道元の男女平等観ー「礼拝得髄」再読
「平等」は「博愛」と「自由」とならんでフランス革命以後の西欧近代の人権思想を特徴付ける基本語であるが、その意味するところが真に理解されているとは言いがたい。人権思想はキリスト教に由来する欧米の価値観の表現に過ぎず、それ以外の宗教を背景に持つ東洋の文明には無条件で適用できないということが、日本の伝統思想を重んじると自負する人から語られることが多い。しかし、日本思想を形成した仏教の古き伝統にさかのぼることによって、「平等」「博愛」「自由」という三つの基本語の意味するものに、単に西洋近代にのみ限定された特殊なイデオロギーではなく、古今東西を超えた普遍思想を見いだすことはできないであろうか。
まずはじめに「平等」について、それも最近問題となっている「女人禁制」の宗教的制度の批判や仏教に於ける「男女平等」について考えてみたい。
道元は正法眼蔵の「礼拝得髄」の巻で次のように「女人禁制」の「結界」を批判している。
「日本国にひとつの笑ひごとあり。いはゆる、あるいは結界の地と称し、あるいは大乗の道場と称して、比丘尼・女人を来入せしめず。邪風ひさしくつたはれて、ひとわきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士もかんがふることなし。あるいは権者の所為と称し、あるいは古先の遺風と号して、さらに論ずることなき、わらはば人の腸もたえぬべし。権座とはなにものぞ。賢人か聖人か、神か鬼か、十聖か三賢か、等覚か妙覚か。また、ふるきををあらためざるべくば、生死流転をば捨つべきか」
女人禁制は、「邪風(誤った風習)」であるにもかかわらず、長い間おこなわれているために何人もその間違いを知らず、「稽古の人(伝統を考慮する人)」も改正せず、博学達識の人が考慮も論議もしないのは、腸がよじれるほど可笑しなこと、古くからのしきたりであると言うだけで現状維持に甘んじてそれを変革しないというのは、生死流転の世に執着してそれを捨てないのと同じだ、という道元の舌鋒は鋭い。
男性中心的な価値観の浸透した社会で制度化された仏教には様々な女性差別が行われてきたことは歴史的事実であるが、道元は、「極位(最高位)の功徳は(男女)差別せず」
とのべたあとで、優れた女人の仏弟子の実例を挙げ、「阿羅漢(聖者)となった尼僧は多く、女人が既に仏となったときには、その仏の功徳は世界中に充満しただろう」とまで言っている。
最近、相撲の土俵の上に女性をあげることの是非が新聞を賑わせたが、相撲はもともと「神事」であり、レスリングのような単なる格闘技ではない。土俵の上は聖なる空間と俗なる空間を区別する「結界」の意味がある。したがって「結界」の持つ宗教的意味を考慮しないで単に世俗の男女平等倫理だけで女人禁制について論じることはできないであろう。それでは仏教者として男女平等論を説く道元は、「結界」についてどう言っているのか。
道元は「諸仏の結びたもう結界に入る者が諸仏も衆生も大地も虚空もあらゆる繋縛から解脱して諸仏の妙法に帰源すること」を重視し、結界という小世界のみを清浄な場所として女人を排除するのではなく、「一方や一区域を結するときは宇宙全体が結せられる」ことをわきまえ、「済度摂受に一切衆生みな化を蒙らん功徳を礼拝すべし」と結んでいる。
「諸仏の妙法」という根源に帰ったところから看れば、結界に女人を入れないという差別思想が入り込む余地はない。
以前、道元から深く学んだ岡潔の思想について述べたときにも言及したように、「無差別智」をもって真智とし、差別構造を生み出す「分別知」を妄知として退ける仏教的智の伝統を我々は思い起こす必要があるだろう。それこそが、男女の平等を実践する宗教的基盤を与えていると思う。