歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

絶対他力の信仰について

2005-12-27 |  文学 Literature
旅人さんから、つぎのような質問をいただきましたので、お答えします。
> 『松本さんが聴いた関根正雄の講義では、「神の義が講じられイエスの十字架がさし示めされ信仰がもとめられるかわりに、信仰がとりさられることが求められた」。その講義には多くの人が躓いたが、松本さんにとっては、それこそが救いをもたらすものであったという逆説的な、しかし厳然たる事実が語られている。』と言われていますが、このような松本さんの信仰体験は、どのように受け止めるべきなのでしょうか。解る人にだけ解ってもらえば良いというものではないような気がします。
私も又、旅人さんと同じく、「解る人にだけ解ってもらえば良いというものではない」と考えています。関根正雄は「無信仰の信仰」とか「絶望的信頼」という言葉を使って、「預言と福音」という伝道誌で十字架の信仰を語りました。それは当初、無教会の多くの信徒にとってさえ、あまりに逆説的であって、理解しがたいものであったようです。

しかし、文字を通してではなく、直接に、関根正雄の口からそれを聴かされたときに、松本さんは、自分自身のことが語られていると直観され、その言葉が二回目の回心をもたらした。松本さんは関根正雄ではないにもかかわらず、その言葉は、松本さんの経験の奥底までも照射した。同じ事は、すべての人にも言えないでしょうか。関根正雄でも松本馨でもない俗物にすぎぬ私の如きものですら、そこには自己自身の経験に通底することが書かれていると直接に感じます。

信仰というのは、決して「私の信仰」というように私物化し得ぬものであり、「頂くもの」、「恩寵によるもの」である、ということは、アウグスチヌスやトマスの時代から強調されていたことですし、キリスト教以外でも、「信心は阿弥陀様から賜るもの」というように、浄土真宗の他力の信心の根本にある教えです。ですから、言葉に出して云うならば、それ自身は「新しい教え」ではありません。

しかし、それを各人が如実に経験するかどうかは別です。松本さんの場合は、その永遠不変の真実が、彼自身の特殊な境涯を通じて血肉化して、彼自身のうちにおいて、具体的に生起しました。私達が驚嘆するのはそういう信仰の事実です。

信仰の事実が、全く新しき事柄として生起する。永遠なものは常に新しい。それをもし言葉で表現する事が許されるとするならば、自己が信仰を持つのではなく、信仰が自己を突破して、新しき自己となり、その自己に於いて働く経験とでもいいましょうか。松本さんが書き残された文書には、そういう普遍的な事柄が語られていると思いました。

旅人さんは「受動的信仰」と言うことを云われましたが、私は、ここでいう信仰は「受動と能動」「他力と自力」という二元的な区分が生じる以前の経験の根源に遡る出来事と理解しています。能動と区別された受動は、相対的な受動です。徹底した受動ではない。受動に徹底するとき、それはもはや、相対的な受動ではなくて、一切の能動的なものがそこから生まれる根源となる。浄土真宗で云う「他力本願」とは、決して我々が理解するような他力本願ではないでしょう。自己と区別された他者に依存するということではなく、自己の能動性の根源にあるものに生かされるという経験です。キリスト教的ないい方をすれば、絶対的な他者であった神が、「私自身よりも私に近い」存在として実感されます。

旅人さん:
> しかし、この受動的信仰は、非常な危機を孕んでいると思います。つまり、信仰の弛緩という危機ですが、松本さんには、そのような危機が現実化することはなかったようですね。
旅人さんが「非常な危機」ということで何を意味しておられるのかは、良く分かりませんでしたが、「弛緩」するような信仰は、私の理解するところでは、相対的な信仰です。松本さんが、十字架のイエスの信仰によって語るものは、そういう「我々の側でいうところの信仰」ではない。その信仰は、「弛緩したり強められたりする」ようなものではなく、そういう相対的なものを絶対否定する十字架の信仰です。

ただし、浄土真宗で云う「本願ぼこり」のようなもの、すなわち自己の如何なる行為も、それが「他力」であるがゆえに責任を負う必要がなく、如何なる悪を為しても救済が保証されるはずだという思想があります。こういう思想が、どれほど異端的なものであっても、「他力の信仰」から出てくるのではないかという批判がある。これも、絶対他力の信仰に対して「危機的」な問題として提出されることがあります。これについては、信仰と社会的な倫理との関係を問う問題として、さらに引き続き考察をする必要があるでしょう。

旅人さん
>松本さんの自治会再建への取り組みは、自分の属する集団の中で十字架を負うということではなかろうかとも思いますが、いかがでしょうか。
政治というものは、本質的に相対的な事柄の中で動きます。これに対して、「十字架を負う」ということは、事柄の根源に遡って、ラジカルに発言して行動することを求めます。

この両者は明白に緊張関係に立つので、松本さんの自治会活動の労苦も又、そこにあったわけですが、松本さんは、入所者の生活条件の改善を目指す相対的な善の実現に奔走すると同時に、隔離政策という根源的な悪を悪として摘発することを忘れなかった。そういう場合は、預言者的な仕方で、園内の自治活動に携わり、そのために、自治会の他のメンバーのあいだに縷々、緊張関係を生じました。しかし、松本さんと対立し、自治会から手を引かせた人の中にも、後になってみると、「結局、あのとき松本さんが云っていたことが正しかった」と回想する方がいます。

松本さんの政治的活動は、彼のキリスト教信仰と不可分であって、そこには聖書的預言者的な実存があります。それを具体的に知るためには、彼の自治会活動の記録を辿りながら、多磨誌にかかれた評論をあわせて読む必要があると思っています。
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