歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

聖書の霊魂観

2005-12-22 |  文学 Literature
内村鑑三は、「聖書の研究」のなかで、霊魂の不滅という教義は、聖書に於いて決して主張されていないという事実を指摘して、次のように云っています。(このテキストは、旅人さんのサイト晴読雨読で読むことができます)
霊魂は、元来不死のものであるかどうか、これは基督教が論じる所ではない。基督教は、ただ罪を犯した霊魂が死んだものであることを伝える。彼がもし元来不死の者であったとしても、彼は罪を犯したことにより死んだ者である。彼がもし生まれながらにして不朽の性を具(そな)えていない者であるとしても、彼は罪を避けることによって不死の者となる特権を有する者である。問題は、滅、不滅の問題ではない。滅びようと思うか、滅びないようにしたいと思うかの問題である。本然性の問題ではない。可能性の問題である。基督教が哲学と異なる点はここにある。哲学が人を究めようとするのに対して、基督教は人を救おうとする。哲学者にとっては研究の材料である人類は、基督教にとっては、「憐憫の器」(ローマ人への手紙§9:23より)であるのである。基督教は、更に伝えて言う。不朽は、ただイエス・キリストにおいてだけあると。「唯ひとり不死を保つ者(Iテモテ§6:16)」と。また、「御子を持つ者は生命を持ち、神の子を持たぬ者は生命を持たず(Iヨハネ§5:12)」と。また、「イエス言ひ給ふ、『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん』(ヨハネ傳§11:25)」と。(「聖書の研究」明治43年(1910年)9月10日号より)
現代の聖書學では、聖書にギリシャ的な霊魂不死の思想がないことは常識であるといっても良いが、そうであるからといって、聖書は「霊魂」の存在を否定したり、「不死」を否定したりするわけではありません。それどころか、「霊魂」への配慮を以て生きること、「永遠の生命」に生かされる事こそ聖書の核心の教えです。聖書は「身を殺して魂を殺し得ぬもの」を恐れるに足らぬものとし、「不滅」すなわち「永遠の生命」に生きることこそ人間にとってもっとも大切なことと教えています。

したがって、ギリシャ的な霊魂不死説(それは、輪廻転生する実体的霊魂を信じる諸宗教にも共通する教えです)との本質的な相違を明確にしておかねばなりません。

まず、聖書は、霊と肉を二つの異なる実体として理解することはないことに注意したい。たとえば、旧約聖書では、生きた人間を指し示すのに「魂」(nephes)と「肉」(basar)という言葉を区別せずに用いる場合が多い。すべての肉(kor-basar)=すべての魂(kor-hannephes) であって、どちらも生きた人間の全体を指し示します。新約聖書のギリシャ語でも同様に、肉によって歩く(ロマ8・4)=人間のように歩く(1コリ3・3)、あなたがたは肉的ではないか=あなたがたは人間ではないか、という言い換えが可能です。

つまり、「肉」とは神ならざる人間のもつ本質的な脆さを示す言葉であって、身体だけでなく、精神的なものも含むと云うことがポイントです。

そういう脆さを秘めた人間存在が、聖霊によって真に生かされるときに、「霊によって再び生まれる」といういい方が出てきます。新約聖書では基本的に「魂(心)=プシュケー」と「霊=プネウマ」とは用法の上で区別されています。

そして、「霊的(spiritual)なあり方」と「肉的(carnal)なあり方」という聖書的な区別は、決して、「霊」と「肉」という対立する「存在」を前提しているわけではありません。「存在」という言葉を、もし「もの・実体」という意味にとるならば、それは聖書のメッセージの持つダイナミックな「出来事」としての性格を表すことが出来ないからです。霊と肉を異なる「実体」とする見方は、聖霊を受けて我々のあり方が一新されるという根源的な経験、神と人とが、あるいは人と人とが、「もの」や人格としては異なる存在であるにもかかわらず、「働き」において一つとなることを表現することができなくなるでしょうから。

これに対して、「存在」という言葉を、名詞ではなく、動詞として理解するならば、ヘブライ語では、「ハヤー」という動詞がそれにあたります。

モーゼに対して啓示された神の名前は、そういう意味での動的な「存在する(ハヤーする)」であって、それは如何なる形でも客体化され得ません。一切の偶像を否定しつつ、全てのものを生かし、存在せしめる働きを、ヘブライ人は神の名前(エヒエ・アシェル・エヒエ(I am who am))に相応しいものとしました。そういう「存在の働き」が、「風」や「息吹」のごとく、人々に内在し、「主の霊」となって、人間の存在の働きと「一つ」になるときに、旧約の詩人はそういう人間的実存を指して「霊の人(スピリチャルな人)」という表現を用いています。その意味で、サムエルのような預言者は「霊の人」と呼ばれました。

聖書における霊と肉の捉え方は、存在を実体として捉えるギリシャ的な「存在論(ontology)」ではなく、存在を出来事としてとらえるヘブル的な「現成論(hayathology)」の文脈で論じなければならない、というのが私自身の聖書の解釈の基礎にあります。

新約聖書、マタイ傳 22-37 の「なんぢ心を盡し、精神を盡し、思ひを盡して主なる汝の神を愛すべし(agaphseiV kurion ton qeon sou en olh th kardia sou kai en olh th yuch sou kai en olh th dianoia sou)」にもまた、聖書の人間観が良くあらわれています。それは、人間の単なる精神的解放ではなく、身体的なるものも精神的なるものも共に含む人間の全存在を「霊」によって再生させることを説く人間観です。霊魂を「本性的に不死なる者」とし、そういう霊魂を滅び行く肉体から解放することを説く教えではありません。

神は全身全霊をあげて愛すべき事を説くイエスの言葉でいえばkardiaが人間の情緒の座を意味し、yuchが人間のいのちの活動力を意味し、dianoiaが、精神とか理性という知的側面を言い表しています。つまり、人間の持つすべて、その知情意のすべてを尽くして神を愛せ、といっている。その場合、情緒も、意志も、理性も、人間の実存の様式上の区別であって、それらは一つのものとして働く。知情意の三つの能力を統合して、「汝の神を愛せよ」といわれています。人間は、決して、情だけでも、意志だけでも、知だけでもない、一つの統合体ですが、そういう統合体が、「肉的なありかた」をするか「霊的なありかたをするか」が問われているのです。

人間の理性は、ギリシャ思想では神的な「もの」として、身体とは独立の「もの」として尊ばれたが、ヘブライ思想においては、「理性」も又、神の霊(聖霊)によって生かされないかぎり「肉的な」あり方をします。近代の科学技術のように、人間の理性の所産がいかに「肉的」なありかたをしているか、それを考えるならば、ヘブライニズムに於ける理性の捉え方の方が、現代に於いては重要な意味を持ってくるでしょう。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする