歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

文学のトポス

2005-06-02 |  文学 Literature
東條耿一について書く前に、彼に大きな影響を与えた北條民雄の場合、彼にとって文学がどんな意味を持っていたのかを振り返ってみよう。

北條民雄は川端康成に宛てた手紙で、自分は自殺することがどうしても出来なかった、残るは生きることしかない、そして自分にとって、生きることは文学をすること以外になかったと書いている。彼は、川端に文学の師となってもらうことを依頼しながら、こんな事を言うのは誠に申し訳ないが、「いのちの初夜」を書くとき、「良き文藝作品」を書くなどということは、實は自分にとってはどうでもよかったと書く。

しかし、「いのちの初夜」が文学界賞を受賞した後、北條は、作家として、それも癩文学の作家として評価され世間の注目を浴びた。その成功は彼自身にとって納得のいくものでなかった。できあがった作品は、北條から見ると、自己自身の生死の問題をすこしも解決するものではないということに本人が気づいたからである。文学を書かなければ自分は生きていけないが、同時に、その文学そのものを軽蔑せざるを得ない自分を発見する-ここに北條の置かれていた根本的な状況があった。

療養所の中にとざされた慰安としての文学も、また療養所の外部の世間が評価するような文学も、彼は全く信用していなかった。そこに「いのちの初夜」など絶版にしてしまえ、という彼の発言が出てくる理由があった。北條の場合、自己の生死の問題は、一個人が文藝に没頭したり宗教に入信したりすることで解決するようなものではなく、社会全体のシステムを変革する問題と切り離しては考えられなかったからである。しかるに「不治の病」にかかりただ死を待つしかない自分は、社会変革の最前線から脱落した廃兵にしか過ぎないーこれが彼の大きなジレンマであった。だから、北條は、「監房の手記」という作品(これは、らい院の監房に収監された社会主義者を主人公とする小説で、当初より北條が構想をあたためていた小説であるが、北條自身によって破棄されたため残存していない)を、検閲を通さずに川端康成のもとに送った後で、全生園を飛び出して各地を放浪、その挙句、どこにも自分の居場所がないことを知らされ、結局の所、療養所に舞い戻らざるを得なくなった。日本の何処にも彼の心を落ち着かせる場所は存在しなかったのである。

北條が唯一人心を許し「いのちの友」とよんだ東條耿一の場合はどうであったか。東條が最初に山桜に発表した作品「蚤」は、らい院の精神病棟に隔離された社会主義者を主人公としている。そのために、この投稿は伏せ字だらけである。また、東條がのちに発表した唯一の小説「霜の花」は精神病棟での介護体験をもとにしているが、その筆致は、驚くほど北條民雄のものと似ている。

共産党関係者が一斉に検挙され、続々と転向宣言を出していた時代に、東條も北條も、生きていた。明石海人もまた、私立の療養所ではもっぱら唯物弁証法の著作のみを読んでいたことが想起される。彼等はみな社会主義の革命運動のシンパだったのである。そういう思想を抱きながらも、一切の社会性を剥奪されて収容所で生を終えなければならぬことへのいらだち、それを伺わせる記述が、北條の日記の中にある。

明石海人の場合も、北條や東條の場合も、彼等が社会主義思想を抱いていたことがこれまであまりにも軽視されていた。批評家は、当時の文書がいかに過酷な検閲に晒されていたかを忘れていたのである。

東條の場合は、フランス人の神父によって造られた私立の神山復生病院でカトリックの洗礼を受けたが、おそらく全生園の内部に設置された教会のミサには、北條の葬式のときまでは出席していない。妹の津田せつ子は「なまくら信者」であったといっている。療養所の中の慰安活動として公認された文学を北條民雄が信用しなかったということは明かであるが、それとおなじく、東條のばあいは、療養所の中の患者の心の慰安を目指す宗教活動を全く信用していなかったといって良いであろう。

社会運動、患者の人権闘争などが、外島事件や長島事件で見るように徹底的に抑圧されていた時代、そして、絶対的に隔離された療養所の閉鎖性、そしてそれ自身がその反映にほかならない日本社会全体の持つ抑圧のシステム。そういうものからの自由を求めるための必死の闘い、それを私は、二人の生の軌跡のなかに辿る。それは、私自身がもっとも関心を持つのが、文学を否定する文学、宗教を否定する宗教が、まさに成立するトポスに他ならないからである。
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