歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

絶対者の人格性と非人格性-4

2005-06-21 |  宗教 Religion
絶対者の人格性と非人格性-人格と最も普遍的なもの-4

前節では、使徒信条に於ける個人の人格と普遍の教会との関係について論じたが、『大乗起信論』の帰敬偈が拠り所とする「佛法僧」の三位一体と比較して、使徒信条の三一神への信仰告白は、それらが一人称単数で、自己の責任に於いて語られるという事を指摘した。

この一人称単数の「私」のもつ普遍性、公同性は、キリスト教信仰の特質である。そして、そういうカトリック的信仰においては、更に、信仰の対象そのものが、歴史的な存在であるイエス・キリストの人格に関わるものであるということは云うまでもないであろう。とりわけその受肉、十字架上の死、黄泉への降下、死者の内からの復活、昇天して父の右に座すキリストという歴史的人格的な存在への信仰をキリスト者が告白する点で、そこには佛教よりも遙かに人格的な色彩の強いものがある。

それは、非歴史的な普遍者を原理とするギリシャ的な哲学的理性とは容易にふれ合わぬものであるが、一個の歴史的人格を原点とする福音書の物語的な統一性が、人格から人格へと響き渡るメッセージを内包することによって、歴史的世界に於ける個人の人格的な行為を直接に喚起するという働きを持っている。

日本語に於いて、「人格の尊厳」、「人格の回復」、「人格の形成」などの成句に見られるように、「人格」という言葉は既に市民権を得ている。基本的人権とは、「個人の譲渡できぬ生得的権利」のことである。また、「人格への配慮 cura personalis」とは、多くのカトリック系の教育機関が標榜している「人間教育」の基本原理である。

しかし、たとえば、「人間」と「人格」は何処が違うのか。日本語に即して云えば、人間が文字通り「人と人の間」(関係性)すなわち、社会性を含意するのに対して、「人格」は「個人性」をも含意するようにも思われるが-その両者、すなわち社会性と個人性とは如何なる関係にあるのか、こういった基本的な事柄に対して、必ずしも我々は明瞭な自覚を持っているとは言い難い。

嘗てジャック・マリタンは、「個体(individu)」と「人格(personne)」を区別して使うことを提案し、「個体は社会のために存在するが、社会は人格のために存在する」という原則を以て、キリスト教的な人格主義の原則となした。この定式は、今から六〇年以上も前のものではあるが、当時のヨーロッパを席巻していた全体主義的イデオロギーを批判すると同時に、資本主義諸国に於けるブルジュア的個体主義をも同時に批判し、個人の人格の尊厳を第一義的とみなすキリスト教的な人格主義のあり方を提示するという文脈の中で提出されたものである。「個人」と「人格」との区別は、存在論的な議論を必要とすると同時に、社会福祉のような実践の場面に於いて深い関わりを持つものである。(注12)

しかしながら、日本に於いて「人格」や「個人」という言葉は、宗教的な背景ないし含意は捨象された上で使用されることが多いのではないだろうか。個人の人格を何よりも重んじるという考え方は、キリスト教信仰によって人類の思想史に提供されたものである。それは、単なる哲学的思索ではなく、哲学に先行するキリスト教信仰の所与にほかならぬ聖書の読解から生まれたものであること-このことをまず確認しておこう。

人格神の概念は、我々が聖書に於いて出会う神とは誰か-キリストとは誰かという、キリスト教にとって二つの枢要なる問いかけから生まれたものである。 信仰が自己反省を始めるやいなや、これらの根本的な問いかけに対して、キリスト教的な思索はギリシャ哲学に於いてはそれまで使用されていなかった「人格(prosopon=persona)」という概念を使った。それによって、キリスト教的思索はこの言葉に新しい意味を与え、新しい次元を開いたといえる。
ここでは、人格概念の成立を廻る教理の歴史にたちいる余裕はないが、幾つかのポイントを押さえておきたい。  

まず取り上げるべき思想家はテルトリアヌスであろう。彼は「三つの人格的存在をもつひとつの実体una substantia―tres personae」という三位一体論のなかで 人格的存在(persona)という語を用いて、キリスト教的な神概念を定式化した。テルトリアヌスは、「不合理故に我信ず」とか「アテネとエルサレムとのあいだに何の関わりがあるか」という言葉で知られている護教家であるが、聖書の神の本質(essentia) ないし実体(substantia)が不可知であるにしても、神の内なる三つの人格的存在は、不可知なる神の本質を我々に分かる言葉によって、聖書の啓示として語ることを可能にするのである。人格的なる神は、決して知性による認識を絶する闇の中に留まっているわけではない。それは、我々にむけて語られる聖書のメッセージの中に現存している。

いうなれば、神の不可知なる本質から、言葉へと語り出るところに三位一体という「人格的存在(persona)」が立ち現れるのである。したがって、このような三位一体の人格神の意味するものは、「信仰の神秘」を知性に解消することなく、むしろ知性を「信仰の神秘」へと人格的な言葉を通して導くものである。 三位一体論は、人間の知性による内在的了解を常に越えでるものであるが、それを把握することから、神と人との人格的関係と内的対話に基づくキリスト教的思索が始まるという意味で、決して反知性的なものではない。

もっとも神を人格化して語ると云うことだけならば、かならずしもキリスト教的とは云えないであろう。古典ギリシャ時代には、ヘシオドスやホメーロスの如き詩人はテオロゴイ(神を語る人=theologian)と呼ばれたが、彼等は、物語に生気を与えるために、神々を人格的存在として描き、彼等に語らせ、それによって物語を進行させる。人格的存在は、様々な「役割」をもっており、そのもろもろの役割を通して、行為が対話の中で描き出されるのである。もともと、「ペルソナ」とは、「役割」を意味し、俳優の付ける仮面を意味していたことが想起されねばなるまい。神話や物語に生命を与えるために詩人達が創造した劇的役割、対話的役割を明らかにすることは、「人格的釈義」と呼ばれたが、初代の教父達もまた、この人格的釈義を聖書釈義に盛んに応用した。教父達は、神が複数形で導入され、自己自身と語るという事実を、人格的に釈義したのであり、それによって、「人格」という言葉に新しい意味が生まれた。

二世紀中頃にユスチノスはすでに「聖なる著者は異なる人格的存在(persona)、異なる役割を導入している」と書いている。聖書の釈義家達によって導入された「役割」は、対話的な実存として、単なる現象にはとどまらぬものを持っているので、「預言者があたかも一人の人が語っているかのように述べるのを聞くとき、諸君は、それらが霊に満たされた者達(すなわち預言者)によって話されたと思ってはならない。そうではなくて、それは彼等を動かしている御言葉(ロゴス)によって語られている」と ユスチノス は言う。だから、預言者によって導入された対話的な役割は、決して単なる文藝上の装置ではない。

「役割」はたしかにあるが、それは、「ペルソナ」であり、「顔で」あり、此処で真実を語りつつ、預言者との対話的関係に参入する「御言葉」そのものである。

 人格的存在の概念は、聖書を読みそれを釈義することの中から生まれたが、それは、対話の観念、より詳しく言えば、対話的に語る神現象の「人格的釈義」に起源を有つ。神自身が物語る聖書、人との対話のなかに現存する神が人格の概念を成立させたのである。我々が聖書によって導き入れられる根本現象は、物語る主体としての三位一体の人格神であり、語りかけられる個人(=person)である。このように、人格の観念は、その起源に於いて、対話の観念と対話的存在としての神の観念を表現している。人格は、ロゴス(言葉)の中に現存し、「私」「あなた」「我々」のような言葉から成立する存在としての神を示している。

五世紀を迎えると、キリスト教神学は、「神は三つの人格に於ける一つの存在」であるというキリスト教的な人格神のテーゼの含意するところを、ギリシャ哲学の論理的なカテゴリーを踏み越えて表現できるような段階に達した。神学者は「人格」は「実体」としてではなく「関係」として理解しなければならない、ということに気づいたのである。

神における三つの「人格的存在」は、並列するあるいは序列を有つ三つの異なる実体なのではなく、具体的な活動としての関係に他ならない。活動する関係、ないし関係づけられて活動することは、「人格的存在」という「実体」に付け加えられる何ものかであるのではなく、それは「人格存在」そのものなのである。その本性に於いて、人格的存在はただ関係としてのみ活動するのであって、実体として存在するのではない。

たとえば第一の人格的存在(父)は、第二の人格的存在(子)を生むという活動をなすが、この働きはすでに完成した人格的存在に付加されるものではなく、その人格的存在が、生むという活動、自己を与えるという活動、自己を発出させるという活動そのものなのである。人格的存在とは、この自己贈与の活動と同じである。

一つの人格的存在は他の人格的存在に向けられた純一な関わりであるが、さらに人格的存在を、相互内在をもたらす関係性すなわち、ペリコーレーシス(回互性)と捉えることができる。父と子と聖霊は、どのひとつの人格的存在をとっても、他の二つの人格的存在が内在するといういみで、純一なる他者への関係となるのである。人格は実体のレベルにあるものではなくー実体は一である-対話的な現実性、他者への純粋な関係性のレベルにある。

かつてキルケゴールは「死に至る病」のなかで、人間精神を「関係が関係自身に関係するような関係」と規定したが、それはここでいう人格の規定にも当て嵌まる。他者への活動的な関係において、自己自身に関係し、自己同一を保持する純一なる関係こそが、「出来事」であると同時に「存在」でもある人格を形成するのである。

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注12 キリスト教における「人格主義」と、人格概念の起源に関する文献は多い。ここでは特に以下の文献を参考にした。

Jacques Maritain, “The Human Person and Society”, in Scholaticism and Politics, Books for Libraries Press, 1940,
Hans Urs von Balthasar,“On the Concept of Person,”Communio 13 (1986);
Josef Ratzinger, Concerning “Retrieving the Tradition Concerning the Notion of Person in Theology, ”Communio 17(1990).


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