったと思われる。百韻は四折であり「月の句」はそれぞれの折の表と裏に一句ずつ詠まれ、名残の折ではあっさりと終わらせるべき所であるから、そこに月と花の句があるのは煩わしいために「月の句」は詠まないことになっている。歌仙もこれに準じており、「花の句」はそれぞれの折の裏に詠まれることになっている。

(正花)

和歌では「花」といえば「桜」であるが、連歌では「花」といっても「桜」とは限らない。逆に「桜」といっても、それは「花の句」の扱いを受けないということである。四季折々の花には「桜」「牡丹」「木槿」とそれぞれであるが、それらの名を出して句作したときにはあくまでもその個有な植物に限定された花の印象だけになってしまうであろう。それでは、連歌で意図する「花の句」としての意味が失われる。連歌での「花の句」は連歌的美の象徴としての「正花」として詠まれなければならない。

これは「花の句」が一巻全体の「花」であり、「賞翫の惣名」であるとの考えからきている。つまり、定座に「花の句」として詠むことのできる「正花」には、賞美の意が込められていなければならないのである。「花」は、普通は春季としての扱いを受けるが、句の転じ方によっては「花の定座」が春だけではないこともある。そのようなときに用いられるのが「他季の正花」である。俳諧の連歌を例にとると、夏には「余花」秋には「花相撲」「花燈籠」、冬には「帰り花」「餅花」などがある。その他に「雑の花」としては「花嫁」「花婿」などが、正花として扱われた事例がある。

(花の句)

連歌では、ただ単に「桜」といってもそれは「花の句」としての扱いを受けないといったが、その理由は「花」といえば春の句とされるが、「花の句」は四季に咲く花々の美しさを含めての賞翫の総称を意味するものであり、「桜」といっただけでは植物個有の特性を表すだけで賞翫の意はないと考えられるからである。

以上、連歌における花の句の扱いに関する先人の所説を纏めてみたが、これらはあくまでも大体の標準的見解であり、絶対的なものではない。

たとえば、「桜」が「花の句」としての扱いを受けた例もある。『猿蓑』に入集の凡兆・芭蕉・野水・去来四吟「灰汁桶の」歌仙では、名残の折の裏五句目に

  糸桜腹いっぱいに咲にけり

とあり、「花の定座」に「花」の詞がなく、代わりに「糸桜」が詠まれている。このことについて『去来抄』では、
卯七日、猿蓑に、花を桜にかへらるるはいかに。去来日、此時、予花を桜に替んと乞。先師日、故はいかに。去来日、凡花はさくらにあらずといへる、一通りはさる事にして、花婿・茶の出花なども花やかなるによる。花やかなりといふも、よる所あり。畢竟花はさくらをのがるまじとおもひ侍る也。先師日、さればよ、いにしへは四本の内一本は桜也。汝がいふ所も故なきにあらず。ともかくも作すべし。されど尋常の桜にて替たるは詮なからんと也。予、糸桜はら一ぱいに咲にけり、と吟じければ、句我儘也、と笑ひ玉ひけり。

という記述がある。
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