歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

花の美学 その3

2005-06-16 | 美学 Aesthetics
 美のイデア(実相)

爰に私のあてがいあり。性花・用花の兩條を立たり。性花と者、上三花、櫻木なるべし。是、上士の見風にかなふ位也。中三位の上花を、既に正花とあらはす上は、櫻木なれ共、此位の花は、櫻木にも限るべからず。櫻・梅・桃・梨なんどの、色々の花木にもわたるべし。ことに梅花の紅白の氣色、是又みやびたる見風也。然者、天神も御やうかんあり。又云、當道の感用は、諸人見風の哀見を以て道とす。さるほどに、此面白しと見る事、上士の證見〔な〕り。然共、見所にも甲乙あり。縱ば、兒姿遊風なんどの、初花ざくらの一重にて、めづらしく見えたるは、是、用花也。これのみ面白しと哀見するは、中子・下子等の目位也。上士も一たんめづらしき心たて、是に愛づれ共、誠の性花とは見ず。老木・名木、又は吉野・志賀・地主・嵐山なんどの花は、既に、當道に縱へば、出世の花なるべし。かやうなるを知るは上士也。上下・萬民、一同に諸花褒美の見風なるべし。上士は、廣大の眼なるほどに、又餘花をも嫌ふ事あるまじき也。爲手も又如此。九位いづれをも殘さゞらんを以て、廣覺の爲手とは申べし。「萬法一に歸す。一いづれの所にか歸す。萬法に歸す」と、云々。如此、その分+ に依て、自然〔自然〕に、面白き一體のあらんをば、諸花と心得べし。然れ共、兒姿の面白さと、成功の達人の面白さも、同心かとの不審をひらかんがため、性花・用花の差別を申分る也。(世阿弥、「拾玉得花」)
世阿弥は「九位」という述作に於いて、藝道の位を九つに分類しているが、そのうちの上三位をもって「性花」といっている。この場合、「性花」という言葉は、世阿弥にとっての「永遠なる美のイデア」を、「桜の花」という具体的なイメージによって暗喩的に表現したものと言ってよかろう。禅門で云う「見性成仏」の「性」は仏性であり、我々自身の内なる仏性を直観することが成仏であり、我々自身の外に仏を求めないと云う徹底した立場が貫徹されるが、世阿弥は能という藝道に於いて、美の本性を桜の花によってイメージ的に表現したのである。九位のなかで最高の位は、「妙花風」と呼ばれるが、世阿弥が禅門における「妙」の用法を念頭においていたのは間違いはない。

上位
妙花風―「新羅、夜半日頭明らかなり」
寵深花風―「雪、千山を覆ひて、孤峯如何か白からざる」
閑花風―「銀椀裏に雪を積む」
中位
正花風―「霞明らかに、日落ちて、万山紅なり」
広精風―「語り尽す山雲海月の心」
浅文風―「道の道たる常の道にあらず」
下位
強細風―「金槌影動きて、宝剣光寒し」
強麁風―「虎生まれて三日、牛を食ふ気あり」
麁鉛風―「木鼠は五の能あり。木に登ること・水に入ること・穴を掘ること・飛ぶこと・走ること。いずれもその分際に過ぎず」

修道次第
―中初・上中・下後―

下三位からはじめてはならず、中位の「浅文風」から初める。広精風が藝の分かれ目で、そこを突き抜けると、「正花風」から上三位へと上れるが、正花風へいけない役者は下三位に落ちる。上三位の藝に達しないものが下三位を演じてはならない。
しかし、上三位に達したものが、元の高さを失わずに下三位の藝を演じることは可能であり、場合によっては藝が高き位に停滞することを潔しとせず、変化をもたらすために、名人にのみ許されるものとする。このことを世阿弥は、 却来、向却来といい、そういう位を「闌位(たけたる位)」ともいう。

「萬法一に歸す。一いづれの所にか歸す。萬法に歸す」という言葉は、多くの美しいものから一なる「美のイデア(妙花)」への帰還と共に、一なる美のイデアから多様なる美しきものどもへの発出という往還の運動を表現するものである。したがって、世阿弥は九位に分けた位を単純なる上下関係に捉えるのではない。一度、上三位に達した後に、下位の美しきものに下降するのは意味のあることなのであり、また下品なるものも上品なるものに劣らぬ価値を有するが故に、能楽の「美」はあらゆる人に「愛敬」されるべきものでなければならず、決して一部のエリートのみの専有物ではないというのが世阿弥の能楽論の特徴である。
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