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歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

全生園=人権の森の樹木をまもろう 2

2005-03-08 |  宗教 Religion
全生園では、資料館の増設に伴う欅の木の伐採の他に、もうひとつ所沢街道に沿う樫の並木を伐採する計画が進められています。こちらは、道路の側の歩道と自転車道を拡張することが理由になっています。歩道を拡張することは、お年寄りや車椅子を使うかたがたの爲になることで、それ自身は歓迎すべき事ですが、樫の並木を伐採せずに問題を解決する方法を講ずるべきであったのでは無いでしょうか。関係者からの情報によると、樫の並木の内側に仮歩道をつくり、樫木を移植するオプションも検討されていたようです。そのためには、全生園の敷地の一部を東京都に譲渡しなければならず、また樹木の移植ということ自体繁雑な作業であるので、もっとも簡便な道として、樫の並木を伐採することが決定されたとのこと。

しかしながら、敷地の一部を東京都の管理下に置き、樫の並木を残しつつ、その内側を歩道に解放するというプランは、もういちど検討する価値があると考えます。そうすることによって、全生園を「人権の森」として残そうとされた1970年代からの療養者たちの願いにもっともよく答えることが出来るのではないでしょうか。ここで、全生園で緑化委員として長きにわたって、植樹や樹木の世話をされてきた方のご発言をビデオインタビューとして記録したものがありますので、是非ともお聞き下さい。

ビデオインタビュー 消えゆく並木
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全生園=人権の森の樹木をまもろう

2005-03-07 |  宗教 Religion
(ハンセン病資料館の増築工事にともなう樹木伐採に抗議する次の様なメールを、工事担当者である、国土交通省関東地方整備局営繕部宛てに送りました。)

国土交通省関東地方整備局営繕部 御中

多磨全生園 ハンセン病資料館の増築の担当責任者の方にメールを致します。
先週末に、ハンセン病資料館前のバス停の側の欅の木が伐採されているのを目撃致しました。
これは、昭和15年に植樹された欅ですから樹齢65年、全生園の歴史をみつめてきた樹木です。ご承知かと思いますが、全生園の樹木は、療養所の緑化委員のかたがたによって植樹されたものです。1979年に刊行された多磨全生園患者自治会篇の「倶会一処」によりますと、これらの樹木は、

「地域住民から、有形、無形の援助を受けてきたその感謝のしるしに、開発によって緑の少なくなった東村山市に森を残しておく。1971年より、11万坪の敷地に植樹を始めた。私たちが地上をさるとき、センターと森が残るであろう。」

とあります。現在、療養者は平均年齢が約80歳といわれていますが、私どもは、多磨全生園を「人権の森」として残すことを考えられた入園者の方のご意志を尊重すべきである考えております。

資料館の増築ということも大切な事業とは思いますが、増築にさいして、全生園の歴史と深い関わりのある樹木を、工事の便宜のために簡単に伐採しないことを切に求めます。

樹木の移植等のことなどについては相応のご配慮はされたと思いますが、停留場のそばの欅の木を伐採する必然性があったのでしょうか。

樹木もまた、それを植えた人々と「共に生きてきた」歴史があります。伐採することは簡単ですが、一本の木を育てるには半世紀を要します。今後、増築工事をされる際に樹木の「いのち」を大切に配慮されて行われることを切に希望致します。

全生園=人権の森 の樹木のためにー

(署名)  田中 裕       
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渡辺清二郎遺稿集より

2005-03-02 |  宗教 Religion
検証会議の最終報告書の前書きと後書きを読み、その内容を目次で確認した後で、なぜか、故渡辺清二郎氏の遺稿集「いのち愛(かな)しく」を読み直したいと思った。渡辺清二郎氏(大正4年-昭和49年)は、東條耿一の義弟であり、昭和9年に神山復生病院で受洗、昭和11年に多磨全生園に転入園された。目が不自由であった晩年の東條耿一の手記が執筆掲載されるにあたっては清二郎氏の多大な助力があったと思われる。

渡辺清二郎氏は、昭和23年9月から昭和49年6月に58才で逝去されるまで、全生園のカトリック愛徳会の会長であった。そしてそれと同時に、昭和40年までの間、自治会委員、患者代表、初代の全国患者協議議長などを勤め、戦中戦後の困難な時代の中で、当時の療養所の劣悪な居住環境の改善、看護切り替え交渉などにあたられた。

キリスト者の立場からいかにして人権の抑圧に対して戦うか-それは大きな課題だ。信仰と人権の問題は、理論上は区別されるが、実践の上では、一人の人間の中で統一されねばならない。ここには、先人の苦闘のあとから学ぶべき事が多々あると思う。

その点で、この遺稿集の中に収録されているF神父の書かれた「さかしらごとの終わりに」という文は、故清二郎氏の面影を彷彿とさせ、30年後にそれを読む私自身を叱咤している様にも感じられるのだ。F神父は、渡辺さんを「師」と呼んで、次の様に書いている。
忘れもしない6月10日。渡辺さんが世を去って行く前夜は嵐だった。私はゴーゴーと降りしぶく恩多街道を全身ぬれねずみになり、久米川をさして歩いていた。傘は強風に煽られてこわされ、大粒の雨に叩かれて私はなかば放心したようになって重い足をひきずっていた。そのときだった。耳をつんざく様な雷鳴の中で、突き上げる様にして師の言葉が蘇ってきた。それは、偉大な信仰者の死の予告だったのかもしれない。
「飼い殺しにされたままで、生きのびてよいものか」
言葉が魂に宿るものの真の音声だとしたら、乾坤一擲、一筋に生きた人の独白に心耳を澄まさずにおられようか。温和な渡辺さんの表情が、このときだけは一瞬険しくなり、鋭い眼光で私を睨みつけたのを覚えている。(中略)研ぎ澄まされこの気配こそ、義の爲には世と一線を画し、妥協すること知らなかった人間・渡辺清二郎の鋭い眼光ではないか、と。それのみか、私は見ずにはすまされない。炬のようにみはる師の瞳の奥に、この病を得、人に気取られてはならぬ旅路の果てに、柊の垣内で人知れず死んでいった僚友幾千の怨霊にも似た凄惨な生きざまを。
私は30年前に書かれたこの文章を再読した。検証会議がいま問題にしていることは、30年前に、まさに渡辺氏が格闘していた事に他ならないのだ。そして、その時点ですら、あまりにも我々の対応が遅すぎたという事実を直視し、「さかしらごとの終わりに」というF神父の言葉こそを肝に銘じなければなるまい。

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ハンセン病問題にかんする検証会議

2005-03-02 |  宗教 Religion
昨日、東京永田町の星陵会館で開催された「ハンセン病問題に関する検証会議」を傍聴しました。私は午後二時から仕事が入っていたので、残念ながら途中で退席しましたが、幸い、最終報告書の全文を収録したCDは受領できたので、その内容を紹介します。

2004年の4月に配布されたこの検証会議の(中間)報告書は342頁でしたが、今回の最終報告書はPDFファイルで902頁あり、そのほかに別冊として、「ハンセン病問題に関する被害実態調査報告」が507頁、「胎児等標本調査報告」が40頁あり、なかなか読み応えがあります。(当日は、100頁の要約版も配布されました)

この報告書についても、時間が出来たときに、ブログでそれぞれの論点についてコメントしたいと思っています。

ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書

目次


第一 熊本地裁判決と真相究明…3頁

第1 争点についての判示
第2 熊本地裁判決の意義
第3 同判決と真相究明

第二 1907年の「癩予防ニ関スル件」…9頁
―強制隔離政策の開始と責任―

第1 近世の「癩」病観とその形成過程
第2 近代のハンセン病観
第3 強制隔離政策の開始と療養所の実態

第三 1931年の「癩予防法」…73頁
―強制隔離の強化拡大の理由と責任―

第1 「癩予防法」の成立
第2 15年戦争期の衛生政策とハンセン病対策
第3 「国民優生法」と「癩予防法」改正案
第4 「体質遺伝」をめぐる議論

第四 1953年の「らい予防法」…83頁
―強制隔離の強化拡大の理由と責任―

第1 GHQの対日ハンセン病政策
第2 強制隔離強化拡大の理由と責任
第3 藤本事件の真相
第4 藤楓協会および皇室の役割

第五 らい予防法の改廃が遅れた理由…155頁

第1 問題の所在
第2 立法府の対応
第3 行政府の対応
第4 日本らい学会及び厚生行政の対応
第5 政策および医療の客体としての患者・入所者
第6 全患協および自治会側の事情
第7 1976年の全国療養所所長連盟「らい予防法」改正案が採用されなかった理由
第8 提言

第六 ハンセン病に対する偏見・差別が作出・助長されてきた実態の解明…171頁

第1 戦前の無癩県運動
第2 戦後の無癩県運動

第七 ハンセン病政策と優生政策の結合…191頁

第1 ハンセン病患者に対する断種の適用
第2 結婚を媒介とした療養所運営
第3 断種の根拠
第4 ハンセン病患者に対する断種の実践
第5 断種の合法化に向けた動き
第6 ハンセン病患者を対象とした断種合法化の失敗
第7 優生保護法によるハンセン病患者を対象とした断種の合法化
第8 断種の真相
第八ハンセン病強制隔離政策による被害の全体像の解明
別冊『被害実態調査報告』参照

第九 全国の国立療養所に残された胎児標本に関する検証
別冊『胎児標本等調査報告』参照

第十 ハンセン病医学・医療の歴史と実態…211頁

第1 ハンセン病医学とハンセン病対策
第2 近代ハンセン病医学の誕生
第3 近代ハンセン病医学・医療の発展
第4 日本の近代ハンセン病医学の誕生と歴史的変遷
第5 ハンセン病療養所の医療水準
第6 療養所以外のハンセン病患者の処遇
第7 ハンセン病療養所における精神医学的問題
第8 ハンセン病および精神疾患患者についての比較法制処遇史

第十一 ハンセン病強制隔離政策に果たした医学・医療界の役割と責任の解明…285頁

第1 強制隔離政策の推進
第2 断種政策の推進
第3 ハンセン病の治癒性
第4 二重の差別と迫害
第5 啓発活動に果たした専門家の責任
第6 再発防止の提言

第十二 ハンセン病強制隔離政策に果たした各界の役割と責任(1) …303頁

第1 法曹界―法律家・団体の対応・責任
第2 福祉界

第十三 ハンセン病強制隔離政策に果たした各界の役割と責任(2) …381頁

第1 教育界
第2 宗教界

第十四 ハンセン病強制隔離政策に果たした各界の役割と責任(3) …457頁

第1 患者運動
第2 マスメデイアの対応・責任

第十五 国際会議の流れから乖離した日本のハンセン病政策…609頁

第1 国際会議の流れと日本のハンセン病政策について
第2 米国におけるハンセン病政策の変遷について

第十六 沖縄・奄美地域におけるハンセン病問題…657頁

第1 沖縄・奄美地域のハンセン病隔離政策の検証の意義
第2 隔離政策の始まり
第3 ハンセン病患者の沖縄戦
第4 アメリカ統治下の奄美の強制隔離政策
第5 アメリカ統治下の沖縄の強制隔離政策

第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策…705頁

第1 韓国
第2 台湾
第3 日本占領地域
第4 太平洋地域
第5 「関東州「満州」

第十八 アイスターホテル宿泊拒否事件…735頁

第1 事実経過
第2 各種文書など
第3 宿泊拒否事件関係新聞の記事見出一覧
第4 社会の動きなど
第5 考察
第6 検証会議からの意見照会に対する回答
第7 再発防止

第十九 再発防止のための提言…765頁

第1 患者・被験者の諸権利の法制化
第2 政策決定過程における科学性・透明性を確保するためのシステムの構築
第3 人権擁護システムの整備
第4 公衆衛生等における予算編成上の留意点
第5 被害の救済・回復
第6 正しい医学的知識の普及
第7 人権教育の徹底
第8 資料の保存・開示等
第9 「ロードマップ委員会(仮称)の設置」

第二十 療養所における検証会議実施報告等…789頁

第1 療養所における検証実施報告
第2 元三重県「専任職員」に対する聞き取り
第3 鳥取事件に関する聞き取り

関連資料

資料1 近現代日本ハンセン病関係年表及びハンセン病文書等…853頁


第1 近現代日本ハンセン病関係年表
第2 国、自治体、園の所蔵資料

資料2 検証会議設置及び活動等関係…877頁

第1 検証会議設置等関係文書
第2 検証会議及び同検討会委員名簿
第3 検証会議活動記録一覧
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ハンセン病問題の検証ということ

2005-02-27 |  宗教 Religion
我が国のハンセン病医療の政策は、行路病者の収容をさだめた1907年の「癩予防ニ関スル件」に始まり、1931年の「らい予防法」で、患者の終生隔離を目指した強制的な隔離政策が定められた。

戦後は、有効な治癒薬が開発されていたにもかかわらず、また療養所患者の強い抗議行動があったにもかかわらず、強制隔離規定の存続を含む「らい予防(新)法」が1953年にさだめられた。

すでに日本以外の諸国では強制隔離制度は廃止され、1956年、ローマで開催された「ライ患者の救済と社会復帰のための国際会議」では、日本の強制隔離政策が厳しく批判されていたにもかかわらず、この法律が廃止されたのは、実に、その40年後の1996年である。

2001年の国家賠償請求訴訟の判決で漸くにして国家の侵した基本的人権の侵害の事実が確定するに至ったことは我々の記憶に新しい事柄であるが、なぜ、このような基本的人権を損なう悪法が一世紀にもわたって存続したのか、とくに、戦前において「救らい」運動に関わってきた「善意」の人たちが、なぜ患者の人権を無視した政府の政策に積極的に荷担することとなったのか、その原因の究明は、終わってはいない。

現在では、多くの人々がこの問題の歴史的「検証」を行う必要性を強調している。日弁連の法務研究財団が主体となって行っている「検証会議」も、いよいよ最終報告書を提出する段階となり、また、ハンセン病学会も発足する予定と聞く。これらの共同研究の成果から学びつつも、私は一個人として、自分自身がこれまでこの問題について余りにも認識を欠いていた事実に対して責任を感じている。

公の検証とは別に、私は一個人の立場から、自分なりに「ハンセン病問題」の検証を続けるつもりである。とくに、書籍となってはいないが療養所の中で多くの人によって書き継がれた資料を収集・編集し、先入主を排して歴史的事実に肉薄しつつ、その意味するところを考察したい。

一個人に出来ることには限界があるが、厖大な歴史的資料を前にして、私は次の三つの視点から、この問題を考察したい。

1 療養所の文藝作品を手引きとして

ハンセン病が「不治の病」としてもっとも恐れられた時代の文藝を考察する。この病の告知を受けた人間の一人一人の苦悩、その家族の苦しみ、家を捨て行路病者として放浪することを余儀なくされた者たち、そして療養所に収容された人達の生活、そのさなかにあって文学や宗教によって自己救済を目指したものたちの生と死を、彼等の語る自己自身の物語を通じて理解すること。ハンセン病がそのような病であったのは過去のことではあるが、そこには、すべての人間に普遍的に通底する生と死の根本問題がある。

2 生命と医療の倫理の観点から

戦後の「ハンセン病問題」においては、強制収容された療養者の人権の回復の問題が第一義的になる。もちろん、強制収容とか終生隔離の問題の根は深く、それらは「戦前のらい予防法」の時代にまで遡る。「隔離から共生へ」というのが医療倫理の歴史に於いては重要な動向となるが、日本に於いては、「共生」を目指す医療が具体化するのが妨げられた。

多磨全生園のハンセン病資料館には、小笠原登と光田健輔のふたりの医師にかんする展示があるが、この二人の医師の医療思想は対照的であった。光田健輔には、19世紀の独逸医学の影響が顕著である。これに対して、西欧の近代医療思想のみを範型とするのではなく、日本の江戸時代からの臨床医学の伝統にたつ小笠原の医療思想から、今日、我々は多くのことを学びうるのではないか。

小笠原登と光田健輔の二人の医師の医療に関する考え方を対比し、臨床医学の成立や医療福祉の歴史に学びつつ、健康と病、生と死の隔離・差別に基づく二元論を越える医療思想、それを小笠原に倣っていえば「健病一如」「生死一如」の視点から考えたい。

3 宗教的観点から

宗教者(仏教とキリスト教)のこれまでの「救らい運動」の社会倫理・実践のどこに問題点があったかを検証する。この点に関しては仏教もキリスト教も、その実践の歴史を真摯に検証する必要がある。一部の宗教団体は、すでに謝罪表明を出しているが、今更何を謝罪するのかという批判は免れまい。私自身は一人のキリスト者であるが、いかなる宗教的イデオロギーからも自由に、しかしあくまでもキリスト教に内在的な見地から、国家からも教会からも独立の一人の人間として、個人と普遍を一つにする「無教会のカトリック」として、この問題を考えたい。「信仰と人権の二元論」を越える視点に立つことが重要ではあるまいか。
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