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歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

普遍の教会(カトリック教会)について

2005-04-13 |  宗教 Religion
今日は、いつもの様に全生園の愛徳会で主日のミサに参列したが、今年の二月に刷新された使徒信条の新しい口語訳をプリントしたものを戴いた。ここの信徒さん達の平均年齢はほぼ80才、アヌイ神父などパリミッションの司式を覚えている世代は、まだラテン語でミサを唱えていた時代だから、隔世の感があると思う。旧い世代にとって、典礼の言葉が変化するとなかなかそれに適応するのが難しい。還暦まであと二年の私自身もまた、口語訳にはなじめず、旧い文語訳の方がずっとよいという感情がある。それはともかく、日本のカトリック教会では、新しい世代のために典礼の言葉も平易な口語訳へと刷新していく方針のようだ。言葉がラテン語から文語訳に代わり、それが口語訳になり、そしてさらに平易な口語訳になるのは時代の趨勢だから、そのことに反対はしない。まだ、明治時代の文語訳を越える様な訳は出ていないと思うが、口語訳でも魂のこもった訳は可能であると思うから。

もともと新約聖書や使徒信条のような初代教会の文献は、当時の被植民地の民衆の共通語で書かれたものだ。いってみれば、今日のラテンアメリカやアフリカの人々が英語で書物を書く様なものであった。新約聖書はコイネー(当時の世界共通)の平易なギリシャ語で書かれていた。だから、生粋のギリシャ人の語る古典ギリシャ語ではない。それにもかかわらず、私は、プラトンやソフォクレスのような生粋のギリシャ人の書くギリシャ語にはない魅力を感じる。簡潔で力強いヘブライ語法のはいった独特の表現が多いが、そのなかに民族精神を越える普遍性を認める。後世のラテン語の典礼訳は西洋世界の文語訳で格調が高いと言われているが、よく調べてみると、それはギリシャ語聖書からの直訳に近いものである。そして、近代ドイツ語や英語に影響を与えたルターのドイツ語訳も英語の欽定訳も、現在の訳文にくらべれば、その簡潔さと力強さにおいて、はるかに原語に忠実な直訳である。

日本語訳の場合も、訳文は出来る限り原語にそっておこない、一字一句ゆるがせにせずに内容を理解することがが大事だろう。今日は、キリスト教の原点に立ち返って、使徒信条の内容を理解するために、翻訳の日本語だけで満足するのではなく、原文と複数の翻訳を参照しつつ、とくに「カトリック教会とは何か」という問題を考えてみたい。

使徒信条は、父と子と聖霊の三位一体の神への信仰を宣言したものだが、その三番目の、聖霊への信仰を宣言する箇所で、「聖なる普遍の教会」という言葉が出てくる。新しい口語訳では、次の様になっている。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
原文のギリシャ語、ラテン語訳、そして英訳を併記すれば次の通り。
原文(ギリシャ語) Pisteuw eiV to PNEUMA TO AGION, agian kaqolikhn ekklhsian, agiwn koinwnian, afesin amartiwn,sarkoV anastasin. zwhn aiwnion, Amhn.

ラテン語典礼訳 Credo in Spiritum Sanctum; sanctam ecclesiam catholicam; sanctorum communionem; remissionem peccatorum; carnis resurrectionem; vitam æternam. Amen.

英訳 I believe in the Holy Ghost; the holy catholic Church; the communion of saints; the forgiveness of sins; the resurrection of the body; and the life everlasting. Amen.
まず、注意すべき事は、この信仰宣言の人称性である。それは、「私は信じる」と述べるものなのであって、決して「我々は信じる」ではない。常に「一人称単数」で宣言するところに、信仰告白(Credo=I believe)の特徴がある。それは、集団の信仰共同体の中に個性を埋没させることではなく、あくまでも「一個人に徹する」ことを通じて、「普遍の教会」を信じることを宣言するのである。

次に、「聖霊への信仰」が、同時に「聖霊のうちにある信仰」であること。聖霊こそが、そこにおいて「私は信じる」という信仰の生起する場所なのである。そして聖霊の場に於いて「聖なる普遍の教会」すなわち「カトリック教会」への信仰が生起する。

日本語訳の「聖なる普遍の教会」は英訳では、 the holy catholic church すなわち「聖なるカトリック教会」と訳されている。この点では、日本語訳の方が、良いと思う。ここでのカトリックとは、プロテスタントを排除するものではないからだ。アメリカのプロテスタント教会では、the holy Christian Churchと訳して、catholic という語を避ける場合もあるし、日本のプロテスタント教会では、「聖なる公同の教会」と訳すことが多い。ようするに、カトリックとは、公同的、普遍的といのが原義なのだ。

私自身は、「カトリック」という言葉を使うときは、いつでもこの、「普遍の教会」という原点に立ち返って考えている。けっしてプロテスタントに対するカトリックという意味に特殊化しない。プロテスタント教会もまた、使徒信条を自らの信仰の拠り所としている限りでは、カトリックでなければならない。ローマン・カトリック=カトリックと考える人もいるが、真に普遍的なものに、西も東もなく、ローマも東京もない。ラテンアメリカの人も、アフリカの人も、ヨーロッパの人に劣らずカトリック的であり得るのだ。

だから、カトリックとは民族という特殊性から自由でなければならないし、特定の教派の教会組織からも自由でなければならない。普通、ローマカトリックと呼ばれている教会組織もまた「真にカトリック的であること」が課題として与えられている-私は、こうなふうにカトリックという言葉を使っている。

さらにもう一歩を進めて、私は、日本の無教会主義のキリスト教、とくにその原理を旧約聖書にまで遡って理解しようとした関根正雄の「無」教会思想のなかに本来的な意味でのカトリックの原点を見ている。ここにいう「無」は単なる教会の否定ではない。「無」教会とは教会を否定することによって、それを復活させることに他ならないからだ。「無教会」の「無」の場所に徹するところに聖霊への信仰があり、聖霊の内にあることこそ、まさに誕生しようとしている教会の原点なのだから。
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「人格」と「絶対無」 

2005-04-12 |  宗教 Religion
西谷啓治の「宗教とは何か」は 英訳され Religion and Nothingness というタイトルで University of California Press から1982年に出版された。そのなかで、とくに「宗教に於ける人格性と非人格性」という章をとりあげ、その内容を要約しつつ批判したい。

 西谷の「宗教とは何か」の議論は、「人格」と「絶対無」との関わりを巡って展開する。彼は次のように言う。
人格としての人間という観念が、従来現れた最高の人間観念であったということは疑ひない。人格としての神といふ観念についても同様である。主体的自覚が確立されて以来、人格としての人間といふ観念は殆ど自明的になってゐる。しかし、人格といふものについて従来一般に考へられてきたやうな考へ方が、果して唯一の可能な考へかたなのであらうか。
西谷の議論をよく読んでみると、彼はデカルトの自我の概念、あるいはカントの人格概念など、近代的自我の主体性を論じる文脈で「人格」を考えているようだ。そのために、彼の議論を更に補い、人格概念のキリスト教的起源をさらにふまえて話す必要があるだろう。

まず、人格を「理性的本性を有つ個別的実体である Persona est natura rationalis individua substantia」というボエティウスに遡る定義がある。このように人格を「個的実体」ととらえる理解は優れてギリシャ的、あるいはアリストテレス的であるといってよかろう。実体とは、存在するために他を必要としないものであり、アリストテレスの意味では、第一実体としての基礎個体である。それは「理性的本性をもつ」という人間に固有の特有性によって特徴づけられ、他の生物学的個体や単なる物体から区別されている。西谷啓治が言及した「人格」の伝統的なとらえ方に、是が含まれることは間違いない。

しかし、これまで、西谷自身によっても、また実体概念を機軸として展開された西洋の形而上学の伝統の中でも充分に取り上げられているとは言い難いもうひとつの人格概念がある。それは、キリスト教の三位一体論に由来する「人格」概念の伝統である。これについては、私は、既に、「人格概念のキリスト教的起源」のなかでもその一端にふれたが、人格を「実体」ではなく「関係」と見なす伝統といってよい。

中世の初めに於いて、聖ヴィクトルのリシャールは、キリスト教の内部から由来する人格概念を、「霊性を有つ通約不可能な実存=spiritualis naturae incommunicabilis existentia」と定義した。ギリシャ哲学では、常に主題となるのは類的存在としての本質を備えた「人間」であり、個人というものは視野に入っていない。あの人間もこの人間も、「人間性」という共通の本性に於いては通約可能であり、そのかぎりで学問的な研究の対象になる。しかし、人格とは、第一義的には共通本質(essentia)ではなく通約不可能な実存(existentia)である。

また、「霊的 spiritualis」という言葉も、理性的と同義ではない。聖書の伝統では、霊的なるものは、理性だけではなく感覚的な身体を含む人間の全体を指すのであり、身体から分離された精神的な実体ではない。

「通約不可能な実存」としての人格は、すぐれて個々の人間の自由と責任の問題、類的存在のような共通性に還元されぬ、代替不可能な生きた全体としての人間に関わりを持つ。つまり、この考え方は、掛け替えのない個人の価値を第一義的に考えるキリスト教の伝統を表すものと言ってよいであろう。このような「個人への配慮 cura personalis」こそ、人間論を実践哲学へと架橋するキリスト教的哲学の核心にあるものである。

さて、「宗教とは何か」における西谷の人格論は、エックハルトの思想に依拠し、そこにおける「神と神性の区別」をもとにしている。西谷の理解するところによれば、神性とは神の本質essentia であり、「神をして神たらしめるもの」である。西谷には「神と絶対無」というエックハルト研究があるが、そこではこの神性を「絶対無」と等値している。

しかし、本質essentia とは、アリストテレスに由来する哲学用語であり、それはものが「何であるか」を言い表す説明方式(ロゴス)であり、実体のカテゴリーについて本来言われるべき事である。従って、神の本質としての神性というとらえ方自体が、存在を表す言葉に派生するのであるから、それを「絶対無」とよぶことが果たして妥当であろうか。

本当にエックハルトは、神性は絶対無であると言ったのか。ここは西谷のエックハルト解釈の要であるが、私はテキスト的にこの解釈は基本的に誤っていると考えるものである。もちろん、エックハルトが、ある文脈に於いて、「無」に該当する言葉を使っていることは、その通りである。しかしそれは、どういう文脈であろうか。

それは、「神が何であるか」を、我々が、人間の理性の立場ではけっして知り得ないと言うこと、人知の限界を承認することを意味するのである。そして、それは否定神学の正当なる主張を摂取したトマスの根本主張でもあり、エックハルトもこの先人の考えに従っているのである。

したがって、神性が無であるということは、神性については我々はロゴスによって語ることが絶対に出来ないと言うことを意味する。そのかぎりで「無」ということは適当である。エックハルト自身、被造的存在を「有」というその尺度を当てはめる限り、神は決して「有」ではないといったのであるから。しかし、西谷は、この主張の裏にあるもう一つの意味を見落としている。すなわち、神の存在を「有」とする尺度をあてはめるならば、どの被造物も決して「有」ではあり得ないというもうひとつの重要な主張が見落とされている。

エックハルトのラテン語著作を読む限り、彼は「esse(動詞としての有)」を機軸として考えるトマスの伝統を受け継いでいる。その伝統では、神性は、純一なる「有」というべきであって、決して、「絶対無」とはいえない。ニーチェやハイデガーの所謂ニヒリズムの自己超越という文脈で、西谷はエックハルトを論じているのだが、エックハルトは近代のニヒリズムとは無縁のキリスト者である。そしてまさにそうであるが故に、現代のキリスト者である私に直接訴えるものがあるのである。

 私は、有無の対立を超える絶対者を、再び「有」または「無」の名前で呼びはしない。そして、それがキリスト者としてエックハルトを現代という時代に於いて受け継ぐと言うことである。エックハルトの著作を後世に伝えたニコラウス・クザーヌスは、「神は有でも無でもない」といったが、その神を「絶対無」などとは呼ばず、「絶対に最大なるもの」すなわち究極の普遍として言い表した。この考え方は、真の意味でのカトリックを目指す私にとって指針を与える。

 究極の普遍は、それを限定するものを持ち得ないが、あるものを「無」とよぶ場合は、必ず「有」を否定することによる限定が伴うのである。その限りで、「絶対無」なるものはあり得ないともいえよう。有無はつねに相関しており、その両者を越えるものを言い表すことは出来ない。
 
聖書に示されるような宗教的経験を言い表すのに、「絶対無」は不適切であるが、そうかといって、それを「有」というギリシャ哲学の用語で概念化するのも不適切である。そこで、出エジプト記の神名の啓示を手掛かりとして、ヘブライ語の動詞「ハヤー」をもって、「有無を超える純一なる生成」を言い表すーこれが私の立場である。

 存在論と神学との結びつきを絶ち、「実体の形而上学」ではなく、真の意味でのキリスト教的形而上学は、「オントロギア」(存在論)ではなく「ハヤトロギア」(現成論)でなければならない。「現成」という言葉は、道元の「正法眼蔵」にある言葉であるが、「ハヤトロギア」を日本語化するにあたって、私は、それに最も近いと信じる仏教者の言葉を使った。

 ここでは詳説しないが、私の理解するところでは、仏教においてすら、有無を超える「絶対」を再び「無」とは呼ばないのが一般である。「中論」で明示されているごとく「空」は「縁起」と同義なのであり、決して老荘的な「無」ではない。

 道元は、「正法眼蔵」において、無や空を「絶対化」せず、有無を超える絶対を「現成」と言っている。「無」を強調したのは、「無門関」の著者や、無字の公案を教育課程に採用した臨済宗の伝統であるが、それを「絶対無」と呼んだのはあくまでも京都学派の哲学者である。

 有にせよ、無にせよ、あるいは現成にせよ、それは哲学の概念で絶対者を言い表さんとする試みであるが、それは信仰に於ける言表とはただちに結びつかない。信仰とは、人格的なるものを抜きに語り得ぬものであり、その限りに於いて、人格的なるものの意味が、ハヤトロギア(現成論)において、再び問われなければならないであろう。
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「人格」概念のキリスト教的起源 

2005-04-11 |  宗教 Religion


我が国に於いても、「人格の尊厳」、「人格の回復」、「人格の形成」などの成句に見られるように、「人格」という言葉は既に市民権を得ている。基本的人権とは、「個人の譲渡できぬ生得的権利」のことである。また、「人格への配慮 cura personalis」とは、多くのカトリック系の教育機関が標榜している「人間教育」の基本原理である。しかし、たとえば、「人間」と「人格」は何処が違うのか-人間が、文字通り「人と人の間」すなわち、社会性を含意するのに対して、「人格(person)」は「個人性」を含意するようにも思われるが-その両者は如何なる関係にあるのか、こういった基本的な事柄に対して、必ずしも我々は明瞭な自覚を持っているとは言い難い。そこで、まず、この言葉の持つキリスト教的な含意を検討しよう。

「人格(person)」を何よりも重んじるという考え方は、キリスト教信仰によって可能となり、それによって人類の思想史に提供されたものである。それは、単なる哲学的思索ではなく、哲学と、それに先行する信仰の与件=聖書との間の相互影響から生まれたものであることーこのことをまず確認しておこう。

人格の概念は、「(我々が聖書に於いて出会う)神とは何か」「キリストとは誰か」という、キリスト教にとって二つの枢要なる問いかけから生まれたものである。信仰が自己反省を始めるやいなや、これらの根本的な問いかけに対して、キリスト教的な思索はギリシャ哲学に於いてはそれまで使用されていなかった「人格(prosopon=persona)」という概念を使った。それによって、キリスト教的思索はこの言葉に新しい意味を与え、新しい次元を開いたといえる。

最初に論ずべき人物は テルトリアヌスであろう。彼は una substantia-tres personae = one being in three persons (三つのペルソナ(人格)をもつひとつの存在)という三位一体論のなかで persona という語を用いて、キリスト教的な神概念を定式化した。彼に於いて「人格的存在」という語が、西洋の知的歴史の中に初めて登場したという教理史家は多い。

一見すると、「不合理故に我信ず」とか「アテネとエルサレムとのあいだに何の関わりがあるか」という言葉で知られているテルトリアヌスが、かかる神学的定式を与えたというのは奇妙に思われる。しかし、聖書の神がギリシャ的な哲学的理性によってその本質essentia ないし実体substantia が不可知であるにしても、神の内なる三つのペルソナ(人格)は、そのような認識を絶する闇の中に留まっているのではない。それは、我々にむけて語られる聖書のメッセージの中に現存している。聖書には沈黙もあるが、その沈黙から語られる言葉がある。いうなれば、神の不可知なる本質(essentia) から、言葉へと語り出るところに三位一体という人格的存在が立ち現れるのである。

したがって、このような三位一体の神の意味するものは、「信仰の神秘」から「神秘の神秘」へと「言葉」を通して導くものであり、人間の理性による内在的了解を常に越えでるものであるが、それを把握することから、人格相互の対話に基づくキリスト教的思索が始まるという意味で、決して反理性的なものではない。

テルトリアヌス が人格(persona)という語を使った文化的な背景については、C. Anderson, "Zur Entstehung und Geschite des trinitarischen Person-begriffs" ZNW 52(1961):1-38 に詳しい研究がある。

それによると、聖書テキストの「人格的な釈義(prosopographic exegesis)」というものが影響したという。それは、古代の人文学者達によって開発されたテキスト釈義の方法である。古代の偉大なる詩人達は、単に出来事を物語るのではなく、それに生気を与えるために、人格的存在を登場させて物語らせる。たとえば彼等は神々を人格的存在として描き、彼等に語らせ、それによって物語を進行させる。人格的存在は、「役割」をもっており、そのもろもろの役割を通して、行為が対話の中で描き出されるのである。文献学者はこれらの「役割」を発見する。事件に劇的な効果を与えるために、「役割存在」として人格が創出される。もともと、prosopon=persona とは、「役割」を意味し、俳優の付ける仮面を意味していた。したがって、「人格的釈義(prosopographic exegesis)とは、詩や物語に生命を与えるために著者が創造した劇的役割、対話的役割を明らかにすることなのである。聖書を読むときに、キリスト教の著作家達は非常に良く似た状況に遭遇したという。彼等は、ここでも出来事が対話に於いて進行しているのを見出したのである。(たとえば、神が複数形で語ること、あるいは自己自身と語ること。創世記の「我々の似姿に人間を作ろう」「アダムは我々のひとりのようになった」あるいは、詩編110の「主は吾が主に言われた」をギリシャ教父たちは、父と子との対話として受けとめた。)教父達は、神が複数形で導入され、自己自身と語るという事実を、人格的に釈義したのであり、それによって、人格という言葉に新しい意味が生まれた。二世紀中頃に Justin はすでに「聖なる著者は異なる人格(prosopa)、異なる役割を導入している」と書いている。

しかしながら、私の見るところでは、「人格」という言葉は、「役割」という表層的な意味に尽きるのではなく、それよりも存在論的に深い意味を獲得し、神の言葉への信仰のもとに、根源的な実在性を帯びる様になっている。聖書の著者によって導入された「役割」とは実は、「対話的な実在(dialogical realities)」として、単なる現象にはとどまらぬものを持っているようだ。

「預言者があたかも一人の人が語っているかのように(hos apo prosopou)述べるのを聞くとき、諸君は、それらが霊に満たされた者達(すなわち預言者)によって話されたと思ってはならない。そうではなくて、それは彼等を動かしている御言葉(ロゴス)によって語られているのである」と Justin は言う。

だから、預言者によって導入された対話的な役割は、決して単なる文藝上の装置ではない。「役割」はたしかにあるが、それは、prosoponであり、「顔で」あり、此処で真実を語りつつ、預言者との対話的関係に参入する「御言葉」そのものである。テルトリアヌス が Adversus Praxean のなかで、詩編110-1に言及して次のように書いているのに注目したい。
「第三の人格的存在としての聖霊が、父と子について語っているのに注意せよ。『主は吾が主に言われた、私があなたの敵をあなたの足下に置くまでは、私の右に座していなさい』と。同じように、イザヤを通して『主はこれらの言葉を主キリストに言う』・・・これらの少数のテキストに於いて、三位一体の内的区別が我々の眼前に明らかとなっている。語るものが自ずから存在している、すなわち聖霊である。さらに、聖霊がそれに向かって語る父、そして最後に、聖霊がそれについて語る子が自ずから存在している」(Ratzinger, Retrieving Traditon:concerning the notion of person in theology,communio 17, 1990 参照)
 人格的存在(ペルソナ)の概念は、聖書を読みそれを釈義することの中から生まれた。それは、対話の観念、より詳しく言えば、対話的に語る神現象の「人格的釈義」に起源を有つ。神自身が物語る聖書、人との対話のなかに現存する神が人格(persona)の概念を成立させたのである。聖書文献学のいまだ発達していない時代に書かれた教父達の釈義には今日から見れば時代遅れの部分もあるが、彼等の解釈の基本路線は、全体としてみれば正鵠を得たものであり、聖書の霊的な伝統をよく捉えたものである。我々が聖書によって導き入れられる根本現象は、物語る主体としての三位一体の人格神であり、語りかけられる個人(=person)である。そして、神的人格(divine person)によって世界における慈愛(アガペー)へと召命された人間相互の共同性ーエクレシア-の形成である。

このように、人格の観念は、その起源に於いて、対話の観念と対話的存在としての神の観念を表現している。人格は、ロゴス(言葉)の中に現存し、「私」「あなた」「我々」のような言葉から成立する存在としての神を示している。このようなキリスト教的神認識の光の中で、人間の真の本性が新しい仕方で明瞭となったと言ってよかろう。

五世紀を迎えると、キリスト教神学は、「神は三つの人格に於ける一つの存在」であるというキリスト教的な人格神のテーゼの含意するところを、ギリシャ哲学の論理的なカテゴリーを踏み越えて表現できるような段階に達した。神学者は「人格」は「実体」としてではなく「関係」として理解しなければならない、ということに気づいたのである。

神における三つの「人格」は、並列するあるいは序列を有つ三つの異なる実体なのではなく、活動的する「関係」に他ならない。活動する「関係」、ないし関係づけられて活動することは、「人格」という「実体」に付け加えられる何ものかであるのではなく、それは「人格」そのものなのである。

その本性に於いて、「人格」はただ関係としてのみ活動するのであって、実体として存在するのではない。。たとえば第一の人格(父)は、第二の人格(子)を生むという活動をなすが、この働きはすでに完成した人格に付加されるものではなく、その「人格」が、生むという活動、自己を与えるという活動、自己を発出させるという活動そのものなのである。人格とは、この自己贈与の活動と同じである。

かくして、第一の人格(父)を豊饒なる智と愛の自己贈与と定義することも出来よう。父という「人格」がまず先にあって、彼の中に自由なる自己贈与の働きがあるというのではなく、父はこの自己贈与そのもの、活動の純粋なる現実性なのである。

「人格」は「他者に向けられた純一な関わり」(pure relativity towards the other)であると述べたのは Ratzinger であるが、私は、この「純一なる関わり」という語を、「相互内在をもたらす関係性」すなわち、ペリコーレーシス(回互性)と捉えている。父と子と聖霊は、どのひとつの人格をとっても、他の二つの人格が内在するといういみで、「純一なる他者への関係」なのである。人格は実体のレベルにあるものではなくー実体は一である-対話的な現実性、他者への純粋な関係性のレベルにある。人格とは、かつてキルケゴールは「死に至る病」のなかで、人間精神を「関係が関係自身に関係するような関係」と規定したが、それはここでいう人格の規定にも当て嵌まる。他者への活動的な関係において、自己自身に関係し、自己同一を保持する「純一なる関係」こそが、「出来事」であると同時に「存在」でもある人格を形成するのである。

「人格」を「他者への純一なる関わり」として捉えたことこそ、キリスト教的な新しさであった。存在するためには他を必要としないという意味での実体というカテゴリーではなく、「他者への関わり」がその本質を形成するような活動的存在、「他者への純一なる関わり」という人格観念を生み出し、人間の人格的な現象を視野に入れることを可能にしたものこそ、キリスト教信仰なのである。


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場所的ロゴスについて-前書

2005-04-07 |  宗教 Religion
ἐν Χριστῷ というギリシャ語(英訳では in Christ)の前置詞ἐνは、「場所としてのキリスト」というパウロの発見-それはこのような挨拶の言葉に於いても、またパウロの独自の神学的表現に於いても中心的な役割を果たしているがー人格的ロゴスから場所的ロゴスへの転換を鮮やかに表現している。この言語を、しばらく場所的ロゴスと呼ぶこととしよう。

キリストは人格的ロゴスであるが、それが場所としての意味をも持つと言うことは、従来の神学的思索に於いては、充分に展開されていなかった。しかし、私は、すでにエックハルトやクザーヌスに於いて、「場所としてのキリスト」という思想が語られていたことを指摘した。次に為すべき作業は、この思想が、新約聖書、とくに使徒書に於けるパウロの言葉に由来することを示すことである。

人格的ロゴスから場所的ロゴスへの転換-これこそ、新約思想に内包される三位一体論の根底をなす考えではなかったろうか。三つの人格(ペルソナ)が相互に内在しつつそれらは一なる神であるという思想、その根源は、新約聖書の著者達の信仰の表現に他ならぬ場所的ロゴスによって示されているのである。

嘗て滝沢克己氏は、「神我等と共にいます」という事態を、カールバルトに倣って「原事実」と呼んだが、「と共に」だけではなく「によって」と「の内に」という言葉で表現されるべき事態が新約思想にはある。神我等と共に、ということがらは、我等の方から生起した事態ではなく、あくまでも「神によって」という主体の在所が明確でなければなるまい。次に、「とともに」という「共在」から「内在」へのすすみゆきのほうが、より深い意味で神との「一」を示すものであり、パウロ書簡はかかる表現に満ちている。そこでは、まず、「キリストの内に」といわれ、次に「我等の内なるキリスト」が語られる。これらの相互内在をもたらすものは「聖霊による一致」であるが、それらは再び、「父なる神の前で」、「父のために」為されるというかたちで、三位一体の神と、神の民との間の関係が表現されている。滝沢の云う原事実とは、単なる「と共に」によって表現されるべきものではなく、それは、永遠から時間への生成・時間から永遠への生成という往・還的な生成の出来事として捉えなければならない。



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場所のロゴスと新約聖書:使徒書における in Christ の用例分析 1

2005-04-06 |  宗教 Religion

新約聖書に於ける場所のロゴスというテーマを展開するための基礎資料として、以下では78の用例を分析しよう。その内訳は1Co:11 1Pe:2 1TH:3 1TI:3 2CO:10 2TI:7 ACT:1 COL:4 EPH:9 GAL:6 PHI:8 PHM:3 ROM:10 である。

場所のロゴスは聖書の逐語訳では「ἐν Χριστῷ = in Christ = キリストに於いて」という訳語にはっきりと表現されるが、意訳では省略されることが多い。そこで、英訳では逐語訳に近い欽定訳聖書、日本語では、聖書協会の口語訳を参照する。(共同訳はその点曖昧である)

アクセント付きギリシャ語がきちんと表示されない場合は、
http://greekbible.com/fonts/athena.zip
からathenaフォントをダウンロード、解凍したのちにインストールして下さい。

1CO.KJV(2): 1CO01:02 Unto the church of God which is at Corinth, to them that are sanctified in Christ Jesus, called to be saints, with all that in every place call upon the name of Jesus Christ our Lord, both their's and our's:
コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。
2τῇ ἐκκλησίᾳ τοῦ θεοῦ τῇ οὔσῃ ἐν Κορίνθῳ, ἡγιασμένοις ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ, κλητοῖς ἁγίοις, σὺν πᾶσιν τοῖς ἐπικαλουμένοις τὸ ὄνομα τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ ἐν παντὶ τόπῳ, αὐτῶν καὶ ἡμῶν:

1CO.KJV(30): 1CO01:30 But of him are ye in Christ Jesus, who of God is made unto us wisdom, and righteousness, and sanctification, and redemption:
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
30ἐξ αὐτοῦ δὲ ὑμεῖς ἐστε ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ, ὃς ἐγενήθη σοφία ἡμῖν ἀπὸ θεοῦ, δικαιοσύνη τε καὶ ἁγιασμὸς καὶ ἀπολύτρωσις,

1CO.KJV(48): 1CO03:01 And I, brethren, could not speak unto you as unto spiritual, but as unto carnal, even as unto babes in Christ.
兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
1Κἀγώ, ἀδελφοί, οὐκ ἠδυνήθην λαλῆσαι ὑμῖν ὡς πνευματικοῖς ἀλλ' ὡς σαρκίνοις, ὡς νηπίοις ἐν Χριστῷ.

1CO.KJV(80): 1CO04:10 We are fools for Christ's sake, but ye are wise in Christ; we are weak, but ye are strong; ye are honourable, but we are despised.
わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。
10ἡμεῖς μωροὶ διὰ Χριστόν, ὑμεῖς δὲ φρόνιμοι ἐν Χριστῷ: ἡμεῖς ἀσθενεῖς, ὑμεῖς δὲ ἰσχυροί: ὑμεῖς ἔνδοξοι, ἡμεῖς δὲ ἄτιμοι.

1CO.KJV(85): 1CO04:15 For though ye have ten thousand instructers in Christ, yet have ye not many fathers: for in Christ Jesus I have begotten you through the gospel.
たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである
15ἐὰν γὰρ μυρίους παιδαγωγοὺς ἔχητε ἐν Χριστῷ, ἀλλ' οὐ πολλοὺς πατέρας, ἐν γὰρ Χριστῷ Ἰησοῦ διὰ τοῦ εὐαγγελίου ἐγὼ ὑμᾶς ἐγέννησα.

1CO.KJV(87): 1CO04:17 For this cause have I sent unto you Timotheus, who is my beloved son, and faithful in the Lord, who shall bring you into remembrance of my ways which be in Christ, as I teach every where in every church.
このことのために、わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたがたの所につかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるであろう。
17διὰ τοῦτο ἔπεμψα ὑμῖν Τιμόθεον, ὅς ἐστίν μου τέκνον ἀγαπητὸν καὶ πιστὸν ἐν κυρίῳ, ὃς ὑμᾶς ἀναμνήσει τὰς ὁδούς μου τὰς ἐν Χριστῷ [Ἰησοῦ], καθὼς πανταχοῦ ἐν πάσῃ ἐκκλησίᾳ διδάσκω.

1CO.KJV(373): 1CO15:18 Then they also which are fallen asleep in Christ are perished.
そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
18ἄρα καὶ οἱ κοιμηθέντες ἐν Χριστῷ ἀπώλοντο.

1CO.KJV(374): 1CO15:19 If in this life only we have hope in Christ, we are of all men most miserable.
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
19εἰ ἐν τῇ ζωῇ ταύτῃ ἐν Χριστῷ ἠλπικότες ἐσμὲν μόνον, ἐλεεινότεροι πάντων ἀνθρώπων ἐσμέν.

1CO.KJV(377): 1CO15:22 For as in Adam all die, even so in Christ shall all be made alive.
アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
22ὥσπερ γὰρ ἐν τῷ Ἀδὰμ πάντες ἀποθνῄσκουσιν, οὕτως καὶ ἐν τῷ Χριστῷ πάντες ζῳοποιηθήσονται.


1CO.KJV(386): 1CO15:31 I protest by your rejoicing which I have in Christ Jesus our LORD, I die daily.
兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。
31καθ' ἡμέραν ἀποθνῄσκω, νὴ τὴν ὑμετέραν καύχησιν, [ἀδελφοί,] ἣν ἔχω ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ τῷ κυρίῳ ἡμῶν.

1CO.KJV(437): 1CO16:24 My love be with you all in Christ Jesus. Amen.
わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように。
24ἡ ἀγάπη μου μετὰ πάντων ὑμῶν ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ.

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場所のロゴスと新約聖書:使徒書における in Christ の用例分析 2

2005-04-05 |  宗教 Religion

1PE.KJV(66): 1PE03:16 Having a good conscience; that, whereas they speak evil of you, as of evildoers, they may be ashamed that falsely accuse your good conversation in Christ.
しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。
16ἀλλὰ μετὰ πραΰτητος καὶ φόβου, συνείδησιν ἔχοντες ἀγαθήν, ἵνα ἐν ᾧ καταλαλεῖσθε καταισχυνθῶσιν οἱ ἐπηρεάζοντες ὑμῶν τὴν ἀγαθὴν ἐν Χριστῷ ἀναστροφήν.

1PE.KJV(105): 1PE05:14 Greet ye one another with a kiss of charity. Peace be with you all that are in Christ Jesus. Amen.
愛の接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがた一同に、平安があるように。
14ἀσπάσασθε ἀλλήλους ἐν φιλήματι ἀγάπης. εἰρήνη ὑμῖν πᾶσιν τοῖς ἐν Χριστῷ.

1TH.KJV(24): 1TH02:14 For ye, brethren, became followers of the churches of God which in Judaea are in Christ Jesus: for ye also have suffered like things of your own countrymen, even as they have of the Jews:
兄弟たちよ。あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となった。すなわち、彼らがユダヤ人たちから苦しめられたと同じように、あなたがたもまた同国人から苦しめられた。
14ὑμεῖς γὰρ μιμηταὶ ἐγενήθητε, ἀδελφοί, τῶν ἐκκλησιῶν τοῦ θεοῦ τῶν οὐσῶν ἐν τῇ Ἰουδαίᾳ ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ, ὅτι τὰ αὐτὰ ἐπάθετε καὶ ὑμεῖς ὑπὸ τῶν ἰδίων συμφυλετῶν καθὼς καὶ αὐτοὶ ὑπὸ τῶν Ἰουδαίων,

1TH.KJV(59): 1TH04:16 For the Lord himself shall descend from heaven with a shout, with the voice of the archangel, and with the trump of God: and the dead in Christ shall rise first:
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
16ὅτι αὐτὸς ὁ κύριος ἐν κελεύσματι, ἐν φωνῇ ἀρχαγγέλου καὶ ἐν σάλπιγγι θεοῦ, καταβήσεται ἀπ' οὐρανοῦ, καὶ οἱ νεκροὶ ἐν Χριστῷ ἀναστήσονται πρῶτον,

1TH.KJV(79): 1TH05:18 In every thing give thanks: for this is the will of God in Christ Jesus concerning you.
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
18ἐν παντὶ εὐχαριστεῖτε: τοῦτο γὰρ θέλημα θεοῦ ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ εἰς ὑμᾶς.

1TI.KJV(14): 1TI01:14 And the grace of our Lord was exceeding abundant with faith and love which is in Christ Jesus.
その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。
14ὑπερεπλεόνασεν δὲ ἡ χάρις τοῦ κυρίου ἡμῶν μετὰ πίστεως καὶ ἀγάπης τῆς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ.

1TI.KJV(27): 1TI02:07 Whereunto I am ordained a preacher, and an apostle, (I speak the truth in Christ, and lie not;) a teacher of the Gentiles in faith and verity.
そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。
7εἰς ὃ ἐτέθην ἐγὼ κῆρυξ καὶ ἀπόστολος ἀλήθειαν λέγω, οὐ ψεύδομαι διδάσκαλος ἐθνῶν ἐν πίστει καὶ ἀληθείᾳ.

1TI.KJV(48): 1TI03:13 For they that have used the office of a deacon well purchase to themselves a good degree, and great boldness in the faith which is in Christ Jesus.
執事の職をよくつとめた者は、良い地位を得、さらにキリスト・イエスを信じる信仰による、大いなる確信を得るであろう。
13οἱ γὰρ καλῶς διακονήσαντες βαθμὸν ἑαυτοῖς καλὸν περιποιοῦνται καὶ πολλὴν παρρησίαν ἐν πίστει τῇ ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ.

2CO.KJV(21): 2CO01:21 Now he which stablisheth us with you in Christ, and hath anointed us, is God;
あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。
21ὁ δὲ βεβαιῶν ἡμᾶς σὺν ὑμῖν εἰς Χριστὸν καὶ χρίσας ἡμᾶς θεός,

2CO.KJV(38): 2CO02:14 Now thanks be unto God, which always causeth us to triumph in Christ, and maketh manifest the savour of his knowledge by us in every place.
しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。
14Τῷ δὲ θεῷ χάρις τῷ πάντοτε θριαμβεύοντι ἡμᾶς ἐν τῷ Χριστῷ καὶ τὴν ὀσμὴν τῆς γνώσεως αὐτοῦ φανεροῦντι δι' ἡμῶν ἐν παντὶ τόπῳ:

2CO.KJV(41): 2CO02:17 For we are not as many, which corrupt the word of God: but as of sincerity, but as of God, in the sight of God speak we in Christ.
しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。
17οὐ γάρ ἐσμεν ὡς οἱ πολλοὶ καπηλεύοντες τὸν λόγον τοῦ θεοῦ, ἀλλ' ὡς ἐξ εἰλικρινείας, ἀλλ' ὡς ἐκ θεοῦ κατέναντι θεοῦ ἐν Χριστῷ λαλοῦμεν.

2CO.KJV(55): 2CO03:14 But their minds were blinded: for until this day remaineth the same vail untaken away in the reading of the old testament; which vail is done away in Christ.
実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
14ἀλλὰ ἐπωρώθη τὰ νοήματα αὐτῶν. ἄχρι γὰρ τῆς σήμερον ἡμέρας τὸ αὐτὸ κάλυμμα ἐπὶ τῇ ἀναγνώσει τῆς παλαιᾶς διαθήκης μένει μὴ ἀνακαλυπτόμενον, ὅτι ἐν Χριστῷ καταργεῖται:

2CO.KJV(94): 2CO05:17 Therefore if any man be in Christ, he is a new creature: old things are passed away; behold, all things are become new.
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
17ὥστε εἴ τις ἐν Χριστῷ, καινὴ κτίσις: τὰ ἀρχαῖα παρῆλθεν, ἰδοὺ γέγονεν καινά:

2CO.KJV(96): 2CO05:19 To wit, that God was in Christ, reconciling the world unto himself, not imputing their trespasses unto them; and hath committed unto us the word of reconciliation.
すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
19ὡς ὅτι θεὸς ἦν ἐν Χριστῷ κόσμον καταλλάσσων ἑαυτῷ, μὴ λογιζόμενος αὐτοῖς τὰ παραπτώματα αὐτῶν, καὶ θέμενος ἐν ἡμῖν τὸν λόγον τῆς καταλλαγῆς.

2CO.KJV(97): 2CO05:20 Now then we are ambassadors for Christ, as though God did beseech you by us: we pray you in Christ's stead, be ye reconciled to God.
神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。
20ὑπὲρ Χριστοῦ οὖν πρεσβεύομεν ὡς τοῦ θεοῦ παρακαλοῦντος δι' ἡμῶν: δεόμεθα ὑπὲρ Χριστοῦ, καταλλάγητε τῷ θεῷ.

2CO.KJV(192): 2CO11:03 But I fear, lest by any means, as the serpent beguiled Eve through his subtilty, so your minds should be corrupted from the simplicity that is in Christ.
ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。
3φοβοῦμαι δὲ μή πως, ὡς ὁ ὄφις ἐξηπάτησεν Εὕαν ἐν τῇ πανουργίᾳ αὐτοῦ, φθαρῇ τὰ νοήματα ὑμῶν ἀπὸ τῆς ἁπλότητος [καὶ τῆς ἁγνότητος] τῆς εἰς τὸν Χριστόν.

2CO.KJV(224): 2CO12:02 I knew a man in Christ above fourteen years ago, (whether in the body, I cannot tell; or whether out of the body, I cannot tell: God knoweth;) such an one caught up to the third heaven.
たしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
2οἶδα ἄνθρωπον ἐν Χριστῷ πρὸ ἐτῶν δεκατεσσάρων εἴτε ἐν σώματι οὐκ οἶδα, εἴτε ἐκτὸς τοῦ σώματος οὐκ οἶδα, ὁ θεὸς οἶδεν ἁρπαγέντα τὸν τοιοῦτον ἕως τρίτου οὐρανοῦ.

2CO.KJV(241): 2CO12:19 Again, think ye that we excuse ourselves unto you? we speak before God in Christ: but we do all things, dearly beloved, for your edifying.
あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対して弁明をしているのだと、今までずっと思ってきたであろう。しかし、わたしたちは、神のみまえでキリストにあって語っているのである。愛する者たちよ。これらすべてのことは、あなたがたの徳を高めるためなのである。
19Πάλαι δοκεῖτε ὅτι ὑμῖν ἀπολογούμεθα; κατέναντι θεοῦ ἐν Χριστῷ λαλοῦμεν: τὰ δὲ πάντα, ἀγαπητοί, ὑπὲρ τῆς ὑμῶν οἰκοδομῆς.

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場所のロゴスと新約聖書:使徒書における in Christ の用例分析 3

2005-04-04 |  宗教 Religion

2TI.KJV(1): 2TI01:01 Paul, an apostle of Jesus Christ by the will of God, according to the promise of life which is in Christ Jesus,
神の御旨により、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって立てられたキリスト・イエスの使徒パウロから、
1Παῦλος ἀπόστολος Χριστοῦ Ἰησοῦ διὰ θελήματος θεοῦ κατ' ἐπαγγελίαν ζωῆς τῆς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ

2TI.KJV(9): 2TI01:09 Who hath saved us, and called us with an holy calling, not according to our works, but according to his own purpose and grace, which was given us in Christ Jesus before the world began,
神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、
9τοῦ σώσαντος ἡμᾶς καὶ καλέσαντος κλήσει ἁγίᾳ, οὐ κατὰ τὰ ἔργα ἡμῶν ἀλλὰ κατὰ ἰδίαν πρόθεσιν καὶ χάριν, τὴν δοθεῖσαν ἡμῖν ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ πρὸ χρόνων αἰωνίων,

2TI.KJV(13): 2TI01:13 Hold fast the form of sound words, which thou hast heard of me, in faith and love which is in Christ Jesus.
あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい。
13ὑποτύπωσιν ἔχε ὑγιαινόντων λόγων ὧν παρ' ἐμοῦ ἤκουσας ἐν πίστει καὶ ἀγάπῃ τῇ ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ:

2TI.KJV(19): 2TI02:01 Thou therefore, my son, be strong in the grace that is in Christ Jesus.
そこで、わたしの子よ。
あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。
Σὺ οὖν, τέκνον μου, ἐνδυναμοῦ ἐν τῇ χάριτι τῇ ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ,

2TI.KJV(28): 2TI02:10 Therefore I endure all things for the elect's sakes, that they may also obtain the salvation which is in Christ Jesus with eternal glory.
それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。
10διὰ τοῦτο πάντα ὑπομένω διὰ τοὺς ἐκλεκτούς, ἵνα καὶ αὐτοὶ σωτηρίας τύχωσιν τῆς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ μετὰ δόξης αἰωνίου.

2TI.KJV(56): 2TI03:12 Yea, and all that will live godly in Christ Jesus shall suffer persecution.
いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
12καὶ πάντες δὲ οἱ θέλοντες εὐσεβῶς ζῆν ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ διωχθήσονται:

2TI.KJV(59): 2TI03:15 And that from a child thou hast known the holy scriptures, which are able to make thee wise unto salvation through faith which is in Christ Jesus.
また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
καὶ ὅτι ἀπὸ βρέφους [τὰ] ἱερὰ γράμματα οἶδας, τὰ δυνάμενά σε σοφίσαι εἰς σωτηρίαν διὰ πίστεως τῆς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ.

ACT.KJV(870): ACT24:24 And after certain days, when Felix came with his wife Drusilla, which was a Jewess, he sent for Paul, and heard him concerning the faith in Christ.
 数日たってから、ペリクスは、ユダヤ人である妻ドルシラと一緒にきて、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰のことを、彼から聞いた。
Μετὰ δὲ ἡμέρας τινὰς παραγενόμενος ὁ Φῆλιξ σὺν Δρουσίλλῃ τῇ ἰδίᾳ γυναικὶ οὔσῃ Ἰουδαίᾳ μετεπέμψατο τὸν Παῦλον καὶ ἤκουσεν αὐτοῦ περὶ τῆς εἰς Χριστὸν Ἰησοῦν πίστεως.

COL.KJV(2): COL01:02 To the saints and faithful brethren in Christ which are at Colosse: Grace be unto you, and peace, from God our Father and the Lord Jesus Christ.
コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
2τοῖς ἐν Κολοσσαῖς ἁγίοις καὶ πιστοῖς ἀδελφοῖς ἐν Χριστῷ: χάρις ὑμῖν καὶ εἰρήνη ἀπὸ θεοῦ πατρὸς ἡμῶν.

COL.KJV(4): COL01:04 Since we heard of your faith in Christ Jesus, and of the love which ye have to all the saints,
これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。
4ἀκούσαντες τὴν πίστιν ὑμῶν ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ καὶ τὴν ἀγάπην ἣν ἔχετε εἰς πάντας τοὺς ἁγίους

COL.KJV(28): COL01:27-28 To whom God would make known what is the riches of the glory of this mystery among the Gentiles; which is Christ in you, the hope of glory: Whom we preach, warning every man, and teaching every man in all wisdom; that we may present every man perfect in Christ Jesus:
神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。
27οἷς ἠθέλησεν ὁ θεὸς γνωρίσαι τί τὸ πλοῦτος τῆς δόξης τοῦ μυστηρίου τούτου ἐν τοῖς ἔθνεσιν, ὅ ἐστιν Χριστὸς ἐν ὑμῖν, ἡ ἐλπὶς τῆς δόξης: 28ὃν ἡμεῖς καταγγέλλομεν νουθετοῦντες πάντα ἄνθρωπον καὶ διδάσκοντες πάντα ἄνθρωπον ἐν πάσῃ σοφίᾳ, ἵνα παραστήσωμεν πάντα ἄνθρωπον τέλειον ἐν Χριστῷ:

COL.KJV(34): COL02:05 For though I be absent in the flesh, yet am I with you in the spirit, joying and beholding your order, and the stedfastness of your faith in Christ.
たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。
5εἰ γὰρ καὶ τῇ σαρκὶ ἄπειμι, ἀλλὰ τῷ πνεύματι σὺν ὑμῖν εἰμι, χαίρων καὶ βλέπων ὑμῶν τὴν τάξιν καὶ τὸ στερέωμα τῆς εἰς Χριστὸν πίστεως ὑμῶν.

EPH.KJV(1): EPH01:01 Paul, an apostle of Jesus Christ by the will of God, to the saints which are at Ephesus, and to the faithful in Christ Jesus:
神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。
1Παῦλος ἀπόστολος Χριστοῦ Ἰησοῦ διὰ θελήματος θεοῦ τοῖς ἁγίοις τοῖς οὖσιν [ἐν Ἐφέσῳ] καὶ πιστοῖς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ

EPH.KJV(3): EPH01:03-06 3Blessed be the God and Father of our Lord Jesus Christ, who hath blessed us with all spiritual blessings in heavenly places in Christ: 4According as he hath chosen us in him before the foundation of the world, that we should be holy and without blame before him in love: 5Having predestinated us unto the adoption of children by Jesus Christ to himself, according to the good pleasure of his will, 6To the praise of the glory of his grace, wherein he hath made us accepted in the beloved.
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
3Εὐλογητὸς ὁ θεὸς καὶ πατὴρ τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ, ὁ εὐλογήσας ἡμᾶς ἐν πάσῃ εὐλογίᾳ πνευματικῇ ἐν τοῖς ἐπουρανίοις ἐν Χριστῷ, 4καθὼς ἐξελέξατο ἡμᾶς ἐν αὐτῷ πρὸ καταβολῆς κόσμου, εἶναι ἡμᾶς ἁγίους καὶ ἀμώμους κατενώπιον αὐτοῦ ἐν ἀγάπῃ, 5προορίσας ἡμᾶς εἰς υἱοθεσίαν διὰ Ἰησοῦ Χριστοῦ εἰς αὐτόν, κατὰ τὴν εὐδοκίαν τοῦ θελήματος αὐτοῦ, 6εἰς ἔπαινον δόξης τῆς χάριτος αὐτοῦ ἧς ἐχαρίτωσεν ἡμᾶς ἐν τῷ ἠγαπημένῳ,

EPH.KJV(10): EPH01:10 That in the dispensation of the fulness of times he might gather together in one all things in Christ, both which are in heaven, and which are on earth; even in him:
それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
10εἰς οἰκονομίαν τοῦ πληρώματος τῶν καιρῶν, ἀνακεφαλαιώσασθαι τὰ πάντα ἐν τῷ Χριστῷ, τὰ ἐπὶ τοῖς οὐρανοῖς καὶ τὰ ἐπὶ τῆς γῆς: ἐν αὐτῷ,

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場所のロゴスと新約聖書:使徒書における in Christ の用例分析 4

2005-04-03 |  宗教 Religion

EPH.KJV(12): EPH01:12 That we should be to the praise of his glory, who first trusted in Christ.
それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
12εἰς τὸ εἶναι ἡμᾶς εἰς ἔπαινον δόξης αὐτοῦ τοὺς προηλπικότας ἐν τῷ Χριστῷ:

EPH.KJV(20): EPH01:20 Which he wrought in Christ, when he raised him from the dead, and set him at his own right hand in the heavenly places,
神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
20ἣν ἐνήργησεν ἐν τῷ Χριστῷ ἐγείρας αὐτὸν ἐκ νεκρῶν, καὶ καθίσας ἐν δεξιᾷ αὐτοῦ ἐν τοῖς ἐπουρανίοις

EPH.KJV(29): EPH02:06 And hath raised us up together, and made us sit together in heavenly places in Christ Jesus:
キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
6καὶ συνήγειρεν καὶ συνεκάθισεν ἐν τοῖς ἐπουρανίοις ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ,

EPH.KJV(33): EPH02:10 For we are his workmanship, created in Christ Jesus unto good works, which God hath before ordained that we should walk in them.
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
10αὐτοῦ γάρ ἐσμεν ποίημα, κτισθέντες ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ ἐπὶ ἔργοις ἀγαθοῖς οἷς προητοίμασεν ὁ θεὸς ἵνα ἐν αὐτοῖς περιπατήσωμεν.

EPH.KJV(36): EPH02:13 But now in Christ Jesus ye who sometimes were far off are made nigh by the blood of Christ.
ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
13νυνὶ δὲ ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ ὑμεῖς οἵ ποτε ὄντες μακρὰν ἐγενήθητε ἐγγὺς ἐν τῷ αἵματι τοῦ Χριστοῦ.


EPH.KJV(51): EPH03:06 That the Gentiles should be fellowheirs, and of the same body, and partakers of his promise in Christ by the gospel:
それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。
6εἶναι τὰ ἔθνη συγκληρονόμα καὶ σύσσωμα καὶ συμμέτοχα τῆς ἐπαγγελίας ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ διὰ τοῦ εὐαγγελίου,

EPH.KJV(56): EPH03:11 According to the eternal purpose which he purposed in Christ Jesus our Lord:
わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。
11κατὰ πρόθεσιν τῶν αἰώνων ἣν ἐποίησεν ἐν τῷ Χριστῷ Ἰησοῦ τῷ κυρίῳ ἡμῶν,

GAL.KJV(22): GAL01:22 And was unknown by face unto the churches of Judaea which were in Christ:
しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には、顔を知られていなかった。
22ἤμην δὲ ἀγνοούμενος τῷ προσώπῳ ταῖς ἐκκλησίαις τῆς Ἰουδαίας ταῖς ἐν Χριστῷ,

GAL.KJV(28): GAL02:04 And that because of false brethren unawares brought in, who came in privily to spy out our liberty which we have in Christ Jesus, that they might bring us into bondage:
それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。
4διὰ δὲ τοὺς παρεισάκτους ψευδαδέλφους, οἵτινες παρεισῆλθον κατασκοπῆσαι τὴν ἐλευθερίαν ἡμῶν ἣν ἔχομεν ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ, ἵνα ἡμᾶς καταδουλώσουσιν:

GAL.KJV(71): GAL03:26 For ye are all the children of God by faith in Christ Jesus.
あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
26Πάντες γὰρ υἱοὶ θεοῦ ἐστε διὰ τῆς πίστεως ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ.

GAL.KJV(73): GAL03:28 There is neither Jew nor Greek, there is neither bond nor free, there is neither male nor female: for ye are all one in Christ Jesus.
もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
28οὐκ ἔνι Ἰουδαῖος οὐδὲ Ελλην, οὐκ ἔνι δοῦλος οὐδὲ ἐλεύθερος, οὐκ ἔνι ἄρσεν καὶ θῆλυ: πάντες γὰρ ὑμεῖς εἷς ἐστε ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ.

PHI.KJV(1): PHI01:01 Paul and Timotheus, the servants of Jesus Christ, to all the saints in Christ Jesus which are at Philippi, with the bishops and deacons:
キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
1Παῦλος καὶ Τιμόθεος δοῦλοι Χριστοῦ Ἰησοῦ πᾶσιν τοῖς ἁγίοις ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ τοῖς οὖσιν ἐν Φιλίπποις σὺν ἐπισκόποις καὶ διακόνοις:

PHI.KJV(13): PHI01:13 So that my bonds in Christ are manifest in all the palace, and in all other places;
すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、
13ὥστε τοὺς δεσμούς μου φανεροὺς ἐν Χριστῷ γενέσθαι ἐν ὅλῳ τῷ πραιτωρίῳ καὶ τοῖς λοιποῖς πάσιν,

PHI.KJV(31): PHI02:01 If there be therefore any consolation in Christ, if any comfort of love, if any fellowship of the Spirit, if any bowels and mercies,
そこで、あなたがたに、キリストによる慰め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、
1Εἴ τις οὖν παράκλησις ἐν Χριστῷ, εἴ τι παραμύθιον ἀγάπης, εἴ τις κοινωνία πνεύματος, εἴ τις σπλάγχνα καὶ οἰκτιρμοί,

PHI.KJV(35): PHI02:05 Let this mind be in you, which was also in Christ Jesus:
キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい
5τοῦτο φρονεῖτε ἐν ὑμῖν ὃ καὶ ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ,

PHI.KJV(63): PHI03:03 For we are the circumcision, which worship God in the spirit, and rejoice in Christ Jesus, and have no confidence in the flesh.
神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。
3ἡμεῖς γάρ ἐσμεν ἡ περιτομή, οἱ πνεύματι θεοῦ λατρεύοντες καὶ καυχώμενοι ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ καὶ οὐκ ἐν σαρκὶ πεποιθότες,

PHI.KJV(74): PHI03:14 I press toward the mark for the prize of the high calling of God in Christ Jesus.
目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
14κατὰ σκοπὸν διώκω εἰς τὸ βραβεῖον τῆς ἄνω κλήσεως τοῦ θεοῦ ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ.

PHI.KJV(102): PHI04:21 Salute every saint in Christ Jesus. The brethren which are with me greet you.
キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。
21Ἀσπάσασθε πάντα ἅγιον ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ. ἀσπάζονται ὑμᾶς οἱ σὺν ἐμοὶ ἀδελφοί.

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場所のロゴスと新約聖書:使徒書における in Christ の用例分析 5

2005-04-02 |  宗教 Religion

PHM.KJV(6): PHM01:06 That the communication of thy faith may become effectual by the acknowledging of every good thing which is in you in Christ Jesus.
 どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るようになってほしい。
6ὅπως ἡ κοινωνία τῆς πίστεώς σου ἐνεργὴς γένηται ἐν ἐπιγνώσει παντὸς ἀγαθοῦ τοῦ ἐν ἡμῖν εἰς Χριστόν:

PHM.KJV(8): PHM01:08 Wherefore, though I might be much bold in Christ to enjoin thee that which is convenient,
 こういうわけで、わたしは、キリストにあってあなたのなすべき事を、きわめて率直に指示してもよいと思うが、
8Διό, πολλὴν ἐν Χριστῷ παρρησίαν ἔχων ἐπιτάσσειν σοι τὸ ἀνῆκον,

PHM.KJV(23): PHM01:23 There salute thee Epaphras, my fellowprisoner in Christ Jesus;
キリスト・イエスにあって、わたしと共に捕われの身になっているエパフラスから、あなたによろしく。
23Ἀσπάζεταί σε Ἐπαφρᾶς ὁ συναιχμάλωτός μου ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ,

ROM.KJV(85): ROM03:24 Being justified freely by his grace through the redemption that is in Christ Jesus:
 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
δωρεὰν τῇ αὐτοῦ χάριτι διὰ τῆς ἀπολυτρώσεως τῆς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ:

ROM.KJV(187): ROM08:01 There is therefore now no condemnation to them which are in Christ Jesus, who walk not after the flesh, but after the Spirit.
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
1Οὐδὲν ἄρα νῦν κατάκριμα τοῖς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ:

ROM.KJV(188): ROM08:02 For the law of the Spirit of life in Christ Jesus hath made me free from the law of sin and death.
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
2ὁ γὰρ νόμος τοῦ πνεύματος τῆς ζωῆς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ ἠλευθέρωσέν σε ἀπὸ τοῦ νόμου τῆς ἁμαρτίας καὶ τοῦ θανάτου.

ROM.KJV(225): ROM08:39 Nor height, nor depth, nor any other creature, shall be able to separate us from the love of God, which is in Christ Jesus our Lord.
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
39οὔτε ὕψωμα οὔτε βάθος οὔτε τις κτίσις ἑτέρα δυνήσεται ἡμᾶς χωρίσαι ἀπὸ τῆς ἀγάπης τοῦ θεοῦ τῆς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ τῷ κυρίῳ ἡμῶν.

ROM.KJV(226): ROM09:01 I say the truth in Christ, I lie not, my conscience also bearing me witness in the Holy Ghost,
わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。
1Ἀλήθειαν λέγω ἐν Χριστῷ, οὐ ψεύδομαι, συμμαρτυρούσης μοι τῆς συνειδήσεώς μου ἐν πνεύματι ἁγίῳ,

ROM.KJV(320): ROM12:05 So we, being many, are one body in Christ, and every one members one of another.
わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
5οὕτως οἱ πολλοὶ ἓν σῶμά ἐσμεν ἐν Χριστῷ, τὸ δὲ καθ' εἷς ἀλλήλων μέλη.

ROM.KJV(409): ROM16:03 Greet Priscilla and Aquila my helpers in Christ Jesus:
キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。
3Ἀσπάσασθε Πρίσκαν καὶ Ἀκύλαν τοὺς συνεργούς μου ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ,

ROM.KJV(413): ROM16:07 Salute Andronicus and Junia, my kinsmen, and my fellow-prisoners, who are of note among the apostles, who also were in Christ before me.
わたしの同族であって、わたしと一緒に投獄されたことのあるアンデロニコとユニアスとに、よろしく。彼らは使徒たちの間で評判がよく、かつ、わたしよりも先にキリストを信じた人々である。
7ἀσπάσασθε Ἀνδρόνικον καὶ Ἰουνιᾶν τοὺς συγγενεῖς μου καὶ συναιχμαλώτους μου, οἵτινές εἰσιν ἐπίσημοι ἐν τοῖς ἀποστόλοις, οἳ καὶ πρὸ ἐμοῦ γέγοναν ἐν Χριστῷ.

ROM.KJV(415): ROM16:09 Salute Urbane, our helper in Christ, and Stachys my beloved.
キリストにあるわたしたちの同労者ウルバノと、愛するスタキスとに、よろしく。
9ἀσπάσασθε Οὐρβανὸν τὸν συνεργὸν ἡμῶν ἐν Χριστῷ καὶ Στάχυν τὸν ἀγαπητόν μου.

ROM.KJV(416): ROM16:10 Salute Apelles approved in Christ. Salute them which are of Aristobulus' household.
キリストにあって錬達なアペレに、よろしく。アリストブロの家の人たちに、よろしく。
10ἀσπάσασθε Ἀπελλῆν τὸν δόκιμον ἐν Χριστῷ. ἀσπάσασθε τοὺς ἐκ τῶν Ἀριστοβούλου.

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金教臣の無教会キリスト教と社会正義

2005-04-01 |  宗教 Religion
2月24日より30日まで、IAHRという会議に参加したため、しばらくブログにも掲示板にも投稿できませんでした。この会議のことは、いずれブログにも書く予定ですが、今日は、29日のプログラムから、「東アジアの宗教状況と社会正義-日韓の無教会キリスト教を中心に」のことをお話しします。

これは、京都大学大学文学研究科のスタッフが中心となって推進しているCOE研究プロジェクト多元的世界における寛容性についての研究に参加された日本と韓国の研究者4名の発表です。

そのなかで、韓国から参加された金文吉氏(釜山外国語大学日本語学科)の「金教臣の無教会キリスト教と社会正義」が、小鹿島(ソロクト)のハンセン病療養所での無教会主義キリスト教の伝道に触れていたので、それを紹介します。

この論文は、「朝鮮の無教会主義キリスト教がハンセン病患者に与えた影響の内容」を論じることをテーマとしていました。

小鹿島の療養所については、検証会議の最終報告書でも言及されていますが、その内容は概括的であって、その療養所の中で生きてきた人達の生活、思想、信仰、そして抵抗について、肉薄するようなものではありません。金氏の発表は、無教会のキリスト教を小鹿島の患者達に伝道した金教臣の視点から、この問題にアプローチする点で興味深いものでした。

朝鮮に於いても日本と同じくハンセン病の医療機関はキリスト教の宣教師達によるものでした。最初の医療事業は現在釜山外国語大学がある勘蛮洞で、そこに、内村鑑三の弟子であった金教臣と咸錫憲(ハム・ソク・ホン)達による無教会雑誌「聖書朝鮮」による伝道が開始されたとのこと。

日本に於いて強制・終生・収容政策が推進されていたのと踵を接して、1934年に小鹿島に大きな収容所が設置されます。(収容者数は1935年時点で約5000人といいますから、長島愛生園などよりも大規模な収容所です)
当時の既成教会は「無教会」を異端と見なしていましたし、また偶像崇拝を徹底して排するその思想は日本の「皇民化政策」の妨げになるという理由で、1940年代になると小鹿島の機関員等は「聖書朝鮮」の講読を禁止するようになります。その当時の状況を、当時、小鹿島に収容されていた一信者は次のように書き残しています。(金教臣全集 第一巻、1955)

「1933年に聖朝誌を購読したい気持ちは山々でしたが、無知な反対者たちの圧迫と物資がなくて読めずにいたところ、漸く信仰同志のなかの一人が院外の他人の名義で聖朝誌を購読することができました。我等の同志たちは病院の区域内では聖朝誌を読めず、反対者たちの監視が緩んだときを利用して病院の裏山の松の木に頼っては密かに集まり、読むたびに朽ちることのない真実の復興が起こりました。しかし、それも束の間、反対者達の監視により発覚され、無条件異端派に属しているものどもと見なされ、無数の迫害を受ける身になりました。その後は青色の本さえ見たら必ず調査が行われるので、一時期は読めず、隠しておいたこともあります。ああ、どうしようもないハンセン病によって、また衣食住のため彼等の支配を受けざるを得なかった私どもの重苦しい心境はいかなるものであったでしょう。」

金教臣自身もまた、小鹿島の無教会キリスト者からの手紙に衝撃を受け、それを「聖書朝鮮」に公開し、「韓国有能な青年達に対する伝道事業(既成教会の)教権者たちに譲り、我々(無教会のキリスト者)は今後、小鹿島に収容されている五千のハンセン病患者の兄弟姉妹たちに福音を伝え、コイノニアを結ぶことに全力を尽くすべきである」と誓っている。金教臣は、ハンセン病患者の書信のなかに叙述されてある躍動する生命ある力に大いなる衝撃を受け、使徒パウロやヨハネの手紙のような感動を味わい、キリスト教が何であるかを未だ知らぬ人は、この書信を詠めば理解できるであろう」と結んでいる。

この記事に呼応して、小鹿島の無教会キリスト者は次のような手紙を金教臣に送っている。

「感無量で恵書を奉読させて頂きました。書信一枚がそれほど尊いとは思っていませんでしたが、先生の恵書は私にとってあまりにも尊いものでした。ハンセン病は主が私に下さった頚木であり試練の鞭です。私はこのハンセン病を通じて二千年前ゴルゴダで釘を打たれた主、イエス・キリストに巡り会いその真理を知り、救いの福音のなかで生まれ変わった故、私がハンセン病患者であった事実を決して嘆いたりはしません。ハンセン病でなかったら、私があらたに生まれ変わる恩恵に恵まれなかったように、私がイエス・キリストを信じていたとしてもハンセン病者でなかったとしたら、多くの先生達が信じていらっしゃる真の生きた信仰の別天地を得ることは不可能であったことでしょう。よってハンセン病者であることを至上の喜びと悟り、感謝せざるをえません。今度の書信では信仰的に色々とご念慮していただき真に有り難く存じております。主イエス・キリストの驚くべき恩寵があることを求めます。同封して送って下さった切手有り難うございます。故郷の母に手紙を出すときに限って使わせて頂こうと思っております。切手の出所を母に知らせます。その母も主イエス・キリストを迎接されるように切に求める心情でおります。最後に、貴宅に聖恩が常に満ち溢れることをお祈り致します。(小鹿島 中央里信者 拜上)」

金教臣と小鹿島の一信者との交流の記録は、当時の無教会主義キリスト者の聲を伝えてくれます。後にガンジーの思想に大きな影響を受けた咸錫憲とおなじく金教臣もまた、社会正義の実現と内的信仰の純一さを求めるにあたって「非暴力・不服従」をモットーとしたが、彼の無教会主義キリスト教の影響を受けた人々のうちには、社会正義の実現のためには暴力の使用も是とされるべしというラジカルな信徒もいました。その一人が、日本人園長の周防正季を殺害し、死刑に処せられた李春相です。

李春相については、日本の検証会議の最終報告書にも名前が挙がっていますが、彼が無教会のキリスト者であったことが一言も触れられていません。しかし、無教会の機関誌「聖書朝鮮」が1940年に購読禁止となったこととこの事件は無関係とは思われません。

当時、在園患者は毎月1日と15日は神社参拝、20日は周防院長自身の銅像参拝が強要されていたという事実、また毎週月・水には「愛国班会」があり、韓国民を日本の「皇民化」し韓国を日本の兵站基地とする政策が推し進められていた当時の状況に対して、徹底して偶像崇拝を排し社会正義の実現を目指す無教会主義キリスト教の信仰、偶像崇拝を拒み監禁室で死んだ多くの信徒、「懲戒検束規定により設けられた監禁室は患者を殺害しようとする設備であり、法律によらず患者を殺害しつつある現実」(李春相の死刑判決文より)への憤りから、自らの死を覚悟して行った行為であったと見るべきでしょう。

今回の、金文吉氏の報告は、日本統治下にあった朝鮮のハンセン病療養所のなかで生き抜いた無教会キリスト教の信仰、そして社会正義のための闘いの一端を示唆したものでした。日本語には翻訳されていない文献データも多いので、今後も、金文吉さん等、韓国の研究者との交流の中で、無教会主義のキリスト教と人権と社会正義のための運動の関わりを考えていきたいと思っています。


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「鎮魂の森」という詩

2005-03-15 |  宗教 Religion
全生園の自治会では以前から、「人権の森構想」というものに基づいて、将来的には、今の療養所を「ハンセン病記念公園」として残す企画があり、そのための「対策委員会」もあります。東村山市の公文書の中にも「人権の森」の語が出てきます。そして、これまでの活動としては、「全生園の史跡を残そう」という呼びかけのもとに、昭和3年に建てられた山吹舎(男子独身寮)の復元などを行っています。したがって、「人権の森」という用語はかなり知られていて、東村山市の公文書の中にも出てきます。

これに対して、全生園の森を「鎮魂の森」と呼ぶことは決して一般的ではありません。その言葉を私が初めて聞いたのは、緑化委員長を永らく務められ、全生園の植樹と樹木の世話をされてきた長老より、「消えゆく並木」のインタビューでのなかでした。

この「鎮魂の森」の記事をよまれた方から、伊藤赤人さんの次の詩を教えて頂きました。その内容は、緑化委員長の古老の話と響き合い、全生園の樹木の持っているもう一つの決して忘れてはならない意味、人権の森を補足するもう一つの意味を教えてくれました。

「人権」が、同時代を生きる人々の権利と責任=応答可能性に関わるのに対して、「鎮魂」は、過去の世代(死者達)に対する責任を我々が自覚すべきことを教えます。そしてこの二つは相補的であって、鎮魂の意識のない人権、人権の意識のない鎮魂は、それぞれ一面的なのではないでしょうか。

そんなことを思いつつ、伊藤赤人さんの次の詩を読みました。

鎮魂の森

         伊藤赤人

私がいる病棟の窓から
「徒然」の御歌碑のある
森の一隅が見える
其処は いま晩年の
安らぎを得た入所者の
静かな散策の場となっている

新緑をつけた
楓 銀杏 欅 松などが
初夏の太陽を浴び 風に揺れ
幻想的な――
光りのさざめきをつくっている
そんな自然の織り成す
光のさまをじっと見ていると
その映(まばゆ)い光景の向こうに
――伝説のように
時の彼方に過ぎ去った
消えることのない記憶の中の
暗い一つの森が浮んでくる

かつて その森には厳しい掟があり
入った者は森から出ることを
許されなかった
そんな掟の中で――彼等は
望郷の思いに自らを燃やし
その炎を掻き立てながら
ひたすら命の日々を生きつづけた
それは自由を奪われた者が 呵責な病と
不条理に耐えながら
なお人間として
生きようとする――
修羅のような
闘いの日々であった
――そんな中で
多くの者たちは
火蛾のように燃えつき
倒れていた

――あれから
いくたびか雪が降り
木枯が吹き 月が照り
森の上を霧のように
歳月が流れていった

いま森には――
何事も無かったように
季節の太陽が――
燦々と降りそそいでいる

そして生き残った者たちは
失った永い時間を思いながらも
ようやく得た
小さな「自由」と倖せの中で
僅かに残された
時を惜むかのように
森に植えた緑の苗木を
自分たちの命の芽のように
育んでいる

やがてその苗木が大木となり
生き残った者たちも
みな森の地に還り
新しい緑の森に生まれ変わったとき
この森に生き
ハンセン病と闘い
時代の波に翻弄されながら
歴史の襞の中に消えていった
人間たちのいたことも
いつか伝説となり
森の由来を知らない
二十一世紀の市民たちの
楽しい憩いの森となっていることだろう

病棟の窓から見える
梅雨入り前の六月の森は明るく
真向いの躑躅が真紅の花を
いっぱいにつけて一際美しい
森の近くに巣があるらしく
鳩笛のような声をひびかせて
郭公が啼いている

窓を開けると
グラウンドで野球をしている
若者たちの白い影が
木の間隠れに躍び交っているのが見える

緑の木々に溢れた光りが
今は亡き療友たちの
鎮魂の曲を奏でるかのように
さざめきながら
若草の上に降りそそいでいる

(1986年『多磨』8月号より)

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第一回 ハンセン病問題に関するシンポジウムの内容

2005-03-14 |  宗教 Religion
「第1回ハンセン病問題に関するシンポジウム」というタイトルの集会が、今日(3月14日)に永田町の都道府県会館で開催された。たまたま厚生労働省健康局に資料館前の樹木伐採の件で問い合わせたときに、同じ担当者が、この会合の準備をも進めていることを知ったので、急遽参加することにした次第である。この担当者の方には、会議の始める前に直接お会いすることが出来た。

この会合は、厚生労働省と(社福)ふれあい福祉協会の主催、法務省が共催、文部科学省が後援という形態を取っていた。その趣旨は、「ハンセン病に対する差別・偏見を解消し、ハンセン病患者・元患者の名誉回復を図るため、国民に対してハンセン病問題に対する正しい知識の啓発普及に努める。加えて、都道府県等における同様のシンポジウムの開催を関係者に要請する」ということであった。

このシンポジウムは、検証会議が一応の課題を終えて、報告書を厚生労働省に提出したその後を受けて、企画されたものである。
プログラムの内容を紹介して、簡単にコメントしよう。

基調講演Ⅰ 長尾 榮治氏(国立療養所大島青松園長)「最先端のハンセン病医学」
基調講演Ⅱ 牧野 正直氏(国立療養所邑久光明園長)「これまでの国の政策を含む歴史について」
基調講演Ⅲ 曽我野 一美氏(全国ハンセン病療養所入所者協議会会長)「患者・元患者の視点から」

 長尾榮治氏の講演は、園長としてではなく医師としての立場からであったが、その内容は素人が聞いてもよく分かるものであった。ハンセン病の病原菌のDNA配列は現代では完全に解明されたが、この菌(学名として今でも癩菌という言葉は残っている)の基本的な特徴を、現代医学の立場から説明された。その内容は、国賠法訴訟での医師の証言などを聴いているものには周知のことではあるが、長尾氏は、現在開発途上国でWHOが実際に投与している治療薬の見本を会場の我々に直接回覧しつつ話された。そのポイントは、癩菌が人体の外では生きられぬごく弱い病原菌である」こと、「感染しても滅多に発病しない」こと、「たとえ発病したとしても自然治癒するケースも多い」こと、病状が進んだとしても、現代医学ならば、「適切な多剤併用療法によって、病状に応じて、一ヶ月、半年、一年 くらいの内服薬投与で、後遺症を残さずに完治する」こと等である。

牧野 正直氏は、基調講演のテーマが大きすぎるので、その責に耐えないと言うことを断られた後で、「戦前戦後を通じて日本のハンセン病対策の主流であった強制終生隔離政策がなぜ選択されたか」という問題について幾つかのコメントをされた。氏は嘗てはそれを故光田健輔氏の医療思想に求めたていたが、それでは不十分であったという反省から、明治日本の富国強兵政策、とくに「強兵」と関連した「壮健な国民を育成すべし」という保健思想の存在をあげられた。療養所で、健常者のことを「壮健さん」と呼んでいたことにその名残がある。 次に氏は、日本の医療政策が間違った道を歩み始めた「ターニングポイント」を1909年の旧法の施行時点にまで遡り、その間違った一歩がなぜ踏み出されたか、何がそれを影響したかを論じた。氏は、まず第一回の癩国際会議の影響を論じ、当時の独逸の医療思想が、日本の絶対隔離政策に影響したことを指摘した。これに反して、第二回のノルウェーのベルゲンでの国際会議における患者の人権への配慮、第三回のストラスブルグでの隔離を制限すべしという思想は、日本には影響しなかったのである。日本の医療政策は、医学以外の要因、とくに日露戦争、第一次と第二次の世界大戦のような戦争時の異常なる世論と深く結びついていたのである。

曽我野 一美氏は、基調講演のなかで、終戦直後の予防法改正のための患者組織の全国的な運動に始まり、国賠法訴訟に到るまでの、紆余曲折と長き苦渋に満ちた御自身の経験を語られた。氏自身は、後遺症に苦しまれたとはいえ、プロミン投与ではなく、自然治癒されたケースであることも話された。しかし、治癒しても退所できないという事情は、現在でも解決されていないのであるから、まして終戦直後の状況に於いては、なおさらのことであったろう。曽我野氏は、結局、病友のために自治活動、ならびに入所者協議会の仕事をされたのである。氏はまた、インドなど諸外国のハンセン病がまだ多発している国の療養所の視察について話され、開発途上国の療養施設の厳しい状況についても触れられた。

休憩を挟んで、パネルディスカッションに移ったが、パネリスト8人にたいして時間が90分というのはいかにも短すぎる様に思った。参加者は、

司会が
金平照子 ハンセン病問題に関する検証会議座長
パネリスト
関山昌人  厚生労働省健康局疾病対策課長
山野幸成  法務省人権擁護局人権啓発課長
鈴木康裕  栃木県保健福祉部長 (当日は県議出席のため、代理として小林氏が出席)
平沢保治  多磨全生園自治会長
野原晃   全日本中学校長会理事・埼玉県中学校長会会長
小野友道  国立大学法人熊本大学理事・副学長
小原健史  全国旅館生活衛生同業組合連合会会長
江刺正嘉  毎日新聞社会部編集委員

今回のパネリストの人選は、政府機関の代表者を加えることによって、ハンセン病問題の啓発活動に本腰を入れてもらうところにあったのだろう。とくに、予算をなんとか獲得できた法務省、回復者の里帰り事業をおこなう地方公共団体、学校教育にハンセン病問題の啓発活動をおこなうべき教育関係者、そして、宿泊拒否問題に関連して、旅館業者の団体、最後にマスコミ関係者という人選である。

政府機関を代表して出られたパネリストは、みな若手であった。過去の歴史を学ばれて適切なる行政をおこなって貰いたいものである。宿泊拒否事件での法務省の対応など、人権に対する配慮を政府機関が率先して行うべきであるから。また、高齢化した入園者の里帰り事業も大切である。この点、栃木県保健福祉部長の代理としてこられた小林氏の説明は、話が、具体性に富み、印象に残った。

パネリストの発言では、スライドを使って、基本的な問題点を説明された小野友道氏の話が、記憶に残った。氏は日本皮膚科学会が、太田正雄氏や小笠原登氏の様な貴重な例外を除いて、ハンセン病の問題を、らい学会に委せきりであったことを反省された。日本のらい医療政策が、療養所中心であったことーここに過去の日本の医学界の大きな問題があったのである。現在の問題点としては、患者数の減少と共に、ハンセン病の分かる医師が少なくなり、医学教育でも重視されていないが、国際化によって、外国人の患者を診療する機会はまだあるわけだから、このような事態は反省されるべきであろう。

平沢保治氏は、基調講演の話のなかで、諸外国の療養所が日本よりも厳しい状況であるといわれた曽我野氏の発言を補足して、日本の療養所のほうが確かに金銭的には恵まれているが、貧しくとも療養者が子供をもうけることが出来、亡くなるときに家族がみとることが可能なインドの療養所と比較して、どちらが「人の心」を大切にした福祉であったろうか、と述べられた。これは、福祉というものが金をかければよいというものではないという事実を喚起した点で適切であった。また、平沢氏自身が、啓蒙活動をする場合は、郷里ではまだ本名を名乗れない状況であることという重い現実を指摘された。

このシンポジウムの会場には、「わたしたちに出来ること」という厚生労働省のパンフレットや、「全生園の史跡建造物を残そう」という「人権の森」構想のパンフレットも用意されていた。

「史跡建造物を残そう」というだけではなく、「全生園の森の樹木を大切にしよう」というパンフレットも用意して貰いたいと考えている私は、やや複雑な思いを抱いて会場を後にした次第である。
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鎮魂ということの意味

2005-03-12 |  宗教 Religion
前回のブログで「鎮魂の森を守ろう」と書いたが、そこでいう「鎮魂」の意味を更に考えよう。そのために、島比呂志氏が、1989年に書かれた「納骨堂のゆくえ」という文を手引きとしたい。(ハンセン病と真宗-隔離から解放へ Shinshu Booklet)
私は春秋の彼岸とお盆には、納骨堂詣りに出かけるのが習慣のようになっているのだが、最近ふと、患者のすべてが死に絶えたとき誰がお詣りするのだろうか、また納骨堂は、そのままそこに、いつまでも存在していられるのだろうかなどと、不安な思いに駆られることがある。それは私自身が70才を越えて、やがて死を迎えなければならないということと同時に、療養所自体も確実に終焉を迎えようとしているからだろう。・・・・私が納骨堂に不安を感じたのは、そこに療養所の歴史が集約されており、最も端的に終焉を物語る存在だからである。・・・・それは悲惨を極めた「隔離撲滅の記念碑」に他ならない。言葉を換えて言えば、生前何の抵抗もできなかった患者が、生命を代償として打ち建てた「抵抗の碑」とも呼べるだろう。いずれにしても、その存在は尊く重いものだが、それが将来もそこに在り続けられるかどうか、私達には何の保証もないのである。・・・・生存患者がいなくなり、施設が新しい目的に使用されるようになったときに、はたして納骨堂が安泰であるかどうか、誰にも分からないというのが実情である。そこで国に対して、納骨堂とその周辺を公園化して、永久保存の確約をさせることが急務ではないかと思うのだが、老人の取り越し苦労であろうか。
この文は15年前に書かれたものだが、島氏はそこで、療養所の納骨堂が「滅亡の種族のシンボル」であり「隔離撲滅の記念碑」に他ならないと言う過酷な歴史的事実を率直に見つめつつ、それを「生前何の抵抗もできなかった患者が、生命を代償として打ち建てた抵抗の碑」として捉えている。そして、この納骨堂が将来どうなるかという点について、国家は何の保証も与えていない事実を指摘し、そこを、差別と人権剥奪の歴史を思い起こすための「国立歴史公園」として残すことを提案している。

この文は、島氏が予防法廃止の政治運動に挺身する前のものであるが、彼は、その人権回復運動の精神を、小説「海の沙」の主人公の口を借りて、次の様な「全霊協宣言」なるものによって表現している。それは、療養所の自治会を横断する組織である「全患協」が、予防法撤廃よりも、予防法のもとでの療養所の待遇改善運動を重視していたことへの批判として書かれたものであるが、生者の団体である「全患協」を補完するものとして、納骨堂に眠る死者達の霊が語る「全霊協」の宣言文である。
全国国立癩療養所納骨堂ニ在籍スル諸氏ノ賛同ヲ得テ、ココニ全霊協発足を宣言スル。全霊協の目的ハ、生前、癩患者ナルガ故ニ奪ワレテイ人格ノ回復デアリ、ソレハ現存スル患者諸氏の人格回復ニヨッテ達セラレル。
この宣言で、島氏は、はっきりと納骨堂で眠る嘗ての仲間達の人格回復を訴えている。そして、全患協が「人間ノ尊厳」よりも金品や処遇の安定を求める運動のみに専念していることを批判し、今生きているものの「人格の回復」は、納骨堂で眠る過去の世代の「人格の回復」と不可分であることを宣言している。

島氏のこの宣言は、「鎮魂」ということの意味を改めて我々に反省させる。それは、死者達をいわば神棚に祭り上げ、単にその「霊を慰める」ということではない。それは、その人々の人格の回復、権利の回復を行うことなのである。なぜならば、生者の人格の回復は、死者の人格の回復と不可分であり、我々の内にあって生きている死者達への責任なのであるから。

私は前の投稿で「鎮魂の森を守ろう」と書いたが、そのときの鎮魂も、このような意味で理解しなければなるまい。それと同時に、全生園は今でこそ緑豊かな森に囲まれているが、これは決して自然林だけではないという事も記憶する必要がある。「倶会一処」によれば、全生園の森は戦争中に燃料としてあるいは防空壕建設のために伐採され、戦後しばらくの間は「丸裸同然」であったという。今の緑豊かな森の木々の多くは、ここを植林して「鎮魂の森」あるいは「人権の森」として後世に残そうという療養者達の努力の所産なのである。その森の木々には、それの世話をした過去の世代の思いが込められていることも忘れてはなるまい。
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鎮魂の森を守ろう

2005-03-11 |  宗教 Religion
全生園の樹木を守るべきことを訴えて、嘆願書を提出した国土交通省関東地方整備局は増築工事の責任者ですが、実際の工事が始まるのは秋以降のようです。現在は、周辺住民に対する公聴会などをひらき増築に関する了解を取り付けている段階とのこと。担当者のかたからは、

「関東地方整備局では厚生労働省からの委任を受け今年の秋頃からハンセン病資料館
の増築工事に着手します。その際には樹木の扱いにつきまして十分に配慮したいと
考えております。」

との回答がありましたが、問題の欅の木の伐採のことは、良く分からないので、資料館の敷地整備等のことを担当している厚生労働省健康局疾病対策課に問い合わせてくれ、という回答がありましたので、そちらのほうの担当者にも連絡を取り、さらに調査を続けています。

Mさんにも電話連絡をしましたところ、資料館の欅や所沢街道の樫の並木を伐採するなど、信じられない決定だと仰っていました。ただ、問題は、自治会がそれを昨年末に既に了承してしまった、ということですね。一度、伐採にOKした自治会決定を覆すのはきわめて困難です。自治会執行部の面子をつぶさないように活動すると言うことが難しい。

自治会は今生活している療養者の人権を守ることで精一杯であって、とても樹木の保全のこと、将来の人権の森のありかたのことまで手が回らないということなのかもしれません。

“園内に並木として移植するには3年かかる、都としては切るのが安上がりであろうが、五千人の霊の眠る鎮魂の森として、ただ光化学スモッグ対策とかいうのではなく残していきたい・・”

ビデオインタビュー「消えゆく並木」のなかでもっとも心を撃たれたのは、「鎮魂の森」という言葉でした。全生園の森は「人権の森」であるだけではなく「鎮魂の森」であり、納骨堂に眠る5000人近い方々が、故郷の森として植樹されたもの、そのかたたちの魂の安息を祈る場であると言うことに気づかされました。

「人権の森」の「人権」は、今生活している人を中心とすべき事は勿論ですが、嘗て療養所で、故郷を偲びつつ植樹され、現在納骨堂でともに眠っている5000人に近い方々の権利も含むのではないでしょうか。そのかたがたの思いを後世に伝えることが課題です。人権の森は「鎮魂の森」でもあるという言葉に、目を覚まさせられた思いです。

この問題をさらに深く考えるための視点として大事なのは、明治三十九年の政府の神社合祀令による鎮守の森の樹木伐採という事件です。たとえば、熊野古道にゆかりの六つの王子社(野中、近露、小広、中川、比曽原、湯川王子)をはじめ、十三社が廃止され、新たに「近野神社」を設けてご神体を移したとのこと。廃止した神社の巨木はことごとく伐採されました。

この神社合祀令にもとづく森林破壊に抗議したのが博物学者でエコロジストの先駆者ともいえる南方熊楠でした。地域の歴史の象徴であり、貴重な動植物の宝庫となる神社林を伐採すること反対した彼の考え方をもういちど思い起こしたい。ハンセン病療養所も、入所者の数の減少と共に、その整理統合ということが問題となってきます。その場合、療養所の納骨堂に眠るかたがたの権利を守るという視点、「鎮魂の森」を守るという視点が必要です。
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過去と将来の世代に対する配慮と責任

2005-03-09 |  宗教 Religion
全生園=人権の森の樹木を守ろう

ガラクタ箱さんの制作されたビデオインタビュー 消えゆく並木を拝聴し、過去と未来の世代に対する配慮と責任ということを考えた。

過去の世代に対する責任はーここでの文脈に即して言えば-樫、欅、楓、桜、柿など全生園の様々な樹木を植えた人々に対する配慮から始まる。これらの樹木を植え、それらを育てた人々が、どのような思いを込めて世話をされたか、それを思い出すと言うこと。

ビデオの中でもお話しがあったが、1979年に刊行された「倶会一処」によると、全生園の「緑化」活動の目的は、東村山の地域住民のために、豊かな緑の森=人権の森を残すためであったとのこと。これは、過去の療養者の方々が-これを書かれた方々の多くはもう帰天されたが-将来の世代のことを配慮して植林されたものなのである。

樹木を植えるということは、療養所の方々が、地域の住民のために、それも現在の世代だけではなく、将来の世代のためにも為された貴重な仕事の一つであった。

都市化が進み緑が少なくなっていく東村山市のなかにあって、嘗ての武蔵野の面影を伝える全生園を保存すべきことは、いわゆる「環境倫理」の要請であるが、その根本には、過去・現在・未来の世代の繋がりを大切にする考えがある。療養所の方々は、この環境倫理の考え方を先取りして、すでに三〇年も前から実践されていたのである。

現在、全生園には「隠れた史跡」と呼ばれる案内板を多くの箇所で見ることが出来る。それは、「我が国におけるハンセン病対策の過ちを振り返って欲しい」という願いから建てられたものであるが、これもまた、我々が将来の世代に残し、語り伝えていくべき史跡である。それは過酷な事実を物語るものであるが、その過去の事実を直視すべきことを、この案内板は教えている。これらの史跡と共に、人権の森として、過去の療養者から我々に残された全生園の樹木を守り、将来の世代への彼等のメッセージを伝えることは、私達の責務ではないだろうか。
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