歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

寡婦の献金の説話:再考

2005-12-13 |  文学 Literature
旅人さんから、昨日の投稿について次のようなコメントをいただきました。御陰様で、私も又、寡婦の献金という説話(マルコ伝とルカ伝に登場します)をさらによく考える機会が得られました。

旅人さんのコメントと質問:
新約聖書の背景の時代には、労働者の一日の賃金が1デナリ(=1デナリオン=1ドラクメ)であり、1レプタ(=レプトン)は、その128分の1の価値と聞いています。そして、イスカリオテのユダがイエス様を売り渡した価格である銀貨三十枚は、当時の奴隷に付けられた値段だとも聞いています。すると、人間の「命の代価」が、2レプタだというお話をどのように解釈すべきか、疑問に感じます。また、その一方で、関根先生の詩篇釈義の中の「魂の値は高すぎて人が神にそれを払うことは到底できない」と矛盾するように思うのですが、いかがでしょうか。
「命の代価」つまり「命の値段」は、貧しいものの場合は僅かな金額、2レプタにすぎないかのごとく扱われます。こういう社会的不正義に満ちた現実が一方にある。他方において、ひとりひとりの「命の価値」あるいは「命の重み」は本来、値段の付けられないほど貴重なものである。もしあえて値段を付けるならば、無限大とでもいうほかない。--私は、そのように理解しましたので、とくに論理的な矛盾は感じませんでした。

ただし、言葉の上では矛盾でなくとも、その二つの現実の間には鋭い緊張関係、ないし対比があることは事実です。本来、値段を付けられぬほど貴重な命に、ひとはいつのまにか値段を付け、そして貧富の度合に応じて差別をするようになる。

旅人さんは、2レプタが一体どれくらいの金額であるかを認識することが、釈義にとって重要だということを指摘されました。これはたしかにその通りですね。

1レプタがどれくらいの貨幣価値なのか、諸説があるようですが、労働者の一日の賃金の128分の一というのは分かりやすいですね。日本円に直して大体の感触をつかむことが出来ます。かりに一日の賃金を6400円として、1レプタは僅かに50円です。そうすると寡婦の献金は100円となり、50円硬貨2枚を献金したと言うことになります。

多分、彼女は一日100円で生活していたのでしょう。聖書のテキストによると、彼女は持っている硬貨を「全て」投げ入れたとありますから、乏しい家計をもかえりみず、献金をしたことになります。後に何も残っていない無一文になるわけですから、彼女こそもっとも多く献金したのだというのは、非常に良く分かります。毎日、一万円で生活している人にとって、100円の献金は、たいしたことではありませんが、毎日、100円で生活している人が、100円全部を献金するのは、たいへんなことですから。その日の貧しい食事ですら、とりえない危険がある。

イエスのこのときの発言には、乏しい中から命がけの献金をしている寡婦の信仰と犠牲的精神を賞賛するだけでなく、社会的な不正義の上にあぐらをかきながら、多額の献金をすることで宗教的な自己満足を得ている富者達、「寡婦の家を喰いつぶし、見せかけの長い祈りをする」律法學者やパリサイ人への批判もあると思います。ルカは、このような信仰深き「貧しきもの」こそ天国に入るというイエスの言葉をそのまま伝えています。

一日、レプタ二枚でギリギリの生活をしているこの寡婦にとって、それを全て献金することは、文字通り「命がけ」ということにならないでしょうか。明日は飢死するかも知れない。「命の代」という言葉が、なにかさらに一層切実に響きます。

旅人さんのコメント:
私には、人間の命が2レプタの価値しかないと感じられた松本さんの置かれた立場が、どれほど悲惨なものであったかが伝わって来るように思えました。
全く同感です。「倶会一処」などの資料によりますと、昭和24年ころの園内の作業賃は、日給で10円程度。当時は牛乳一合が10円という事ですから、一日働いても、牛乳一本分にしかならなかった。入所者達は家郷を捨て肉親と絶縁するものが多かったので、彼等は、僅かな作業賃を蓄えて、自分たちが死んだときの葬式や供養にあてていたとのことです。松本さんの「小さき声」を改めて読んでみますと、彼が、自分を寡婦と同じ立場に置いていることが良く分かりました。

旅人さんのコメント:
18号では、「訓練」の部分、特に渥美さんに対して、「私は彼に向かって、心の中で叫びました。「叩け、もっと叩け、その音が道となって開かれるまで、叩け」。渥美が迷った同じ道で私も迷っているのです。しかし、渥美の背後には私が立っていましたが、私の背後に立ち、私を見守り助けてくれるものは誰か。」という個所が印象的というか、感動的でした。

渥美という少年は、自分は「聖書が読めるほど幸福な境遇ではない」と、松本さんを嘲ったそうですが、その彼が、いつしか、限界状況の中で、拡大鏡を使って聖書を読み始め、失明した後では、ひとから読んで貰って、ついにロマ書16章を暗誦してしまったとのこと。そして福音書の言葉を呟きながら息絶えたということが「小さき声」第11号にあります。それと合わせ読むと、18号の松本さんの言葉が身にしみる思いがします。
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