歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

絶対者の人格性と非人格性-2

2005-06-23 |  宗教 Religion
絶対者の人格性と非人格性-人格と最も普遍的なもの-2

 次に、「大乗起信論」の帰敬偈をみてみよう。ここでは、よく読まれてきた真諦譯のテキストと、鈴木が従った實叉難陀譯のテキストの両方を考察する。

佛法僧への三帰依を表明する偈は、キリスト教において三位一体の神への信仰を表す信仰宣言が多くの宗派に共通であるのと同じく、佛教の諸宗派に共通して重んじられ、佛教的な信の根本をなすものであろう。後で、キリスト教に於ける信仰宣言の代表的なものとして使徒信条をとりあげるが、それらを対比することは、佛教とキリスト教に於いて、信仰宣言あるいは三帰依のよりどころである絶対者の持つ人格性ないし非人格性の特質を考察する手掛かりになるであろう。 まず、真諦訳のテキストの帰敬偈を英訳とともに参照する。
帰命盡十方 最勝業遍知 色無礙自在 救世大悲者、及彼身体相 法性真如海 無量功徳蔵、如実修行等。為欲令衆生 除疑捨邪執、起大乗正信、佛種不断故。

I take refuge in the Buddha, the greatly Compassionate One, the Savior of the world, omnipotent, omnipresent, omniscient, of most excellent deeds in all the ten directions; And in the Dharma, the manifestation of his Essence, the Reality, the sea of Suchness, the boundless storehouse of excellencies; And in the Sangha, whose members truly devote themselves to the practice, May all sentient beings be made to discard their doubts, to cast aside their evil attachments, and to give rise to the correct faith in the Mahayana, that the lineage of the Buddhas may not be broken off. 注9

「佛」に対するこの帰依文は、大乗佛教に於ける人格的なものに対する「信」を表していると言ってよかろう。最初に云われる「佛」を the Savior of the world, omnipotent, omnipresent, omniscient, of most excellent deeds in all the ten directions と単数形で訳し、さらに、omnipotent、omniscient, omnipresent という用語を使って訳しているためでもあるが、この英文に訳された「Buddha」は、殆ど一神教的な印象さえ与える。「佛」をキリスト教の「神」と言い換えてもさほど不自然さを感じないであろう。

そして、次に帰依されるべき「法」は、「彼の身の體相」といわれている。「法」を「佛」という人格的存在の「本質の顕現」としたうえで、かかるものとしての「法」への帰依が説かれている。すなわち、佛という人格性が、我々にとっては先なるものであり、「彼の本質の顕現 the manifestation of his Essence」が「法」として位置づけられている。いいかえれば、三宝それ自体は三一的であるが、修行者が帰依を表明する場合、「佛」が最初に帰依されるべきものであり、次に、「佛の本質の顕現」としての「法」への帰依が説かれ、しかるのちに「僧」への帰依が語られる。

次に實叉難陀のテキストに従う大拙の英訳を参照する。

帰命盡十方 普作大饒益 智無限自在 救護世間尊、及彼体相海 無我句義法 無辺徳蔵僧、勤求正覚者。為欲令衆生 除疑去邪執、起信紹佛種、故我造此論。

Adoration to the World-honored Ones in all ten quarters, who universally produce great benefits, whose wisdom is infinite and transcendent, and who save and guard [all beings].
[Adoration] to the Dharma whose essence and attributes are like the ocean, revealing to us the principles of anatman and forming the storage of infinite merits.
[Adoration] to the congregation of those who assiduously aspire after perfect knowledge.
That all beings may rid themselves of doubt, become free from evil attachment, and, by the awakening of faith, inherit Buddha-seeds, I write this Discourse.

大拙訳は、Hakeda訳とは違って、「佛」は、単数ではなく複数であり、盡十方の世界にあまねく存在する「世間尊」(the World-honored Ones)としての「佛」への帰依となっている。 「法」とは「世間尊」の教えた「無我の教法」であり、その「法」の「本質と諸属性=體相」が海の如く無限の功徳をもつと訳している。

 このように三帰依においては、人格的存在としての「佛」への帰依が最初に来ものであり、次に、その人格的存在の本質ないし諸属性(體相)としての「法」への帰依がいわれ、最後に「如実に修行する」僧への帰依がいわれる。

 これに対して、起信論の本論の叙述に於いては、その「発起序」において「有法能起摩訶衍信根、是故応説」とあるように、「信」を起こす「法」が説かれ、その「法」のありかたが、「一心二門三大」として具体的に縷説されるが、そこでは、事柄自体に於いて、「法」は「佛」よりも先なるものとして叙述されている。そこでは、必ずしも「教法(佛陀の教え)」というにとどまらず、教法や佛陀という人格の根柢にあるもの、法を法として成り立たせ、佛陀をして佛陀たらしめている根源が「真如」という言葉によって指示されている。

衛藤即應は、「大乗起信論講義」において、事柄自体に於いては、「法」が「佛」の根源であるということについて次のように云っている。 注9
佛の教法とは、佛が佛になることに由って、佛を通して始めて見出された常恒不變の法を衆生に示されたのである。もし後から法と佛とを離して見るならば、法は佛によって今始めてある所のものではなくして、始めより有りし所のものとして佛陀の自覚の絶対性を裏付けてゐるものである。かくて、法は佛に論理的に先行するもの、即ちアプリオリティを持つものである。
衛藤に依れば、佛教に於いては、法は佛よりも、高き位置を占めるものであって、それでこそ覺者の絶対性が保証されるが、これを衆生に対して見る時には、「佛は法よりも高き位置を占むるものであり」「佛は法の上に位し、佛法僧の三寶の順序が成立する」と云う。つまり事柄自体に於いては非人格的なる「法」こそが、人格的なる「佛」よりも根源的であるが、我々衆生にとっては、「佛」のほうが、「法」よりも先なるものであるというのが、起信論に限らず、佛教に汎通的であると思われる。
しかし、「法身の(平等無差別の)意志」を云う大拙の場合は、どうであったのだろうか。彼に於いては、むしろ、形而上学的な原理である「真如」ではなく、根源的な人格性を帯びている法身そのものが、宗教としての大乗佛教の根底をなすものであった。大拙は「宗教的對象」としての「法身」について次のように云う。 注10
法身は一心であり意志を持ち認識する存在であり、それ自体が意志と知性、思想と活動にほかならぬ一なるものである。大乗佛教徒が理解しているように、法身は真如のような抽象的な形而上學的原理ではなく、思想のみならず自然界にもその姿を現している生きた精神である。この精神の一表現としての宇宙は、盲目的な諸力の意味のない戯れではないし、様々な機械的な諸力の闘技場でもない。そのうえ、佛教徒は、法身には無数の功徳と美徳、絶対に完全な知性があると考え、それを愛と慈しみの無盡蔵の源泉とするのである。
上のような大拙の「大乗」佛教觀が、たとえばインドで成立した大乗佛教の客観的・学問的な解説として歴史的に妥当するかどうか、については様々な異論があるであろう。しかしながら、「大乗」という言葉を、インドに於いて歴史的に成立し、中国やチベット、朝鮮や日本に伝えられた特殊な宗教運動としてのみ捉えるのでなく、ちょうど「起信論」著者がそのように解したように、「大いなる教え」すなわち、「本質に於いても属性に於いても働きに於いても、最も「大いなる」教え、最も普遍的な宗教的教えという意味にとれば、大拙の概論は、そのいみでの「佛教の普遍性」を現代人に示した書物なのである。

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注1 『鈴木大拙未公開書簡』(井上禅定 禅文化研究所 1989)による。日本語訳は英文から、筆者が直接に訳した。

注2 「國文學史講話」の序(西田幾多郎全集第一巻 418頁)

注3 「善の研究」の最終章(西田幾多郎全集第一巻 200頁)

注4 『善の研究』で西田の云う「意識」は、西欧哲学のconsciousnessが、意志とは区別されるのに対して、「意志」という要素を「感情」とともに含む事、精神的現象のすべてを含むことに注意すべきである。

注5  D.T.Suzuki、Outlines of Mahayana Buddhism, Schocken Books, New York, 1963, pp.240-241.

注6 このような法身觀は、鈴木の「大乗佛教概論」の書評を書いたプサンによって「法身の意志という考えは、インド大乗佛教の特質ではなく」「鈴木の思想は、佛教ではなくヴェーダンタ哲学や、キリスト教的な一神教的世界に近い」と批判された。(The Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland, 1908, pp.885-894)(鈴木大拙、「大乗佛教概論」、佐々木閑訳、岩波書店、2004、428頁の訳者注参照)この書評で、プサンは鈴木の大乗佛教思想に対する日本真言宗の影響を示唆しているが、鈴木の思想は、真言宗の法身觀に直接に影響されたものというよりは、真言宗の教義にも多大の影響を与えた「大乗起信論」そのものに由来すると考えるのが適切であろう。

注7 Suzuki & Goddard, The Awakening of Faith in the Mahayana and its Commentary, The Principle and practice of Mahayana Buddhism, SMC Publishing INC, Taipei, p.93
This book was first published in 1907 by Luzac and Company, London.
これは、實叉難陀譯の漢文テキストに依るものである。参考までに漢訳原文を示すと、
一切諸佛及諸菩薩以平等知恵平等志願普欲抜濟一切衆生。任運相續常無斷絶。以此知願熏衆生故令其憶念諸佛菩薩或見或聞而作利益。入浄三昧随所斷障得無礙眼於念念中一切世界平等現見無量諸佛及諸菩薩。(兩譯對照内容分科 大乗起信論 明石恵達著 永田文昌堂 昭和62年、38頁)

注8 この英訳は、Yoshito S. Hakeda, Awakening of Faith Attributed to Asvaghosha, (Columbia Univ Pr 1974)による

注9 衛藤即応 「大乗起信論講義」(大蔵経講座12 名著出版 復刻版 昭和六〇年)

注10 Suzuki、op.cit. pp.222-223.

注11 池田魯山「現代語訳 大乗起信論-佛教の普遍性を説く」(大蔵出版 1998)では、「大乗」を「普遍性」と訳している。
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