歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

金教臣の無教会キリスト教と社会正義

2005-04-01 |  宗教 Religion
2月24日より30日まで、IAHRという会議に参加したため、しばらくブログにも掲示板にも投稿できませんでした。この会議のことは、いずれブログにも書く予定ですが、今日は、29日のプログラムから、「東アジアの宗教状況と社会正義-日韓の無教会キリスト教を中心に」のことをお話しします。

これは、京都大学大学文学研究科のスタッフが中心となって推進しているCOE研究プロジェクト多元的世界における寛容性についての研究に参加された日本と韓国の研究者4名の発表です。

そのなかで、韓国から参加された金文吉氏(釜山外国語大学日本語学科)の「金教臣の無教会キリスト教と社会正義」が、小鹿島(ソロクト)のハンセン病療養所での無教会主義キリスト教の伝道に触れていたので、それを紹介します。

この論文は、「朝鮮の無教会主義キリスト教がハンセン病患者に与えた影響の内容」を論じることをテーマとしていました。

小鹿島の療養所については、検証会議の最終報告書でも言及されていますが、その内容は概括的であって、その療養所の中で生きてきた人達の生活、思想、信仰、そして抵抗について、肉薄するようなものではありません。金氏の発表は、無教会のキリスト教を小鹿島の患者達に伝道した金教臣の視点から、この問題にアプローチする点で興味深いものでした。

朝鮮に於いても日本と同じくハンセン病の医療機関はキリスト教の宣教師達によるものでした。最初の医療事業は現在釜山外国語大学がある勘蛮洞で、そこに、内村鑑三の弟子であった金教臣と咸錫憲(ハム・ソク・ホン)達による無教会雑誌「聖書朝鮮」による伝道が開始されたとのこと。

日本に於いて強制・終生・収容政策が推進されていたのと踵を接して、1934年に小鹿島に大きな収容所が設置されます。(収容者数は1935年時点で約5000人といいますから、長島愛生園などよりも大規模な収容所です)
当時の既成教会は「無教会」を異端と見なしていましたし、また偶像崇拝を徹底して排するその思想は日本の「皇民化政策」の妨げになるという理由で、1940年代になると小鹿島の機関員等は「聖書朝鮮」の講読を禁止するようになります。その当時の状況を、当時、小鹿島に収容されていた一信者は次のように書き残しています。(金教臣全集 第一巻、1955)

「1933年に聖朝誌を購読したい気持ちは山々でしたが、無知な反対者たちの圧迫と物資がなくて読めずにいたところ、漸く信仰同志のなかの一人が院外の他人の名義で聖朝誌を購読することができました。我等の同志たちは病院の区域内では聖朝誌を読めず、反対者たちの監視が緩んだときを利用して病院の裏山の松の木に頼っては密かに集まり、読むたびに朽ちることのない真実の復興が起こりました。しかし、それも束の間、反対者達の監視により発覚され、無条件異端派に属しているものどもと見なされ、無数の迫害を受ける身になりました。その後は青色の本さえ見たら必ず調査が行われるので、一時期は読めず、隠しておいたこともあります。ああ、どうしようもないハンセン病によって、また衣食住のため彼等の支配を受けざるを得なかった私どもの重苦しい心境はいかなるものであったでしょう。」

金教臣自身もまた、小鹿島の無教会キリスト者からの手紙に衝撃を受け、それを「聖書朝鮮」に公開し、「韓国有能な青年達に対する伝道事業(既成教会の)教権者たちに譲り、我々(無教会のキリスト者)は今後、小鹿島に収容されている五千のハンセン病患者の兄弟姉妹たちに福音を伝え、コイノニアを結ぶことに全力を尽くすべきである」と誓っている。金教臣は、ハンセン病患者の書信のなかに叙述されてある躍動する生命ある力に大いなる衝撃を受け、使徒パウロやヨハネの手紙のような感動を味わい、キリスト教が何であるかを未だ知らぬ人は、この書信を詠めば理解できるであろう」と結んでいる。

この記事に呼応して、小鹿島の無教会キリスト者は次のような手紙を金教臣に送っている。

「感無量で恵書を奉読させて頂きました。書信一枚がそれほど尊いとは思っていませんでしたが、先生の恵書は私にとってあまりにも尊いものでした。ハンセン病は主が私に下さった頚木であり試練の鞭です。私はこのハンセン病を通じて二千年前ゴルゴダで釘を打たれた主、イエス・キリストに巡り会いその真理を知り、救いの福音のなかで生まれ変わった故、私がハンセン病患者であった事実を決して嘆いたりはしません。ハンセン病でなかったら、私があらたに生まれ変わる恩恵に恵まれなかったように、私がイエス・キリストを信じていたとしてもハンセン病者でなかったとしたら、多くの先生達が信じていらっしゃる真の生きた信仰の別天地を得ることは不可能であったことでしょう。よってハンセン病者であることを至上の喜びと悟り、感謝せざるをえません。今度の書信では信仰的に色々とご念慮していただき真に有り難く存じております。主イエス・キリストの驚くべき恩寵があることを求めます。同封して送って下さった切手有り難うございます。故郷の母に手紙を出すときに限って使わせて頂こうと思っております。切手の出所を母に知らせます。その母も主イエス・キリストを迎接されるように切に求める心情でおります。最後に、貴宅に聖恩が常に満ち溢れることをお祈り致します。(小鹿島 中央里信者 拜上)」

金教臣と小鹿島の一信者との交流の記録は、当時の無教会主義キリスト者の聲を伝えてくれます。後にガンジーの思想に大きな影響を受けた咸錫憲とおなじく金教臣もまた、社会正義の実現と内的信仰の純一さを求めるにあたって「非暴力・不服従」をモットーとしたが、彼の無教会主義キリスト教の影響を受けた人々のうちには、社会正義の実現のためには暴力の使用も是とされるべしというラジカルな信徒もいました。その一人が、日本人園長の周防正季を殺害し、死刑に処せられた李春相です。

李春相については、日本の検証会議の最終報告書にも名前が挙がっていますが、彼が無教会のキリスト者であったことが一言も触れられていません。しかし、無教会の機関誌「聖書朝鮮」が1940年に購読禁止となったこととこの事件は無関係とは思われません。

当時、在園患者は毎月1日と15日は神社参拝、20日は周防院長自身の銅像参拝が強要されていたという事実、また毎週月・水には「愛国班会」があり、韓国民を日本の「皇民化」し韓国を日本の兵站基地とする政策が推し進められていた当時の状況に対して、徹底して偶像崇拝を排し社会正義の実現を目指す無教会主義キリスト教の信仰、偶像崇拝を拒み監禁室で死んだ多くの信徒、「懲戒検束規定により設けられた監禁室は患者を殺害しようとする設備であり、法律によらず患者を殺害しつつある現実」(李春相の死刑判決文より)への憤りから、自らの死を覚悟して行った行為であったと見るべきでしょう。

今回の、金文吉氏の報告は、日本統治下にあった朝鮮のハンセン病療養所のなかで生き抜いた無教会キリスト教の信仰、そして社会正義のための闘いの一端を示唆したものでした。日本語には翻訳されていない文献データも多いので、今後も、金文吉さん等、韓国の研究者との交流の中で、無教会主義のキリスト教と人権と社会正義のための運動の関わりを考えていきたいと思っています。


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