歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

絶対者の人格性と非人格性-3

2005-06-22 |  宗教 Religion
絶対者の人格性と非人格性-人格と最も普遍的なもの-3

前節で、大乗起信論の帰敬偈について考察した。それは佛・法・僧への三帰依のあり方を考察したのである。「佛」が人格的、「僧」が社会的であるとすれば「法」は、その根柢にある非人格的なるものである。しかし、「佛を見るものは法をみる」というごとき言い方に如実に表れているように、佛法僧の三帰依は一体をなしており、不即不離の関係にある。

佛教の場合、「佛陀Buddha」 という言葉自身に「覺者(目覚めたもの)」という意味が含まれているのであるから、第一義的には「覺の宗教」である。佛陀が覚するものは「法」であり、「法」は釈尊という一人の人格的存在が歴史的に登場する以前から、いうなれば久遠の昔から、厳然としてあるものであり、その「法」の真實とその働きに目覚めた「人」が「佛」である。釈尊は、そのような佛の一人、すなわち先覚者であろう。したがって、佛教に於いては、いかに崇敬されるべき教祖といえども、法はその人個人の専有物ではなく、むしろすべての佛陀を佛陀として生かす根源として、それ自体は非個人的ないし超人格的なる「普遍」として了解されていたと言ってよかろう。
しかしながら、『善の研究』を書いた頃の西田幾多郎にとっても、また『大乗起信論』を英訳し、みずから『大乗佛教概論』を書いた鈴木大拙にとっても、實在の根柢には人格的なものが深く関わっていたことを確認した。そして、大乗起信論の三帰依や、法身の概念、大拙による人格的な捉え方を検討することによって、「佛教の普遍性」としての「大乗」という概念に至った。

この節では、焦点を佛教からキリスト教に移し、まず、使徒信条を手びきとして、キリスト教の普遍性という問題を考察する。そして、キリスト教の有する「普遍性」は、他ならぬ「この私」という絶対的に個的な人格と不可分であることを示したい。

使徒信条は、いわゆるローマンカトリック、アングリカン・カトリック(聖公会)、プロテスタントの諸宗派に共通する信仰宣言であり、キリスト教信仰の要をなす三位一体の神への信仰を告白したものである。

その内容を理解するために、日本語の典礼訳だけでなく、原文のラテン語と英訳を参照しつつ、とくに「カトリック教会とは何か」という問題に焦点を合わせて考察したい。

使徒信条は、父と子と聖霊の三位一体の神への信仰を宣言したものだが、その三番目の、聖霊への信仰を宣言する箇所で、「聖なる普遍の教会」という言葉が出てくる。

日本語典礼訳:聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。

ラテン語典礼文 Credo in Spiritum Sanctum; sanctam ecclesiam catholicam; sanctorum communionem; remissionem peccatorum; carnis resurrectionem; vitam æternam. Amen.

英訳 I believe in the Holy Ghost; the holy catholic Church; the communion of saints; the forgiveness of sins; the resurrection of the body; and the life everlasting. Amen.

まず、注意すべき事は、信仰宣言のもつ人称性である。それは、「私は信じる」と述べるものなのであって、決して「我々は信じる」ではない。常に「一人称単数」で宣言するところに、信仰宣言ないし信仰告白(Credo=I believe)の特徴がある。それは、信仰共同体としての「我々」の中に個の主体性を埋没させることではなく、あくまでも「一個人に徹する」ことを通じて、「普遍の教会」を信じることを「公に」宣言するのである。

次に、「聖霊への信仰」が、同時に「聖霊のうちにある信仰」であること。聖霊こそが、そこにおいて「私は信じる」という信仰の生起する場所なのである。そして聖霊の場に於いて「聖なる普遍の教会」すなわち「カトリック教会」への信仰が生起する。

日本語典礼訳の「聖なる普遍の教会」は英訳では、 the holy catholic church すなわち「聖なるカトリック教会」と訳されている。この点では、日本語訳の方が、良いと思う。ここでのカトリックとは、プロテスタントを排除するものではないからだ。アメリカのプロテスタント教会では、the holy Christian Churchと訳して、catholic という語を避ける場合もあるし、日本のプロテスタント教会では、「聖なる公同の教会」と訳すことが多い。ようするに、カトリックとは、公同的、普遍的といのが原義なのである。

「普遍の教会」という原点に立ち返って考えるならば、そこでいうカトリックとは、けっしてプロテスタントに対するカトリックという如き意味に特殊化されるべきではない。プロテスタント教会もまた、使徒信条を自らの信仰の拠り所としている限りでは、カトリックでなければならないからである。ローマン・カトリック=カトリックと考える人もいるが、真に普遍的なものに、西も東もなく、ローマも東京もないであろう。ラテンアメリカの人も、アフリカの人も、ヨーロッパの人に劣らずカトリック的であり得る。それ故に、真のカトリックとは民族という特殊性から自由でなければならないし、特定の教派からも自由でなければならない。 私は、さらにもう一歩を進めて、日本の「無教会主義」のキリスト教、とくにその原理を旧約聖書にまで遡って、理解しようとした関根正雄の「無教会思想」のなかにもまた、本来的な意味でのカトリックの原点を見る。ここに云う「無」は教会の否定ではない。「無」の場所に徹するところに「聖霊への信仰」があり、聖霊の内にあることこそ、新たに誕生し、あるいは刷新されるべき教会の原点なのである。 もし「無」が西田哲学に於けるように、決して主語として対象化され得ない究極の普遍であるとするならば、「無教会」こそが真の「普遍の教会」であると云うことも出来よう。そのような、究極の普遍としての「無の場所」において「私は信じる」と個人の信仰を「公に」宣言するところに、真正の意味に於けるカトリック信仰があるであろう。
  
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