歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

相対的信仰について-旅人さんとの対話

2005-12-30 |  文学 Literature
旅人さん:
>27日に書かれた「絶対他力の信仰について」の中に、「相対的な信仰を絶対否定することによって恵まれた信仰」という件がありますが、「相対的な」信仰を持っている人自らそれを「絶対否定」することはできないのではないでしょうか。その信仰が、神によって否定されたことに気づくのだと思います。問題は、否定されただけでは、絶望に陥ると思います。自分の罪が赦されていることも同時に知らされることで、自らの救いを確認できるのではないでしょうか。
これは、旅人さんが「信仰の弛緩」ということを仰った文脈ですね。つまり、いわゆる他力本願(あなたまかせ)では、「信仰が弛緩する」ということを言われた、そのことに対して私の考えを述べた文脈でした。「弛緩したり強められたりする」のは、あくまでも「我々の側の主観的信仰」であって、それの根源にある「十字架上のキリストの信仰」はそうではないということが私の趣旨でした。確かに、絶対否定は自力ではあり得ません。

十字架の信仰では、自己と疎遠なる他者、外部の超越者を信じているのではなく、「キリストとともに私が死に、キリストと共に私が復活する」ということ、つまり死・復活が不可分のものとして経験されます。死が先行しなければ復活はあり得ません。絶対否定が絶対肯定に先行するのは、死がなければ、復活があり得ないと言うことと類比的です。

これまで自分が信仰と思っていたものが絶対否定されたからといって、その結果、絶望に陥るなどと言うことは決して無いでしょう。全く逆に、その死の直中から、再び生きる力を与えられるものであると思います。

旅人さん:
>また、「相対的信仰」なるものは、「絶対的信仰」の前で、何の価値もないものなのでしょうか。私には、たとえ「相対的」なものであっても、「信仰」は実は神様から与えられたものなのだと覚ることにより、大きな喜びが与えられるのではなかろうかと思っています。
「大きな喜び」については私もそう思います。信仰だと自分が思っていたものが、我も人も苦しめる律法と化してしまったら、それは實は十字架の信仰ではなかったということーこれが松本さんの言われていたことでした。いかにささやかなものであっても、信仰・希望・愛の三つの対神徳は、功利主義や世間的な道徳によっては得られない喜びを与えるものと思います。

旅人さん:
>「小さき声」20号には、
> 『神は命の言をきく耳だけを私に残したのです。私はこれをよろこんでよいのか、かなしんでよいのかわかりません。なぜなら魂は死ぬほど神をしたったためにその結果、罪をおかすことになったからであります。「まずいときに死んだ」は、私の熱心が云わせた言葉であります。神を知らなかったら、口はかかる罪をおかさなかったでありましょう。また、魂は飢えがかわくことなく、狼のようにむさぼることをしなかたでしょう。神の言は、食えば食うほど、それに応じて空腹は一層はげしくなり、私は魂の飢餓を満たすためには、隣人を捨て、友人を食い物にし、愛するものを死に渡すことさえ辞さないでしょう。世界をほろびにわたすことも、あえて辞さなかったでしょう。』
> と書かれていますが、幸か不幸か、私は神の言に対して、これほどの飢餓を感じたことはありません。このような思いは、ハンセン病で視力を失い、更には皮膚の感覚さえも奪われていく人になら分るものなのでしょうか。
聖書を読まなければ生きていくことが出来なかった、とは松本さん自身の言葉です。すべてを犠牲にしてただ聖書を読み続け、聖句を暗誦することによって、ただ信仰のみによって生きていこうとされた松本さんの生活を伺わせます。

しかし、そういう生活に於いて、真実の信仰というものが働いていたのだろうか、という反省を松本さんは繰り返しています。いうなれば、これまで自分がもっとも後生大事に抱えてきたものを手放すという経験、自分が信仰だと思っていたものを、徹底して「無信仰」と自覚させるような決定的な経験を松本さんがされた。それこそが、松本さんが、真に十字架の信仰に恵まれたという経験に他ならなかったのでしょう。「小さき声」に書かれているのは、そういう極限的な状況に於ける言葉です。しかし、私は、そこにあらわれているものが、決して、特殊で異常な例外的な事態なのだとは思いません。我々の内にあっては、日常性の直中にあって気づかれない信仰の真実を松本さんが体験され、それを御自身の言葉で述べられた、その故に、それが私自身の事柄を照射する言葉にもなり得たのであると思います。

旅人さん:
>いずれにしろ、ここでは松本さんは自己本位になった熱心な信仰の恐ろしさを描いていると思います。そして、ここでは、自分の信仰が「絶対化」されてしまっていることが問題なのであり、それを否定・相対化される必要があったのだと思いますがいかがでしょうか。
仰る通りです。自己の相対化ということこそ、真の「絶対」を自覚しなければあり得ぬことですから。絶対的信仰というのは、相対的信仰に「対立」して、それを最終的に無価値にするようなものではなく、結局はそれを新に活かし完成させるものであると思います。

「恵み(絶対)は自然本性(相対)を破棄せずに、却ってこれを完成させる」というのが、トマス・アキナスに代表されるカトリック信仰の基本です。

無教会キリスト者の量義治さんは、これを更に一歩進めて

「恵み(絶対)は自然本性(相対)を破棄することによって、却ってこれを完成させる」といいました。

どちらが適切であるかは即断できませんが、私は、量義治さんの言葉の方が、「十字架の信仰」を良く表していると思います。

キリスト教というのは(そして原始仏教についてもそう思いますが)いわゆる宗教的なるものの否定という契機をもつと考えています。決して、相対的な信仰が連続的に深まり展開・発展して、十字架の信仰になるとは思えません。そこには翻りということ、ものの見方の大いなる転換があります。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする